「マカロニほうれん荘になりきれてない」グッドニュース 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
マカロニほうれん荘になりきれてない
「われわれはあしたのジョーである。
ならば、わたしたちはトイレット博士」
「われわれがドカベンなら、わたしたちはマカロニほうれん荘」
1970年代から80年代にかけて、
日本の漫画や文化、
あるいは世界のカルチャーは〈正統と異端〉、
あるいは〈熱血とシラケ〉の二極を行き来しながら、
時代の空気を醸成し、
トレンドを牽引し続けていた。
それは〈推す者〉と〈ドン引きする者〉、
真面目さと脱力のせめぎ合いでもあった。
映画の歴史にも、常にその対立軸は存在している。
黒澤明が人間の尊厳を正面から描く一方で、
植木等は〈とかくこの世は無責任〉と唄って踊って、
既存の価値観を揺さぶった。
その風潮は日本だけはなく、
メル・ブルックスやジョン・ランディスといった監督たちも、
権力やイデオロギーを笑い飛ばすカウンターの旗を掲げ続けてきた。
また音楽シーンでも、
【We haven't had that spirit here since 1969】
ホテルカリフォルニアの歌詞に代表されるように、
いわば異音同義の空気が世界中を席巻していた。
本作も、ひと作品で両方を内包させた、
その流れの延長線上にある作品という見方もできなくもない。
熱血ドラマ(実話)に賛同するでもなく、
正面から論破もしない、
むしろ〈情熱の論理〉そのものを笑いで【脱臼】させようとする、
北斗神拳のように、
おまえはすでに、、、
と言わんばかりの、
醒めた視点で物語を突き放す。
北朝鮮、アメリカ、日本、まとめて茶化してみせる姿勢には、
一定量の痛快さは残る。
しかしその一方で、
皮肉や風刺の射程はやや散漫で、
狙いが絞り切れていない印象は否めない。
ソル・ギョングを、
キューブリックのDr.ストレンジラブのような存在に据えようとした意図は感じられる。
(橋爪功とミックスしたかった?)
しかし、その人物像の構築は中途半端に終わっており、
キャラクターと演出の狙いが噛み合っていないようにも感じた。
明確な敵や正義の物語というよりも、
むしろそれらの構図、思想に翻弄される、
国、役人対する懐疑の作品だろう。
その挑戦的な姿勢は評価すべきだが、
最終的に観客に届くメッセージがややぼやけてしまっているのは惜しい。
とはいえ、〈熱血の物語を冷笑でくるむ〉という手法において、
一本の中で両手ぶらりで挑んだ姿勢は、
確かにあしたのジョーのようで、
忘れ去られようとしていた空気に放たれた一発のクロスカウンター映画ではある、と言えるだろう。