「血が繋がっていなくとも家族になれる」ナイトフラワー マルホランドさんの映画レビュー(感想・評価)
血が繋がっていなくとも家族になれる
シングルマザーである夏希は子どもたち二人を抱えて東京に上京してきた。彼女は夫が残した借金の返済のために昼も夜も必死に働く。
ある日の夜、夏希は偶然にもドラッグの密売現場に出くわしてしまい、錠剤を手に入れてしまった彼女は、子どもたちのために自らもドラックの売人になると決意したのだった。
夜の街のルールを知らないためにトラブルに見舞われる夏希だったが、そこに手を差し伸べたのは、格闘家の多摩恵だった。見かねた多摩恵は夏希のボディガードを買って出て、ドラックの密売を始めるのだった。
そんなとき、彼女らのドラックを使用していた、とある女子大生の事故死がきっかけで、物語は大きく狂い始める…。
北川景子演じる主人公・夏希たちが生きる「夜」はあまりにも過酷で、けれどアンリ・ルソーの絵画のようにどこか幻想的でもあった。
この映画の凄みは、「貧困」と「暴力」を一枚の絵画のように同時に描いてみせる演出にある。
特に忘れられないのが、夏希が「餃子」と「MDMA」を手にするシーンだ。
本来、餃子は中国文化において「家族の団結」や「富」の象徴とされる。しかし、夏希にはそれを買う金がなく、ゴミ捨て場の廃棄弁当(餃子)に手を伸ばすしかない。
そしてその汚れた手で、襲われた売人の懐からこぼれ落ちたMDMAをも掴み取る。
「生きるための糧(家族の象徴)」はゴミの中にあり、人を破滅させる「毒(MDMA)」は宝石やお菓子のようにカラフルに輝いている。
この皮肉で残酷な対比が、彼女たちが置かれた状況のすべてを物語っていた。
また、カメラが執拗なまでに「現金の受け渡し」にフォーカスしている点も見逃せない。
作中、何人もの客がMDMAを買い求め、現金を手渡す手元が何度も映し出される。
そしてその演出は、娘を失った母親・星崎が復讐のために「拳銃」を買うシーンへと接続されるように感じた。
ドラッグを買う手と、人殺しの道具を買う手。
対象は違えど、そこにあるのは「金を支払うことで、人としての何か(代償)を差し出し、一線を超えていく」という共通のプロセスだ。この映像的なリンクが、登場人物全員が逃れられない地獄の連鎖を表現しているように思う。
しかし一方で、この物語はそんな機能不全に陥った社会の中で、MDMAという違法なツールを通じて繋がった「仮初めの家族」を描き出す。
「血が繋がっていれば家族」なのではない。同じ夜を共有し、傷だらけになりながら互いを守ろうとした瞬間、彼らは間違いなく家族だったように思う。
そして、冒頭のトイレのシーンで壁に飾られていたアンリ・ルソーの『夢』。
見終わってから考えたけれど、ジャングルという楽園を描いたあの絵画は、単なる背景ではない。ラストシーンで彼らが辿り着こうとする「旅行(楽園)」を、物語の最初から暗示していたのではないか。
そう考えると、冒頭と結末が美しい円環で繋がっていることに気づく。
苦しいけれど、見てよかった。
「深夜高速」を走り抜けるような疾走感と切なさが残る傑作。
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