「現実を諦めた者たちの純愛賛歌」ストロベリームーン 余命半年の恋 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
現実を諦めた者たちの純愛賛歌
2025年にもなって、白いワンピースに麦わら帽子をかぶった病弱な美少女がスクリーンを駆けるとは思わなかった。『ストロベリームーン 余命半年の恋』は、あらゆる意味で時代錯誤な作品であり、そしてそれゆえに奇跡的に成立している。
本作は「リアリティなんてクソ喰らえ」という態度を隠そうともしない。限界まで磨かれた嘘、整えられた痛み、作り物の純愛。それらを堂々と提示しながら、観客の涙腺だけを正確に撃ち抜いてくる。もはや“リアルな青春”など描く気は最初からない。これは、映画という虚構の形式そのものに対する、純粋で頑固な信仰告白なのだ。
主人公・萌は余命半年を宣告された少女。にもかかわらず、彼女には病の匂いがまるでない。血色がよく、声に張りがあり、全身が“健康的な死者”として演出されている。その違和感を「演出の失敗」と捉えるのは浅い。むしろ萌の病気は、肉体の病ではなく時間の病だ。“限られた時間”を意識することそのものが物語の主題であり、病は単なるメタファーに過ぎない。つまりこれは“死をどう生きるか”ではなく、“死を前提に生を選ぶ”物語。
現実的な描写を徹底的に排除することで、監督は「死のリアリズム」ではなく「死の記号化」に挑んでいる。この潔さが、かえって神話的な純度を映画にもたらした。
だが、その“純度”が保たれるのは、登場人物が全員聖人であるからだ。本作には悪人がいない。萌を苛める同級生も、すれ違う友人も、無理解な教師も登場しない。誰もが優しく、全員が正しく、世界は慈悲によって滑らかに回っている。この“悪意の不在”は、作品を奇妙な静けさに包みこむ。葛藤も衝突もない。そこにあるのは「理解」と「受容」だけだ。つまりこの映画の“痛み”は、現実的な苦悩ではなく、「すべてが優しすぎること」の不気味さなのだ。観客は、こんなに清潔な世界を見せられると逆に息苦しくなる。それでも泣いてしまうのは、人が「本当はこうありたい」と願う姿がここにあるからだ。本作の優しさは欺瞞ではなく、現実に対する祈りの代替物なのだ。
この完全な非現実のなかで、唯一“地上の重力”を持つのが両親役の田中麗奈とユースケ・サンタマリア。ふたりの演技は圧倒的に現実的で、観る者を一瞬で現場に引き戻す。特に、ユースケが娘のために墓地の抽選に当選する場面は、滑稽さと悲しみが同時に存在する傑作シーンだ。娘の死を前提に「居場所を確保できた」喜びを噛みしめる父の姿。そこには“生きる者の現実”が確かにあった。この“重さ”と、萌と日向の“夢の軽さ”が同じ映画の中で並列されていることが、作品を不安定なジェットコースターにしている。観客は現実と虚構のあいだを強制的に往復させられ、泣いた直後に冷め、また泣く。その振り幅の激しさが、この映画の中毒性でもある。
そして、何より象徴的なのは、萌の“痛いほど幼い”ノートや手紙だ。高校生にしてはあまりに稚拙で、まるで中学生の日記のような文体。だが監督は明らかにその“幼さ”を理解したうえで、そのまま撮っている。まるでタバコをくわえながら、「いーんだよ、こういう感じで」と言っていたかのようだ。リアリティよりも“心の純度”を優先する確信犯的な演出。それは、恥ずかしさすら美学に変える勇気の証拠だ。「痛くても、嘘でも、これが人を泣かせるんだ」と信じきる現場の潔さ。その古風な職人気質こそ、この映画最大のチャームである。
要するに『ストロベリームーン』は、“リアルな恋愛映画”ではなく、“リアルを諦めた恋愛映画”だ。現実の再現ではなく、現実の願望を描く。その意味で、本作は社会や時代への反抗ではなく、現実の敗北宣言に近い。だが、人は敗北のなかでしか夢を見られない。だからこの映画は、笑われても、泣かれても、確かに「映画」なのだ。
病気でも、健康でも、彼女はただ“恋を信じる少女”として死ぬ。
そして我々は、それを見て、もう一度“信じること”の力を思い出す。
2025年、ここまで徹底して現実を拒否した映画が作られたこと自体が、奇跡のようだ。この作品は時代遅れではなく、時代の裏側に残された“最後の純粋さ”の記録である。
「いーんだよ。こんな感じで。」
その言葉にすべてが詰まっている。
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