「心を表すものは多彩で、その一部が見えていてもわからないことだらけだ」か「」く「」し「」ご「」と「 Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
心を表すものは多彩で、その一部が見えていてもわからないことだらけだ
2025.5.30 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(115分、G)
原作は住野よるの同名小説
人の気持ちが見える高校生のジレンマを描いた恋愛映画
監督&脚本は中川駿
物語の舞台は、関東圏にある清鈴高校(ロケ地は新潟県新潟市)
高校2年生の京(奥平大兼)は、人の気持ちが「!」や「?」で見えてしまう能力を持っていたが、自分に自信が持てずに、想い人・ミッキー(出口夏希)から距離を置きたいと考えていた
京には親友のヅカ(佐野晶哉)がいて、彼はミッキーの幼馴染だった
ミッキーには親友のパラ(菊池日菜子)がいたが、彼女はミッキーとヅカが付き合うのは絶対嫌だと思っていた
ある日のこと、ミッキーは執拗に「何かわかる?」と意味不明なことを言い出し始めた
京はそれがシャンプーを変えたことだとわかっていたが、2ヶ月前のことがあって、それを言えずにいた
それは、隣に座っていたエル(早瀬憩)にそのことを告げた翌日から、彼女は不登校になってしまっていたからだった
京は思ったことを口に出すとロクなことにならないと思っていて、ミッキーの意味不明な質問をずっとはぐらかしていた
物語は、学校外でミッキーと遭遇した京が、彼女にシャンプーのことを告げるところから動き出す
実のところ、ミッキーはエルと交流があって、京にシャンプーのことを言われたことを気に病んでいた
エルは自分に自信のない女の子で、自分なんかが流行りのシャンプーを使っているなんてと考えていて、それで京に嫌われているのではないかと思い込んでいた
そこでミッキーは、エルと同じシャンプーを使って京に近づき、彼の気持ちを確認しようと考えていたのである
映画は、予告編ではうまく隠しているように、5人それぞれが色んな形で相手の気持ちが見える能力を有している様子を描いていく
京の章から始まって、ミッキー、パラ、ヅカ、エルへと続く物語は、高校2年生の2学期ぐらいから、3年生の春先まで続いていく
そんな中で、京とミッキーがどうなるかと言うのが主軸になっていて、見えることによって一歩引いてしまう彼らのジレンマというものを描いていた
京は気持ちの浮揚が見え、ミッキーは心のバランスが見える
パラは鼓動の速さが見え、ヅカは喜怒哀楽がトランプのマークになって見えている
そして、エルは「好意の矢印」が見えて、それがどこにつながっているのかがわかってしまう
それぞれは、自分に向かうもの、自分自身のことについては可視化できないようで、それでいて、悩みが深刻になっているように思える
映画のタイトルには「かくしごと」のそれぞれの間に「」があるのだが、最後の「と」のあとにも「がある
これの意味するところは、彼らに見えているものは一部であり、もっと複雑なものを人は抱えているというものに思える
また、別の見方をすれば、解放された「」であり、外側には丸見えである、とも取れる
ミッキーにしろ、京にしろ、二人がどう思っているかというのは3人ともにわかっていて、それでもうまくいかないジレンマに陥る2人を見てモヤモヤしてしまう
そう言った先にある「見えなくても面白い」というミッキーの心は、京の固定概念を吹き飛ばしてしまうのである
いずれにせよ、青春のややこしい時期に悩みを抱えている人たち向けの映画で、大人にとっては通り過ぎた過去のように思う
彼らもいずれは見えているものの虚飾に悩まされるようになるし、徐々に見えていたものが信じられなくなったりするかもしれない
また、成長と同時にその能力が失われる反面、自分のことがわかるようになっていき、名実ともに大人になっていくのかもしれない
ある意味、瞬間的に起こる自己肯定感の低さというものが生まれる時期でもあるのは、将来というものが不確かで、想像力に限界があるからだと思う
だが、そう言ったものを超えた先に大人の世界というものはあるので、彼らが成長したあとに大人の世界で何が見えているのかも気になるところだろうか
きっと、学生時代はゆるかったと思えるぐらいに過酷だと思うので、卒業と同時に力が消えたら良いのになと思った