「「大人のお伽話」と「都市が紡ぎ続けるフィクション」の二重構造」TOKYOタクシー 暁の空さんの映画レビュー(感想・評価)
「大人のお伽話」と「都市が紡ぎ続けるフィクション」の二重構造
本作の物語には現実的でない点が多い。
偶然の出会いから奇跡のようなひとときを過ごし、唐突に別れ、さらに金銭トラブルへと類型的に流れ込むプロットは、既視感を拭えない。また木村拓哉は、役柄であるタクシー運転手よりも「木村拓哉本人」として画面に立ち現れてしまい、リアリティの構築を阻む。
これは演技力の問題というより、彼が数十年かけて積み上げたキャラクター性の強さゆえであり、作品がそれを打ち消す方向に舵を切らなかったことで、リアルな設定の重心がそもそも成立しない。
しかし、本作の興味深さはまさにその不成立の中にある。
タクシー内の会話や関係性の運び方は、現実ではなく、東京という都市が日々生み出しては消していく無数の物語の断片のようだ。
人物が類型的であること、展開が現実からふっと浮いてしまうことすら、東京という街がもつ「物語化の力」の表れだと考えると、突如として作品が鮮明に読み解けてくる。
ここで重要なのは、木村拓哉という役からはみ出すスター性が、逆説的にこの「都市的寓話性」を補強していること。
観客は彼を「タクシー運転手」ではなく、「東京という巨大な舞台に突然紛れ込んだ木村拓哉」という形で受け取ってしまう。
すると物語は現実ではなく、都市が紡ぐフィクションの層へと自然に移行する。
これは欠点がそのまま作品の質感を形成してしまうという、映画ならではの逆説的な魅力である。
また金銭的な件は、“都市では人間関係が名前も素性も曖昧なまま唐突に切断される”という、匿名化した都市の構造を象徴している。
本作は、出会いと別れのドラマに見えて実は、都市が個人の物語をいかに脆く、置き換え可能なものとして扱うかを描いた寓話でもある。
つまり「TOKYOタクシー」は、リアリティの尺度で測れば確かに粗が目立つ。しかし「都市が持つ物語的レイヤー」として作品を捉えると、その虚構性はむしろ精度を上げていく。
タクシーの窓ガラスに映る街の光のように、現実と虚構が二重に重なり、観客に淡い夢の残り香を与えてくれる映画であると感じる。
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