「佐藤二朗は“和製ジョーカー”か?圧巻のクライム・ミステリー」爆弾 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
佐藤二朗は“和製ジョーカー”か?圧巻のクライム・ミステリー
【イントロダクション】
山田裕貴主演、佐藤二朗共演。身元不明の謎の男が匂わせる、都内に仕掛けられた数々の爆弾の行方を追って繰り広げられる警察と犯人の駆け引きを描いたクライム・ミステリー。
原作は呉 勝浩による同名小説。原作は「このミステリーがすごい!2023年版」国内編、「ミステリが読みたい!2023年版」国内篇1位。
監督は『帝一の國』(2017)、『キャラクター』(2021)の永井聡。脚本は『神さまの言うとおり』(2014)の八津弘幸と、『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2023)の山浦雅大。
【ストーリー】
10月5日、21時45分。東京都中野区の野方警察署にて、酒に酔った勢いで自販機を破壊し、酒屋の店員に暴行を働いた容疑で「スズキタゴサク」と名乗る身元不明の男の取り調べが行われていた。名前以外の記憶を忘れていると語るスズキは、取り調べを担当する所轄刑事・等々力(染谷将太)と伊勢(寛一郎)が提案する酒屋への示談金10万円すら払えそうにない。
すると、男は示談金の代わりとして自信の持つ霊感で警察の捜査を手伝うと申し出る。
「10時ぴったり、秋葉原で何かあります」
すると、秋葉原のラジオ会館前で謎の爆発事件が発生。幸いにも死者は出なかったが、等々力達は呆然とする。スズキは続けて「ここから3回、次は1時間後に爆発します」と、更なる爆発の発生を匂わせる。
23時。今度は東京ドーム付近にて爆発が発生。
先の発言から、スズキの言葉が嘘ではないと感じる等々力達だったが、取り調べは警視庁捜査一課の清宮(渡部篤郎)と類家(山田裕貴)に引き継がれる。
スズキの取り調べを担当する事になった清宮だったが、スズキはのらりくらりと話を変える。やがてスズキは、「“九つの尻尾”というゲームをご存知ですか?これから9つの質問を通して、あなたの心の形を明らかにします」と、清宮に様々な質問を繰り出していく。類家は、それらが爆弾の位置を示すヒントだと確信し、スズキの言葉に隠された爆弾の在処を探っていく。
爆弾の捜索現場には、野方警察署沼袋交番勤務の倖田(伊藤沙莉)と矢吹(坂東龍汰)ペアが参加し、伊勢をライバル視する矢吹はこの事件を出世のチャンスとして精力的に挑む。
やがて、事件の裏には、4年前に野方署の元刑事・長谷部(加藤雅也)の起こした不祥事が関係している事が明らかになっていく。
【感想】
私は原作未読。
シンプルでキャッチーなタイトル、山田裕貴と佐藤二朗の目を引くポスタービジュアル、密室での会話劇による駆け引きを予感させる予告編に、個人的にかなり期待を寄せていた。そして、本作はそんな期待値を遥かに上回る傑作だった。
原作の力による所も大きいと思うが、これ程までに硬派で骨太なクライム・ミステリー作品が邦画で描かれる事に、素直に喜びを感じた。
俳優陣の熱演は勿論、序盤から周到に張られる伏線の数々、取り調べ室と現場それぞれで展開される駆け引き、派手さよりリアリティを感じさせる爆発描写の恐ろしさ。それらが137分の尺の長さを感じさせず、最後まで観客をスクリーンに釘付けにさせる。
予告編からは、取り調べ室という「密室」での会話劇がメインとなる作品かと思っていたが、実際には取り調べ室で「スズキタゴサク」を取り調べる刑事達と、爆弾の在処や事件の背景を捜査する所轄の刑事達、「静」と「動」、それぞれの立場を交互に映しながら、それぞれの駆け引きが展開されていくスケールの大きなエンターテインメントだった。
次々と爆発していく各所に仕掛けられた爆弾、そして、その被害に遭う者達。テレビ局が製作に参加していながら、流血や欠損等の容赦ない描写の数々は非常に力が入っている。本作はPG-12作品だが、余裕でR-15指定でもおかしくない程の攻めの姿勢に賞賛の拍手を贈りたい。
事件を通して描かれるのは、「絶望的な現代社会において、一線を越えるべきか」「今ある平凡な日々を愛おしく思うか」。物語の結末は、若干の尻すぼみ感があるが、その尻すぼみ感こそがリアリティだとも言える。
【若手・ベテラン、個性派・演技派、個性豊かな俳優陣の究極の演技合戦】
本作最大の魅力は、豪華俳優陣による演技合戦の数々だろう。主演から脇を固める俳優まで、それぞれが個性的なキャラクター性も相まって非常に魅力的。
その中でも、やはり特筆すべきは、「スズキタゴサク」役の佐藤二朗による圧巻の演技だろう。普段は福田雄一監督作品、所謂:福田組の常連としてコミカルな演技を披露している印象が強く、それ以外の作品では強面の印象を受ける。本作では、上手くそれぞれの良さを引き出して演じ分けつつ、掴みどころの無いスズキという巨悪を演じ切っている。時に剽軽に、時に理知的に、かと思えば怒りを露わに怒声を張り上げ、早口で捲し立てる事もある。何が目的なのかはクライマックスまで分からず、のらりくらりと捜査を撹乱する姿は、本当に彼が犯人なのかすら疑わしく思えてきてしまう程。
そして、その話術で類家や清宮達登場人物は勿論、我々観客にすら善悪の境界線を曖昧にさせる「スズキタゴサク」というキャラクターは、“和製ジョーカー”と言っても過言ではないくらい魅力的な悪役だ。
「他人の手柄を横取りする奴は許せない」と語り、正に他人の手柄で出世したと思われる伊勢を、「ミノリちゃん」という嘘の昔話を交え巧みに操る姿は、類家の言うように「せこい真似するね」と思わなくもない。終盤では、彼自身もまた、他人の犯罪計画を乗っ取って自らの存在を知らしめようとした小悪党だという一面も明らかにされていく。
しかし、彼は世間から認知されない存在、ラストの類家によるナレーションにあるように、スズキは最後まで「身元不明」のままだ。それはつまり、彼はこの日本という国において、国や行政から「存在しない者」の烙印を押されている事に他ならない。彼の犯行計画は、そんな自らの存在を抹消した社会への絶望と、抗議なのである。その為ならば、自らの嫌う「他者を欺いて利用する事」も厭わない。その塩梅は非常にリアルで恐ろしくもある。
それに負けじと対抗する、主演の山田裕貴の熱演も光る。類家のキャラクターも魅力的で、表向きは猫を被って穏便に済ませようとする。しかし、内心では退屈な日常に飽き飽きしており、本当は自らの高い知能を試す相手を探していたのではないかと思う。そんな彼にとって、スズキはまさに絶好の好敵手だったのではないだろうか。
スズキからの容赦ない問いに、臆せず本音を語る姿は、非常に好感が持てた。また、怒りを露わにしつつも、機械オタクらしい素振りから、高価なガジェットを叩きつけるまでには至らない姿には、彼の人間味が見える。
相手の神経を逆撫でする事に長けたその知能は、スズキの言うように「似た者同士」でもある。だからこそ、スズキは一種の同族嫌悪によって類家の名前を口にしようとしないのではないだろうか。両者の明確な違いは、類家は「一線の内側で踏み留まる者」、スズキは「一線を越えた者」それだけなように思えた。
等々力役の染谷将太も確かな演技力を披露する。彼の演じた等々力は、結果的に事件の真相に最も近い距離で接する事になる。尊敬する先輩の長谷部が、「事件現場で自慰行為をする事に快感を得る」という性癖の持ち主である事を目撃してしまい、彼に秘密を守る条件として、カウンセリングを受けるよう促す。しかし、そのカウンセラーが小銭欲しさに週刊誌に長谷部の奇行をリークした事によって、彼は世間からのバッシングを受け、自ら命を断つまでに至ってしまう。等々力の中には、長谷部や家族に対する罪悪感もあった事だろう。
そして、彼は長谷部の醜聞が世間に晒された際、「分からなくもない」として、唯一彼を擁護する。何故そのような台詞を吐いたかは、彼自身にも分からない。しかし、尊敬する先輩のこれまでの刑事としての働き全てまでが世間に貶される事は我慢ならなかったのだ。
その他にも、大ベテランの渡部篤郎の愚直なベテラン刑事・清宮の姿も印象的だし、伊藤沙莉演じる倖田と、坂東龍汰演じる矢吹ペアのバディ感も魅力的。スズキに絡め取られる伊勢の人間的な未熟さを見事に体現した寛一郎の演技も外せない。偉そうにしつつ、実は事件解決に何ら寄与してしない鶴久役の正名僕蔵の憎まれ役も短い出番ながら印象に残る。
とにかくありとあらゆる俳優陣が、見事な演技のアンサンブルを奏でているのだ。
【誰の中にも“爆弾”はある。善悪の境界線、その内側で踏み留まれるか】
「最後の爆弾は見つかっていない」
ラスト、類家のナレーションによる、本作の締めの台詞だ。
これは、「スズキタゴサク」という怪物が、作中の登場人物達に仕掛けた「善悪の境界線を越えるか否か」という問いこそが、彼らの中に時限式の爆弾を仕掛けた事を示唆しているように思う。
優れた悪役というのは、同時に作者の分身である事も多く、だからこそ、時に主役以上に魅力的に燦然と輝くのである。そして、本作におけるスズキは、まさにその1人だったと思う。
かつてホームレスとして生活していたスズキは、長谷部の不祥事により一家離散となり同じくホームレスとなった石川明日香と出会った事で、恐らく人生において僅かばかりの希望を手にしていたはずだ。しかし、明日香が息子・辰馬の恐るべき犯行計画を知った事で彼を刺殺してしまい、彼は助けを求められる。実際に2人の間でどのような言葉が交わされ、明日香は何を求めてスズキに相談したのか真実は分からない。あれはあくまで、類家の推理だからだ。
だが、スズキは明日香との一件で完全に世間に絶望し、「もう、どうでもいいや」という思いに至ったからこそ、石川辰馬とその仲間達の犯行計画を乗っ取り、自らの手でアレンジを加えて凶行に出た。しかし、スズキは心から「もう、どうでもいい」と思っていたわけではないのではないだろうか。
本当に「もう、どうでもいいや」となったのは、実は自殺した長谷部である。スズキは絶望と諦観を匂わせつつも、自らを抹消した世間に対する復讐心を忘れてはいない。善悪の境界線、命の重さの概念を越えて、清宮や類家に問い掛け、事件を面白おかしく「消費」しようとした若者達を恐怖させ、無差別に世間を攻撃する。
彼は全く「どうでもいい」なんて思っていない。「どうでもよくない」からこそ、彼はそれだけの犯行をやってのけたのだ。例えその計画自体が誰かの計画を乗っ取ったものだとしても、その根底に込めたメッセージは、彼自身が人生において経験して形成してきた価値観、彼自身の「存在証明」に他ならないのだ。
彼が“読まされている”としてネットにアップロードしたメッセージ動画。そこで語られる台詞は、辰馬が事前に撮影しておいたものをそっくりトレースしたのだろうか?辰馬の目的は、尊敬する父を辱め、晒し上げて貶し、息子である自分にも牙を剥いた社会に対しての復讐心のはずだ。ならば、あんな文言になるとは思えないのだ。あの長台詞全てに、スズキタゴサクという人間の全てがあったように思えてならない。
そんなスズキの狂気に、類家や等々力は「一線の内側で留まる事」の意義を答える。
類家は斜に構えて世間を見つめつつも、「世の中はまんざら捨てたもんじゃない」と、人間の善性を信じようとする姿勢も持っている。「壊すなんて誰でも出来る。壊すのを食い止める方が難しいし、やり甲斐がある。だから踏み留まる」と、スズキの考えを唾棄する。
等々力もまた「(平凡で退屈な日々を)それも悪くないよ」と、今ある幸せを取り零さないように生きる事を肯定している。
誰の中にも“爆弾”はある。その導火線に火を点けるのか。それを抱えつつ、尚も「生きる事」を投げ出さないのか。
「最後の爆弾は見つかっていない」
【総評】
豪華俳優陣の圧巻の演技合戦、魅力的なキャラクター、息をもつかせぬ怒涛の展開、邦画実写の限界に挑むが如きスケール感と残酷描写。
本作は間違いなく、超一級のエンターテインメントだ。
これほどの作品が劇場で観られる事を喜ばしく思う。
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