「楽しむことではない、感じることに意味がある。」長崎 閃光の影で HGPomeraさんの映画レビュー(感想・評価)
楽しむことではない、感じることに意味がある。
まず、長崎・広島において原爆の被害に遭われ亡くなられた方々にお悔やみと追悼の意を。
そして、最悪の被害に遭われながら生きのび、戦時最悪の出来事を語り継いでくれた山下フジヱ様や皆様に、感謝の意をお伝えいたします。
本作は、看護婦(当時の呼称)を根幹とした「命を救う側」の視点であり、多くの戦争映画に表現されている激しい戦闘や激しい思想の表現はほとんど無く、「その視点」にふさわしい、粛々としたリアリティのある現場を鑑賞させていただきました。
エンターテインメント性が高く予算もつぎ込まれている戦争作品は、それはそれで良いですし好きですが、比例して確実な「脚色」「オーバーアクション」がつきものです。
本作は、楽しんだりする事、評価したりする事を基に鑑賞するよりも、戦時最悪の状況を、しっかりと感じることを伝えてくれた作品だと思いました。
本作は、原爆直後の現地の状況・その地の人々・戦争に対する妄信的な表現・戦争に対する倫理的な表現・絶望・怒り・許し・裏切り・悲しみ・ジレンマ・必死な思い・気分の悪い思いなど。
それらの表現を、非常に「現実的な人の反応」を映像化されていると思います。
それは同時に、「もし自分だったら」と主観的に考察したとき、同じように「曖昧な」態度だと思うからです。
封建的な帝国主義の確固たる「頑固意思」も多少表現されてはいますが、表現の多くは……
①アメリカと戦争してるがキリストを信仰する。
②恨みを持つが、許したくもある。
③逃げ出すが、つまずけば戻る。また、戻ってきた者に対して罰則だけは与えるが受け入れる。
④確固たる意志を全面に表明しながら、敗北すれば受け入れて染まる。
⑤裏切り行為に、呆れるだけで非難と攻撃をしない。
⑥普通に気持ちが悪いと思う。普通に逃げ出す。
……などなど。
これが人間なんですよね。
特に、主人公3人が荷車を引きながら思い思いをぶちまけて喧嘩する様子。
決着や結論は無い。
みな戦争に憤りと悲しみを持ちながら、ある者は怒り、ある者は謝り、ある者は許し前に進みたいと願う。
みんなの思いが正解で当たり前のジレンマ。
生きている人間の、自然的な感覚なんだと思います。
そして、現実に戻り荷車を引く……。
そうして前に進むしか無いから。
妄信的な強要や自殺行為、一貫した思念は人間の本質では無く、みんな怖いし疑問を持つし思想も揺らぐ。
それはカヨが恋人に対し、戦争に行かず助かったというその言動に一瞬は非難を浴びせるが、冷静になれば生きていることが嬉しいし、一緒に歩みたい気持ちになったこと。
婦長が逃げ出す看護婦に非国民呼ばわりしても、一時の感情なだけで戻ってきた人にまで継続して非難をしない様子に描かれている。
命を投げ出した人々も、時代と思想に翻弄されはしても、もし「必要」がなければ死にたくはなかったはず。
誇張表現のない、死を迎える人や火葬する人にも、何とも重苦しい現実感が胸を締め付けられました。
忌むべきは、戦争と暴力だという事。
憎むことや敵対意思ではなく、「戦争の悲惨さ愚かさを語り継ぐ事」を継承し、平和を継続させる事が重要であるという思いで最後まで鑑賞いたしました。
戦争は無くなりません。現実に。
だが、少なくとも最悪な被害を受けた日本は、悲惨な思いを平和の中で感じ取れる私たちは、反戦の思いを伝えていければと思います。