「被爆したクスノキは、、どんな想いで長崎の空を眺めて続けてきたのだろうか」長崎 閃光の影で Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
被爆したクスノキは、、どんな想いで長崎の空を眺めて続けてきたのだろうか
2025.8.7 イオンシネマ京都桂川
2025年の日本映画(109分、G)
原作は日本赤十字社刊行の『閃光の影で 原爆被害者救護赤十字看護婦の手記』
原爆被害者の救護にあたった看護学生の目線で紐解く戦争映画
監督は松本准平
脚本は松本准平&保木本佳子
物語の舞台は、1945年8月の長崎
空襲によって看護学校が休校となったスミ(菊池日菜子)、アツ子(小野花梨)、ミサヲ(川床明日香)は、久しぶりに故郷に帰ることになった
スミは父(加藤雅也)、母(有森成実)と再会を果たし、恋人未満の友人・勝(田中偉登)と会うことになった
勝は「スミの写真」が欲しいと言い、その理由は「赤紙が来たから」だった
勝は日本の敗戦は濃厚と考えていて、それは誰にも聞かれてはいけない本音だった
スミはその後、忘れ物をした父を追って列車へと乗り込む
一方その頃、アツ子は日赤長崎支部にて見学を行い、ミサヲは父(萩原聖人)とともに教会を訪れていた
そして運命の11時、長崎上空にて原爆が爆発し、あたりは閃光に包まれてしまう
爆心地から離れていたスミは怪我をすることはなかったが、アツ子は爆風に巻き込まれて足を怪我し、ミサヲは父とともに瓦礫の下敷きになってしまう
アツ子は事務局長の小川(利重剛)の命によって、看護婦長の川西(水崎綾女)らと共に学校を救護所へと変えていく
まだ看護学校を卒業できていないのにも関わらず実地に放り込まれた彼女たちは、先輩たちに揉まれながら、できることを行なっていく
だが、新型爆弾の威力は想像以上で、何の治療もできないまま多くの人が亡くなっていく
そして、無力であることを感じながらも、前に進むしかなかったのである
今年は戦後80年ということで、談話にしがみついている一部の人を除けば、英霊に敬意を払う時期が近づいている
毎年、この時期の日本では厳かなる時間を過ごすのだが、もう戦争経験者は1割を切るほどになっていて、劇中の3人も生きていれば95歳とかになっている
記録は残るものの、記憶から薄れていくのも時間の問題であり、このような映画は定期的に作られる意味がある
そんな中で、本作がどのような特異点を描けるかと言えば、この土地独特の戦争に対する捉え方であると思う
舞台が長崎ということもあって、キリスト教の布教が進んでいる地域で、そんな土地にキリスト教国のアメリカが原爆を落としたという構図になっている
同じ神様を信仰している土地に落とす意味は語られないが、俯瞰的に見れば、神の試練というものが人の力で行われていることになる
また、本土の端の地域ということもあり、アメリカから見た時に一番遠い本土という位置付けになっている
それは政府から最も遠い場所という意味合いがあり、都会で決められた戦争に巻き込まれているという感覚が強いように思える
実際にどのように戦争の機運が高まっていったのかはわからないが、あの時期に全国統一的に一致団結に至っているとも考えづらい
それゆえに戦争を醒めた目で見ている勝もいるし、それぞれが思うところがあっただろう
また、看護婦の一人のセリフで「長崎は大変だ」という、他人事のような感覚を植え付けるものもあって、それは違和感なのか、実際の感覚なのかはわからない
戦争を知らない世代は、戦争経験者の言葉を聞いて育ち、学校教育の中でその悲惨さというものを学んでいく
それゆえに「我ごとに思える人もいれば他人事に感じる人もいる」のだが、戦時中でも「他人事に感じる人もいる」というのは、ある意味衝撃的な一幕だったように思えた
映画を通じて伝わるメッセージは他にもたくさんあるのだが、一番印象に残ったのは「無駄なことをしているという虚無感」であると思う
終戦間近の赤紙招集を受ける勝も、救護をしても次々と死んでいく人々を思うと、何のために一生懸命になっているのかわからなくなる
そんな中で、戦争というものをどのように受け止めるのか、という違いがあって、キリシタンのミサヲは「赦す」という考えに至っていた
これはキリスト教などをはじめとした考え方なのだが、キリシタンではない二人が「赦す」と「許す」を混同していないのかは気になってしまった
「赦す」という言葉は、言い換えれば「過去に囚われない生き方をする」というもので、相手の行為を受け入れるというものではない
あくまでも、過去の出来事に縛られずに前を向いて行こうという考え方であり、許せない気持ちと同時進行する感情であると思う
このあたりの微妙なニュアンスが出てくるのが長崎の戦争映画であると思うので、そこをもう少し掘り下げても良かったのかな、と感じた
いずれにせよ、本作が作られる意義はあると思うし、政治的な思惑に弄ばれるよりは意味が大きいだろう
そんな中で「長崎」を舞台にしつつ、未熟な看護学生の視点を取り入れると言うのは珍しいパターンのような気がする
ただし、それ以上にキリスト教が他の地域よりも布教されている土地というところに主眼を置いても良かったと思う
映画では、讃美歌を歌いながら壊れた教会を目指す信者の群れが描かれるものの、そう言った人々がどのように神の試練を理解しているのかは興味深いところだと思う
天災などの人智が及ばないことを神の試練だと捉えられても、人の意思によってもたらされた厄災を同等に扱うものなのか、というところは疑問が残る
なので、そこをクローズアップすることで、長崎ならではの戦争映画が描けたのではないか、と感じた
