メイデンのレビュー・感想・評価
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予告編からあふれる圧倒的な詩情! カナダの俊英が贈る「おいらのスタンド・バイ・ミー」。
珍しく、予告編を観て、ぜひ観たいと思った。
そこには、昔から僕が「映画」とはこういうものだと
思ってきた映像が映っていたから。
この画質。この画角。この動き。
監督の考えている「映画」に共感できる。
好きな割に、あまり自分では足を運ばないタイプの映画。
よくありそうで、その実、意外にないタイプの映画。
純粋で、まっすぐで、映画への愛にあふれた、
抒情的でけれんのない、青春映画。
久しぶりにこの手の映画を観て、やっぱり良いな、と思った。
よくいえば、ピュアでストレートな映画。
悪くいえば、ちょっと幼稚でありきたりな映画。
あまりにも真っ正直に、青春映画らしい青春映画を撮ろうとしているがゆえに、「よくある」ギミックとクリシェのオンパレードになっているし、えらく気恥ずかしいようなストーリーになっている感もある。主人公ふたりの悪戯や破壊衝動も、だいぶと偽悪的な感じで痛々しい。
とはいえ、それでいいのでないか?
僕はそう思うのだ。
撮っているのも、出ているのも、若者だ。
若者が、気恥ずかしいものを撮って何が悪い?
むしろ才走った老成した作品を撮る方が、
よほどこざかしい話なのではないか?
若い才能が、まっすぐフィルムの力を信じて、
受け止める観客を信じて、映画を撮る。
素晴らしいことじゃないか。
― ― ― ―
前半のお話は、とてもシンプルなものだ。
コルトンはカイルと毎日遊んで暮らしている。
ある日、カイルがひょんなことで命を落とす。
それからはカイルの死をひたすら悼む日が続く。
ただ、それだけだ。
それだけだけど、描写は実に丁寧といえる。
●映画の基調を成すのは、横スクロールだ。
画面の向かって左から右方向に、
カイルとコルトンが、歩く。スケボーをこぐ。
川を泳いで下る。車に乗せてもらって走る。
たとえ躍動感と疾走感はあっても、
彼らは常にスクリーンの平面上に囚われて、
そこから逃れることはできない。
いつも、横に流れるカメラのフレームに、
閉じ込められている。
ときには客に背中を向けて、
画面奥へと歩いていくが、
やはりカメラはその背中を一緒に
追いかけていくので、距離は変わらない。
とある平面に囚われたまま、
彼らの息苦しく閉塞した青春は続いていく。
作中で、このルールから外れるのが、
丘を下る、夕陽の見える土手の坂道だ。
この道を、カイルはスケボーでおりられる。
コルトンはおりられない。
ここだけは「解放感」が画面から漂う。
それは少年たちが、ここでだけは、
カメラのルールから解き放たれるからだ。
●カイルはとにかく、やんちゃで破壊的で、衝動的な青年だ。
一方のコルトンもやんちゃはするが、穏やかで、どちらかというと追随的な性格といえる。
いつもろくでもないことをやりだすのはカイルで、コルトンは相方につられて付き合わされているだけだ。
こういう親密でバディ的な関係性があるなかで、「主導的なほうが突然命を落とす」というのは、この手の作品では比較的よく見かける展開かもしれない。
●カイルの死の描写は、できる限り遠まわしに描かれている。
あれだけ、線路から川に飛び込みとかしてたんだし、実際コルトンだってすぐ避けられてるんだし、音と振動で察知すれば脇のどこにでも逃げられるんじゃないのとかつい思ってしまうのは、作り手の仕掛けた思考の罠なのか。
これが予期せぬ「事故」だというなら、「ここからしばらくの区間は陸橋になっていて逃げ場がない」みたいな描写くらいは欲しかったところだけど。
一方、「あれは実は自死だ」という考え方もあるのだろうが、二人で探検に出かけたあのタイミングで、敢えて衝動的に自死を実行に移すというのはかなり無理のある解釈のような気がする。
まあ、監督としては「自死」の可能性を考える余地を観客に与えたかったのは確かだろう。少なくとも、カイルが「危うくて」「破壊衝動に常に捕らわれていて」「衝動的な行動に出るタイプ」の青年であることは間違いないのだから。
ともあれ、「え? マジで死んだの? なんで?」と観客に思わせた時点で、製作者の意図自体はすでに成功しているともいえる。
電車のシルエットが「貨物列車」というのは、臨時運行も多いと思うので「不意に来る列車」として納得のいきやすいところ。何両も何両も連なって延々と途切れない描写は、コルトンの絶望をいや増しにする。
カイルの死をブラッディ・ムーンで表現するのも品があって良い。
●カイルに死なれてみると、彼がしきりに町中で描き倒していた「MAIDEN」のグラフィティが、あたかも「自分の生きた証を必死で町中に遺している」ようにも思えてきて、ふたたび「自死」説の気配が漂い、なんとも印象深い。彼の死がどういう要因で招かれたものであったにせよ、彼のなかで漠然とした「自分は早逝するのではないか」という予感が常にあったのは確かな気がする。コルトンから将来について訊かれたときも、「音楽をやっていられたらいいんだけどな」と、妙に自信のなさそうな口ぶりで返答していたし。
そういえば、彼は「MAIDEN」と書いた後、いつもそれに「頭」と「足」を描き入れているが、見ようによっては横に羽を広げた「天使」のように見えなくもない。
(ちなみにエンド・クレジットをぼんやり見ていたら、タイトルロゴデザインにジャクソン・スルイターの名前が! これ俳優が自分で書いたものを使ってるんだな。多才!)
●コルトンは、カイルへの依存度が高かった分、カイルの死からなかなか立ち直れない。
最初は引きこもって泣き暮らし、そのあと登校できるようになってからも、毎日カイルとの思い出の場所を巡り歩きながら、追憶に身を任せている。
回りの人間にかなり気を遣わせながらも、いつまでも立ち直れない感じは、ちょっと『エースをねらえ!』の岡ひろみみたいで面倒くさいが、それだけカイルと自分を同化させていた(ベルイマンの『ペルソナ』のように)ということで、喪失感がハンパないのだろう。
巡礼の旅のようにコルトンが、カイルとの思い出とカイルのいた気配とカイルのグラフィティを巡りつづける中盤の展開は、ただただ抒情と余韻に満ちて、美しい。
とくに、コルトンが川に向かって最初は小石を投げていたのが、だんだんと「より大きく」「より角ばった」石を選んで投げるようになり、ついには大きな「岩」を抱え上げて川の中まで入って落とすところまでエスカレートするあたり、彼の鬱屈と破壊衝動が出ていて、とても良いシーンだったと思う(ちなみにこの後出てくるカイルとホイットニーの川遊びでは、投げる石は重力を喪い、水面を何回も飛び跳ねて水切りをしながら、キラキラキランとアホっぽい効果音を鳴らす。なんという対比!)。
●終盤、最初の方で「行方不明」の張り紙を出されていた少女ホイットニー(実はコルトンたちの同級生)が登場し、後半の物語の「新たなヒロイン」として、コルトンとカイルの「喪失の物語」に不思議な絡み方をしてくる。
ここの時系列だとか、現実と非現実の境というのはちょっとわかりにくくて、パンフの高橋諭治さんは「生者と死者が黄昏時に出逢う」といった解釈をされていた。ここの感想でも「生きているホイットニーが死んだカイルと出逢う」と読んでいる方が結構いらっしゃる。
ホイットニーが出逢ったカイルは、間違いなく死者であり、亡霊としてのカイルだ。だが、カイルが死んだ直後の段階で、すでにホイットニーは行方不明だったはずではないか?(山狩り、ポスター)
だとすれば、お話としては後半のストーリーは多少時間軸を巻き戻してスタートしていて、二人は似たような時期にそれぞれ死を迎えていると考えるほうが自然なのでは?(カイルが自死なのか不慮の死なのか判然としないように、ホイットニーも森で最初から死ぬつもりだったのか、彷徨っているうちに思いがけず命を落としたのかは曖昧だ)
ホイットニーが夜の林下を歩いているシークエンスで、「花から液体が垂れる」ようなショットがあって(そういうふうにしか見えなかった)、僕はあれがホイットニーが「死んでいる」ことを暗示するショットだと思ったのだが、いかがだろうか。
よしんば、二人が死んだタイミングがだいぶ「ずれていた」としても、それこそ黄昏時のトワイライトゾーン(死者の待合室)では、時間のズレなどは些細なことだろう。二人は時間を超克して、孤独な魂どうしで惹かれ合い、出逢った。
死後の世界に旅立つ前のひととき、ふたつの魂が邂逅し、お互いの孤独を癒し合う、その二人の道行の間近で過ごしながら、コルトンのほうからは、もはや二人を見ることができない。そういう話だと少なくとも僕は判断しながら、この映画を観ていた。
●ホイットニーは、わかりやすい感じで発達障碍、それも自閉症スペクトラムのかなり重い傾向を示すキャラクターとして描かれている。ASD特有の生きづらさ、他者とのコミュニケーション不全、特定の友人への執着、行動パターンへのこだわりと融通の利かなさ、感情の急な爆発と思い込みの強さなど、ほぼ典型的な症例を示しているように思う。
芸術面・文芸面での突出した能力もまた、ASDでよく見られる傾向だ。
●一方、死後のカイルが、迷えるホイットニーの導き手として取る行動が、そのまんま、コルトンと過ごしていたときに取っていた行動とまるで同じというのも面白い。
地縛霊は、基本的に「生前の行動を模倣し、繰り返す」存在なのだ(笑)。
彼は、愉しかったコルトンとの思い出を「なぞる」かのように、新たな相方であるホイットニーを連れて、「かつての二人にとってのとっておき/秘密の場所」を巡礼する。その行動は、「生きている」コルトンが平行して繰り返している「聖地巡礼」と軌を一にするものだ。
たしかに、カイルの亡霊は「生きているかのように」ホイットニーに接している。だが、もしかするとこのカイルは、「コルトンとの楽しかった思い出の残滓」であり「土地に沁みついた二人の行動パターンの残影」に過ぎないのかもしれない。
●結局、この物語がどう終わったかと言われても、それにちゃんと答えるのは難しい。冒頭に出てきた死んだ猫とラストに出てきた生きた猫が同じ猫だとは限らないし、単純に監督が「映画をそれらしく終わらせるために仕掛けたギミック」に過ぎないのかもしれない。
とはいえ、歌に乗せて放たれたメッセージは、どこまでも堅固でストレートだった。
― ― ― ―
その他、雑感。
●カイル役のジャクソン・スルイターは、「リバー・フェニックスの再来」というより、単純に髪型と顔立ちが、『スタンド・バイ・ミー』出演当時のリバー・フェニックスに激似である(笑)。この子を主役に選んで、鉄道を重要な要素として出している時点で、監督が『スタンド・バイ・ミー』を強く意識し、かつ、強く影響を受けているのは間違いない。
あれもまさに「青春と冒険と死」の関係を描いた小説であり、映画だった。
●コルトン役のマルセル・T・ヒメネスは、なんとなく見た顔だなあと思ったら、パゾリーニの超お気に入りだったニネット・ダヴォリと微妙に似た感じがするんだな(笑)。
●監督自身もまた学生時代は「はみ出し者」だったはずで、カイルとコルトンとホイットニーに対しては、およそ全幅の共感を寄せた作りとなっている。
一方で、スクールカースト上位の連中に対しては、かなり子供っぽい戯画化をもって愚弄せんと試みており、「グルーピー」「テンガロンハット」「拳銃試し撃ち」「大金持ちの別荘持ち」「ピアノ(オルガン)が弾ける」など、思いつく限りの下品な属性を付与して、笑いものにしようとしている。よほどつらい思い出があるんだろう(笑)。
●今の時代に若い監督が「16mmフィルムで撮ろう」と思いつくこと自体、十分に「ロマンティック」な発想であり、映画全体のテイストや演出がやけに情緒的で「青春映画のクリシェ重視」のつくりであるのも、うなずける部分がある。
で、最初に述べたとおり、僕はこういう映画が嫌いじゃない。
また監督が新作を作ってくれたとすれば、ぜひ観に行きたいと思う。
映画に出てくる、お化けあるある、会いたいと思っている人のとこには現れず、関係ない人のとこに現れがち。
今時、16ミリフィルムで撮影されたという事だけで鑑賞したぞよ?
ケータイ世代、スマホ世代には分からないでしょうが、昔は映画は、ビデオ撮影ではなくフィルムで撮影をされていました。
フィルムは一巻10分もなく、現像しないと、撮影した映像が確認できないし、映画館で見ると粒子が悪いのが分かってしまうので、今は「 写るんです」 くらいのロスト・テクノロジーになってしまった。
フィルム撮影だった、ブラピのセブンなんて、4K修復版、IMAX上映版、綺麗な映像だったもんなぁ。冒頭だけ粒子が粗く見えたのは気のせいだったのでしょうか?見た人いる?
でも、横浜関内の市民会館の一室で、生きている小平次を見た時は、美しい画像だったなぁ、何故なんだろ?
さてさて、そんな全く、事前情報無しで見たこの映画。主役の短髪イケメン、カイルは、リバー・フェニックスにちょっと、似ている今回が映画初出演のジャクソン・スルイター。
間違いなく、次世代のリバー・フェニックスになる、ウホッ!いい男!
カイルの友達に、オーディションで役についたマルセル・T・ヒメネス。役名はコルトン。ググっても顔は出てこないぞ?予告編の焼きそばバゴーン頭だ!
映画冒頭から、カイルと焼きそばバゴーンは、スケートボードで街中をひたすら駆け巡る。お金がない中学生男子が隣の市まで自転車で爆走するように。
あろうことか、山奥まで来ちゃって、坂道を駆け降りる。スケートボードって、あんなタイヤ小さいのに、そんな事できるのか?
そして、カイルは、僕の家だ!
と、作りかけの一軒家にチン入でおま。一軒家の地下室のアワビちゃんに入っていく。う〜、辛抱たまらん!
↑ 誰も突っ込まないけど、言いたかったのだ!
そして、カイルと焼きそばバゴーンは、地下室に死んだ猫を見つける。
やべー、ちょー、やべーよ!?
と、最近の若者にありがちな、美味しいモノ食べても、やべーよ?
綺麗な、おにゃ子を見ても、やべーよ?
山本KIDの試合を見てもやべーよ?
出川哲郎の持ちネタはやべーよ?
と、この黒猫の死体を使って、どんな禁じられた遊びをするのか?
と、ハラハラしていたが、このカイルと焼きそばバゴーンは、とても良い子なので、黒猫を埋葬するのだ。
川に流すのだけど、黒猫が乗るくらいの筏を作って、お花も摘んで筏に乗せて、川に流してあげるのだ。
後に、この黒猫が伏線になるのだが、この伏線は猫好きなら号泣モノの良い伏線なんだよなー?
ある晩、カイルと焼きそばバゴーンは、線路をスタンド・バイ・ミーするのだが、カイルが突然、向かってくる夜汽車に向かって歩いていく。
叫ぶ、焼きそばバゴーン。しかし、呼びかけも虚しく、カイルは列車に轢かれて死んでしまう。
大切な親友を亡くした焼きそばバゴーンは、何日経っても、カイルを亡くしたショックで立ち直れないでいる。
ある日、授業中に回ってきたメモに、
カイルが死んだのは、自業自得だ。
と、メモが届く。
犯人は分からないのに、常にカウボーイハットを被っている学校一のワルだと決めつけて、喧嘩になるが、すぐに誤解だと分かるや、すぐに謝る、焼きそばバゴーン。
何で、アメリカ映画の悪い奴って、カウボーイハットを被っているんだろ?反社が顔に刺青入れているのと同じ理由か?
でだ?焼きそばバゴーンが、カイルの死亡現場に立ち寄ると、おそらくカイルが履いていたコンバースを見つけて、コンバースも川に流して埋葬する。
そこで、焼きそばバゴーンは、日記帳を発見する。書いていたのは、ホイットニーという名前のようだ。
ホイットニー?行方不明になって張り紙も貼られて、住民が捜索しているホイットニー?
そして、登場人物は焼きそばバゴーンから、ホイットニーにバトンタッチ。
いわゆる、生きづらいを拗らせた、おにゃの子で唯一の友人の、おにゃの子が、件のカウボーイハットだったので、
友達は好きだけど、友達の彼氏が嫌い。
とゆー、女子あるあるで苦しむ。
ある日、カウボーイハットの車に同乗するが、
彼女の事は好きだけど🎵 彼女の彼は嫌いなの🎵 彼女はその事に気づいていない🎵 彼の事しか見てないからね🎵
と、いう曲は、小島麻由美の「 あの子の彼」 名曲だから聴いてね?
同乗するが、嫌になって、山奥なのに、車から降りてしまう。
そこで、何やかんやあって、ホイットニーは、お化けになった、カイルと出会い、色々と語りあう真剣10代しゃべり場!
カイルがいちいち、名言発生器で言う事に、いちいち含蓄がある!監督が脚本も書いているけど、
これだけ出来ている子が何故、自殺をしたのか?それは、分からない。
このまま、終わってしまうのか?と思った頃合いで、最後の最後で、焼きそばバゴーン登場。
ごめん、ごめん、君の事、忘れていたよ?
そして、焼きそばバゴーンは、カイルとの思い出の場所の黒猫の死体を見つけた建設中の家に辿り着く。
地下室を降りた、焼きそばバゴーンが暗がりで、何か動くものを見つける。
何と!そこには!?
続きは、映画を見てお楽しみください!誰も指摘しないけど、浜村淳でした!
なに、なに、上映館は、東京だと、渋谷のシアター・イメージフォーラム?
あそこってさぁ?かなりコアな映画ファンしか行かないぜ?
kino cinemaみなとみらいは論外として、
↑ おい!
ここは、池袋シネマロサか、チネチッタでかけるべき!配給会社は、ここが踏ん張り所だ!大丈夫!絶対にヒットするからさ?
え?ヒットしなかったら、どうするかって?
そのときゃ、俺は知らんぷり! by. 江口寿史
列車が夢を見るとしたら、運んでいる人たちの笑顔ある未来なのかもしれません
2025.4.30 字幕 アップリンク京都
2022年のカナダ映画(117分、G)
親友を亡くした青年が失踪少女の日記の中に癒しを見つける青春映画
監督&脚本はグラハム・フォイ
物語の舞台は、カナダのカルガリー郊外
そこに住む高校生のカイル(ジャクソン・スルイター)と親友のコルトン(マルセル・T・ヒメネス)は、一緒にボードで遊んだり、秘密基地に行ったりと仲睦まじく暮らしていた
カイルはいろんな壁に「Maiden」と描いていたが、コルトンにはその意味がわかっていなかった
ある夜のこと、いつも通りに遊び呆けていた二人は、日が暮れてから列車の鉄橋へと向かった
カイルはそこで線路を歩き出し、近づいてきた列車に撥ねられて亡くなってしまう
その日から、コルトンには喪失感が付き纏い、彼と一緒に出かけた先をうろうろする日々が続いていた
ある日のこと、コルトンが森に出かけると、どこからともなく「ホイットニー」を呼ぶ声が近づいてきた
どうやら、同級生のホイットニー(ヘンリー・ネス)が失踪したようで、町の人がこぞって探しに回っていたようだった
映画は、カイルの事故後が前半となり、ホイットニーの日記を読むコルトンの脳内想像が後半となっている
カイルの死後、コルトンは喪失と向き合いながら、自分自身がカイルになりたいと思っていたことを知らされる
だが、彼のことは何一つわかっておらず、「Maiden」と書き殴っていく理由もわからない
彼の真似をして描いてみても上手く描けず、何かを得ることもない
そんな時に見つけたのがホイットニーの日記で、そこには友人のジューン(シエナ・イー)と上手く行っていないことなどが記されていた
ジューンはアメフト選手のタッカー(カレブ・ブラウ)の彼女で、彼の友人たちとつるむことが多かった
だが、ホイットニーは人見知りであるのと、タッカーの友人たちのノリについていけない
ジューンはそれを察したのかホイットニーにメールを送り、それがきっかけで彼女は家出をすることになった
後半のシーンはコルトンが彼女の日記を脳内で再現している内容で、彼女は死んだはずのカイルと会っている映像が映し出される
おそらくは、その日記に遺書のようなものがあって、それを読んだコルトンがカイルと会っているのでは?と妄想したのだと思う
明確にホイットニーが亡くなったという描写はないのだが、「列車はどんな夢を見るのか?」という日記から想像すると、その場所に行ったのではないかと思った
映画は、カイルになりたいコルトンと、ジューンにはなりたくないホイットニーが対比軸になっていて、カイルとコルトンはほとんど名前を呼び合わないが、ホイットニーはしきりにジューンの名前を呼んでいた
この関係性からすれば、カイルとコルトンは意思疎通ができていて、ホイットニーとジューンはできていないように見える
だが、実際には、コルトンはカイルのことを何も理解できていないし、ホイットニーはジューンを勝手に決めつけて突き放している部分がある
コルトンにとってのカイルは「ただそこにいるだけで癒しを与える猫」のようなもので、それが最後に現れたということは、癒しをもたらすためには「何かしらの代用が必要である」という意味に近い
ホイットニーにもジューンに代わる何かが必要で、それがカイルのような奔放に見えて影のある人間のように思える
カイルはホイットニーの日記を見て、彼女の前にカイルがいればという妄想をしているのだと思うが、それが正解なのかはわからない
だが、彼の前に猫が現れたことは、死と死を結びつけたことによって、生への道に舞い戻ることができたという意味に捉えても良いのかもしれない
一歩間違えばカイルの後を追いそうなコルトンだが、ホイットニーの日記を見て、その道に行くほど自分は強くないと悟ったのではないだろうか
いずれにせよ、かなり観念的な部分があって、「Maiden」にもいろんな含みがあるのだと思う
「Maiden」には「処女」「乙女」という意味があり、これは大人になる前の女性という意味になる
映画だとホイットニーがそのように見えるのだが、別の意味として「勝っていない馬」というのもあった
これは実に男性的な意味で、「何かをまだ為し得ていない」という意味になる
カイルがグラフィティアートで何かを成し得ようとしているのかはわからないが、それを書き殴っていることには彼なりの焦燥感があるのかもしれない
このあたりは想像の範囲でしかないのだが、コルトンが思っているよりもカイルはもっと繊細で、自分に自信のない人間なのかなあと思った
タイトルなし(ネタバレ)
カナダの田舎町。
高校生カイル(ジャクソン・スルイター)とコルトン(マルセル・T・ヒメネス)は親友。
スケボーでどこへでも出掛けて1日を過ごす。
行く先々でふたりは「MAIDEN」の落書きを残す。
ある夕、カイルは鉄橋で長い長い貨物列車に轢かれてしまう・・・
というところからはじまる映画で、カイルを喪ったコルトンが心に痛みを感じ続ける喪失の青春を描くのが前半。
後半は、
同じ高校に通う少女ホイットニー(ヘイリー・ネス)にはジューン(シエナ・イー)という友人がいるが、人付き合いが苦手(というか困難)な彼女は、ジューンにとっていつしか邪魔な存在になっていく。
些細なことがきっかけでジューンから一方的に友だち解消されたホイットニーの孤独が深まる・・・
という物語。
この前半と後半が奇妙な形で交わっていく。
ある種、幻想譚めいたところがあり、映像的にも秀逸。
テイストが似ている作品としては、昨年公開のアンドリュー・ヘイ監督作品『異人たち』を挙げておきます。
監督・脚本はグラハム・フォイ。
もう一本、作品を観たくなりました。
next ten years…
親友が悲劇に見舞われた高校生と、友人関係に悩む同級生の喪失感の話。
いつもつるんでいるスケボーキッズのカイル&コルトンだったけど、ある日調子にノッちゃうカイルが…と巻き起こっていく。
みんなが気遣ってくれるけれど浮かないコルトンをじっくりみせて行く展開で、どうなっていくのかと思ったら、ある日missingホイットニーでパートが移り変わり…。
ホイットニーに関してはわがままというか自己中にも感じるところがあって、これをじっくりみせられてもなんだかねという感じ。
そしてこれはファンタジー?過去ではないよね…そしてラストのコルトンで、えっ!そういうこと???
色々と解釈はできるけれど、この流れならホイットニーはどうなの?と思ってしまった。
映画館で観てよかった
光のノイズだらけ、ざらついたフイルムは映画館でないとその効果が、わたしには届かなかった
と思います
きっかけは
なんかしながらで、映画番組で予告を見かけただけ。
ロジャー・ミラーのDear Heartが流れてきて、予告にちゃんと耳を傾けました
楽曲とスケボー少年の映像観てなんとなくジョナ・ヒルのMid90sを期待して
足を運んできました。
ぜんぜん違う感じです。
これはこれで楽しめました。
標準な映画だときれいな顔が多いですが
カイル以外はみんな肌がきたないのも、10代のリアルを写し撮ってるのかもしれません。
エンドロール、カイル役の俳優とタイトルデザイン担当が名前、一致してました
メイデンのストリートグラフィック自体が彼の手によるものなんでしょうか?
あれ、かっこいい
いろんな意味でまた映画であいたい方です。
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