「自分で選択肢を狭めない生き方」ケナは韓国が嫌いで レントさんの映画レビュー(感想・評価)
自分で選択肢を狭めない生き方
トランプの再選が決まり多くのアメリカ人が国外への移住を決断した。ロシアでもウクライナ侵攻をきっかけにして多くの富裕層やインテリがロシアを後にした。
自分が生まれ育った母国を捨てて移住することはある意味身を裂かれるような思いを味わうことだろう。ただの一時的な旅行とはわけが違う。だが、たとえ自分が生まれ育った母国であろうともそこから離れざるを得ないことも起こりうる。愛する母国イコール現政権ではない。またそういう事情がなくても他国への移住を望むことは当然人であれば認められる根源的なものでもある。人間は常に自分が住みよい地を探し求め、それを探し当ててそこを安住の地としてきた。
ケナが望むのはまさにそんな人間としての根源的な願望。寒い場所が嫌いなら暖かい場所へ、競争社会が嫌なら競争がなくとも生きていける場所へ。何も自分が生まれた国に一生束縛される必要はない。愛国心だのなんだのと他人に言われる筋合いもない。仮に愛国心があったとしてもケナは寒いのが苦手なのだから。
親を選べないように生まれてくる国は選べない。でも自分の人生は選べる。一度きりの人生をこの韓国の10万キロ平方メートルの中だけで過ごすのはもったいない。毎日二時間かけての通勤で何をしてるのかもわからない会社を辞めてケナは韓国から抜け出すことを決意する。
恋人のジミョンは韓国人にしては今風の男子で女の自分を尊重してくれるが、やはり彼は韓国男子だ。自分を支えたいなどと悪気はないものの女を下に見ている。自分は男の庇護下でいるつもりはないというのに。そんな悪気のない彼を憎めない、でもやはり彼も韓国という枠に縛られている、そして彼の気遣いにいちいち嫌気がさす自分も韓国的なものに縛られている。彼は何も私の家庭を憐れんで施しをしようという気はないのに根拠のない劣等感に縛られてる自分が嫌になる。やはり自分をそういう風に縛り付けるそんな枠から解放されたいのだ。
自由の身となったケナ、でもニュージーランドでも人種差別もあるし言葉の壁もある。自由に国境を超えて世界中を飛び回れる翼を得るのも楽じゃない。そんなニュージーランドの地で知り合う様々な同志たち。彼らがケナを束縛していた枠から徐々に解放してくれる。
私は何人でもない、私はコスモポリタン(地球市民)だ。何にだってなれるはず。自分の可能性を自分で狭めてはいけない、自分の限界線を決めてはいけない。
ケナの自殺した同級生はこの韓国で国家試験に何度も失敗して、これではとても生きてはいけないと自ら命を絶った。限界線なんて本当は存在しないのに。自分で勝手に決めた限界線を超えたからあきらめてしまうなんて。でも多くの人々がこの限界線に縛られて生きてる。そんなことが馬鹿らしくてケナは旅立った。限界線なんて端から存在しないのに、自分で作り上げた限界線に縛られて生きるなんて。
若い命が今も失われる。つい先日も韓国を代表する子役出身の女優さんが自ら命を絶った。三浦春馬氏の死以来のショックだった。彼女の作品が好きだった。
年寄りから言わせてもらえば若い人はどんなに才能にあふれていても唯一ないものが経験だ。長く人生生きていれば思うようにいかないことの方が多い、そういう時には生き急がないこと。うまく行かなければ焦らず立ち止まる。それでキャリアをだめにしようがそれはしょうがない。人生は積み木のようなもの。どんなに高く積み上げても崩れるときは一瞬。でもまた積みなおせばいい。それができるのが若さであるということ。だから自分の限界を勝手に決めて限界を超えたとしてあきらめないでほしい。
ケナは同級生の死を見つめて思ったはず。自分は限界線を引かない、生きられる限り生き続ける。自分の悔いのないように生き続ける。そうして彼女は暖かく過ごしやすい自分にとって安住の地を見つけるのだろう。彼女の目線の先のどこにも線はひかれていない。