「コメディタッチの自叙伝の体で主観描写ばかり、原作者に脚本を委ねた重大ミス」かくかくしかじか クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
コメディタッチの自叙伝の体で主観描写ばかり、原作者に脚本を委ねた重大ミス
自らの来し方を感傷的に描く、一種の自叙伝。主演2人のキャスティングがピタリとはまり、笑って泣いての佳作に相応しい。もう、すっかり漫画家は社会的地位を確立し褒章の域、NHKの朝ドラ「半分、青い」2018年(なんと永野芽郁が主演でしたね)から、昨年の「ルックバック」2024年も、漫画家そのものが対象。描かれた漫画を原作に至っては枚挙にいとまがない、と言うより、漫画原作がなければ邦画もドラマも成り立たない実態がある。
そんな状況で人気漫画家・東村アキコ氏の描いた原作漫画の映画化のようです。2015年の自らの表彰式からさらに遡る1990年代の宮崎を舞台に、絵が上手いと煽てられた少女と、無頼派画家先生によるスパルタ教育を描く。ただし本人の目標はあくまでも漫画家志望であることを隠して、絵の上達を目指して画家の指導を仰ぐ祖語が本作の芯に横たわる。「漫画家なんぞに・・・」と本人そのものに卑下意識があった時代。孤高の画家は独自の愛情をもってとことん厳しく生徒に接する。その軋轢が本作の要。
しかし、一度は嘘をついてまで逃げ出したこのスパルタに耐える心情の変化と、特異なキャラクターである画家の方法論を受け入れる心情も、終始挿入される主人公自身のモノローグで、サラリと触れられるのみ。金沢の彼氏との別れも何にも描かれず「遠距離恋愛は終わりました」のセリフで終わってしまうあっけなさ。何を描きたいのか? まるで見つからない暗中模索の苦難が映画の根幹のはずなのに、画家に強制的に指導されたままの自画像で評価されたらそれで良し。あれほどに娘に理解の両親が突然就職を厳命する違和感。キーワードである「描けよ!」の連呼の深淵も結局うやむやのまんま。同じ絵画の土壌である昨年公開の「ブルーピリオド」演出の足元にも及ばない。
ひたすら永野芽郁のダイアローグが全編流れ、画家・日高健三の心象に寄り添うカットは一つもない。親友であるべき見上愛演ずる北見は芸大に受かるもあっさり中退が永野芽郁扮する林明子にまるでインパクトを及ぼさない。何のために見上愛にキャスティングしたのか意味がありません。要するに描いているのは主人公・林明子ただ一人、周囲の人間なんぞ背景でしかない。両親役に大森南朋とMEGUMIの理想のキャスティングなのに、オーバーなコメディおバカ演技ばかり強いる愚挙。これらすべての欠陥は脚本を原作者に委ねてしまった必然なのです。本作を制作するのに、これを受け入れるなんて正に映画作りを自ら否定するようなもの、プロデューサー失格ですよ。監督にそんな悪条件をはねつける力もないのは明らか。自分の事しか書いて無く、自分の理解しか描かない、これじゃいい映画になるはずもない。挙句はお涙頂戴で締めるとは。
ひょっとしたら、原作者が制作者にも名を連ねるのであれば、それが条件だった可能性がある。なにしろ昨年はテレビドラマの原作者が、意に染まらぬ脚本に嫌気さし自ら脚本に乗り出し、結果自死される悲劇があったばかり。映画は原作とは異なって当然で、全くの別媒体、原作者は任せる勇気がないのであれば映画化を拒否するべきでしょう。なぜなら、本作の結果が答えなのですから。
こんな致命的欠陥を抱えていながら、佳作とまで言えるのは、主演2人の造形と演技力が相乗効果を奇跡的に醸し出せた事に尽きる。まともな脚本家と監督に任せれば、こんなに素晴らしい題材と演者は大傑作に昇華出来たであろうに。無垢がごく自然に漂う永野芽郁は、けだし逸材なのは確か。それ以上に、圧巻の存在感の大泉洋は流石にダイヤモンドの輝きです。
映画鑑賞前に原作漫画全5巻を読了し、感動しました。原作は素晴らしい作品です。
長編小説や長編漫画を、2時間前後の上映時間に収めること自体に無理があります。原作のどこを切り捨て、原作にない物語を付け加えるか。原作者の意図を外さず、監督及び脚本家は映画を作り上げねばなりません。
そう言えば、それに応える職人監督というある種の名人が、昭和の日本にいました。
映画の製作及び脚本に、原作者が加わっています。限界が露呈したと私は思いましたが、楽しめました。
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