セプテンバー5のレビュー・感想・評価
全136件中、1~20件目を表示
自分も放送クルーのひとりになったかのような没入感
オリンピックの理念は『スポーツを通して心と体を健全にし、国や文化の違いを超え、友情とフェアプレーの精神でお互いを理解し、世界平和に貢献する』こと。
けれど世界的な祭典ということもあり、悲しいことに理念を反して政治的な利用をされてしまう現実もある。このミュンヘンオリンピックでの悲劇もそのひとつだった。
純粋にオリンピックで夢を叶えるために、努力を続けた選手とそれを支えたコーチが犠牲となることの、理不尽さや無力感といったらない。
この作品では、突如起こったこの事件を、本来はスポーツのみを取り扱っているはずのABCの放送クルーたちが、歴史的生中継をする様子を、事件の始まりから終わりまでノンストップで追体験できる。
様々なドキュメンタリー番組で見てきたミュンヘンオリンピックの悲劇。実際の映像を交えながら、あの時放送クルーたちがどんな決断を迫られ、判断をして、動いたのかがわかるだけでもとても興味深かった。それと同時に自分もあの場のひとりになったかのような没入感で、あっという間の91分だった。
慣れてないからこそのミスや、この事件を届けなければという使命感や責任感から、報道や言論の自由は果たしてどこまでなのかという問題もあると思う。安全圏にいるからこその、スクープを誰よりも早く撮ってやる邪な気持ちも無かったわけではないと思う。
けれど、あの場にいた誰もが人質の解放を願っていて、それをいち早く世界に届けたいと思っていたに違いない。
最後の結末は知っているのに、見終わった後は喪失感と無力感が襲ってくる作品だが、一見の価値はある作品だった。
過剰な演出を排した創りに共感!!
1972年のミュンヘンオリンピックで実際に起ったパレスチナ武装組織によるイスラエル選手団の人質テロの顛末を描いた作品であるが、これまでにも「ミュンヘン」等この題材をテーマにした作品は幾つかあったが、銃撃シーン等の過剰な演出を避け、淡々とクルーの立場から現場を演出するその創りにはより緊迫感が感じられ共感が持てる。
ニュースクルーではない、スポーツクルーが報道の自由と報道がもたらす結果責任の狭間で悩む術が独特の緊張感の中でより真実味に溢れ、作品としてのクオリティーを保っている。
ドイツとイスラエル、パレスチナと言う対比もこの作品のリアイティーを生むには不可欠!
「ユナイテッド93」もそうだが、実話に基づいた作品は過剰な演出を排除した創りに限る!!
先日見たある映画との差に愕然としてしまった。
終わりが見えない憎しみ合い
ヒリヒリする映画だった。ミュンヘンオリンピック開催中に起きたパレスチナ武装組織「黒い九月」によるイスラエル選手団の選手村襲撃事件の発生から終結までをまるでドキュメンタリーのように映画化した作品。事件を生中継することになったテレビクルーの視点からだけで描く。スポーツ局のスタッフたちが連帯し、50年前のアナログ技術を駆使して映像を伝える熱意。図らずもその映像を犯人グループが見ていて警察の突入作戦は中止となってしまったが、。それにしても当時の西ドイツの政府や警察はなぜ人質全員殺害されるような事態を招いたのか?法律で軍を派遣できないとか、地元警察の少ない人数で対応したとか、今のようなテロ対策部隊はないにしても、もっと国をあげて対処できなかったのか、。この映画を観た後、自宅で「ミュンヘン」を見てその殺戮の映像を確認したが、とにかく悲惨である。復讐の連鎖がこれをきっかけに増幅したのは如何ともし難い。
ドイツ人でテレビ局の通訳もしていたレオニー・ベネシュを使いもっとドイツ側の視点があってもよかったのでは?でも「ありふれた教室」に続き好演していたのが良かったです。
イスラエルとパレスチナの憎しみ合いに終わりが見えないことが最大の悲劇である。
事実の重み
1972年の西ドイツ、ミュンヘンオリンピックで起こったパレスチナテロ組織・黒い九月によるイスラエル選手団襲撃事件を題材にした実話に基づくストーリー。
緊張が持続して気が抜けませんでした。
主役は米国ABCテレビのスポーツ中継クルーですが、突然目の前で起こった事件を、社内報道部門に主導権を渡すことなく、自分たちが報道することを死守します。
放送に対する責任感の表れとみましたが、それとも功名心だったのか。
事件が進行するにつれ、クルーは観察者ではなく、事件の一部になってしまいます。
事件の終結を放送し仲間内で業務完了の祝杯をあげるクルーたちでしたが、どんでん返しが待っていました。
その後やっと、しんどかった一日が終わりますが、明日は普段の仕事が待っている。気持ちの整理はつくのだろうか、やり切れない気持ちはどこに持っていくのだろう。
映画は、報道の正義は何か、速報の価値と誤報の責任、社会に対する影響の重さなど、報道が社会に与える影響を考えさせてくれました。
個人的には、映画が72年当時の科学技術を説明していて興味深く拝見しました。
画像を引き伸ばすなら写真に撮って印画紙に焼き付け、ハンディビデオカメラがないからフィルムカメラを持って野外撮影、テレビ放送に字幕を入れるために文字のブロックを組んで撮影して合成する。当時の技術に創意工夫を加えて撮影を進めていたことに、少し思い当たる節があり、懐かしく共感を覚えました。
ミュンヘンへの道
息つく暇もない緊迫感
民族間の対立、憎しみ、悔み、恨み
オールドメディア報道の自由とフェイク
真実を追う!
新旧メディアの報道のあり方が、これまでに無い注目を浴びる現在を生きる私たちに鋭く問い掛ける傑作だと思います。
1972年9月5日、ミュンヘンオリンピック開催中に起きたパレスチナ武装組織が選手村に侵入し、イスラエル選手団を襲撃した人質テロ事件の顛末を、事件を生中継したテレビクルーたちが直面したテロ事件を生中継することへの葛藤が映し出されます。
それは偽情報が拡散する時代に報道の在り方をシビアに問いかけ、報道の自由、事件当事者の人権、報道がもたらす結果の責任など現代社会にも通じる問題提起となりました。発生から終結まで何が起こり、彼らはどう向き合ったのかをありのままに伝え、まるでその場に放り込まれたかのように追体験できます。
「HELL」のティム・フェールバウムが監督・脚本を手がけました。
●ストーリー
1972年9月5日。ミュンヘンオリンピックの選手村で、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手団を9人を人質に立てこもる事件が発生します。そのテレビ中継を担ったのは、ニュース番組とは無縁である米テレビ局ABCのスポーツ番組の放送クルーたちでした。彼らは五輪中継から一転、事件の模様を全世界に伝える使命を負うことを決断します。
現場管理者のルーン・アーレッジ(ピーター・サースガード)から全権をまかされた若い調整プロデューサー“ジェフ”ことジェフリー・メイソン(ジョン・マガロ)は、犯人たちが閉じ寵もった部屋の窓が見えるスタジオの屋上にカメラを1台据えることを指示すします。
やがてその屋上カメラに、銃を構えた警官たちの姿が映ります。犯人たちの部屋をうかがってにじり寄っていたのです。クルーの誰かが言いいます。衛星中継だから奴らも見ていないのではないのかと。これは衛星中継初期のことでしたので疑心暗鬼になっていたのですが、実は世界の9億人が固唾をのんで事件の行方をテレビ中継を見ていたのです。
エスカレートするテロリストの要求、錯綜する情報、機能しない現地警察。テロリストが定めた交渉期限は刻一刻と近づき、中継チームは極限状況で選択を迫られます。
めまぐるしく状況が変わる中で視聴率は急上昇、生中継は止められません。その中でこの中継を犯人グループも見ていて、捜査当局の動きが伝わり、突入が失敗してしまう事態が発生します。報道する側の姿勢をめぐり現場は混乱します。米本社からの「報道局に任せろ」という圧力に、現場を統括するアーレッジは「これは私たちの事件だ」と抵抗します。進行を仕切るジェフは野心と倫理のはざまに置かれ、苦悩するのでした。
その中で政府広報が、イスラエル選手団の救出をファックスで伝えてきます。しかしテレビクルーたちは、あまりに突然の打電で、にわかに信じられませんでした、そこでジェフは、選手団の救出をそういううわさがあることにして、報じようとします。しかし厳重な裏取りを説く現場総責任者のマーヴィン・ベイダー(ベン・チャップリン)が待ったをかけるのです。的確な判断力と胆力で核心情報をつかもうとするドイツ人通訳のゲブハルト(レオニー・ベネシュ)は志願して、救出現場とされる空軍の空港へ突撃ルポに向かいます。
果たして政府広報が伝える全員救出は、世紀の大誤報だったのでしょうか。そしてジェフはどのように報じたのでしょうか。
●解説
スティーブシ・スピルバーグ監督「ミュンヘン」(2005年)など、この事件を題材とする映画は何度も作られていますが、本作は大半が放送スタジオで展開していくという点で一線を画しています。
当時使われていたアナログ機材を置くなどして忠実に再現したコントロールルームを主な舞台に、実際のニュース映像も盛り込みました。何を撮り、どうやって情報源にあたり、報道するか。未曽有の事態の中、判断を迫られるクルーの姿を描き、緊張が途切れません。
銃声らしき音が端緒となり、人が殺された、テロだといった事実が明らかになっていきます。スタジオ内で刻々と高まる緊迫感と熱気、興奮を生き生きと描き出した導入部から引き込まれるのです。
情報は外にいる記者からの電話や無線連絡、中継カメラの映像やニュース番組のみ。手持ちカメラの、あえて画質を粗くした映像で建物内を走り回る登場人物を追います。観客は彼らと同じ現場に放り込まれ右往左往することになるのです。
一方、カメラを搭載した携帯端末が広く普及し、SNSでは簡単に情報を発信できる現代において、本作が作られた意義は大きいと思います。報道の担い手には言うまでもなく、万人に警鐘を鳴らす一本です。
脚本(共同)監督はスリラーで名をあげたティム・フェールバウム。このあたりの緊迫感は尋常ではありません。テレビモニターだけが一段と明るい副調整室に張り詰めている空気が今にも破裂しそうです。
しかし、サスペンスばかり言い募るのはこの作品の本質を見落とすことになります。
ここで逸してならないのは《噂》の扱いです。「ストーリー」で触れたましたが正確にいうと、まず突然人質解放の噂が飛び込んできたのです。しかし裏がとれません。でも、この上ない朗報です。噂にすぎないがと断って、別室のキャスターに伝えます。すると、ファックスから公報が流れたのでした。解放と描かれています。それを見てスタッフたちは歓声あげ、乾杯します。
けれども私たちはこれが誤報であることをすでに知っています。そして考えるのです。噂はどこから出たのか。公報とは何だったのかと。映画は画面を通じて無言で問いかけるのです。ジャーナリズムの倫理について、責任と影響について。 21世紀は情報の世紀と記録されるだろう、と学者が言っています。映画は私たちにも、のっぴきならない歴史の教訓について問いかけてくるのでした。
●感想
本作テロ事件報道は教訓として語り継がれながらも、現在は状況が変わっていると思います。それは何を報道するのか、しないのか。テロ事件では単純な正解が出せなくなったからです。テロを報じることが、社会的な脅威につながる2次被害を起こしかねません。
本作でも現場中継によって警察の動きが読まれて、突入に失敗し、その後の悲劇的結末につながることになってしまいました。
本作は、虚偽情報を特定するファクトチェックの重要性にも触れています。人質が全員救出されたとの未確認情報を報道し、それが事実として世界中に広がってしまうのです。 これは現在のSNSの問題と同じでしょう。アメリカを代表するテレビ局でさえ、間違いを起こすのです。誰もがテレビ局、新聞社になれる時代だからこそ、自分自身の物語だと思って見てほしいものです。
報道の自由、事件当事者の人権、報道による結果の責任は誰にあるのでしょうか?世界各地で続く戦争や、大統領選や日本の選挙など、新旧メディアの報道のあり方が、これまでに無い注目を浴びる現在を生きる私たちに鋭く問い掛ける傑作だと思います。
世界を震撼させたテロ事件を、こんな切り口で描く映画が作られるとは思いもよりませんでした。臨場感みなぎる手持ちカメラのショットを連ね、ニュース映像をふんだんに挿入したビジュアルの迫真性がすごいのです。
現場が至近距離なのに、カメラや取材者が近寄れない状況を逆手に取った手法も素晴らしいと思います。映画の大半はABCのコントロールルームから出られません。狭い部屋で情報を限定された一方、映像は外の状況を刻々と伝える状況が閉塞感を強調します。
予測不能の極限状況に直面したテレビクルーの混乱を描きながら、事態の情勢変化を伝える脚本もお見事。ただし限定的な視点の室内サスペンスゆえに、事件の全貌をつかむのは容易ではありません。
それでも道徳的ジレンマと野心の間で葛藤しながら、瞬時の判断を下すチームの熱気や緊迫感はヒシヒシと伝わってきます。テレビマンの呼吸までもが映りこむようです。スタジオ自体が最高の演出を生み出したのです。照明はすべて天井から当てられ、上からの光が作る陰影の濃淡が、リアルな感覚を際立たせていました。
世界丸見え
面白くなかったわけではないんですが…
1972年、ミュンヘンオリンピック開催中にパレスチナ武装勢力がイスラエル選手団の宿舎を襲撃し選手11人を人質にする事件が発生。現場の近くにいたことから事件の中継を敢行することになったアメリカのスポーツ中継のTVクルーをドキュメントタッチで描く。
うん、面白そうだ。興味をそそられるし、しかも実話ベース。作品の求心力になっているのは生中継の裏側と事件の顛末。
作中ほとんどが中継ブースからの視点で、アメリカ本土のテレビ局と放送枠を確保する為の丁丁発止のやり取りとか運び込まれる素材フィルムをピストン運行で現像していく様やデジタル技術がない時代の急きょのテロップの入れ方など70年代のテレビ中継の緊迫した裏側という、お仕事描写はなかなかの物。
事件の結末についてはネタバレなので言及は避けるとして、全体としての評価は「地味だけど悪くないんじゃない?」くらいなんですが……
「この映画から何かを受け取ったか?揺さぶられる物があったか?」と問われたなら、うーんと唸ってしまう。
報道の自由とそれに伴う責任や放送される被害者の人権など、今作が放送倫理の問題を提示しているのは間違いないんですがそこに「今までもいろんな媒体でやってるし何回も聞いた」問題提起以上の事が感じられないんだよなぁ。私が鈍いのかしら?
なんだか、今さら「ネットの情報には嘘もあるから鵜呑みにするのは危険」とドヤ顔で注意された時に「うん知ってる」と、まったく心が動かないあの感じに似ている。
結果「なるほど、こんな事があってそんな結末になったのか」という好奇心と知識欲は満たせたものの、それ以上はなく、凄く良く出来た『世界丸見えテレビ特捜部の再現ドラマ』を観たような気分でした。
苦悩と陶酔
倫理観と報道
日本の報道は昨今ぐっちゃぐちゃですが、そこにもやはり真実をいち早く伝えたいという思いと現実はハッピーエンドになるとは限らない残酷さがあって事実はいつも皆が願う方になるとは限らないしやはり救いは無い。
でも明日も皆生きなければならないという生命の積み重ねを思い出させてくれる映画でした。
通訳のマリアンヌは戦争世代では無いけど、ドイツという国が背負った敗戦によって職場で傷付かなければならないことも多くて、当時の戦争しなかった世代の苦しみや背負ったものの表現も重苦しくのしかかっている様が描かれていた。
真実は何か、いつの時代も見極めなければならないし、真実として報道される事が真実なのかは現代社会では分からない事が多くなったのかもしれない。
個人的には全く、、、
報道の在り方
見せるもの、見せないもの。
見せたいもの、見せたくないもの。
見せるべきもの、見せてはならないもの。
そこにはあくまでも誰かの主観(判断)が存在する。
ドキュメンタリー(タッチ)のこの作品も、作り手の、これを見せよう、という意志によって作られている。
報道の在り方が問われる今、考えさせられる作品だ。
こういった実話ベースの映画が好きで、今作は半世紀前の事件を題材にしたものだが、現在起こっている出来事の多くが、今から半世紀ののちには、映画の格好の題材になっているようなことだばかりだと思うととても悲しい。
比べてはいけないが、ショータイムセブンも吉田鋼太郎なんか入れずに今作のような描き方をしていたらもっと緊迫感が出て面白くなっていたかも。あの犯人では無理か。
全136件中、1~20件目を表示