セプテンバー5のレビュー・感想・評価
全189件中、1~20件目を表示
自分も放送クルーのひとりになったかのような没入感
オリンピックの理念は『スポーツを通して心と体を健全にし、国や文化の違いを超え、友情とフェアプレーの精神でお互いを理解し、世界平和に貢献する』こと。
けれど世界的な祭典ということもあり、悲しいことに理念を反して政治的な利用をされてしまう現実もある。このミュンヘンオリンピックでの悲劇もそのひとつだった。
純粋にオリンピックで夢を叶えるために、努力を続けた選手とそれを支えたコーチが犠牲となることの、理不尽さや無力感といったらない。
この作品では、突如起こったこの事件を、本来はスポーツのみを取り扱っているはずのABCの放送クルーたちが、歴史的生中継をする様子を、事件の始まりから終わりまでノンストップで追体験できる。
様々なドキュメンタリー番組で見てきたミュンヘンオリンピックの悲劇。実際の映像を交えながら、あの時放送クルーたちがどんな決断を迫られ、判断をして、動いたのかがわかるだけでもとても興味深かった。それと同時に自分もあの場のひとりになったかのような没入感で、あっという間の91分だった。
慣れてないからこそのミスや、この事件を届けなければという使命感や責任感から、報道や言論の自由は果たしてどこまでなのかという問題もあると思う。安全圏にいるからこその、スクープを誰よりも早く撮ってやる邪な気持ちも無かったわけではないと思う。
けれど、あの場にいた誰もが人質の解放を願っていて、それをいち早く世界に届けたいと思っていたに違いない。
最後の結末は知っているのに、見終わった後は喪失感と無力感が襲ってくる作品だが、一見の価値はある作品だった。
前代未聞の報道で浮き彫りになる情報拡散のリスク
現場で起きていることを世界に伝えるという使命感と、スクープをものにしたいという欲求のもと、テレビマンたちは前代未聞のテロ中継映像を全世界に発信した。情報の拡散に潜むリスキーな側面に気づかないまま……
1972年のこの事件がはらむ報道のあり方への痛烈な教訓、国家間の対立にかかる問題は、2025年の今も全く色褪せていない。そのことに暗澹たる気持ちになる。
冒頭、オリンピック競技を中継するカメラのスピーディーなスイッチングがライブ感を印象付ける。特別な祭典を中継するABCクルーたちの晴れやかな緊張感が伝わってくる。しかしそれは、朝まだき選手村に響いた銃声によって一変する。
最前線の采配を任されたジェフリー・メイソンは、居合わせたクルーでの役割の割り付け、現場近くへのスタジオ機材の運び出し、放送枠の確保や警察無線の傍受など、未経験の状況ながらも的確に対応してゆく。メイソンは当時32歳(現在84歳で存命であり、本作についてのインタビューに答えている)。他のクルーも、20代から30代が中心だったという。
テロリストの不穏な動きと刻々と変わりゆく状況が、オープニングの競技中継のようなハイテンポで描き出され、最後まで緊張感が途切れない。
事件の前からその緊張感のそこかしこに、観客の気持ちを波立たせる要素が織り込まれる。ドイツ人通訳のマリアンネに見てとれる、第二次大戦でのドイツの罪とトラウマ。さりげなく言及されるアメリカとキューバの関係。時折他のクルーとは異なるスタンスが垣間見えるアラブ系クルーの言動。
描かれる事件はパレスチナとイスラエルの間の火種によるものだが、国家間の争いは最終的に悲劇を生むだけという点ではどこも同じなのだと言われているような気持ちになった。
そして、この物語が投げかけるもうひとつの重い問いは、やはりメディアのあり方だ。
テレビ放送の歴史自体がまだ浅い当時、報道部門のクルーでさえ経験がないであろうテロの生中継をスポーツ部門の若手クルーたちがやる。彼らには目の前の出来事を伝えるというテレビマンとしての使命があり、現場を任されたメイソンはその使命に対して最善の行動を取った。
クルーが選手の扮装をして選手村に潜り込んだり、犠牲者が出たのに人質解放のスクープ(結果的に誤りだったが)をものにして乾杯したりと、現代の感覚で見れば違和感を覚える場面もあったが、未来人の視点で事後諸葛亮のような批判をする気にはとてもなれない。今と比べると技術的にかなり限られた当時の情報収集手段、彼らが唐突に放り込まれた前代未聞の状況。現代のような細やかな(ある意味神経質なまでの)人権意識が醸成されていない半世紀前の時代の空気。同じ時代の同じ立場にもし私が立たされたなら、と考えただけで足がすくむ。
だが、中継によりテロリストに警察の動きが筒抜けになっていた点については、前例のない事態にぶっつけで臨んだ結果の痛恨の失態と言える。
報道の自由や知る権利はしばしば行き過ぎと見なされて批判を受けるが、本質的には守られるべきものだ。それらと背中合わせになったリスクを回避することの難しさをミュンヘンの悲劇は示し、その後の報道のあり方を考える上での貴重な礎になっているのではないだろうか。
90分続く緊張感に晒された後に最悪の結末を突きつけられ、エンドロールを見ながら言いようのない無力感に襲われた。だがそれは、良作を観たという手応えでもあった。ほとんどスタジオ内のみで完結する物語だが、単調さを微塵も感じないまま駆け抜けた実感があった。
本作のメッセージはそのまま、現代のメディアにも鋭く刺さる。加えて、50年前とは違いSNSというツールの魔力に振り回される市井の人間ひとりひとりも(もちろん私自身を含めて)そのメッセージを自分ごととして耳を傾けなければならない、という気持ちにもさせられた。
その発信で誰かの心身がおびやかされないか、その情報は裏取りをしたものなのか。情報は誰かを救うこともあれば、時に誰かの命をも奪い得るのだ。
ドキュメンタリータッチの実録劇映画の大成功例
ケヴィン・マクドナルド監督のドキュメンタリー『ブラックセプテンバー ミュンヘン・テロ事件の真実』やスピルバーグの『ミュンヘン』でも描かれたテロ事件を、衛星中継で報道したアメリカのTVクルーの目線から描く。情報が入らず全貌がまったく見えない中、とにかく報道を続けようと奮闘する姿が映し出されるのだが、ときに調査報道の鑑であり、ときに視聴率優先の見世物であり、ときにエキサイティングな報道合戦であり、また、第二次大戦で敗戦したドイツ側の複雑な事情も見え隠れする。かなり要素の多い作品ながら、報道スタジオを中心に据えることで、わちゃくちゃになることなく、事件の推移に引き込まれていく。とにかくお仕事映画として非常によくできていて、なおかつ報道の功罪をさらりと感じさせるバランスの良さに舌を巻いた。実録ノンフィクション映画のお手本のような作品。
スクープ欲求の原罪
ミュンヘン五輪でのテロ「黒い九月事件」は、Spielberg監督が後日談を中心に映画化(Munich, 2005)していたり、しばしば報道番組でも振り返られる近代史であり、事件のあらましは知ってます。 ただ、その現場を世界に向けて中継したABCクルーの目線からは新鮮。緊迫感も十分再現されていて、見応えある映画でした。テロリストも中継映像を観ていた事で、事態が悪化した可能性はあるものの、地元警察にも対応も甘く、その功罪は微妙。ただ、後半描かれたスクープ(速報)のあり方は、現在の週刊誌報道やSNS運用に通じる原罪を感じました。
(史実だけど、これ以降ネタちょいバレ)
噂段階でも、事件の解決の吉報は速報したいもの。ましてや地元の公共放送ZDFが生放送で伝えていれば、信じるのも仕方ない。しかし、それがドイツ政府が国民向けに騙らせた希望的観測?プロパガンダ?に過ぎず、その時点ではテロリストとの攻防がまだ続いていたばかりか、最終的に悲劇を迎えた事実を知った脱力感は半端ない。ドイツ政府に嘘を付かれた状況で、正しい裏取りは困難でスクープを決断したABCを責めたくはない。ただ、自分達だけが握っている情報を、誰よりも早く速報して、スクープを称賛されたいという欲求そのものに在る「原罪」は否定しがたい。
ABCが誤報したとて、テロリストを有利する効果はない。誤報がなければ、人質が助かったわけでもないだろう。ただ、人質家族を無駄に糠喜びさせてしまたろう。ドイツ政府の思惑にまんまと騙された事も、報道としては屈辱的敗北。吉報であってお、スクープに逸らずウラを取る慎重さは重要。フジTVのガバナンスの弱さは、週刊誌やSNSが憶測段階で騒いだことで明らかになった面もある。ただ、加害者の擁護者が不確かな言動で被害者を中傷したり、被害者の女性上司を必要以上に非難された事実もあり、報道を受容する一般人も自身のSNS運用を顧みるべきでしょう。
寝ました
イスラエルとパレスチナの対立がオリンピックに持ち込まれて、初めてテロが世界に生中継されたってことなんだから、面白くないわけがないんだけど。
人物描写や背景の説明が下手なんで、前半からずっと退屈。
誰がどういう立場なのかよくわかんないまま話が進む。
テロが起こって、それを局のニュース部門じゃなくてスポーツ部門が中継するかどうかの攻防なんて、話の全体からはどうでもいいことなのに、当事者は必死だから、こっちは白ける。
ジャーナリスティックな視点ではなく、単なるテレビマン的に「面白い事件だから俺たちのもんだ」以上でも以下でもないように見えちゃうんだよね。
テロリストも人質もまったく描かないんで、だれにも感情移入できないまま、後半は寝てしまいました。
昨夜もぐっすり寝て、睡眠は十分な私を眠らせるって意味ですごい映画だわ。
マスコミの在り方
自分は以前に、この事件を描いた「ブラック・セプテンバー」というドキュメンタリー映画を観たことがある。様々な証言や記録映像で綴った極めて硬派な作りに見応えを感じたが、そこにドイツ警察の突入を生中継ですっぱ抜いたテレビ局が登場してきた。今考えると、これはABCのことだったのだろう。
本作は、そのABCのスポーツ中継クルーの視点から事件当日を描いた劇映画である。
現場にカメラを持ち込めるのは彼等だけで、ほとんど独占中継のような形で映像を発信することになるのだが、いざ始まってみると様々な問題に直面し、スタッフは混乱をきたしていく。映画はその様子を緊張感あふれるドキュメンタリー・タッチで捉えている。
登場してくるのは、ディレクターやプロデューサー、エンジニア、通訳の女性、カメラマンといったテレビ関係者である。夫々に神経をすり減らしながら番組作りに邁進する姿には、真実を伝えようとするジャーナリスト魂のようなものが感じられた。
ただ、時代性というのもあるのだろう。今では考えられないような事実も幾つか見つかる。
例えば、カメラマンを偽の選手に仕立てて選手村に潜入させたり、視聴率競争に勝つために他局に放送枠の譲渡を交渉したり、先述のとおり犯人が見ているかもしれないのに警察の突入作戦を堂々と生中継したり等。彼らの取材はかなり強行でもある。しかも彼らはスポーツ中継部のクルーなので、本来であれば政治事件については門外漢である。そんな彼らに生中継を託すというのはABCの上層部も随分とドラスティックなことをしたなと思う。あらゆる意味で、当時のマスコミの浅はかさというのも実感した。
また、人質の写真を引き伸ばしたり、画面にテロップを入れたり、今ならデジタルでいくらでも簡単に処理できることが、全てアナログでやっていたというのも面白い発見だった。選手村の様子を撮影したフィルムを地道に運ぶというのもアナログ的なやり方で時代を感じる。
事件そのものはもちろんのこと、こうしたテレビスタッフの裏側の事情が垣間見れるのも本作の面白い所である。
ちなみに、コーヒーのクダリや、撮影クルーが選手に間違われてインタビューを受けたり、所々に配されるユーモアが緊迫感が持続する作風にホッと一息つかせるような効果を上手く創り出している。硬軟織り交ぜた作りは中々堂に入っていると思った。
いよいよ事件が終息へ向かう終盤は、映画の緊張もピークに達していく。しかし、ラストはクルーたちの努力を嘲笑うかのような皮肉的な結末を迎える。実にやるせない気持ちにさせられるが、同時にマスコミの”在り方”みたいなものが問われているような気がした。情報は裏を取れというのは報道の鉄則だと思うが、それを怠った結果がこれである。
観る前は、本事件を現代に製作した意図が今一つ自分には分からなかったのだが、なるほど。このラストを見ると製作サイドの狙いはここにあったのか…と気付かされる。
自分自身の「正しさ」とは何か
オリンピックと言う華やかな祭典の裏で起きていた恐ろしい事件。
何を映し何を伝えるのか。報道の正義とは何か。
オリンピック中継チーム視点で緩やかに始まり、突然聞こえた銃声から物語は進展していく。
降って湧いた大スクープに他人事のような無責任な盛り上がり方をするクルー達。
伝えなければならないのは「注目される事」なのか。
正しさとは。真実とは。
時間だけが過ぎて行く中、何としても報道を続ける為に四苦八苦し、知恵を絞りあの手この手で何とか事件を追っていく。
その様子は緊張感と緊迫感に溢れ、仕事に対する情熱も意地もプライドも伝わってくる。
だからこそ、思う。
全てを見せることが正しいのか。
ひたすら疑問が浮かんでは別の疑問に埋め尽くされ、この映画を「面白かった」などと言う言葉で表現出来ないような、そんな深い水の中にいるような感情。
最悪の結末を迎えて「事件は」幕を閉じる。
追悼番組の打ち合わせをするスタッフ達。
正しさとは何か。誰の為の報道なのか。
情報に溢れ、誰も彼もが「発信する」立場になれる今こそ、もう一度自分自身の正義について問いただすべきではないのか。
ただひたすら、胸の奥に何かが残った、そんな素晴らしい映画だった。
緊迫感と臨場感
歴史映画としてもワンシチュエーションスリラーとしても、何よりお仕事映画として大傑作だと思います。
映画の中で東ドイツという国名が出てきたり、イスラエルのユダヤ人選手がドイツのミュンヘンで人質となり、なんとか救出しようというドイツの奮闘は、もうユダヤ人を迫害したかつてのドイツとは違うのだ!というメッセージを世界に発する好機でもあったり、事件の背後には第二次世界大戦の影が色濃く残っていたことを改めて認識出来る映画でもありました。
アメリカABCテレビの中継調整室の中だけで「歴史的な問題」「民族的な問題」「報道のあり方の問題」現代にも通じる様々な問題をあぶり出して行く力強い映画でした。
特に今はスマホさえあれば誰でもジャーナリスト的な振る舞いが出来る時代だけに情報の裏をとることの大切さを突きつけてくるクライマックスの構成は非常に意義深いものを感じました。
ひどい話…
緊迫感があって中々面白かったです
全般的に緊迫感があって中々面白かったです。
主要人物の男性が似たような外見なので、区別がちょっと付けづらいけれど、それは何とかなりました。
イスラエル選手とコーチの殺害ということから、ホロコーストの話題が出てくるけれど、物語とは間接的な関係性に止まる。
報道の功罪
表現の自由、報道すること、真実を伝えることは、非常に重要だ。だが、テロリストに警察や特殊部隊の動きを伝えてしまうことは許されるものではない。
報道スタジオで、人質が全員解放されたという「噂」に飛びついたのは、やはり、その前の「自分たちのせいで救出作戦がダメになった」という思いがあったからに他ならない。警察の指揮がダメすぎる、テレビが見れないように電気を切るべきだという主張は責任転嫁でしかない。
そういう部分で、報道陣に感情移入が今ひとつできなかった。
また、イスラエルによるガザの無差別砲撃の最中にこの映画を上映することがアメリカの政治的なものを感じさせる。人質事件やテロが許されないのは当然としても、これらの事件が起きる背景は知る必要がある。
同盟国だからといって、イスラムを悪者にするアメリカの主張と視点にだけ毒されないようにしたい。
なんとも後味の悪さ
これTV局の海外中継派遣チームの話なんだけど、今動画配信とか上げてる人は見てほしいですね。
自分達にとって良かれと思ってやってること、自分達の正義は決して他者にとってもそれではないと言うことを嫌というほど描いてます。
それに後から気付くクルー達だが、その後が何日か経ってではなく数分後だから。
TV報道に携わってる人の職業病なのかも知れないが。
事件や事故に遭われた方へは、無事でいて欲しいとは皆が思ってるのだがそうでなかった時のやるせ無さを感じずには居られないだろう。
世界では戦争が続いてますが、たとえ停戦しても遺恨が残るのが現実で、当事者ではなかったからといって他人事のようにはならないのが今現在生きてる世界だと思い知らされましたね。
ブラウン管、ハンダ、録音テープの温もり、 受話器の重み。
報道とテロ、歴史を伝えるメディアの役割
先日観た『ノー・アザー・ランド』に続き、イスラエル・パレスチナ問題が関わる映画。ただし今回は、50年前のドイツ・ミュンヘンオリンピックで実際に起きた人質テロ事件がテーマになっている。
この映画によると、テロ事件が初めて生放送されたのが、今回のアメリカABCテレビの中継だったという。当時の報道現場を描いた作品であり、物語のほとんどはオリンピック会場近くのビルに設置されたABCの中継スタジオで進む。
事件現場である選手村も目の前にあるが、記者たちは何が起きているのか正確にはわからないまま、手探りで放送を続けようと奮闘する。そこにあるのは、報道の使命感なのか、それとも単なる仕事としての義務なのか。
おそらくこの事件を契機に、報道倫理に関する議論が生まれたのではないだろうか。
映画の中でも、報道が対テロ作戦の進行状況をリアルタイムで映し出してしまい、結果的に警察の作戦がテロリスト側に筒抜けになる可能性が示唆される。
また、SNSもない時代、テロリストが世界にメッセージを発信する手段はなく、「事件そのものを起こすこと」が最大のメッセージだった。
そう考えると、世界中に放映されることでテロリストの目的を果たしてしまったのではないか? という問いは避けられない。
現在では、こうした倫理的問題がより問われるようになり、報道には一定の制約がかかるようになった。しかし、その役割がマスメディアからネットメディアへと移行した今、ネット上では報道倫理がますます厳しく問われるようになっている。
一方で、日本の報道がそれによって大きく変化しているようには見えないのも興味深い点だ。
事件の目撃者でありながら、介入できない報道陣の視点が映画の中心だった。
ABCのスタッフは、「とにかく仕事として報道する」という姿勢だ。ただ一人、現地採用のドイツ人女性スタッフだけが、この事件をドイツの歴史問題と結びつけ、「またドイツは大きな失敗を世界に晒してしまった」とショックを受ける。
彼女のリアクションからは、戦後30年経っても一般市民が「ナチスのユダヤ人虐殺の責任」を意識していることが垣間見えた。
「歴史と個人の感情が交差する瞬間」は、この映画が単なる報道映画ではなく、歴史の記憶を伝える作品であることを強調していと思う。
現代と圧倒的に違うのは、リアルタイムで情報を得られる手段が、テレビとラジオ、そして電話くらいしかないことだ。
スマホもない。ネット検索もしない。SNSで情報が拡散することもない。テレビ映像が「世界の目」として機能していた時代の事件だった。
つまり、この事件は「テレビというメディアが持つ速報性と影響力を証明した」事件でもあった。
現在ならスマホを通じて誰でも動画を発信できるが、当時は「報道機関だけが事件のリアリティを伝えられる」時代だった。
それを象徴するように、映画はまるで記録映像のようであった。事件をドラマチックに描くのではなく、「ただカメラがその場にあった」という感覚を保つことで、リアリティを強調している。
この映画は、歴史的大事件を目撃しながらも、それをただ「伝えるしかなかった」報道陣の姿を描いた作品だ。
何らかの解決を提示するわけでもなく、エンディングもない。ただ、事件は終わり、翌日も仕事は続く。
確かに今日は歴史的大事件に立ち会い、報道した。だが、明日になればまた別のニュースがあり、次の仕事がある。
事件の衝撃や心の揺れ動きも、報道の仕事の中では、過去の1日に過ぎない。
そんな、「報道とは何か?」を静かに問いかける映画でもあったと思う。
よくも悪くも淡々とした作品
封切りから1カ月近くがたつ。上映回数はかなり減ってはいるものの東京都心のシネコンではまだ上映されているのを知り、終わる前に見ておこうと思って平日昼すぎに見た。
50年以上前の事件だが、評者は当時小学生。日本国内でどれだけ注目されたか記憶はほとんどないが、そういう事件があったことは憶えている。
本来、スポーツ取材しかしない(だろう)ABCのスタッフらが、ニュース(報道)の鉄火場に巻き込まれながら、米本土の鼻を明かすように奮闘する部分はなかなかに面白かった。
評者自身も、新聞記者として「現場」取材の経験があるだけに、それなりに感情移入しながら映画を見た。
しかし、全般に描き方が淡白なのである。
緊迫した場面も、あくまで米ABCの五輪中継スタッフの調整室からの視点にほぼフィックスされているだけ。
それはそれで面白くは見ることはできた。敢えて過剰な味付けをしないようにしたのかもしれないが、見る者の感情を揺さぶるような場面もほぼない。
事件の背景を描くでなく、被害者であるイスラエル選手団関係者を描く場面は少しだけで、テロリストたちについては姿がチラチラと映るだけ。
事件を掘り下げるようなことは最初からしないスタンスの作品なのだから仕方がない。
そういう映画なので、時間があった事実の重みがスクリーンから伝わる感じもしないのだ。
出来が悪いわけではないが、どうにもスクリーンから伝わる熱量の少なさが、★2つにした理由である。
わざわざシネコンに足を運んで見に行くほどのものではない。
全189件中、1~20件目を表示