ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師のレビュー・感想・評価
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現代の日本に生かされている意味
ウエストミンスター寺院 西門「20世紀の殉教者像」に並ぶ10人の殉教者。
その1人、ディートリヒ・ボンヘッファーを描いた映画です。
いつも通り、映画館の紹介文以上の知識を頭に入れずに鑑賞しました。子供時代から始り、時間軸をあちこち移動しまくる煩わしい構成で、しかも、主人公は眼鏡をかけてたり、
かけていなかったりするので軽く混乱し、前半では、うたた寝する瞬間が多くて
弱っちまいました。
でも、後半に近づくにつれ時間軸移動も少なくなったしドラマチックな要素が
増加したので、もう睡魔に襲われることはなくなりました。
ずっと眼鏡をかけてましたしね。
でも、そのドラマチックな部分には、調べた限りでは多くのフィクションが含まれて
いたようです。ボンヘッファーが絞首刑に処された場所も寒々しい郊外の一軒家の
前ではなくフロッセンビュルク強制収容所だし、スイスにユダヤ人数人を引き渡す
劇的なシーンも、どう考えてもフィクションくさい。だからといって多くの人が
知ることがなかったボンヘッファーという人を広く世界に紹介したという意味で
この映画は価値あるものだしドキュメンタリーではなく伝記というものは本来
そういうものであっても良いのかもしれないと今は思っています。
アメリカ・ベルギー・アイルランド合作ということにはなっていますが、まあ、
良くも悪くもアメリカ映画ってことでしょうか。
わずか、39歳で亡くなったボンヘッファーなのに、そんじょそこらの宗教家
(神学者と言うべきか?)では達し得ない高みに到達した人だと私は思います。
同時に私なそ自分のブログで言いたい放題を書き殴っていますが、お咎めを受ける
わけでもなく、こうして好き放題を書ける今の日本って長い歴史の中でも広い
世界の中でも、すごく貴重な時と場所だと、心底、思います。
カナリス提督のことを想い出す。
ヒトラーと戦った比類なき聖職者、ディートリッヒ・ボンヘッファーの一生を描く。
彼が、他の牧師と違っていたことの一つは、若い頃、米国に留学した経験があり、その時、ゴスペルに触れていること。その後も、ロンドンのドイツ人教会の牧師として赴任し、世界教会会議議長と知り合うなど、幅広い視野を持つ聖職者であるが、国際性があった。
神学者として高い評価を得る一方で、牧師として周囲の支持を得てゆく過程で、ヒトラーが首相に就任し、ユダヤ人の追放を打ち出す。ドイツのプロテスタントの多くがそれに追随したが、彼は同志と共に、別派の「告白教会」を結成する。
ここまで見た時、彼には、政府内、特に国防軍の高官に強い支持者がいたに違いないと思った。ラジオ放送でナチの批判をしても逮捕されなかったのだから。
しかし、彼は、そのさらに上を目指す。ナチの内部に入り込んででも、ヒトラー体制の転覆を図ったのだ。映画では、43年3月の暗殺未遂が描かれているが、より重要であったのは、44年7月20日「ワルキューレ」として別の映画でも描かれた暗殺計画の方だろう。ただし、彼はすでに43年4月、ユダヤ人の亡命を幇助した罪により逮捕されていた。したがって、彼は暗殺計画の当事者というよりは「黒いオーケストラ」と呼ばれる反ヒトラー・グループの精神的な支柱だったのだろう。しかし、この計画に関与したことにより、終戦間際に、国防軍情報部(通称アプヴェーア)におけるバックボーンであったと思われる(逢坂剛さんの小説によく出てくる)カナリス提督と共に、罪に問われる。映画では、時間軸を行ったり来たりしながら描かれるため、こうした筋道は、必ずしも明らかではなかった。
一つの疑問は、当時のドイツを舞台にしたドイツ人中心の物語なのに、全編英語であったこと。資本は、米国、ベルギー、アイルランド。何よりも、米国人に見てもらいたいと制作者たちが考えたのだろう。おそらく、彼が英国国教会のメンバーと交渉を進める間、何度もチャーチルの名前が出てきたことからも、昔も今も世界の情報と金融を握っている英国人はユダヤ人迫害について知りながら、何もできなかったことを後悔していたに違いない。それで、英国の実効支配していたパレスチナの地に、隣国のレバノンを支配していたフランスの同意もあって、イスラエルを建国できたのだろう。ただし、その地の住民たちを追い出す形で。そういえば、映画の途中で、ウクライナのことも出てきた。ただ、あのキーウの谷で行われたユダヤ人虐殺には、ウクライナ警察が関与していて、それがプーチンのウクライナ侵攻の口実の一つとなっているのだが。
日本も他人事ではない歴史
私は牧師ですが、牧師になるための勉強ではほぼ触れるであろうボンヘッファー。映画化するのを知って、楽しみにしていました。映画としては、キリスト教的な素地がないと理解が難しいのではないかな?と思いましたが。キリスト者としてはすごく深い映画でした。一貫して、虐げられているものの側に立つことを描いているんだなと思いました。
ここで思うのが、ナチスの時代にドイツに起きていたこと。ヒトラーの神格化でドイツは戦争に国として参加しました。そして、当時日本は天皇を神格化して戦争に参加しました。ドイツにも日本にもキリスト者はいました。全く違うのは日本のキリスト者はドイツのキリスト者とは異なる対応に出たことです。それによって、日本のキリスト者は朝鮮のキリスト者を殉教にまで追いやっていますし、偶像崇拝の罪を犯しました。見ていてものすごく考えさせられます。
愚かな人間の「思い上がり」に対峙する教義
ドイツという国が向き合って来た歴史やそこと関連する文化やものの考え方にしばしば共鳴させられます。
この物語もその一つになりました。
教会を我が物にしようとした愚かな独裁者とそれを受け入れた社会に対して、神の言葉を伝える牧師が「成し得ること」を全うしようとして最後は殉教する物語ですが、教会は神のものであり、信じる人々のものであり、決して特定の人間のものにはなり得ない、牧師は、神の御言や思想を伝える者として、決してその魂を売ることはしない…という強いメッセージを感じ取りました。
最後にボンヘッファーから発せられる「地の塩、世の光」の祈りの言葉(私は中学・高校で日々唱えていました)や、彼の著作にまつわる数々の言葉がこれ程胸に迫り、涙したことは初めてでした。
牧師や神父、日本の場合だと僧侶が多いのかなと思いますが、宗教家の言葉には言霊が宿っていることも多いと感じます(間違った使われ方がされる危険とも隣り合わせですが)。
ボンヘッファーがラスト付近で処刑を待つ人々(その人々は処刑される理由など本当はないのですが)に聖体拝領をする場面は、ボンヘッファー自身の矜持や拝領を受ける人々との心の通わせ合いなどがしみじみと感じられ、人間の尊厳を深く感じ入る、まさにキリスト教教義の真髄とも思える場面でした。
この映画に関しては、自分の多感な時代のバックボーンの一つであるカトリックの教えが改めて胸に沁みた、鑑賞後そんな心持ちで劇場を後にしました。
一つだけ難点を言えば、他の方もレビューしていますが、どの時代の主人公が描かれているのかが飛び飛びで結構わかりにくいつくりなところがありました。
が、総じて良い映画でした。
宗教と政治
留学したNYでジャズやゴスペルを
肌で感じ楽しむが黒人差別にも
目の当たりにする。
自国に帰国したがナチスが台頭。
そしてナチスが書き換えた聖書なる。
酷くて非人道的。
反ナチとして弾圧されながらも
命をかけて抵抗して行く姿は勇ましい。
『悪を前にして沈黙するのは悪であり
沈黙する教会は罪である』を唱え
貫く姿勢は凄まじい。真摯な言葉だ。
宗教と政治を巻き込み、戦争になって
いく緊張感が常にあった。
戦争への狂乱は恐ろしい。
最後は神のような目と表情だった。
ラストは切ない………。
悲しい歴史
歴史は繰り返すというけれど、こんな時代は繰り返してもらいたくないな。映画『ボンフェッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』をみながら呪文のようにそんな言葉が、頭の中を駆け巡った。
日本だってあの時代のクリスチャンはどうだったのか
日本政府により、一つの団体に統合された上、メッセージや信者は監視されていた。
唯一反抗して投獄されたのは、ホーリネス教団だったはず。
ただ、日本ではあまりあの時代を検証する動きはない。
いくつかの団体は、戦争に加担したことを反省する声明をだしてはいるが。
現在でも、日本のクリスチャン人口は、せいぜい1%ぐらい。
まあ、あまり影響力はないので、話題にもならないけど。
ドイツとなるとそうもいかないですよね。
映画にあるように、ナチスは自分たちの正当性を誇示するために、聖書の書き換えもしているし。
第一次世界大戦後のハイパーインフレ
ドイツ経済は、どん底で、人々は疲弊し誰かこの窮地を打破してくれないか。
そんな空気が、蔓延していたころ、アーリア人種の優位性を全面に上げるナチスの出現。
人々は、熱狂して支持。
この人たちならなんとかしてくれるのではないか。
だから、多少都合の悪いことには、目をつぶって。
そんな空気が、伝わってきます。
どこか、現在の日本の状況にもにてるところが。
ヒトラーに標的にされたのが、ユダヤ人。
これも突然ではなくて、ヨーロッパには反ユダヤ主義が根強くあり
いまでも。
教育水準が高く、金持ちが多く、妬まれやすい。
それに、キリスト・イエスを処刑台に送ったのは、ユダヤ人。
標的にされやすいんだけど、恐ろしい時代ですね。
牧師が殺人を犯してもいいのという疑問
「汝の敵を愛せ」聖書の言葉ですが。
ボンフェファーは、相反する選択しますよね。
ただこれは、聖書解釈にふた通りあって。
文字どうり、どんな場合でも状況でも相手を許す。
もう一つは、キリスト・イエスにあってという前段がつく解釈。
となると、ナチス・ヒットラーは許容できるはずもなく。
だからといって、暗殺に加担してもいいのかという疑問が。
あとの時代なれば、あれだけの悪行が露わになると、致し方なしという解釈もなりたつのですが。
あくまでも、牧師ですからね。
かなりの葛藤が、あったはずで。
しかし、もう済んだことなので。
ただ、そんな葛藤をしなければらない時代にならないでほしいと、切に願います。
肩透かし
屋根裏の殺人鬼を快演したヨナス•ダスラーも演技に困ったのではないか。 ボンヘッファーを通じてナチス時代のドイツ宗教界の罪を描こうとしたのか、宗教者としてのボンヘッファーを描こうとしたのか、どっちつかずであった。どちらにしてもドラマに不可欠な葛藤が描かれておらず感情移入しにくいし、いたずらに時系列をいじっているため、史実さえつながらない。最大の欠陥はサブタイトルにある「ヒトラーを暗殺しようとした」ことが、ウソではないにしても本人が直接手を下しておらず肩透かしに終わっていることだ。残念な映画だった。
知られざるナチ政権下のドイツ宗教界
プロットに多少の違和感はあるものの、実在の人物と史実にそこそこ沿っているリアリティがどすんと胸に響く。
何よりも「ナチスが権力を握って行く過程でのドイツ宗教界(キリスト教)の不作為とナチへの加担」という日本ではあまり知られていない事実に震撼する。
そもそもナチスが聖書そのものを書き換えていたなんて強烈すぎる。
(イエスをアーリア人に、モーセの十戒を「十二戒律」にして「総統を愛せ」「純血を維持せよ」を付け加えていたとは)
宗教界に限らず、当時のドイツ社会ではヒトラー/ナチスに対する反感や嫌悪が当たり前のようにあったにも拘らず、徐々に人心を侵食していったプロセスが家族や宗教家たちの会話で表されていて、なかなか巧みな脚本だった。
ボンヘッファーはそんな空気の中で「教会で語られる言葉は神の言葉のみであって、人間(ヒトラー)を称賛する言葉ではない」という宗教的ド正論を曲げない。
ただし、彼自身は直接的に暗殺の実行部隊には関わっていないのだが。
ドイツ国内レジスタンスやドイツ国防軍内部での反ヒトラー活動、英国との関係なども描かれていて、情報量は多い。
ただ、一つだけ難点(というより私の感じ方なのだが)ドイツ国内のドイツ人ネイティブ同士の会話が流暢な英語、というのがどうしても引っかかる。そこは徹底的にドイツ語の会話にして、字幕にして欲しい。
英語ネイティブの人たちはそれが嫌なのかな?
殉教者の人生ダイジェスト
ロンドン・ウェストミンスター寺院の「20世紀の10人の殉教者」のレリーフになっているボンヘッファー牧師。
ナチス統治下のドイツで、彼の反ナチス・反ヒトラー活動がどのようなものだったのかを、ダイジェストドラマ的にまとめていました。
第一世界大戦で亡くなった兄の形見の聖書を受け取ったのがきっかけで牧師になる道を選んだり、黒人の牧師仲間がアメリカで白人からの仕打ち受けるのを見て人種差別への反発を覚えるようになったり、細かいエピソードを積み上げ、人物像を浮かび上がらせる作り。
ボンヘッファーは、キリストの再来みたいな、我が身より信仰をという姿勢を貫く殉教者キャラとして描かれる。
正直、キリスト教徒ならぬ我が身には共感できないものの、神のもとでの平等の意味と、ナチスの「ヒトラーが神と同じか神より上の存在」とする考えの下で聖書を改竄する様がいかに酷いかは、理解できた。
歴史や考え方などを学ぶという点では良い作品ですが、芸術や娯楽という面での、映画としての出来は微妙かな。
彼と、彼の友人であるニーメラー牧師など、反ナチス活動を行った聖職者たちの名言集みたいな側面もあり、私程度でも知る言葉が次々と出てきましたよ。
「悪に直面して黙ること自体が、悪である」(ボンヘッファー)
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者ではなかったからだ。
ナチスが社会⺠主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。
私は社会⺠主主義者ではなかったからだ。
ナチスが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人がとなり、私はそのたびに不安になったが、やはり何もしなかった。
そして、ナチスが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」(ニーメラー)
真髄
ボンヘッファーの事前知識は、神学者でありながらヒトラー暗殺未遂事件に加担した人やったかな?というくらいの浅い知識。
ヒトラーは邪悪な存在であろう。ただ、戦争中ユダヤ人を殺害した人々は?なにも行動を起こさずじっとしていた人々は?ボンヘッファーは「悪の前の沈黙はそれも悪。行動しないこともまた行動であり、悪である」と訴えた。
兄の葬式後に、僕のピアノなんて誰も聞いていないと母に訴えたボンヘッファー。時は流れ自国が危機的な状況に瀕し自らの大切にしている教会までが侵されようとしている。国、教会を守ろうとするその過程が淡々と描かれている。
ドキュメンタリーのようであるが、説教だけでは限界があると察するボンヘッファーの苦悩が伝わってくる。戦争で兄を亡くしたこと、アメリカに留学し差別を目の当たりにしたこと…それらの出来事がこのままではいけないという信念につながったのかもしれない。あの幼き日の誰も演奏を聴いていない状況から、ボンヘッファーの当時の言葉が今もなお語り継がれるのは多くの人々が共感し、勇気をもらい救われたからなのかなと。
処刑されることは知っていたため、祈るような気持ちで見ており途中からとても感情移入してしまい涙が溢れた。アメリに残れば命は助かった。やけど、自分の何かが死んでしまうと思ったんやろうなあと。
この時代のドイツが題材となる映画は数多くある。関心領域、小さな独裁者…個人的には悪意に無関心の人々、はたまた見ないようにしようとする人が描かれた作品を観ることがおおかったが、この人のように命懸けで国と戦った人もいることを忘れてはいけない。
「これが最期です。私にとっては生命のはじまりです」
【”悪の前の沈黙は悪である。”今作は実在のドイツ人牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーがナチス思想に抗い、暗殺を企てるも終戦直前に殉教する様と、彼が後世に与えた影響の大きさを明示した作品なのである。】
ー 敢えて冒頭に記すが、今作は多数の人物が次々に登場し、物語も時系列を行き来しながらが展開していくので、可なり脳内フル回転で鑑賞する。
少し、脚本が粗い気がしないでもないが、主人公が実在のドイツ人牧師であり、ナチス崩壊の最後の最後まで抵抗を止めずに、ドイツの教会を想うが故に殉教する様や、彼が遺した多くの著作が、第二次世界大戦後にキリスト教会に大きな影響を与えた事を鑑み、その人物像を描いた作品として、評点を4にした次第である。
そして、彼が絞首刑に処せられたシーンが、笑顔を浮かべ神の下に旅立つがごとく描かれていたが故に、嗚咽が漏れた所為もある事も付け加える。ー
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・物語は、ディートリヒ・ボンヘッファー(ヨナス。ダラー)が第一次世界大戦で戦死した兄の形見である聖書に影響を受け、牧師になるシーンから始まる。
若き彼が神学生だった時代のアメリカで黒人の親友が居り、当時の黒人への偏見にめげずにその友を同じ宿に泊めようとしたり、ジャズに薫陶を得ていく様が、後年の彼の思想の背景になっている事を示唆する序盤の展開が良い。
・時代は、極悪レイシストであるヒトラー台頭によりドイツ国内で勢力を増すナチスへ忖度する教会内部の動きに敏感に反応し、仲間を作り、教会での説話の際に多くの親衛隊が着席する中で”教会は聖域であり、権力の場ではない!”と決然と言いきる姿は、可なり沁みる。
・だが、ナチスの弾圧は激しく彼はスパイとなり英国に渡り、非合法活動を牽引せざるを得なくなっていくのである。
冒頭に書いたように、”この辺りの描き方をもう少し、整理してくれたらなあ。”と思いつつも、彼がユダヤ人たち7名を10万マルク支払いながら、中立国スイスに逃がすシーンなどは、初めて知った事であり、興味深く鑑賞したのである。
■ラストシーンも、上記に記したように哀しいが、ボンヘッファーが笑顔で絞首台に上がる様が神々しく、可なり沁みてしまったのである。
そして、エンドロールで流れる、彼が遺した多くの著作がその後のキリスト教会に多大なる影響を与えた事を語るテロップを読み、感慨深く感じたのである。
<今作は実在のドイツ人牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーがナチス思想に抗い、暗殺を企てるも終戦直前に殉教する様と、彼が後世に与えた影響の大きさを明示した作品なのである。>
沈黙は悪
予告動画を見て興味を惹かれたので観てみました。
近現代史をちゃんと勉強してないのでボンヘッファーは知りませんでした。
ナチスドイツ全盛の時期にも国内にちゃんと抵抗勢力がいたことが知れたことだけでも良かったなと思います。
ドイツ軍が攻勢を強め国民が熱狂する中で、当時は情報統制もされていたでしょうからドイツ国民の中にはユダヤ人を集団虐殺していたことすら知らない者も多かったのでは。
そんな中でナチスに反旗を翻すのは並み大抵のことではないと思われます。
最後は終戦の数週前に処刑されるという悲しい結末ですがこれもひとつの運命かと。
作品自体に難を言わせてもらえばドイツ、アメリカ、イギリスとターンが切り替わっていくのは良いとして時系列も変わったりするので頭の理解が追いつかないところがあることかな。(一回見ただけでは)
ボンヘッファーとルイ・アームストロング?
ボンヘッファーの名前は知ってたけれどヒトラー暗殺作戦に協力して処刑されたことは知らなくて、この映画を観て当時のドイツのキリスト教会のことが分かって興味深かった。ボンヘッファーの深い信仰に基づいた自由な精神の在り方が描かれていたのも良かった。その一端でボンヘッファーがピアノを弾いてルイ・アームストロングと共演したりして驚いた。ルイ・アームストロングが出入りしていたお店に行ったのは事実のようで、2人に接触があったという記録はないけれどルイ・アームストロングの音楽に繋がる精神性に感化されて背負うべき十字架を自覚した可能性は十分にあるので、ルイ・アームストロングの歌が好きな私には感慨深いものがあった。
讃美歌「善き力にわれ囲まれ」の作詞者
奥さんがクリスチャンで「ぜひ見るべき」と言っていたので、封切日に鑑賞。
兄が第一次世界大戦で戦死した際に、母親に「自分が死んだら私の聖書を弟に渡して欲しい」と託された聖書をもとに、ピアノなど各方面に才能があったが、優秀な神学生となったボンヘッファーはアメリカのユニオン神学校に留学し、当時流行っていたジャズに触れ(ルイアームストロングともセッション(?))、自由な風を感じると共に、当時の黒人差別も肌に感じ、米国での経験を持ってドイツに帰る。
そこで牧師として新しい教会を始めようとするが、当時ナチスが台頭してきており、ヒトラーを救世主とする「帝国教会」が幅をきかせてきており「これはおかしい」と強く感じたボンヘッファーはイギリスのベル司教の後ろ盾を得て「告白教会」を創る。しかし帝国教会の勢いは激しく、覚悟を決め、ヒトラー暗殺計画に加担する。
そして暗殺寸前と思った時、ヒトラーは急にその場を離れ、暗殺は失敗する。
密かにアメリカのユニオン神学校やイギリスの恩師ベル司教を訪ねて、結局「自分は母国ドイツに戻り仲間といることが大事」と結論を出しドイツに戻るが、それは逮捕されることだった。
逮捕され、死刑実行の約1ヶ月前に当時の婚約者に書いた言葉が、現在讃美歌になっている「善き力にわれ囲まれ」の歌詞になっているらしい。改めて歌詞を今みると、当時の気持ちを実感して更に感慨深い。
絞首台に向かう際、ボンヘッファーは「これは私の終わりではない。命の始まりだ。」と言う。そして兄から託された聖書を「母親に渡して欲しい」と言い残して絶命する。結局ナチスはその数週間後に崩壊し、ボンヘッファーの言葉通りに、新しい時代が始まった。
このような人々の犠牲の上に今があるということを胸に刻んでおきたい。
「異邦人」で有名になった久保田早紀さん(現在は本名の久米小百合さん)が、10年くらい前に、「善き力にわれ囲まれ」を歌ってくださり素晴らしい讃美歌と思っていたが、今度来年5月に久米小百合さんの少人数ツアーに参加し歌ってくれることになっているので、映画を観たあとでまた聴けることを期待しています。
ちなみに「久米 善き力」で検索すれば、今聴けます。
2度目はより感動
ナチスに支配された国家で、真実の信仰、人間の尊厳を取り戻すために恐れず声を上げた人物、ボン・ヘッファー。
本来の聖書に神の言葉以外のものを織り交ぜ、神以外を崇拝させようとする「真実をねじ曲げた悪」に対抗するには、この時代、牧師としては暗殺しか方法がなかったのではないか。
「暴走する車にひかれた者を介抱するだけでなく、車そのものを止める事が牧師の役目」
あらゆる場面でヘッファーが苦悩するシーン、そして決断するシーンに心打たれた。
ボン・ヘッファーの言動や行動に心変えられ、悔い改めて神に立ち返ったニーメラー牧師や、フェッファーの獄中での祈りに心動かされ、回心した看守など、脇役にも注目してほしい。
死刑の前の聖餐式シーンは胸を打つ。
死を覚悟したフェッファーが残した言葉と聖書のみことばが熱く迫ってくる。
クリスチャンもそうでない人も、絶対見るべき映画であると強く思う。
信仰、信念があっても行動が伴っていないものは信仰、信念ではない
今までヒトラーを暗殺しようとした牧師がいたことは知りませんでした。
アメリカのハーレムでの学びとそこにいる人々との関わりを通して、神様をさらに知り、味わおうとしたり、人種差別の闇を知り、実際に体験したりしたことが、ボンフェッファーの後に影響を与えたとわかりました。
悪に対して許せない気持ちがあっても、自分はその張本人ではなく、不利益を被っていないから知らんぷりをするということが私には多々あります。「信仰、信念があっても行動が伴っていないものは信仰、信念ではない」
という気づきからボンフェッファーが正しい真実を恐れずに語ったり、
亡命先のアメリカから1か月足らずで祖国に戻って闘うことを選んだりする姿勢に、「あなたならどうする?」と問いかけられているような感覚を覚えました。最後は悲しい結末ですが、自分の使命を果たすために、そこに対してまっすぐに向かっていく姿が、最後のまなざしが心に残っています。
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