ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師のレビュー・感想・評価
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キリスト者として
クリスチャンとして見ました。神への信仰を第一とし、ユダヤ人を助けた牧師 ボンフェッファーのことはこの映画で初めて知りました。聖書に ユダヤ人を呪うもには呪われ、ユダヤ人を祝福するものは祝福される、とありますが、映画の中でも アブラハム、イサク、ヤコブの神よ と祈るシーンは印象的でした。恐怖政治に怯えて権力におもねってしまう当時の教会の有り様もまた戦争中に政府公認のキリスト教団におもねった日本の教会とオーバーラップします。地上での最後は絞首台の露と消えるボンフェッファーですが、天では主の慰め癒しそして祝福が大いに注がれていることはクリスチャンなら充分に理解できることです。まさにキリストに倣うものとして人生でした。途中、画面がくらいのと、難解なシーンもあり幾度か気を失いました。
まさに不屈の闘志
カナリス提督のことを想い出す。
ヒトラーと戦った比類なき聖職者、ディートリッヒ・ボンヘッファーの一生を描く。
彼が、他の牧師と違っていたことの一つは、若い頃、米国に留学した経験があり、その時、ゴスペルに触れていること。その後も、ロンドンのドイツ人教会の牧師として赴任し、世界教会会議議長と知り合うなど、幅広い視野を持つ聖職者であるが、国際性があった。
神学者として高い評価を得る一方で、牧師として周囲の支持を得てゆく過程で、ヒトラーが首相に就任し、ユダヤ人の追放を打ち出す。ドイツのプロテスタントの多くがそれに追随したが、彼は同志と共に、別派の「告白教会」を結成する。
ここまで見た時、彼には、政府内、特に国防軍の高官に強い支持者がいたに違いないと思った。ラジオ放送でナチの批判をしても逮捕されなかったのだから。
しかし、彼は、そのさらに上を目指す。ナチの内部に入り込んででも、ヒトラー体制の転覆を図ったのだ。映画では、43年3月の暗殺未遂が描かれているが、より重要であったのは、44年7月20日「ワルキューレ」として別の映画でも描かれた暗殺計画の方だろう。ただし、彼はすでに43年4月、ユダヤ人の亡命を幇助した罪により逮捕されていた。したがって、彼は暗殺計画の当事者というよりは「黒いオーケストラ」と呼ばれる反ヒトラー・グループの精神的な支柱だったのだろう。しかし、この計画に関与したことにより、終戦間際に、国防軍情報部(通称アプヴェーア)におけるバックボーンであったと思われる(逢坂剛さんの小説によく出てくる)カナリス提督と共に、罪に問われる。映画では、時間軸を行ったり来たりしながら描かれるため、こうした筋道は、必ずしも明らかではなかった。
一つの疑問は、当時のドイツを舞台にしたドイツ人中心の物語なのに、全編英語であったこと。資本は、米国、ベルギー、アイルランド。何よりも、米国人に見てもらいたいと制作者たちが考えたのだろう。おそらく、彼が英国国教会のメンバーと交渉を進める間、何度もチャーチルの名前が出てきたことからも、昔も今も世界の情報と金融を握っている英国人はユダヤ人迫害について知りながら、何もできなかったことを後悔していたに違いない。それで、英国の実効支配していたパレスチナの地に、隣国のレバノンを支配していたフランスの同意もあって、イスラエルを建国できたのだろう。ただし、その地の住民たちを追い出す形で。そういえば、映画の途中で、ウクライナのことも出てきた。ただ、あのキーウの谷で行われたユダヤ人虐殺には、ウクライナ警察が関与していて、それがプーチンのウクライナ侵攻の口実の一つとなっているのだが。
信仰のために行動をもって立ち上がった人
この映画の公開を長く待ちわびていましたから、非常に楽しみにして観に行きました。
ボンヘッファーの物語は、「軽く理解して流す」なんてとてもできない、心の深いところを揺さぶる重さがあります。
歴史も文化も日本と全然違うし、キリスト教文化が深く根付いたヨーロッパの物語は、どうしても理解しづらい部分も多い。映画なので、史実と違う部分も多分にあると思いますが、いろんな意味で距離があるのにそれでも心に響くのは、彼が「信仰のために行動をもって立ち向かった人」であるからだと思います。
もし今、戦争や迫害があったら?
自分ならどうするのか?
・・・考えさせられます。
ボンヘッファーはまさに「行動する神学」を生きた人ですね。
この映画は万人向けではないし、レビューも高くはならないでしょう。でも、「理解される人数は少なくても、深く届く人がいる」そのような作品なのでしょうね。私にも心の深いところに希望の灯がともりました。楽しみにして観に行けて、とても感謝です。
この作品の制作はもとより、日本上映のために力を注いでくださったすべての方に感謝しています。
彼の書いた詩でできた賛美歌「善き力にわれ囲まれ 来るべき朝を待とう」の歌詞のとおり、やがて御国に入る朝が来たときには、会ってみたい人物のひとりになりました。楽しみにしておきます。
生き様
クリスチャン映画ですね
どこまでも神を信じて教義に突き進む彼の姿は殉教者ですね
ストーリー展開のためなのか「まだホロコーストは起きてないのでは?」「チャーチルはもう首相だっけ?」とかちょっと史実と食い違うような気がします。
クリスチャンの方はきっと楽しめると思いますが僕は違うのですいませんでした。
彼の取った行動は正しかったのだろうか
あんな方法で暗殺出来るわけない
第2次世界大戦下のドイツで、牧師でありながらスパイ活動に身を投じた実在の人物ディートリヒ・ボンヘッファーを描いた伝記。
ナチスが台頭してきたドイツでは、独裁者ヒトラーを神のように崇拝する聖職者たちにより教会が支配されていた。この状況に危機感を抱いた牧師のボンヘッファーは、教会は聖域であり、権力の場ではない、と反発し、ヒトラーを全人類の脅威と見なした。ドイツ教会を守るべく国内外の協力を求め、スパイとなった彼は、ナチス政権を崩壊させるため、ヒトラー暗殺計画、に加担したが・・・そんな話。
教会の牧師が主人公だから、キリスト教に詳しくないと深くは楽しめない感じがした。
殺されるとわかっていてベルリンに戻ったのは、命よりも大切な事が有る、からなのだろうが、生きていてこそ、という面もあると思うのだが。
それと、あんな簡単な方法でヒットラーの暗殺なんか出来るわけない。もう少し入念に練った作戦かと思ったら、拍子抜けだった。
日本も他人事ではない歴史
私は牧師ですが、牧師になるための勉強ではほぼ触れるであろうボンヘッファー。映画化するのを知って、楽しみにしていました。映画としては、キリスト教的な素地がないと理解が難しいのではないかな?と思いましたが。キリスト者としてはすごく深い映画でした。一貫して、虐げられているものの側に立つことを描いているんだなと思いました。
ここで思うのが、ナチスの時代にドイツに起きていたこと。ヒトラーの神格化でドイツは戦争に国として参加しました。そして、当時日本は天皇を神格化して戦争に参加しました。ドイツにも日本にもキリスト者はいました。全く違うのは日本のキリスト者はドイツのキリスト者とは異なる対応に出たことです。それによって、日本のキリスト者は朝鮮のキリスト者を殉教にまで追いやっていますし、偶像崇拝の罪を犯しました。見ていてものすごく考えさせられます。
憎悪に人種は問わない…
愚かな人間の「思い上がり」に対峙する教義
ドイツという国が向き合って来た歴史やそこと関連する文化やものの考え方にしばしば共鳴させられます。
この物語もその一つになりました。
教会を我が物にしようとした愚かな独裁者とそれを受け入れた社会に対して、神の言葉を伝える牧師が「成し得ること」を全うしようとして最後は殉教する物語ですが、教会は神のものであり、信じる人々のものであり、決して特定の人間のものにはなり得ない、牧師は、神の御言や思想を伝える者として、決してその魂を売ることはしない…という強いメッセージを感じ取りました。
最後にボンヘッファーから発せられる「地の塩、世の光」の祈りの言葉(私は中学・高校で日々唱えていました)や、彼の著作にまつわる数々の言葉がこれ程胸に迫り、涙したことは初めてでした。
牧師や神父、日本の場合だと僧侶が多いのかなと思いますが、宗教家の言葉には言霊が宿っていることも多いと感じます(間違った使われ方がされる危険とも隣り合わせですが)。
ボンヘッファーがラスト付近で処刑を待つ人々(その人々は処刑される理由など本当はないのですが)に聖体拝領をする場面は、ボンヘッファー自身の矜持や拝領を受ける人々との心の通わせ合いなどがしみじみと感じられ、人間の尊厳を深く感じ入る、まさにキリスト教教義の真髄とも思える場面でした。
この映画に関しては、自分の多感な時代のバックボーンの一つであるカトリックの教えが改めて胸に沁みた、鑑賞後そんな心持ちで劇場を後にしました。
一つだけ難点を言えば、他の方もレビューしていますが、どの時代の主人公が描かれているのかが飛び飛びで結構わかりにくいつくりなところがありました。
が、総じて良い映画でした。
ヒトラーに屈しなかった牧師
観なければよかった
エピソードがバラバラで理解しにくい
宗教と政治
留学したNYでジャズやゴスペルを
肌で感じ楽しむが黒人差別にも
目の当たりにする。
自国に帰国したがナチスが台頭。
そしてナチスが書き換えた聖書なる。
酷くて非人道的。
反ナチとして弾圧されながらも
命をかけて抵抗して行く姿は勇ましい。
『悪を前にして沈黙するのは悪であり
沈黙する教会は罪である』を唱え
貫く姿勢は凄まじい。真摯な言葉だ。
宗教と政治を巻き込み、戦争になって
いく緊張感が常にあった。
戦争への狂乱は恐ろしい。
最後は神のような目と表情だった。
ラストは切ない………。
悲しい歴史
歴史は繰り返すというけれど、こんな時代は繰り返してもらいたくないな。映画『ボンフェッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』をみながら呪文のようにそんな言葉が、頭の中を駆け巡った。
日本だってあの時代のクリスチャンはどうだったのか
日本政府により、一つの団体に統合された上、メッセージや信者は監視されていた。
唯一反抗して投獄されたのは、ホーリネス教団だったはず。
ただ、日本ではあまりあの時代を検証する動きはない。
いくつかの団体は、戦争に加担したことを反省する声明をだしてはいるが。
現在でも、日本のクリスチャン人口は、せいぜい1%ぐらい。
まあ、あまり影響力はないので、話題にもならないけど。
ドイツとなるとそうもいかないですよね。
映画にあるように、ナチスは自分たちの正当性を誇示するために、聖書の書き換えもしているし。
第一次世界大戦後のハイパーインフレ
ドイツ経済は、どん底で、人々は疲弊し誰かこの窮地を打破してくれないか。
そんな空気が、蔓延していたころ、アーリア人種の優位性を全面に上げるナチスの出現。
人々は、熱狂して支持。
この人たちならなんとかしてくれるのではないか。
だから、多少都合の悪いことには、目をつぶって。
そんな空気が、伝わってきます。
どこか、現在の日本の状況にもにてるところが。
ヒトラーに標的にされたのが、ユダヤ人。
これも突然ではなくて、ヨーロッパには反ユダヤ主義が根強くあり
いまでも。
教育水準が高く、金持ちが多く、妬まれやすい。
それに、キリスト・イエスを処刑台に送ったのは、ユダヤ人。
標的にされやすいんだけど、恐ろしい時代ですね。
牧師が殺人を犯してもいいのという疑問
「汝の敵を愛せ」聖書の言葉ですが。
ボンフェファーは、相反する選択しますよね。
ただこれは、聖書解釈にふた通りあって。
文字どうり、どんな場合でも状況でも相手を許す。
もう一つは、キリスト・イエスにあってという前段がつく解釈。
となると、ナチス・ヒットラーは許容できるはずもなく。
だからといって、暗殺に加担してもいいのかという疑問が。
あとの時代なれば、あれだけの悪行が露わになると、致し方なしという解釈もなりたつのですが。
あくまでも、牧師ですからね。
かなりの葛藤が、あったはずで。
しかし、もう済んだことなので。
ただ、そんな葛藤をしなければらない時代にならないでほしいと、切に願います。
肩透かし
屋根裏の殺人鬼を快演したヨナス•ダスラーも演技に困ったのではないか。 ボンヘッファーを通じてナチス時代のドイツ宗教界の罪を描こうとしたのか、宗教者としてのボンヘッファーを描こうとしたのか、どっちつかずであった。どちらにしてもドラマに不可欠な葛藤が描かれておらず感情移入しにくいし、いたずらに時系列をいじっているため、史実さえつながらない。最大の欠陥はサブタイトルにある「ヒトラーを暗殺しようとした」ことが、ウソではないにしても本人が直接手を下しておらず肩透かしに終わっていることだ。残念な映画だった。
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