ユニバーサル・ランゲージのレビュー・感想・評価
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なぜか思い出した『友だちのうちはどこ』
フランス語とペルシャ語が公用語のカナダの田舎町で、七面鳥に眼鏡を奪われた級友の為に奮闘する姉妹のお話。と言うすっとぼけた設定のままのお話です。特別大きな事件が起きる訳でもないのですが、きっちり組まれたカメラアングルの中で淡々と進むお話が妙に心地よいのです。僕はなぜか、キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ』を思い出しました。
メガネが見つかる頃には、ご縁が見えてくる不思議ー
轟音が行き交う高速道路とその隙間の墓地や時が止まったかのような地元カフェとの対比、無機質な建物が入り組んだ凍える吹雪の街と華やかなペルシャ家具に囲まれ家族が団欒するThe幸せな家庭との対比で、観てる方まで心身ともに体感温度が変わる。
小さな都市の群像劇であり、はじめは場所も人も何だかわけがわからないが、段々線が繋がってきて、最後には一つの円になる。川が合流するウィニペグ湖のように、、、
人それぞれ、話す言語はその人の経験や歴史、居を構えた地域などを表すが、垣根を越えて繋がれるたった1つだけのユニバーサル・ランゲージとは、思いやり、なんて安っぽい複雑なものじゃなくて、我々は結局どこかで一つに繋がっているのだというシンプルな認識なのかもしれない。
そうしたニュートラルなスタンスが、いつでも誰かの涙に差し出せる全開きティッシュのような、脱力した最も強い優しさを生むのである。
人を飽きさせるくだらない大切なものツアー、地元でやってみようかなー笑
―そしてまた誰かと誰かを繋ぐかもしれないピンクのお金を、そっと凍らせる
ウェス・アンダーソンを彷彿とさせるつくりあがり
冒頭の構図から、ウェス・アンダーソン作品!?と見紛うばかりであった。
というわけで、引き込まれたわけだが、
学校の先生の物言いはどうよ!?ちょっとガナリすぎじゃない?と感じ辟易してしまった。
ペルシャ語とフランス語が公用語の架空のカナダが舞台なのだが、
街なんかもウェス・アンダーソンっぽくて、本当に現実離れしたファンタジー世界が
そこにあった。
人に優しくするというのがテーマの映画であり、
人と人との関わりあいが見どころとはなっているが、集中力を欠かさず最後まで見ることは
私にはできなかった。そう、ウトウトしてしまった💤
とはいえ、冒頭のくだりとラストがつながっていくあたりは、観ていてとても気持ち良い。
鑑賞後感も良い作品だ。
異国を旅するような鑑賞体験やった。 2024制作とは思えないような...
なんか、変なの
予告編でウェス・アンダーソンっぽいなぁと思っていたら、レビューでもウェス・アンダーソンの名前がチラホラ。そしてどんどん下がる星の点数。
実際観たら、横からの引きの撮り方や余白の使い方、個性的で変な登場人物がやっぱり、ぽい。
なのに、なんだか絶妙に面白くない。
つまらないワケではない、面白くしようとしてずっとスベッてる感じ。
決して嫌いではない。
姉妹が同級生のメガネを買おうとする話だと思ってたのに、どんどん変な方向に。
ちょっと失敗したなと諦めていたら、あらあら最後で巻き返してきた。
繋がっているって、そういう事なのね。
あのヒゲの白人おじさんが監督さんなのね。
オチはけっこう好き。
『アハーン』から続けて観たから、余計に落差で面白く感じなかったのかもしれないから、また観たら違うかも。
凄く面白くはないが、じわじわくる。
ユニークな世界観、光るユーモアのセンス、心暖まるテーマ…… でも それほど面白くもない不可思議な映画
カナダ マニトバ州の州都ウィニペグ市は人口約80万、約130kmほど南下するとアメリカ合衆国との国境にぶち当たります。マニトバ州が境を接している米国側の州はミネソタ州とノースダコタ州、東から大ざっぱに東部、中部、西部と分けるとウィニペグはカナダ中部の中心都市という感じです。ですが、この映画のウィニペグはファンタジーの中にいて、もしもの世界のウィニペグです。ここでは公用語がペルシャ語とフランス語になっていて、ほとんどの住民はペルシャ語ネイティブみたいで、物語はペルシャ語での会話を中心として、ときにフランス語が混じるといった感じで進んでゆきます。
日本映画で同様の企画があって、もしもの世界で日常会話が例えばポルトガル語で行なわれてる街を作るとしたら、場所はどこにするでしょうか。私は北海道のいくつかの街を思い浮かべてみましたが、結局、日本では難しいかもしれないな、と断念しました。同様にアジア、ヨーロッパでも難しそうです。比較的若い国で移民を受け入れてきた歴史があり、文化の多様化にも寛容である…… そういった意味で、この映画はカナダならではのお話なのかもしれません。カナダ国内にはまわりは全部 英語を話しているのに頑なにフランス語にこだわり、ときには独立に関する住民投票を実施したりもするケベック州という存在もあり、言語に対する意識もそれなりに高いでしょうし。
さて、この作品、上記の設定の件も含めてかなりユニークな世界観を持っています。絵作りに関しても、ロングショットを多用し、街の建物の幾何学的な美しさを際立たせる、ベージュを基調とした色使いでパステル調といったあたりの特徴を持ち、画面の美しさには徹底的にこだわっている感じがします。ツアーガイドが街に来た観光客にもはや廃墟とも呼べるような 閑古鳥が鳴いてる感じのショッピングモールを見せて回るというユーモアのセンスもなかなかのものです。また、タイトルにあるユニバーサル•ランゲージというのが、まあ、そういうことなんだろうな、というところに落ち着くストーリー•ラインも悪くない……
ということで、ユニークな世界観やユーモアのセンス、心暖まるテーマのもとで展開するストーリー•ラインといい映画の要素が揃っているような感じなのですが、実はそれほど楽しめませんでした。ユニークな世界観が諸刃の剣でなじめないうちに物語が終わってしまったという感じでしょうか。
ラストシーンの彼はいわゆる「恩送り」をしてたんでしょうかねぇ……
至るところからウェス・アンダーソン作品臭が漂ってました。
至るところからウェス・アンダーソンの作品みたいな臭いを感じました。
本作の監督は好きなのかな。
架空の街を舞台にした群像劇。
様々な物語が個々に描かれていき最後に集約された時、何とも言えない感情が心の中を駆け回りました。
「悲しい」とか「寂しい」とか「虚しい」といった単純な感情ではなく、その先の複雑な思いが凍った洗濯物と一緒に強く心に残りました。
映像にはとことん気を使っている作品。
横移動する登場人物を遠くから捉えた映像が多く、まるで紙芝居を観ているかのような錯覚さえ味わいました。
そんな中、子供が登場し、大人と会話するシーンでカメラが子供の目線にまで下がり敢えて大人の顔を映していない映像が強く印象に残りました。
まるでスピルバーグが「E.T.」で披露したシーンのようで、顔の分からない大人が矢鱈と怖く感じました。
物語が一本の線に集約される終盤で大人の顔を映さなかった理由が明らかになり、「成程ね」と膝を打ってしまいましたが怖さは残りました。
あの目線で生きている子供からしたら大人は怖い存在なんだろうなとつくづく感じてしまいました。
クスっと笑えシークエンスもあり、ラストにはほっこりした余韻に浸れる作品。
もう一度、観てみたいという気持ちにさせてくれる作品でした。
なんか群像劇みたいだけど
Position
ポスターからウェス・アンダーソン風味を感じて楽しみにしていたんですが…あらら…思ってたものとは違うし序盤から突き放されるのでなんだかなぁって感じです。
シュールというには漂う空気がどんよりしており、笑いのツボの違いはなんだか中華味も感じてしまいました。
序盤いきなりだらしないという事で先生が生徒に説教をする話から始まるんですが、意図的だとは思うんですがうっすい説教で頭がボヤボヤしました。
元々人の怒鳴り声を延々聞かされる作品ってのは苦手なんですが、奇天烈な格好で尚且つダラダラした説教の上に説得力のない展開が冒頭続くのでヤバいかも…となりました。
ツアーガイドの話も不思議な場所を巡るといったシンプルな内容なんですけれど、これまた謎すぎる世界観かつ何を見せられてるんだという映像の往復ビンタでますます置いていかれました。
男同士の入れ替わりの話もだからどうしたと言った感じの話で、何か繋がるのかなーと思いましたが、別にそんな事もなくヌルっと終わっていくのでやっぱり首を傾げざるを得なかったです。
よくよく考えたら自分は中々の鎖国主義で、日本に来たんなら日本語を喋りなはれ、喋れないなりに努力しなはれと思う堅物なので、そこまで他の国の言語に興味がないのもあり、今作の言語の違いも正直分からずだったので、根本からテーマと合ってなかったじゃんと自分を戒める結果になりました。
ウェス・アンダーソンを味わうならザザコルダまで待つべきだったなと軽く後悔。
やはり雰囲気×シュールの組み合わせは難しい。
鑑賞日 9/3
鑑賞時間 18:45〜20:15
難解、実験映画。お金ではなく価値のあるもの
Idiolect
アート系の香りを感じつつも、可愛らしくユーモアのある話かもと期待したが…
正直、何がしたいのか分からなかった。
メガネを紛失したクラスメイトのために姉妹が奮闘するというのはいい。
しかし、ここからというところで別の男の話になる。
観光ガイドの様子なども含め、どう関連するのかも分からない映像が延々と続いて退屈。
姉妹に話し掛けてきた男や観光ガイドがマスードだと気付いたのも大分後になってから。
(何故か引きでしか映してくれないんだもん)
途中で3回くらいBGMだけの断片的なカットの羅列があった。
マシューが映ってるものですら眠くなったが、景色やスケーターの場面は苦痛でしかない。
移動を真横から捉えるカットもしつこい。
カーリングする生徒や号泣する男など、本筋と関係ない描写の主張も強過ぎる。
終盤やっと登場人物たちが繫がるが、逆に先生など大半のキャラの意味の薄さを察してしまう。
そしてマシューとマスードの外見の入れ替わり?同一化?もあまり意義を感じず。
そもそもペルシャ語とフランス語が公用語になってるとか、ウィニペグが舞台とかの意図も不明。
異世界にまですると違うのは分かるが、架空の町ではいけなかったのか。
少なくとも自分には何も汲み取れず…
タイトルとは裏腹に、特定の人にしか伝わらなさそうな、まったく開かれてない作品でした。
親切さというものは対象者に向けた一本の矢であり、それを知らない人にとっては凶器にも見えてしまう
2025.9.1 字幕 アップリンク京都
2024年のカナダ映画(89分、G)
英語の代わりにペルシャ語が公用語となったカナダ・ウィニペグに住む人々を描いたヒューマンコメディ
監督はマシュー・ランキン
脚本はマシュー・ランキン&ピロウズ・イーラ・フィルザバディ
原題は『Universal Laungage』で「世界共通言語」という意味
物語の舞台は、カナダのケベック州とマニトバ州
ケベック州に住んでいるマシュー(マシュー・ランキン)は、離れて暮らす母()の元を訪れるためにバスに乗って生まれ故郷のマニトバ州ウィニペグへと向かった
どうやらマスード(ピロウズ・ネマティ)という男と一緒に住んでいるようだったが、そのいきさつは不明のままだった
とりあえず父の墓参りと生家に向かうことになったマシューは、そこに住んでいるダラ(ダラ・マジマバディ)に逢って話を聞くことになった
一方その頃、ウィニペグの小学校では、担任のビロド(マニ・ソレイマンルー)が生徒たちを叱りつけていた
休みが明けても成長しない生徒たちを怒っていたのだが、そこにオミッド(ソブハン・ジャヴァディ)が遅刻してきてしまう
先生は理由を聞くものの、オミッドは「駐車場で七面鳥にメガネを奪われた」と言い、先生は作り話だと思って、「メガネが出てくるまで授業はしない」と怒ってしまった
その後、オミッドを心配するクラスメイトのネギン(ロジーナ・エスマイリ)は、彼の言う駐車場へと向かった
だがメガネは見当たらず、そこで氷の中に閉じ込められていたお札を見つけてしまう
ネギンは姉のナズゴル(サバ・ヴァヘドユセフィ)に助けを求めるものの、そこにお金を狙う不審者がやってくるのである
物語は、マシューが母を探す旅と、ネギンとナズゴルがお金を得るために道具を探す様子が同時並行していく
その関係性が最後に明かされることになるという構成で、この狭すぎる人間関係の妙を楽しめるかどうかによって評価が分かれるのだと思う
お金を盗んだ男はマシューの母を保護していたマスードであり、彼はオミッドの父親でもあった
またマスードの妻は涙を集めている女性サハル(サハル・モフィディ)だったりする
マシューの生家に住んでいたダラは訪ねてきたマシューを快く受け入れ、そして彼の身を案じて抱擁をする
このシーンが海外版のポスターに使われていた
映画には、数多くのキャラが登場し、ネギンたちが氷を割る道具を探す過程で、花屋でマシューと出会っていたりする
その花はマシューの父の墓前に飾られることになるし、墓地に来ていたのがサハルだったりするし、ビンゴゲームの会場でも出会っていたりする
かなり狭い範囲で何度も交わっているのだが、肝心なことは最後までわからない
マスードは貧困にあえいでいて、息子のためにメガネを買ったものの、七面鳥に奪われてしまった
その七面鳥は七面鳥屋のハーフェズ(バフラム・ナバティアン)の弟アブデル(ムハンマド・サラビ)の入賞した自慢の七面鳥だったのだが、アブデルとマシューはカフェで同じ場所にいたりする
このカフェにはサハルもいて、そこには編み物をしている女性たちがいたりするのだが、彼女たちと母親を重ねてみていたり、サハルも在りし日の母親のように誤認している
そして、母親は認知症が進行していて、マシューのことを息子だとわかっていない
長い間、マスードがマシューの役割を演じてきたからなのだが、マシューが母親との対話を避けてきたことが要因のようにも思えた
映画では、言葉よりも伝わるものがあるというテーマになっていて、それは人類共通の言語であると描いている
ダラの抱擁、サハルを見間違えるなどのマシューの感情も然ることながら、お金を奪われると感じたネギンの感覚も正しかった
そう言った人から溢れてくるものがたくさんあって、それは言葉を超えて直接的に伝わってくる
だが、その雰囲気や感覚を作り出している原因までは相手に届かず、それを補完するために「言語」が必要となってくる
言葉がいらない瞬間もあれば、言葉が必要な場面もある
それこそが人類の普遍的なテーマとしてあり、多言語が交錯するゆえに人の間に軋轢が生まれてしまうと言えるのではないだろうか
いずれにせよ、感覚的に捉えればよい映画で、あえて見せないことで対象者(画面に映る人物)の感情を引き出して描いていたと思った
不審者がマスードであるというのは最後までわからないし、それゆえにネギンたちの感情が高ぶったままになっていたりする
だが、お金がないので拾ってでも息子にメガネを買ってあげたいとは誰にも言えないもので、そんな彼はマシューの母に献身的な時間を与えていたりする
親切さというものが行動規範になっているものの、それは誰かに向かう一本の矢のようなもので、それを俯瞰している人を置き去りにしている部分もある
今回の場合だと、マシューの感情は置き去りにされているし、ネギンたちも同じ想いを抱えていた
そう言った部分を補完するためには相互理解が必要であり、そのために「言語はある」と言える
そう言った意味合いにおいて、単純そうに見える人間関係の深いところを描いていた作品だったのかな、と感じた
もしものカナダとは
ペルシャ語とフランス語が公用語となった、もしもの世界のカナダ・ウィニペグの冬。
遅刻してきた男子児童のオミッドは新調したばかりのメガネを七面鳥に奪われたと説明するが、学校の先生から、黒板の字が読めるようになるまで授業を受けさせないと言われてしまった。同級生のネギンと姉ナズゴルはそんな彼に同情し、凍った道路の中に紙幣を見つけ、新しいメガネを買ってあげようとした。姉妹は街の大人たちに氷を割る方法を考えるが、良い助言は得られなかった。そんな中、ツアーガイドのマスードや、仕事が嫌になり自暴自棄になったマシューなどが絡み・・・さてどうなる、という話。
まず、アラビダ語かペルシャ語かわからない文字に字幕が出るから、ここはどこ?ってなり、雪が積もってるからイランかアフガニスタンの北部の冬かと思ってたら、ウイニペグ?
カナダ?
えっ、カナダであんな文字が有る?と不思議に思ってたら、もしものカナダだった。
うーん、まぁ良いけど、どうしても、もしものカナダなんだろう?
あれくらいのエピソードでペルシャ後を使いたければ冬の北部イランで良いのでは?
なぜカナダなのかが気になってしかたなかった。
出てくる人たちはみんな自分勝手な様だが意外に人のことをなんとかしようとする人が多い。
案外趣のある作品の様な気がした。
七面鳥タウン
カナダのウィニペグという町を舞台にした群像喜劇。
連休が明けて学校が始まり、先生が遅れて教室に入るとワチャワチャと動物園状態で、更に遅れて弱視の坊やがやって来て…と始まって行く。
一瞬だけまともそうにみえたけど、この先生ヤベーやつ?からの氷の中に500リエル札をみつけ…ん?カンボジア?
そして掘り出す道具を巡る話しかと思いきや、ウィニペグに向かいバスに乗ろうとする男?むしろこの男の話しがメインですか?
町の名前は実際にあるものだけれど、公用語がペルシャ語&フランス語だし文化も人も中東系という架空の世界で、のらりくらりまた~りと、なんだか話しが展開していくけれど、実際のウィニペグの文化も知らなきゃフランス語もペルシャ語も自分には解らないし、毒や棘があるのになんかゆる〜く話しが回ってるなぐらいにしか感じられず。
残念ながら面白さがわからなかった。
タイトルなし
映画 "ユニバーサル・ランゲージ" 鑑賞。
カナダのウィニペグの街の人々、ただし架空の街で、公用語がペルシャ語とフランス語だと。
現実世界では、とりあえず英語ができれば、ある程度どうにかなる、ユニバーサルな共通認識がありますね。
その英語の部分をペルシャ語に置き換えたような設定。
ペルシャというだけあって、イラン的な要素も強く。
絨毯とか、男性のヒゲとか、習い事がサントゥールとか、etc.
イラン的な、詩的かつ歴史的なもの、
カナダ的な、極寒でインダストリアルなところ、
人々は誰もが温和で、まっすぐ親切なのに、クセが強く。
現実味があるのかないのか、理解しきれぬまま。
なんとも不思議なのに、ほっこりする物語でした。
全力で親切、見返りも求めない、目の前の客人,友人をもてなすことしか考えない、
かつて出掛けたテヘランの街の人々、よき思い出が浮かんできます。
カナダは未踏でわからないままですが。
購入したパンフ冊子によると、カナダ人監督、イラン映画への憧れが相当強そうな。
納得しました。
始まりは終わり、終わりは始まり
物語りの舞台はカナダ。
公用語は英語とフランス語のハズも、
本作で使われているのは主にペルシャ語とフランス語。
主要な登場人物たちの肌の色も浅黒く
どうやら「メタ世界」の設定。
一方で、ケベック州独立問題など、実際の事柄は、
会話の節々に上がっている。
タイトルの「ユニバーサル・ランゲージ」を最初に聞いたときは、
『ザメンホフ』による人工言語「エスペラント」を想起した。
が、「エスペラント」は「ユニバーサル・ランゲージ」と表現されることは無いらしく、
どうやら異なる意図で使われているよう。
もっとも劇中では、「ザメンホフ通り」との、
(おそらく架空の)地名により、ふれられてはいる。
地方都市ウィニペグの小学校。
フランス語教師から嫌われている『オミッド』は
黒板の文字が読めない理由を、
駐車場で七面鳥に眼鏡を盗まれたからと話す。
当然、教師には信用されぬも、
不憫に思った同級生の『ラギン』は眼鏡を探しに行く中途で
氷に埋もれた高額紙幣を見つけ、
これを掘り出せば『オミッド』に新しい眼鏡を買ってあげられると、
姉と共に奮闘する。
他方で、モントリオールでの生活に疲れ、
母親が独り住む故郷のウィニペグに戻ろうとしている『マシュー』がいる。
久し振りに実家に電話を架けると『マスード』と名乗る見知らぬ男が出、
今夜会おうとだけ伝えられる。
母が住むハズの実家に向かえば、
そこには見知らぬ家族が暮らしており、
狐につままれたような思いも湧き上がる。
この二つの挿話が、終盤
絶妙に交錯する。
意表を突く人物の繋がりが明らかになり、
胸に刺さる団円を迎える。
そこに流れるのは、人々の溢れる善意と、
取り返せね過去への喪失感。
とりわけ後者は、
『マシュー』と『マスード』が入れ替わることで
より強く観る者に印象づけ、
戻らぬ時間を巻き戻そうとするかのような
記憶に残るラストシーンへと繋がる。
『マシュー』役は監督本人(『マシュー・ランキン』)が演じており、
出身地もウィニペグとのこと。
一種の{私小説}に近しい作品のようで、
彼の故郷に対する偏愛とも取れる表現やエピソードが頻出する
(故郷以外でも『グルーチョ・マルクス』への思いも随所に見られる)。
もっとも、とりわけ街の変化は、地域住民にとっては理解の範疇も、
背景を知らむ地球の裏側に住む我々には埒外。
薄っすらと伝わりがするが、隔靴掻痒さを覚えるのは否めない。
要は、あまり普遍さを感じさせない要素になっている。
〔ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ(2019年)〕鑑賞時と
近似の感情がわだかまる。
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