「信仰心と呼ばれるものとは」異端者の家 satoさんの映画レビュー(感想・評価)
信仰心と呼ばれるものとは
信仰心と言うものは、我々日本人には少し馴染みがないかも知れない。
それ故にこの映画の本当の恐怖や不快感は想像でしかわからない。
それでも、その「信仰心」を「大切な誰か」や「譲れない信念」に置き換えるとわかりやすい。
冒頭の会話シーンから二人のシスターの立ち位置や性格がわかりやすく、すんなり頭に入ってくるのが良い。
冷静で判断能力に長け、頭の回転も早く知識豊富なシスター・バーンズと、どこか俗世への憧れのようなものを捨てきれず、年齢よりも幼さを感じさせるシスター・パクストン。
この二人との何気ない会話から「より自分が操りやすい方」を最初から選んでいたミスター・リードの異常性と知能の高さにはゾッとさせられた。
ミスター・リードの語る「宗教」のそれは、まるで大学の講義のような説得力があった。
特に「宗教のファストフード」のくだりはとても興味深いとすら思えた。
言葉だけではなく、時に視覚や聴覚からも強いストレスを与え、更に絶望的な状況へと追い込んで行く。
特に地下室に降りてからの密室での恐怖と悪夢のような奇跡を見せつけられる展開には「自分ならどうするのだろう」と言う考えが止まらなかった。
あの状況で自我を保っていられたのは「二人だったから」ではないか。
それと同時に「二人でなくなったから」こそ強くなったシスター・パクストンの覚醒は痺れる展開だった。
「支配」と言うひどく身勝手なそれは、宗教における「信仰」とも似てるとも言える。
では何がそれをわけるのであろうか。
自分自身で選択し、進んだと思っていた道が全て誰かの思い通りだったなら?
自分の信念と思っていたものが全て誰かのシナリオだとしたら?
今ここに立っている事すら自分ではなく、誰かの意思だとしたら?
そんな身勝手でただの屁理屈でしかないミスター・リードの言い分を、跳ね除ける勇気も打ち勝つ強さも持てず、ただ受け入れる事でしか生きる事の出来なかった人々の成れの果てが「彼女達」だったのだろう。
綺麗事のようにまとめられた美しいラストシーンは、あれこそ奇跡とも言えるのかも知れない。
二人のシスターの信仰心が起こした、本当の奇跡。
神などいないのかも知れない。
それでも、自分が信仰するものは自分自身で選んでいいのだ。
祈りは、誰の為でも美しいのだから。