異端者の家のレビュー・感想・評価
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たとえ美味しそうなパイの匂いがしても知らない他人の家には絶対に上がらないでおこうと心に誓う
一切の前情報なしでの鑑賞。知っていたのは、タイトルとメインビジュアルのイメージのみ。まさかこんなに恐ろしいサイコスリラー映画だったとは…😱聞いてないよ〜🤫知ってたら絶対観なかったかもしれない。だってホラー映画嫌いだもの🙄
私の知っているヒュー・グラントは「ノッティングヒルの恋人」など甘いマスクで惑わすラブコメ作品のイメージですが、本作ではその彼のイメージを根本から覆されます。いつもの甘い笑顔は封印され、不気味なうすら笑いで追い詰めてくる奇人を好演。またそれがうまくマッチしているんだな🙄 でも男前ってのは、歳をとってシワが刻まれても、どんなに恐ろしい役を演じても、やっぱり根底にあるカッコ良さは隠せないよね。キムタクがいつもキムタクなのと同じ🧐ヒュー・グラントにこの役をキャスティングした人は素晴らしいですね、ほんまハマり役です🤫
私の中のホラー映画ってこういう映画なのです。お化けとか出てくる必要ないのよ👻 いつも思う「普通の優しげな人の豹変」がいっちゃん怖いからね🧐「ブルーベリーパイ食べてく?」からの「なんかこれおかしいんじゃね?」と2人のシスターが徐々に気がつくまでの間合いが絶妙。ちゃんと、段々、少しづつ、レベルアップしていく「怖さ」で心震える😱これってよくありがちなホラー展開なんですか?ホラー初心者すぎてわからん🔰わからんけど、私には十分過ぎるほど怖かった〜。密室で出られないというだけでもう絶望だよね。私があのシスターたちの立場だったらどうするんだろう?と常に考えながら観てるから、もっと怖くなるよね。シスターたちは、偉いよね👏恐怖に怯えながらもちゃんと選択してるんだから。私だったら絶望を通り越してもう号泣してるよね😭チョロいのよ、わたしホラー初心者🔰だから。いや、どうだろう?逆に火事場の馬鹿力みたいなのが湧いてきて勇ましく戦ってみたりする自分に出会えたりするんかな?絶対に体験したくはないけど、ほんとにそんな場面に出会した時に自分がどんな「選択」をするのかは興味はあるよね🧐
正直、宗教的なことはよく分かりません。けれどもミスター・リードの言い分にも半分くらい理解できる部分はありました。しかし「支配」こそが宗教なのだといった彼の考えとは異なり、私の中の宗教的なものは「自分の信念」みたいなものに置き換えられるかもしれません。
そんな私の信念から導き出した本日の教訓はコチラ
「たとえ美味しそうなパイの匂いがしても知らない他人の家には絶対に上がらない」
追伸
しばらくパイと扉がトラウマになりそうなくらい度直球に恐怖を喰らい夜道を帰るのが怖くなる🥲😭
5分後に始まった映画「たべっ子どうぶつ」に幸い心癒され無事帰宅♪
宗教マニアをぢ vs モルモン布教女子のアンフェアファイト
すっかり性格俳優にシフトしたヒュー・グラントを楽しめる映画。「ジェントルメン」での癖つよ探偵役を見たあたりから、もっとそっち方面を演ってほしいと思っていた私はそれだけでプラス評価。
彼のキラースマイルの威力はまだ健在で、玄関のドアを開けた時に彼が見せた微笑みには、悪役だとわかって見ているこちらの気持ちさえ一瞬油断させる力があった。話が進むにつれ、その笑顔や愛嬌ある笑い皺がリードの不気味さに似合って見えてくるところはさすがだ。
サイコスリラー映画としては、うーんどうだろう。怖い映画苦手の私でもあまり怖くなかったから、このジャンルが好きな人には物足りないかも。
(二の腕の傷をほじくるシーンだけはギエエエエとなった、怖いというより痛そうで)
前半、リードが宗教や信仰心の本質(彼の持論)についてシスターたちに滔々と語るくだりは興味深かった。(「ボブの絵画教室」バージョンモノポリーには笑ってしまった)
八百万の神の国に生まれ育った消極的無宗教の私にとっては、正直なところ物語の前半においてはリードの主張の方が、モルモン教より首肯できる部分が多かった(ただし、パンフレット掲載の寄稿によると各宗教についてのリードの説明は所々嘘を含んでいるそうなので、鵜呑みにするわけにもいかないが)。
アメリカ国民にはキリスト教信者(もちろん宗派は分かれているが)が多いというイメージがあるが、イエス・キリストの逸話への冒涜とも取れそうなリードの主張は批判を招かないのだろうか。Rotten Tomatoesでの評価は比較的高く、社会問題化するほどの反発を受けてはいないように見える。
末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教の教団)は本作を非難する声明を出しているそうだが、作品を鑑賞したモルモン教徒当事者にとって、序盤に描写された宣教師の日常は結構リアルなものだったようだ(The Guardian、2024年11月の記事より)。
本作の2人の監督、スコット・ベックとブライアン・ウッズはモルモン教徒の友人らに脚本について相談し、彼らの日常会話をもとに台詞を創造したという。
そのリアリティと、キリスト神話説的な主張をしているのがサイコパスな悪役、という設定であること、そして最後には「誰かのために祈ることは素晴らしい」と信仰を肯定するパクストンがリードを倒す展開。これらがあるから、前半のキリストに対する冒涜的なリードの主張も、キリスト教徒から見れば「迫害者の間違った考えの描写」として消化されているのかもしれない。
前半のマンスプレイニング的宗教論破がそのまま続くのもまた一興だが、それではスリラーというよりめんどくさいおじさんの話だ。ここからどうサイコスリラーに持っていくのか、と思っていたら、後半での怖がらせ方自体は結構ありきたりな感じでちょっと気分が盛り下がった。暗い地下、唐突に出現する貞子みたいな女。ジャンプスケアと流血。
宗教マニアを極めた結果無神論者になったのかと思いきや、宗教の本質は支配であるという結論に至りそれを実践したリード。結局、支配行為という邪教の信者になったということか。
悪役の背景をどこまで描くべきかは作風や好みによって分かれるだろうが、リードについては個人的には、あのような考えに至った理由や彼のヒストリーが見えた方が面白くなりそうな気がした。パクストンが地下でいくつかの部屋を通った時、そこに雑然と置いてあった色々なグッズにヒントがあるのかなと思ったが残念ながら分からず。キリスト教圏の人が見たらピンとくるのだろうか。
「胡蝶の夢」の話をどう効かせたいのかよく分からなかった。脱出後のパクストンの手に蝶がとまった時、まさか夢オチなのか?という安直な不安がよぎったが、さすがにそれはなかった(笑)。
ところで、合言葉として出てきた「魔法の下着」だが、モルモン教に入信した人が一生身に着ける、上は半袖アンダーシャツ下は膝丈ステテコみたいな衣服のことだそうだ。神との聖約の象徴であり、下着の上から着る服で完全に覆わないといけないので、自然と露出の少ない服装になるという。その名称を合言葉として使うのは、魔除け的なニュアンスがあったのかもしれない。
頭脳を刺激する宗教談義スリラー
思っていた以上に本気の宗教談義が続く。たまたま中学生のときにモルモン教の経典を読んだことがあり、そのときに抱いた疑問を思い出したりして、ついヒュー・グラント側に肩入れしそうになるのだが、いやいやコイツも大概というか絶対アウトな人でしょう!と思いなおしたりして情緒的に忙しいのも、結果的に地味シブジェットコースタームービーとして機能してくれて得をした気分。
ヒュー・グラントの怪演が話題になるのは当然として、対する小娘ふたりに一筋縄ではいかない顔をもたらしたソフィー・サッチャーとクロエ・イーストも素晴らしかった。日本はわりと信仰心と縁の薄いお国柄だと思うが、他人の信仰心を無碍にするわけにもいかないので、役に立つ知的な遊びという面でも楽しめる。とはいえヒュー・グラントの言うことをまんま鵜呑みにするとたやすく陰謀論者の落とし穴に落ちるんでしょうけども。
ヒュー・グラントの妙味を研究し尽くした唯一無二のホラー
かつてヒュー・グラントがロマコメ帝王だったことが都市伝説に思えるほど、ここ最近の彼は変幻自在だ。たとえ陰湿でナルシストな”嫌な奴”に振り切れたとしても、観客は苦笑いしながら、でもやっぱり彼の個性に魅了されてしまう。そんな彼が行きついたホラーの新境地。今回のキャラを構成するのはやはり”喋り”だ。ほぼ全編が彼のセリフ回しで占められていると言っていい。通常なら一人の俳優がこれほど喋り続けると観客も早々に飽きるものだが、相変わらずの甘いマスクで、まるで歌うように知的で優雅で緩急タイミングの絶妙な演技をやられると、この出口なき家さながらにもう止められないし、出られない。私自身、鑑賞中の自分が果たして恐怖しているのか、それとも魅了されているのか、最後まで分からなかったほど。どんな役でもグラントはグラント。これは他のキャストでは置き換え不可能な、もはや彼のために仕立てられたホラー。だからこそ最高なのだ。
サイコパスなのにいつものヒュー・グラント!?
宗教の布教活動をしている2人の若い女性がドアをノックすると、目の前にリードと名乗る気さくな中年男性が現れて、家の裏で妻がブルーベリーパイを焼いているから一休みして行かないかと提案する。女性たちはその誘いを受け入れる。
しかし、男は2人の話に耳を傾ける気などさらさらなく、宗教に関する持論を展開し始める。同時に、その家は脱出不可能な設えになっていて。という密室サイコパスホラー。
これまでも、入ってはいけない家に入ってしまった訪問者たちが死ぬほど怖い思いをする同じジャンルに属する傑作が何本かあった。しかし本作の場合、宗教にまつわる(まつわらなくても)持論というものが他者にとっていかに不快か!?というテーマが観客を苛立たせるところが異色と言える。そして、この世界のどこかでは閉ざされた家の中であらゆる異端者が息を殺して獲物が引っ掛かるのを待っているというリアリティが、異色に拍車をかける。
最大の見どころは多少既視感がある物語を独特の個性で牽引していくリード役のヒュー・グラントだと言って過言ではない。英国が生んだ世紀のチャラ男から、最近は軽妙や悪役までカバーするグラントが、ここではなんと、いつも通りのグラントを演じることで恐ろしいサイコパスになりきっていることに驚く。いう言われれば、グラントの目はいつも危険な光を放っていたことに気づく人は多いかも知れない。異なる役に挑戦し、都度変身するのではなく、役を自分に引き寄せてきたということに。改めてヒュー・グラント、凄い俳優である。
楽しみにしていたので初日に映画館へ
ストーリーがしっかりしていて奥が深い。グロで怖がらせるホラーとは一線を画す。ヒュー・グラントの演技が秀逸でリビングで穏やかに話してる時からゾクゾク、ザワザワしてきて、途中からずっと気を張り詰めて見入ってしまった。効果音の使い方もさすがA24。何度も驚かされ心臓に悪いなと。笑
宗教絡め具合が欧米人に受けそうと思ったらかなり賞も取ってる。モルモン教やキリスト教の信仰の厚いアメリカ人の友達(映画に出てくる二人のシスターみたいな)がいるので宗教の話はよく理解できた。そのあたりは欧米と日本で評価が分かれるかもしれない。
イケオジによる怪演!
その異端はペテン。別の異端は奇跡を起こす…
よく町中なんかで宗教の勧誘に声を掛けられると、ウザッ!…と思う。私はあまり宗教が好きじゃない。母の死にも関連するので。
だからこうして若いシスター2人の視点から描くと、大変やな…とも思う。
布教活動で町を回るシスター・バーンズとシスター・パクストン。
何人か勧誘した事あるシスター・バーンズはポジティブな性格だが、勧誘ゼロのシスター・パクストンはネガティブ。話を聞いてくれる人はほとんどおらず、心無い悪戯も…。
そんな時、森の中の一軒家でもいいから話を聞いてくれる人に会うと、救われた思いになる。主のお導き!
応対してくれた中年男性リードはあの“ロマコメ王子”。にこやか朗らか気さくな性格で、そりゃ警戒心も薄れる。
宗教にも関心ありで話をしていると、突然雨が降ってくる。リードは家の中へ招く。
これにはさすがに警戒。中年男性の家に若い女性が2人…。規則で同伴の女性が居ないと家の中に入れない事になっている。
奧でパイを焼いてる妻ならいる。その言葉をすっかり信じ、2人は家の中へ。
ネズミやカエルが天敵のいるカゴの中に入ったようなもの…。
妻特製のパイが焼き上がるのを待ちながら、温かいティーを飲んでくつろぎ、話の続きを。
リードは頭が良さそうなのは話していて分かる。お喋り上手で話に引き込まれる。
話が弾んでいたが、ある質問から雲行きが怪しくなってくる。一夫多妻制についてどう思うか、キリスト教会設立者ジョセフ・スミスについてどう思うか…?
リードは宗教を否定するような事を…。それでも2人は対応していたが…。
父を亡くした経験のあるシスター・バーンズ。ちょっと無礼な話をしてしまった事から居心地が悪くなる。
パイがまだ焼き上がらない。奥さんも一向に姿を現さない。
様子を見てくる…と、奧に引っ込むリード。その隙に、帰るか否か迷う2人。
帰る事に決まったが…、玄関ドアが開かない。と言うかドアノブが無く、開けられない。
スマホを掛けるが、電波が入らない。
閉じ込められた…?
警戒心はとっくに通り越し、恐怖。
その時、奧へ続くドアが静かに開く。誘うように。
恐る恐る奧へ入っていく。そこで待ち受けていたのは、恐怖と試練であった…。
リードはどうやら豹変して性的に襲い掛かったり、殺そうという気はないようだ。
寧ろ、それが怖い。一体、何が目的なのか…?
2人は現状の事や帰らせて欲しい事を懇願する。すると、
家に招き入れた時、家のあちこちに金属が埋め込まれてあり、スマホは使えない事を暗示したのに、何故教会から連絡が…と嘘を付く?
妻がいると何故易々と信じた?
リードの言い分はサイコな男のキチ○イな言動というより、頭のいい男が若い迷える子羊を翻弄しているようだ。
リードだけが楽しいトークは尚も続く。独自の宗教論を展開。
どの宗教も真実とは思えない。世界三大宗教を例に出す。
原点はユダヤ教。これをリメイクしたのがキリスト教。ニューバージョンがイスラム教。いずれも信仰対象や物語など似通っている。
これをモノポリーに例える。元々は名もなき女性が発案したボードゲーム。それを基にアメリカが“盗作”したのがモノポリー。以後、類似品が氾濫。
誰も元祖や原点を知らない。世の全てが反復。それの何処に真実がある?
これを私なりに映画に置き換えると…、第1作目の『ゴジラ』がある。ハリウッド版がある。近年の『−1.0』がある。TV放送や最近の人が見るのはハリウッド版や『−1.0』ばかり。原点をきちんと見た事あるのか…?
あくまでリードの持論だが、何だか説得力あり。ついつい話に引き込まれた。
しかし、シスター・バーンズは反論。各宗教宗派それぞれの主の姿、教え、歴史がある。決して反復なんかじゃない!
この意見にも同感。初代もハリウッド版も『−1.0』もそれぞれの面白さと魅力がある。
2人はモルモン教。現在正式には“末日聖徒イエス・キリスト教会”。ジョセフ・スミスが設立したキリスト教の新派で、異端の一つ。最大の特異は主流キリスト教の三位一体(父・子・聖霊)否定。それぞれ別個であるとの考え。禁止されているものも多く、カフェイン、アルコール、煙草。婚前の性交渉も。厳しいが、教徒は幸せを感じている者も多いという。
リードからすれば亜流の亜流の異端かもしれないが、それでも2人は信じている。
それを試されているのか…?
前半は見る者の価値観を揺さぶる会話劇がメインだが、後半は動きがある。
帰らせて欲しいと頼む2人。が、玄関ドアはタイマーでロックされ開かない。帰るなら、強制も、引き留めようと無理強いもしない。ご自由に。
しかし、裏口から。2つの扉のどちらかを。“信仰”と“不信仰”。
一体この男は何を示そうとしているのか…?
2人が選んだのは“信仰”の扉。
地下へと降りる。
行き止まり、地の底のような密室空間。唯一の出入り口は下ってきた扉だが、言うまでもなくリードが見張り、鍵を掛けられた。
不穏な会話劇から息詰まる密室スリラー。ここでも変化球。
2人だけかと思いきや、浮浪者のような老婆が。
老婆は置かれたパイを食べる。その直後、息絶える。毒入りのパイ。
リードの声が響く。2人に息絶えた事を確認させる。
リードが驚くべき事を。もし、この老婆が“復活”したら…? その“奇跡”を信じるか…?
モルモン教もキリストの復活を信じている。しかし、リードが言う“復活”や“奇跡”はキリストのそれではなく、我が手によるもの。
そんな事はあり得ないと思っていたが、老婆は復活。恐れおののく2人。
リードの信仰や宗教は、絶対的な“支配”。
“支配者の家”で絶対的な支配の下、2人は成す術もないのか…?
が、遂に突破口を見出だす。2人揃って無事の脱出を試みるが…。
これまでにも『パディントン2』や『ダンジョンズ&ドラゴンズ』で悪役を演じた事はあるが、いずれもユーモラスだった。
これほどの恐ろしさ、不気味さは初めて。
ラブストーリーやコメディが多いが、実際は実力巧者。
ヒュー・グラント、圧巻の新境地!
対する若手2人、ソフィー・サッチャーとクロエ・イーストも負けていない。
監督のスコット・ベックとブライアン・ウッズは『クワイエット・プレイス』の脚本コンビ。監督作は『ホーンテッド 世界一怖いお化け屋敷』『65/シックスティ・ファイブ』などB級作品が続いていたが、急にどうした?!…ってくらいレベルアップ。
確かに独自論や哲学的な会話、特に日本人には宗教観は小難しい。が、不穏なサスペンス、リードのキャラに不気味さと共にユーモア孕み、ホラーとしても震え上がらせる。
突然の来訪者。2人を心配する牧師が訪ねてきたようだ。
が、地下から声は届かない。存在を気付かせようとするが、その時復活した老婆が2人に迫る。
襲い掛かるのかと思いきや、意味深な言葉を…。
2人はリードが地下に下りてきた時、合言葉を決めて殺してでも逃げようとする。シスター・バーンズはシスター・パクストンにナイフを託す。
リードが下りてきた。合言葉を発した時、凶刃が首を。首を切られたのはリードではなく、リードが隠し持っていたナイフでシスター・バーンズが…。
パートナーが殺され、絶体絶命の状況。どちらかと言うと弱い心のシスター・パクストン一人になり、このまま絶望するかと思ったが、それが彼女を奮い立たせた。
老婆復活のからくりを見破る。牧師が来て2人が扉に張り付いていた時、身を潜めていた別の老婆と入れ替わっただけ。シスター・パクストンはちょっとした違和感を感じていた。
違和感はリードにも。一見完璧に支配しているように思えるが、その端々で綻び。内心、リードは焦っている。
リードはシスター・バーンズの腕を切り、金属片を取り出す。それはマイクロチップで世の陰謀をまた得意気に話すが、それはただの避妊器具。
イカれた陰謀論まで抜かす始末。復活もただのトリック。何て事はない。
真実を見つけ、勇気を出したシスター・パクストンにとって、リードは支配者ではなかった。異端は異端でも、ペテンであった。異端者ならぬ“ペテン師の家”。
代わりの老婆が出てきたハッチを見つけ、そこを抜ける。先はまた別室で、多くの女性が囚われていた。老婆はこの事を示していた。
ペテン師で、もう完全なる異常者で犯罪者。
遂にリードはシスター・パクストンに襲い掛かる。
そこで奇跡を見た。リードを食い止め、息の根を止めたのは、殺されたと思われたシスター・バーンズであった…。
ご都合主義を感じるかもしれない。
実は瀕死の重傷を負っただけで死んではおらず、最後の力を振り絞って…。実際、シスター・バーンズは…。
敬虔な布教活動が、最悪の結末に…。
友を失い、一人になってしまったシスター・パクストン。
だが彼女は、教えや書ではない奇跡や復活をその目で見たのだ。誰かを助ける為に。
奇跡がもう一つ。
シスター・パクストンは自分が死んだら蝶になって、愛した人の手に止まりたい。
ラストシーン。シスター・パクストンの手に蝶が止まる。
友愛という奇跡を見た。
ヒュー・グラントの演技に脱帽!
配信(dmmtv)で視聴。
ハラハラドキドキするホラー・スリラー作品。更にA24。
どうなるのかわからなかったが、怖いなりに面白かった。ヒュー・グラントがまさかホラーの館の主人として出るなんて。
A24はハチャメチャの作品もあれば、びっくりするぐらい正当な作品もあるが、この作品は
ヒュー・グラントの演技が素晴らしかったしこれぞ怪演。
ただ、ストーリーはよくある設定か。宗教に関心がない人には辛い作品。
A24にしては異端な作品。
支配という暴力性。
(デビューの頃は清純派に思えたモルモン教徒である
アイドルでしたが、
でも、不倫ばかりして、色情いえ恋愛体質の)
斉藤由貴さんの感想を聞きたいなぁ〜
とボンヤリ思いました。
宗教は支配。
(なかなか適切な思想。
日本の新興宗教は暴力的な支配力で人を傷つけるのが目的のような団体もあるからねぇ〜被害者談。)
祈りは意味がない。でも他の人のことを祈ることは
美しい。
それを言いたかったんだろうね。
魅力ある作品。
計算されている作品というか。
2人の脚本監督がフルにディスカッションして練りに練られた作品にも観える。
ただ私には起承転結の転が長く、飽きた。
期待していたヒュー・グラントは、そんなに怖くなかった。
ヒュー・グラントといえば、美しい『モーリス』から
垂れ目のニヤケでラブコメを通過してコールガールを
買春。
『ウォンカと〜』のウンパルンパの怪演の方がある意味、
怖かった。
ワンコと散歩をしていると、遊んでいるの?と思えるように蝶が、僕の周りをひらひら舞う。
きっと誰かが守り祈っているんだろう、と思っている。
想像と違った。
信仰を“操作”することの恐怖
宗教ホラーの皮を被りながら、実は“信仰とは何か”を問う知的スリラー。モルモン教の若いシスター2人が、森の奥の屋敷を訪ねる。信仰の言葉を携え、真理を語るはずが、待っていたのは理屈と論理で信仰を分解してくる男、リード。彼の家は、信仰の構造そのものを模した迷宮であり、彼女たちは信仰そのものを“試される”側に転じていく。
この作品の主題は、“信仰を支配する者”と“信仰に支配される者”の入れ替わりだ。リードは宗教を否定しながら、その仕組みを精緻に理解している。だからこそ、信者を「試す」ことで信仰の脆さを暴く。彼にとって信仰は救いではなく、支配の装置であり、他者の自由意思を奪うための構造。
この知的暴力こそが、映画の根幹にある恐怖だ。
――信仰を操作する者は、神を装うことができる。
物語の中盤、シスターの右腕に一瞬だけ映る手術痕。説明は一切ない。私は何かの怪我かと思い、そのまま見過ごした。ところが後で調べて驚いた――あれは「避妊インプラント」の痕だったのだ。知らんがな、そんなもん。宗教ホラーを観に行って避妊医療の知識を試されるとは思わなかった。だが、それこそがこの映画の巧妙な罠だった。
モルモン教では避妊は神の意志に反するとされる。つまり、その痕跡があるということは、彼女が信仰の枠を越えて“自らの身体を自分の意志で選んだ”証。リードが見抜いたその傷は、信仰的には“異端”だが、人間的には“自由”の痕でもある。
この一瞬の映像が、宗教的純潔の崩壊と、自律への目覚めを同時に描いていた。
監督のスコット・ベックとブライアン・ウッズは、『クワイエット・プレイス』でも顕著だった“説明の削除”をさらに徹底した。セリフを削ぎ、沈黙と痕跡で語る。確かに美学としては成立している。だが、本作では観客を置き去りにしている側面もある。説明の欠如が宗教の不透明性と重なり、「理解できないことこそが信仰である」とでも言いたげだ。だが、それは映画としての誠実さと紙一重だ。観客が気づかない伏線を「理解の遅れ」として処理する態度には、わずかな傲慢さすら感じる。
それでも、ヒュー・グラントの演技は圧巻。温厚な笑みの裏で他者を心理的に解体していく知的サディズム。彼の言葉は宗教を否定するようでいて、実際には“信仰を再設計して支配する者”の言葉。信仰とは、人を救う装置であると同時に、人を縛るプログラムでもある。リードの屋敷はそのシステムの縮図だ。見えない境界、強制的な選択、そして「自由」を装う支配。観客もまた、彼の信仰装置の中に閉じ込められている。
終盤、シスター・パクストンが雪原で手を差し出すと、蝶がとまる。かつて彼女が語った「死んだら蝶になって戻りたい」という言葉の再現だ。現実か幻覚かは分からない。だが、その曖昧さこそが信仰の本質を映す。信仰とは、証拠を求めれば失われ、疑えば崩れる不確かなもの。それでも私たちは、何かを信じることでしか生きられない。だからこそ、誰かがその“信じる力”を利用すること――それこそが最大の恐怖である。
本作は信仰の名を借りて人間の自由意志を奪うメカニズムを冷静に解剖する作品であると理解した。信仰を操作することの恐怖とは、すなわち「信じたい」と願う心を誰かが支配すること。そして、その誰かはいつだって、神ではなく人間である。
オリジナルは模倣に塗り替えられていく📕
女子2人でモルモン教の布教に来たはずなのにヒューおじさんがジワジワと信仰心を剥がしにかかる宗教ディベートが珠玉。
この映画では、信じるもの(宗教じゃなくても、信奉してるもの、例えば推しとかでも)を引き剥がされる恐怖を描いており、その過程や、葛藤が見どころでありました。
つまりは宗教、音楽、ボードゲームなど、所詮人間の作ったものは同様に、何かしらの影響から生まれたものであり、本来大切にすべきオリジンは模倣に塗り替えられて忘れられていくという文化論を説いてるんですね。
で、そもそも映画、特にハリウッド映画こそが、どこかで聞いたことのあるような話、登場人物という風に似たような映画が多いなと感じますよね。
これはハリウッドのストーリーテクニック本「神話の法則」や新しいとこだと「SAVE THE CATの法則」の影響が大きいかなと思っています。これらのシナリオ指南本のおかげで良質なシナリオの作品が増える一方、模倣のようなシナリオでも予算がついて映画が作られるという。
これらのハリウッドのストーリーテクニック本の元になったのが、神話学者ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」です。これは神話の中にある共通のエピソードを人間の共通課題として分析した本で、神話といいながら神話だけじゃなく、仏教とキリスト教の共通エピソードなど宗教の類似性も多く知ることができます。
この映画はこの本に大きく影響をうけた、というか脚本家は絶対読んでますよね?そういう意味でこの映画もまた、反復なのでありますね。
他の映画でも「この映画は裏側にキリスト教とか宗教とか神話が隠されてます」とか言われることがありますが、まあそうなりますよね。映画を作る方、評論家もこの本を読んでるから!😆
ラストは映画的にまあこうなるよなという着地でしたが、好みとしてはもう少し違うパターンが見たかったので⭐️4としました。
かなりの良作
ヒューグラントがうますぎ、ヤバすぎ、怖すぎ😱
女性二人がモルモン教の布教活動で訪問した家が…
と言った内容なのだが、本当に面白くて怖かった。
冒頭は本当に心優しい紳士的なおじさんかと思いきや、少しずつ宗教の話になると、その人が様々な宗教に詳しい事が分かってくる。女性二人を試すような質問をしたりちゃんと理解してるのかとか…信仰心を試したり…ヒューグラントはめちゃくちゃ宗教マニア。
もしかしたらその辺詳しいとより楽しめるのかもしれないが、なにも分からない我々日本人でも十分に楽しめる会話劇!
そして舞台はこの家の中だけなのだが、見事なカメラアングルで資格も飽きさせない。さり気ない伏線。
話がすすむに連れて家の奥へと入っていくのだが、それに連れて会話劇も激しくなり男の本性も明らかになってくが狙いが分からなくて最後までずっと楽しい。怖いのが大丈夫な人には見てほしいが覚悟して見てほしい👀
神がいなければすべてが許される
コンビクリエーター、スコットベック&ブライアンウッズの、Heretic以前のもっとも大きな成果はクワイエットプレイスのライターだった。監督業では好評を得たHaunt(2019)があるが、アダムドライバーの華々しい映画出演歴に泥を塗る怪作65(2023)も彼らが書いて演出した。
そんな来歴を見る限りこのコンビクリエイターがHereticをつくったのは意外だった。意外と同時に、映画クオリティについての考え方が調節された。
映画のクオリティは監督の力量や才能によるが、動機やアイデアもクオリティに作用することがhereticを見て解った。
それを解っていなかったわけではないが才能という礎石に動機やアイデアを載せることで映画クオリティが形成されることを、65からHereticへの変化があらわしている気がした。
成熟した映画製作環境があり、そこに集うクリエーターの技量or能力が横並びのような状況ではむしろ動機やアイデアこそが傑出の条件になる。当たり前のことでもある。
かえりみればアリアスターもジョーダンピールもダニー&マイケルフィリッポウも、タイウェストやロバートエガースやマットベティネッリオルピンやデヴィッドロバートミッチェルも斬新なホラーアイデアによって頭角を露わしたわけである。
業界も観衆も黒澤明やキューブリックやタルコフスキーのような天才の出現を待っているわけではなく、新しいアイデアの顕現を待っているのだ。
映画を見慣れている方ならご同意いただけると思うが、映画を見始めて10分ぐらいは、たいていその映画世界にじぶんの感性を慣らしている時間帯であろうかと思う。
ゲームならチュートリアル、仕事ならオリエンテーション、まだ面白いのか面白くないのかが解らず、楽しむためにじぶんを映画側の歩調に合わせている時宜がある。
一方で、最初からスッと引き込まれてしまう映画もある。Hereticは冒頭のマグナムコンドームの会話からスッと引き込まれ終いまで夢中になった。
見終えて、これがあの65と同じスコットベック&ブライアンウッズ監督だと知り、映画クオリティの考え方の調節を余儀なくされた。65は退屈で見ていられなかったからだ。65からHereticに至る1年のあいだにスコットベック&ブライアンウッズ監督の映画製作能力が向上したのか?そうでないなら何が違うのか。動機とアイデアが違う、という結論になった。
Hereticの動機となったのはブライアンウッズの父親が食道がんにより死去したことだという。そこから死後の世界に関する疑問がストーリーを形成していった。
伝道者のキャラクターを可能な限り本物らしくステレオタイプにならないようにするため、様々なモルモン教徒から取材し、且つ元モルモン教徒である女優二人(Sophie ThatcherとChloe East)を主演に据えた。
宗教を真剣に扱いながら、あくまでエンタメの文脈で書き、大まかなアイデアは風と共に去りぬ(1960)とコンタクト(1997)から得たという。
いったい誰がHereticを見て風と共に去りぬやコンタクトを思い浮かべるだろう?すなわちHereticは身内の死という強い動機から突飛なアイデアを経由し元モルモン教徒を揃えてつくられた。だからクオリティが上がったわけである。
Hereticの核心、リード氏(ヒューグラント)の主張は、宗教とはユダヤ教が時代や地域によって形を変えながら存在しているに過ぎないという観点から、すべてが焼き回しのような事象で世界が構成されていることへの嘲笑である。ボードゲームのモノポリーも楽曲のCreepも焼き回しで、もしモノポリーの発案者が権利を主張すれば、あるいはThe HolliesがRadioheadを訴えれば、類似品は存在できない。ユダヤ教が類似を許さなければ宗教は生まれない。であるなら他者を支配することが宗教をも超えたすべての欲望の根源だという理屈である。モルモン教分派の一夫多妻を実現し女たちを支配監禁するうちに邪曲、変節していったと思われる。
理屈はともかくとして、映画Hereticを貫く緊張は、監禁状態に陥った二人の女性の凄まじいまでのストレスが怒濤のようにこっちへ伝播してくることに他ならない。初見では常人気配のあるリード氏が妻がパイをごちそうすると言うので入って会話するあいだに、違和感が不安に変わり、不安が怪しさに変わり、怪しさが確信に変わり、確信が恐怖に変わり、恐怖が逃走や闘争の本能を目覚めさせる、その過程がマジ険悪で、グラントはノッティングヒルと同一人物とは思えないほど怖かった。
死の淵から最後の力を振り絞ってリード氏を倒したシスターバーンズ(Sophie Thatcher)を預言者と見なし、結局シスターパクストン(Chloe East)が論理的にも肉体的にもリード氏を凌駕して、幻影に蝶を見るところで映画は幕を閉じる。
モルモン信徒は、アルコール煙草コーヒーお茶薬物が禁じられ、婚外性交渉もポルノも自慰も避妊も禁忌とされている。すなわち映画Hereticは、ダサい聖徒の神殿下着を履き、一般社会から嘲弄されるような世間知らずの新米モルモン信徒が、勇気と知恵をもって異端者に抗い、最終的にそれを凌駕する様を描いた映画、と言える。
隠喩や小道具や仕掛けも多くとうてい恐竜とアダムドライバーが追いかけっこする映画をつくった監督と同じ監督がつくった映画とは思えない。
雰囲気はアスターのHereditary(2018)、ストレスはLenny Abrahamson監督のRoom(2015)、宗教的筋書きを差し引いても、Hotel Coolgardie(2016)のように男が女に与えるハラスメントの恐怖の本質を描いていると思う。
imdb7.0、RottenTomatoes91%と76%。
私的好みではない表現でしたが、一方で見事に深さある秀作だと思われました
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作の映画『異端者の家』を、正直に言うと表現されている内容は好みではなかったのですが、一方で見事に深さある秀作になっていると思われ、大変面白く観ました。
個人的な関心に引き寄せると、今作は、「奇跡」と「信仰」について描かれた映画だと思われました。
すると、ではその「奇跡」と「信仰」とは何なのか?との設問が現れると思われます。
先回りして個人的な答えを示すとすれば、哺乳類である人間は生まれた後に親などの庇護や養育が必要になるのですが、「奇跡」とは、生まれ落ちた赤ん坊が親などの取り上げや庇護や養育によって生き延びることが出来た、その事に当たると思われます。
そして「信仰」とは、赤ん坊が生き延びる事が出来た「奇跡」を生み出した、親などの周りとの関係性をしっかりと感受して抱きしめる、実感のようなものとして信じる事に当たると、個人的には思われます。
すると、この映画の異端者の家の主人である、ミスター・リード(ヒュー・グラントさん)は、自身が生まれ落ちて生き延びることが出来た、親などとの周りの庇護や養育の記憶が、体感されずに破壊されている(「奇跡」も「信仰」も破壊されている)人物として存在していると解釈されると思われます。
ミスター・リードは、自身の異端者の家の家にやって来たモルモン教の宣教師のシスター・バーンズ(ソフィー・サッチャーさん)とシスター・パクストン(クロエ・イースト)を家に閉じ込め、2人に宗教問答を仕掛けます。
しかしミスター・リードの話は、理屈が通っている部分はあるかもしれませんが、観客である私達を含めて、大半の人間に、彼の理屈は根本的におかしい間違っている、と感じさせます。
なぜなら、ミスター・リードは、自身が生まれた後に親や周りから受けた庇護や養育によって生き延びたという実感の「奇跡」も「信仰」も根源的に破壊されているので、他者に対する信頼の根源である思いやりや共感と言った、心が破壊されていると伝わるからです。
他者との信頼の基盤である思いやりや共感と言った心が破壊されている人物の理屈は、信頼の基盤が壊れている為に、どこまで行っても本当の意味で正しいと他者に伝わる事は不可能なのです。
そしてミスター・リードは、生まれ落ちた後の周りとの関係性における「奇跡」も「信仰」も破壊されているので、心が基盤から溶解して、他者との区別を失くしていると感じさせます。
それが、モノポリーを例に使った、各宗教の違いを溶解させ、一体化させようとする論理の披露になります。
この全ての差異を溶解させようとするミスター・リードの理屈に、毅然と反論するのがシスター・バーンズです。
シスター・バーンズは、それぞれの宗教の違いを具体的に述べ、ミスター・リードの全ての差異を溶解させ一体化させようとする理屈が、間違いであることを示します。
これは、シスター・バーンズが、生まれ落ちた後の周りとの関係性における「奇跡」や「信仰」をしっかりと体感しているからこそ、他者との関係性の基盤の強さから、他者と自身や様々な差異を、しっかりと認識出来ているから成し得た主張だと思われました。
多くの観客も、シスター・バーンズの「奇跡」や「信仰」に裏打ちされた毅然とした態度に、静かな勇気づけをもらったのではと推察します。
ただ、この映画が凄いのは、この毅然とした魅力あるシスター・バーンズが、首をミスター・リードに切られて、命を落とすところにあると思われました。
そして、最後に異端者の家から脱出し、生き残ったのは、ポルノビデオにも興味を示す、「信仰」の意味から言うと中途半端にも思えたシスター・パクストンの方だったのです。
この中途半端にも思えたシスター・パクストンが生き残った意味は、以下だと解釈されると思われます。
実は、ミスター・リードの「信仰」の破壊(「不信仰」)も、シスター・バーンズの「信仰」の強さも、どちらも多くの私達はグラデーションの中で持っていると思われるのです。
なので、私達は、ミスター・リードの「信仰」の破壊(「不信仰」)も失笑して退けることも出来なければ、シスター・バーンズの「信仰」の強さにも惹かれ重要だと思われています。
そして、シスター・バーンズが首を切られて命を落としたように、「信仰」の強さが、特に現在では、破壊された「信仰」(「不信仰」)を救うことは出来ない、というのも真理として伝わるのです。
私達は現在、「信仰」と「不信仰」とに(あるいは、生まれ落ちた後の親や周りからの庇護や養育を、実感として持っている人物や思想と、破壊されている人物や思想とに)、分断されている時代に生きていると思われます。
そして多くの私達は「信仰」と「不信仰」との間のグラデーションの中の中途半端な人物として生きていると思われるのです。
その意味で、中途半端にも思えたシスター・パクストンが最後に生き残った事は、双方が両極端で分かり合えない分断の現在の中で生き延びなければならない、双方のグラデーションの中にいる多くの中途半端な私達への、勇気づけの表現になっていると思われました。
今作の映画『異端者の家』を、以上の点から深い秀作に思われ、ただ一方でスリラー的な描写は好みではない点もあって、僭越、今回の点数となりました。
宗教ホラーは最低限の予備知識が必要かも
先が見えない面白さ
あらすじ
地域の子供にもバカにされるモルモン教。宣教を担当するシスター二人は、パンフレットを請求した人物を訪ねるよう教会から指示を受ける。
訪問するとそこは郊外の一軒家。住人の中年男性は二人を家の中へと招き入れるのだった。
前提として「ヒュー・グラントが悪役のホラー」という情報だけ入れて鑑賞に臨んだ。
ところが、冒頭のA24のロゴで嫌な予感。また「一体何を見せられてるんだ」的な作品なのかと。(アリ・アスター関係映画に懲りた)
しかし、見進めていくと、物語展開が見えない序盤、トラブルに巻き込まれていく中盤は惹き込まれる感覚に久々にゾクゾクした。実に面白い。
ホラーの文脈・お約束は守られ、伏線らしきものもしっかり提示。
実に王道なホラーに仕上がっているため、ストーリーに集中でき安心して鑑賞できた。
音によるびっくり演出はほとんどないものの、後半・終盤でグロ演出はあるので、耐性ない方はご注意を。
宗教の成り立ち、モルモン教とは、スパイダーマン(1作目orアメスパ)、スターウォーズEP1などの
知識があるとより楽しめると思う。(劇中で説明されるので無くても大丈夫。)
以下ネタバレ
第一印象としては、「これユタ州で流せるんかいな?」というもの。
そのくらいモルモン教をディスりまくっている。(案の定猛抗議があったそう。)
でも、よく見ていくと、特定の宗教をディスっているのでは無く、「大体の宗教は模倣である」っていうのが
ヒュー・グラントの表向きの主張なので、日本の某巨大新興宗教も当てはまるなあ、と思って見ていた。
ヒューグラントはノリノリで悪役を演じている。決して暴力的では無く(序盤・中盤)、
理路整然(かなり自分勝手な解釈を下敷きにしてるが)と主人公達を追い詰めていくところがまた一段と恐怖を生む仕掛けになっていた。
先へ先へと変化していくトリッキーな屋敷の作りも良い。
途中で主役が交代するのも、予想していた展開が裏切られた感じでよかった。
黒髪の比較的世慣れした主人公だと、単純に力で反抗して脱出だと思っていたが、物語の「先が読めない感」が加速した。
最後は奇跡をひとつまみ、という演出も憎らしいがストーリーにスパイスを効かせていて合っていると思った。
屋敷からの脱出も、何故か出れた!ではなくちゃんと理由づけしているところも良かった。
ただ、終盤にかけてのヒュー・グラントの目的の陳腐さの開示や普通の暴力に訴えるホラーに成り下がったのは非常に残念だった。
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