「内容はわかっても製作の意図が... まったく... 姑息」HERE 時を越えて Paula Smithyさんの映画レビュー(感想・評価)
内容はわかっても製作の意図が... まったく... 姑息
一つのリビングの窓から、人々の暮らしと歴史を垣間見る... その時の移り変わりを例えて言うならば あるプロデューサーのフィルモグラフィーより
1953年、『Houdini』から始まり、後に数々のSci-Fi 映画を世に送り出し、その中でもおバカが製作したものではないオリジナルの『The War of the Worlds』を...
そして秘密結社の一員で世の中における二大 Sci-Fi 小説家の一人で、彼の小説を基に、いわゆる "タイムパラドックス" を回避した1960年の映画『The Time Machine』を彼はSci-Fi 映画史に残した...
以前にも彼ゼメキスは、この『The Time Machine』のシチュエーション(シーン)を『Back to the Future』で拝借している。だから、彼は、よほど好きだったのか?グラフィック・ノベルを言い訳に「またやっちゃってるんですか?」なんてね?と聞きたくもなる。
ゼメキス、ハンクス、ロビン・ライトって事で本作『HERE 時を越えて』は、いわゆる亜流の『フォレスト・ガンプ』的でゼメキス流、彼によるモーションキャプチャー技術という視覚効果の革新提唱者としては、元になったグラフィック・ノベルで取り入れられたフレーム内フレームという静止画像を重ね合わせ移行するというコンセプトの視覚的アイデアを利用した映像をいくつかの素材と組み合わせたコラージュ効果による発想からCGIで作り上げた四角形でも長方形でも多様に積み重ねたものをスクリーン上に映し出し、そして、ある時には、いくつかのシーンで登場人物自らがフレーム・アウトしていく。その上、プロットが "タピストリー" 風ノンリニア・ナラティブ" のタイムラインにより、記録のない先史時代から始まりベンジャミン・フランクリンとその息子が通りの向かいに植民地時代の邸宅を構え、また第二次大戦を経由して観る者のノスタルジアを誘う『エド・サリバンショー』に登場するずーとるび、もとい、ビートルズと共に現代にいたるまでを定点カメラで撮影している。そのためアト ランダムに時を行き来する事で時代を見失わないようにと暖炉の脇には "idiot box" が形を変えながら象徴的に鎮座する。
“Your scientists were so preoccupied with
whether or not they could that they didn’t
stop to think if they should.” (ジェラシックパークより)
愛と別れ、結婚と憎しみ、SEXと不仲、喜びと悲しみ、希望と失望。そして、コケージョン特有の独立記念日とクリスマスと感謝祭 、... etc.
彼は世界中のありとあらゆる家庭で起こる普遍的なイベントと同時に時代時代の背景から起こりえるシチュエーションを独特な方法で身近に描き出そうとしている。ただ...
ゼメキスが子供の頃のベビーブームに沸く60年代のアメリカの若き夫婦リチャードとマーガレットを時間軸とプロットの中心に置いたことが父親は収入のために外で働き、母は子育てと家庭を守るために家にいる150年間続いた良きアメリカとされる典型的ステレオタイプ的家族の在り方がまだ保っていた時代をただ単に回顧する...
先史時代からの流れでネイティブアメリカンによる誕生と死への儀式、現代になるとこの家に住む唯一の黒人であるハリス家の物語は、両親が10代の息子に警察の暴力を説き、またラテン系家政婦がコロナに感染したことについて話すという内容だけで、このネイティブアメリカンと黒人家族の両方が、やや無理矢理に繋ぎ合わせただけのコラージュとして、それが何度も繰り返す軽率さから、これらの人々についてあまり情報を語ることはない。そんなことから黒人一家の描き方のたんぱくさが無意識の偏見を生みだしてもいる。
なんといってもストーリーが一貫して、おなじみのドラマチックなシノプスをただハイライトなシーンをアトランダムに並べ集めただけで、しかも長い人生を短いスパンで無秩序にモンタージュで描くことが偶然性だけの必然性に欠けている。それと...
トム・ハンクスのエイジングや10代への若返り...
特に若返りに関しては、彼の実際の年齢を知る者からするといくら最先端のモーションキャプチャーであっても、その歪さが軽減されたとはいえ、あたしのような脳みそウニの者からすると、うにの部分にトムハンクスの現在の年齢の彼の姿がどこかにこびりついていて若返りの認識があたいの脳では処理できずに「そんなはずはない」と思ってしまい、認識できたとしても違和感でしかなくなる。彼には二人の息子がいるんだから彼らに役を演じてもらってもいいんじゃないかと思うけど最先端技術の先駆者で気取り屋でミエハリの彼は、技術を見せびらかしたくて居ても立っても居られないゼメキスでは、自尊心がそうはさせないらしい。
その上、四角で囲むことだけが理由ではなく、目に見えない第四の壁にさえぎられた閉塞感と疎外感が入り交ざったようなつまらない代物と個人的にはなってしまい、悪質とは言えないまでも甘ったるい "rom com" によって、人工的で意図的で恣意的で感傷に満ち溢れた涙腺崩壊型を狙うかのような空々しいフィルムとなってしまっている。
I remember finding it. She was so happy. And you-you came
in the door, and you were so happy. Oh, I remember all that.
That was right here. I remember being here. I love it here.
"I love it here."
確かに認知症は短期で直近の記憶は無くなってしまう。でも過去の記憶の断片を思い出しもする。それをなぞらえた映画のモチーフとなるマーガレットの上記の言葉が、心地よい響きと美談に済ませる事で出来過ぎてしまっている為に誰もに感動を呼び、その感動を呼ぶことがタップもしていないのに自動的に誘導する一般受けする住宅保険会社の宣伝文句に聞こえてしまう。
ロバート・ゼメキス = スティーブン・スピルバーグ ≒ CGを駆使した絵面だけの中身のない映画を妄信的に作りたがる。しかも牛のヨダレのように垂れ流す。言い過ぎです(💕ᴗ͈ˬᴗ͈)”peko
彼らの〇の不自由なファンの皆様... あくまでもあたしのザレゴトですのでご容赦を!?
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