「「被害者か加害者か」…いや、加害者だったことは否めないでしょう。 ...」ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
「被害者か加害者か」…いや、加害者だったことは否めないでしょう。 ...
「被害者か加害者か」…いや、加害者だったことは否めないでしょう。
世が世であれば、ジャズシンガーとして成功していたかも知れなかったステラ…。
もちろん、彼女も戦争の被害者なのかと問われれば、むろん、「被害者」の一人ではあるのでしょう。
そして、彼女の戦争責任を裁いた法廷が結果としては「実質的には無罪」の判決を下したのも、おそらくは、その意味なのでしょう。
そう、受け止めました。評論子は。
まして、彼女にはジャズシンガーとして返り咲きたいという切なる願望が、常に心中を去来していたことでしょう。ナチスによって、工場の強制労働(?)に動員されてからも。
そして、その願望のためには(ユダヤ人には見えないことを巧みに利用して?)ナチスの将校に取り入ってしまえば、あとは同胞を売るところまで転落(?)するのは、時間の問題だったのだろうとも、評論子は思います。
ときに、いったんはナチスに占領されたパリでも、連合軍によって解放された後には、パリ市民は、占領中にナチス将校と親密な交際のあった女性を引きずり出し、衆人環視の中で、頭髪を丸刈りにするという、見せしめが行われたとのことです。
一方で、彼女たちにしても、占領時代を生き抜くには、ナチス将校と取り入る以外に、解放後の時代に希望をつなぎ、生計の途を確保する術(すべ)がなかったことには、多言を要しないでしょう。
ステラが、何とか生き延びて、再びジャズシンガーとして返り咲こうと足掻(あが)いていたのと同じように。
それだけに、本作のおしまいで語られる「君たちに過去の責任はないが、繰り返させない責任はある」という、ダッハウ強制収容所の生存者というマックス・マンハイマーの箴言も、その結論を裏づけるものとして、監督など、本作の製作者によって引用されていることも、疑いのないこととも、評論子も思います。
とはいえ、とはいえ。
そういう本作の「落とし処(どころ)」とは裏腹に、何か釈然としないものを禁じ得ない評論子でもありました。
それは、単に評論子には「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」というような寛容の精神が足らないだけなのかも知れませんけれども。
しかし、わが身可愛さ(アウシュビッツ送りを避けるため)とはいえ、そのために同胞を売ってまで…というのは、いかがなものでしょうか。
その点で、彼女が加害者であったことは、払拭しさることのできない要素でもあると、評論子は思います。
そして、密告者に転落してゆく彼女のその葛藤が、作品全体の描写からは充分には窺われないことが、本作の映画作品としての底の浅さになっているようにも思われ、評論子的には、佳作としての評価は無理(良作止まり)と思います。
ところで、「天知る、地知る、己(おのれ)知る」という箴言がありますが、彼女の場合にも当てはまる箴言だったと、評論子は、本作を観終わって、思います。
この箴言は、「「誰も知らないと思っていても、天も地も、自分も、そしてあなたも知っている。だから、隠し事(=悪事)はいつか必ず露見する」という意味のことわざです。この言葉は、中国の後漢時代の政治家、楊震の故事に由来します。楊震が賄賂を受け取ろうとしない際に、相手が「誰も見ていない」と言ったのに対し、楊震が「天も知っている、地も知っている、私も知っている、あなたも知っている」と答えたという逸話によります。(Wikipedia)
最後の最後に、二度目の企図として成功したという、彼女の自殺は、彼女自身が自らが加害者であったと認識もしていたことを雄弁に証言して余りがあったように、評論子には、思われてなりません。
