「ステラはゲシュタポに逆らって死ねばよかったのだ、と誰が言えるのだろう。」ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女 ふくすけさんの映画レビュー(感想・評価)
ステラはゲシュタポに逆らって死ねばよかったのだ、と誰が言えるのだろう。
先日NHKでウクライナの女性兵士の特集があった。
5メートル先に敵兵がいて、目が合ってしまったら、もう銃の引き金を引けなくなるという発言があった。
たとえ自分自身や家族が殺されるかもしれない状況においてさえ、たやすく人を殺すことなど出来ないという描写だった。
しかし、ユダヤ人というだけで、殺すことの容赦のなさはいったいどこから来るのか?
(人は特定の個人を簡単には殺せない。しかし、憎しみの対象である人の属性を滅ぼすことには喜びさえ感じるのかもしれない。)
ステラも最初から躊躇なく、同胞を売ることを受け入れたわけではない。
一つ裏切り、二つ裏切り、そのうちに数百人をナチスに密告してしまうさまは、自分だったら逆らえただろうかと見るものに問いを突き付けてくる。
この映画のクライマックスは実は裁判の場面だと思う。
ステラに密告された側のユダヤ人たちは到底彼女を許すことなどできない。
その誹謗の中で、彼女は自己を弁明し、懲役を免れた時点で心底、安心するのだ。
裁判の時点で、彼女が罪を自覚し、懺悔の様子を開示していたら、ユダヤ人たち、そして観客の私たちは彼女を許すことが出来ていただろうか?
殺したドイツ人も殺されたユダヤ人たちも、そしてステラも、個人の信念で何かを動かすことが出来たのだろうか?
彼女の自己弁明は、個人に責任を帰すことの単純さと愚かさを私たちに突き付けてくる。
同胞を売るたびに、ステラの生活レベルは向上していく。
欲に目がくらんで、人としての正義を失っていく過程と捉えることは簡単だが、自分自身を納得させていく、あるいは自分自身を組み伏せていく過程と考えると、単純に軽蔑できない。
その末の裁判でのステラの態度だ。
彼女は史実の通り、最後に自殺する。
裁判のあとの自殺に至る数十年は一切描かれない。
ステラが自分のなしたことを清算するのに要した時間の長さと、それを強いた傍観者の残酷さを思うと胸が痛い。
ステラはゲシュタポに目を付けられ利用された。
逆らって死ねばよかったのだ、と誰が言えるのだろう。
ステラは最後に化粧し、身支度を整えて死ぬ。
衝動的に死ぬのではない、自分の尊厳を守ろうとしているのだ。
哀れな。
私たちは裏切り者としてのステラの属性を憎むことができる。
しかし、彼女の存在そのものを否定できるだろうか?
戦争と個人、公と私の問題として深い。
追記
ステラの暴力を受けるシーンのすさまじさは歴史に残りそうだ。