ストップモーションのレビュー・感想・評価
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70点ぐらい。気味悪い。
実写とストップモーション・アニメが融合されてて、斬新な感じ。
同じストップモーション・アニメの『マッドゴッド』を思い出した。
赤と緑のライティングを使ったジャッロっぽいオープニングが最高です。
痛々しい描写があります。
現実と虚構が交わっていくような話ですが、眠くなりました(笑)
主演の女性は『スピーク・ノー・イーブル 異常な家族』で、ジェームズ・マカヴォイの妻役を演じた人で、
『ドラキュラ デメテル号最期の航海』や『ゴッズ・クリーチャー』にも出てたらしい。
エンドクレジットで、トム・ヨークの名前が出てビックリしたけど、レディオヘッドのトム・ヨークとは別人で、アチラとはスペルが違いました(笑)
全編ストップモーションから変更?
ストップモーションアニメの技法を駆使し、
その表現力の高さと実写とのコンビネーションを、
最大限に引き出した作品であり、
視覚的なインパクトと独特の世界観で観客を圧倒する。
特に、獣の肉をテクスチャーに使用した表現は、
しばしば不快感をもたらすが、
下品にもなり過ぎず、
単なる「恐怖」を超えて観る者に強い印象を残す。
ただし、
本作のシナリオの構成は少し残念だ。
中盤までのシークエンスは、
視覚的なイメージに重きを置きすぎ、
物語の論理的な展開が欠けているように感じられる。
特に、母親からの指示に基づく〈物理的ロジック〉
と、
少女(エラ自身?)の〈精神的ロジック〉
が交錯し、
エラの気持ちが曖昧に展開する。
パペットのように母に操られるシークエンス、
「私のフィルム」と自分の意志のシークエンス、
自分と少女の関係、〈意志〉と〈操られる〉、
とのつながりが、やや不明瞭で、
観客は物語が進む中で少なからず混乱を覚えるだろう。
この点に関して、物語をもっと論理的に整理し、
前半からしっかりとした構造を築いていれば、
後半の展開が一層効果的に観客に届いたであろうことは疑いない。
後半に入ると、
作品は一転してロジックを放棄し、
感情的なドライブと圧倒的な映像表現に痛さに頼る展開を見せる。
この部分においては、
ストップモーションアニメの特徴も一層際立ち、
独創的なビジョンと表現力が最大限に発揮される。
視覚的な強さが物語に対する観客の感情的な共鳴、
痛さを呼び起こし、
強烈な印象を与えるといえなくもない、
この後半部分だけでも、本作を高く評価する人もいるだろう。
それゆえ、
前半部分のシナリオの不安定さが作品全体の完成度に影響を与えてしまっているのは非常に残念である。
もし前半で論理的にサスペンスまたはホラーに割り切って、
構築が行われていれば、
または、
ストップモーションのシークエンスを増量して、
ホラー色を薄くして、
母親の世界観にシンクロさせていくか、
(元々、ストップモーションアニメで、
全編を製作する予定が途中で変更になったのかと、
邪推までしてしまう)
していれば、
作品の評価はさらに高まったであろう。
期待はずれ
本日初日鑑賞してきました。ただ後半グロすぎて見てられなくなりました笑
そしてイマイチ何を伝えたかったかもわからなかった。
映画を自分で考えて作れないから段々おかしくなって幻覚や謎の女の子の指示に従う、、、、
あの女の子は誰だったかも全然ヒントないから最後までわからなかった。
私はもっとコマドリを生かした作品にして欲しかった。
もっとコマちゃん達を現実世界にも登場させて襲う設定の方がまだ面白かったんじゃないかなと思う。
ストーリーが色々勿体無い。
お母さんの言う事を聞くのが嫌になってその感情が人形に宿って襲うとかの方が面白かったんじゃないかなぁ。
なんかよくわからないただただ長いグロい映画だった。
みんなはどう思ってたのかな。
恐怖の表現は色々と... 悪夢まで見るのは一つだけ?
ストップモーションアニメーションと実写映像を合体させた先人であり伝説的かつ巨匠がいる。数々の映画賞の最高峰を獲得したヤン・シュヴァンクマイエルという人。何と御年90才。本作『ストップモーション』でもアーマチュアに使わていた生肉... その生肉がダンスをするモノフィラメントが見えてしまっていた彼の作品の1分程度の映画『Meat Love』。 その映像が彼の長編作品『Little Otik』に CM として登場している。
本作はというと...
主人公エラの母親のスザンヌはストップモーションアニメーション界のレジェンドであり、人形の動きの0.5ミリの微細までもこだわる完璧主義者でもある。その彼女の体が思うように動かなくなり、始めエラはスザンヌの映画を完成させる手助けをしたい望みと自分のスキルのレベルアップの願望があったが、スザンヌは母親というよりもプロの製作者の立場としてエラと接していた。体の動かない苛立ちからエラとの関係が微妙にギクシャクし食い違ってくる... その様子はエラがこのように語っている。
Her hands are getting worse. I promised I'd help her
finish this last film. So, she's the brains, and
I'm the hands.
・・・・・・・(略)
I don't have my own voice. (※意味深?)このセリフは本作のラストまで続くバックボーン的存在となっている。
その事は...
本作を見続けていくうちに彼女は自分自身の想像力や創造力の欠如から何も作れないことで最初は、母親の、そして母親が倒れてからは、同じアパートに住む謎の少女(Jane Doe)の言いなりとなるパペットでしかなくなる。その決定的な母親の言葉...
You can't control anything.
You're a puppet... caught in your own strings. And if it
isn't me pulling them, it's somebody else.
しかし、「想像力や創造力の欠如から何も作れない」とエラの事をそのように例えたようにあまりにも平々凡々とした関心を持てない気味の悪い映画と思っていると映画は最後まで見てみないと分からないという教訓なのかもしれない。
気管切開をしているのに何故か?ハッキリと話す母親や謎の少女の存在が、すべては虚構を構築した彼女の創造力からであると知った途端に、エラの不快な人形たちの深く不安な深淵の闇を生み出していると分かり始める。ただの暗い気色の悪いホラーと思っていたのが、人形の目が単純な穴から丸めた粘土のボールへ、そしてリアルな目に進化したのと同じようにエラが自分が人形なのか人間なのかを錯誤し始め、入れ替わり始める。ラスト近くになると端正な顔立ちの彼女が人が変わったように髪を振り乱し錯乱し彼女の様相が豹変した。それにパワーアップしたゴア表現にグロテスクさがミックスされ、それまでは並みの気色の悪さだったものが、次元を超えてしまい恐ろしさが突き抜けてしまっている。だからその反動で大ラスは、とても言えない程の虚無感が襲い掛かってしまう。
Lynch himself often stating that the factor of sound is
50 percent of each of his films. (エフェクトに関するドキュメンタリーより)
個人的にはあまり好きではないデイヴィッド・リンチ監督。その監督がドキュメンタリーで語っていたことが、唯一と言っていいほど共感できる。サウンドの影響力の重要性を挙げていたけどその事は本作のフィルム・スコアにも当てはまり、大げさで派手ではない上に映像を邪魔しないことが反って恐怖心を倍増させていた。それに加えてアシュリン・フランシオーシという女優さんが以前に鑑賞した映画『ナイチンゲール』では、ギリシャ神話の復讐の女神エリニュエスのような強い女性を演じていた、その彼女が本作での感情失禁をするシーンでは、これまた凄いとしか言いようがない。それよりも最も感心させられたのは、フィルム・スコアと同じように主演女優を邪魔をしない謎の少女役のケイリン・スプリンゴールのある時は無邪気にそしてある時は大人びた冷めたような演技はピカイチでこの映画が冷淡であることの象徴にもなっていた。
Great artists always put themselves into their work.(謎の少女のお言葉)
気付かずにエラ自身が作り上げた虚構の想像上の世界と自分自身のアイデンティティを辛うじて保つ事の出来ていた現実世界との垣根をなくしたことで映像を映画という総合的な媒体で表現を試みた本作。今度は、我々の想像力が試される。難解なのに何故か?肌で感じる事の出来た本作の締めくくり方とはどのようなものなのか...!? その映像を目撃するチャンスを視聴者は与えられた。
The Ash Man comes three nights.
実写の部分とストップモーションの部分、それにエラがドールとなって没入してしまう虚構のドールの世界... それらを組み合わせるために撮影後、監督は編集のためにロンドンにあるスタジオから自宅まで時間をかけて帰り、編集を続けたと... その工程において並々ならない時間をかけたと聞く。
最後に彼女の居場所は...
やっと眠ることのできる安住の地なのか?それとも誰にも邪魔をされない為に部外をシャットアウトしたやりきれない程の悲劇的孤立した住み家なのか? ご覧あれ!?
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