「ノアの箱舟の大洪水の後の世界」おんどりの鳴く前に レントさんの映画レビュー(感想・評価)
ノアの箱舟の大洪水の後の世界
神の怒りに触れた人類がノアたちを乗せた箱舟以外すべて大洪水で滅んだあと、神はその地を祝福しノアの子孫たちは繫栄を遂げのちの世となった。今のこの世界がその世であるとするなら本当にこの世界は神によって浄化されたといえるのであろうか。それとも再び大洪水がやってくるのだろうか。
洪水災害の起きたその村であらわになったのはその村に巣くう人間の悪意だった。静かにしかし着実に破綻へと向かって行くその展開に息をのむ。
ルーマニアにある辺鄙な田舎の村、自然にあふれた景色は美しいが足元に目を向ければごみが散乱している。一見遠巻きに見ればのどかで静かな村でも一歩足を踏み入れればそこは人間の悪意で満ちていた。
新人警官ヴァリの言葉に怪訝な顔をするイリエ。そんなに気になるなら自分でごみを拾えと言い放つ。彼にはごみなど見えていなかった、いや見えてはいたが見て見ぬふりをしていたのだ。すでに十年になるこの辺鄙な村での警官勤務。もはや人生の折り返し地点を過ぎた年齢になり家族も持てずイリエは人生をあきらめてるかのようであった。
新人警官の赴任早々に殺人事件が起きる。若きヴァリは血気盛んな警官であり積極的に聞き込みを続ける。そんな彼に対し事なかれ主義のイリエは𠮟りつける。もはや警官としての矜持も失われたようなイリエの態度にヴァリも不満を抱く。
かつて若かりし頃は正義感にあふれた警官だったイリエ、しかしそれがもとでこの田舎の村に左遷されたのか、あるいは理想と現実とのギャップに失望し自ら願い出たのかとにかく今の彼には警官としての意欲もなければ覇気もない。ただ村の有力者である村長の小間使いのような地位に甘んじていた。
確かに村長の手腕のおかげで村は洪水からの復興も成し遂げたし、こんな辺鄙な村でありながら人口流出も抑えられ過疎にも至らず村は維持されていた。しかしそれは村長たちの違法な密輸行為による恩恵でもあり、またこの村が村長たちの密輸のカモフラージュとして最適であったためだ。実質村長がこの村を陰で支配しており彼の思うがまま住人に借金を貸し付けてはその土地を奪うなど阿漕なことを繰り返してきた。
殺人事件はその村長によるものだった。それを自ら警官のイリエに告白する。ただの事故、正当防衛だったと。なんの悪びれた様子もない。お互い親子のような関係でイリエもそれはわきまえていた。村長と癒着している検事からもその件はすでに念を押されていた。
事故で処理しようとするイリエに反してヴァリは独自で聞き込み捜査を続けていた。それに対して苦言をいう村長、イリエも了解する。しかしヴァリは瀕死の重傷を負った姿で発見される。口をつぐんでいろと言わんばかりに舌を切り取られた状態で。その姿を見て愕然とするイリエ。
そして思いを寄せていた被害者の妻のクリスティナも村長から家を奪われ村を去ってしまう。すべてが村長たちの仕業だった。イリエがワイロで譲り受けた果樹園の土地も村長が所有者から無理やり奪い取ったものだった。すべては村長の思うがまま、村人はだれ一人逆らえない。そんな村長たちの悪事をイリエは知らなかったのではない。見て見ぬふりをしていただけであった。
もはや警官としての矜持を失い若かりし日の正義感にあふれたイリエは死んだのだ、いや自分で自分を殺したのかもしれない。そうしてただ権力者にひざまずき流されるままに生きてきた、そんな彼はもはや抜け殻であった。若き警官ヴァリはかつての自分だった、そんな彼の命が奪われた、警官としての命を。それに自分は加担したのだ、また自分はあの時の自分を殺したのだ。
イリエは若き日の自分を裏切り、そして今回も権力にただ流されるままに再度若き日の自分を裏切ったのだ。もはやこれ以上裏切ることはできない。
「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言うだろう」、一番弟子のペドロにキリストはそう予言する。その予言通りローマ兵に囚われたキリストの前でお前はこの者の弟子かと問われたペドロは知らないと答えてしまう。自分の罪を悔いたペドロはローマ帝国で布教を行い逆さ十字にかけられて処刑される。
自分を裏切り続けたイリエはペドロのように覚悟を決める。そして村長たちの密輸現場に踏み込み激しい銃撃戦の果てに絶命するのであった。
死ぬ間際、彼は川の水面に映る自分の顔を見つめる。そこに映るのはあの時の正義感にあふれた若き日の顔だった。結構イケてるじゃないかと言い残し彼はそのまま水中に身を沈める。
神が大洪水によって浄化したはずのこの世はこの村のように今も変わらず権力が横行しそれに忖度する官僚やマスコミによって支配されている。キリスト教圏の国であり熱心なカトリック信者が多いアメリカでさえその例外ではなくトランプやイーロンマスクのような富裕層が絶大なる権力で国を支配しようとしている。日本も同様に権力に忖度する役人やマスコミばかりだ。
正義が貫かれずいまだ悪が蔓延るこんな世界に再び大洪水がもたらされるのだろうか。温暖化により極地の氷が溶けることによって。
「おんどりが鳴く前に」という邦画タイトルやノアの箱舟の洪水を思わせるシチュエーションなどから聖書をモチーフとした物語であることがわかる。ただ、出てくる鶏は雄鶏ではなく雌鶏だった。
原題は「善良な人々」の意味。遠目に見れば美しい自然広がる村の風景。そこに住む人間もはたから見れば善良な人々に見える。
なんの悪びれもなく殺人を自供する村長の姿には悪意が見て取れない、本当に正当防衛だったのかもしれない。ヴァリも酔っ払いに襲われただけかもしれない。村長の家で夕食をお呼ばれするイリエ。その食事風景はワイロによる事件もみ消しの依頼の現場とはとても思えないまさに親子のように和やかに家庭料理を囲んでいるようにしか見えない。
見るからに善良な人々しかいない村のようである。しかし、村長が自宅で柱に頭を打ち付ける姿、クリスティナへの酷い仕打ち、神父らしからぬ暴言、その村はやはり遠目では素朴で美しいが近くで覗いてみればほころびが見えてくる。国も同じだ、遠目に見れば美しい国だが、観光客には見えないところでヘイトクライムが行われてたりもするし収容所では人権無視の蛮行が繰り広げられもする。
この村での一部始終を鶏だけが見つめていた。この静かな村で繰り広げられた惨劇を。
ちなみにあの三人組は釣り場にたどり着けたのかな。