「ニワトリは見ていた! コーエン兄弟っぽいテイストで締めるルーマニア発の田舎警官もの。」おんどりの鳴く前に じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ニワトリは見ていた! コーエン兄弟っぽいテイストで締めるルーマニア発の田舎警官もの。
映画『コックファイター』をこよなく愛し、
ここで『殺しを呼ぶ卵』の感想も書いた僕としては、
「ニワトリ映画」なら観ずばなるまいと思って
はせ参じたが、別にニワトリ映画ではなかった(笑)。
いや、だからといって残念なわけでもないけど。
ルーマニアのど田舎の農村地帯を舞台にした
警察捜査ものではあるのだが、
ミステリ的な趣向があるわけでもない。
なので『マクベス巡査』とか『シェトランド』
みたいなのを期待すると肩透かしを食う。
語弊を生む言い方だという気もするけど、
むしろ「ハードボイルド」寄りではないか。
宣伝では、タランティーノを挙げてたけど、
コーエン兄弟にテイストは近いと思う。
あとは、ラスト近くはちょっとペキンパー風味。
ただねえ。
とにかくお話が動かないんですよ(笑)。
ひたすら地味に、地味に、展開する。
音楽も最低限、カット割りも最低限。
長回しで主人公の警官イリエの行動を追う。
フィリップ・マーロウものじゃないけど、
基本、主人公の行動を追う映画なのに、
彼の意図と目的が敢えて描かれない。
どうしてそこに向かったのか、
なんでその行動をとっているのか、
いま何を考えているのか、
そこで何がわかったのかが、
いまひとつ伝わってこないんだよね。
結局、農村をふらふらと移動してまわる
主人公の目に入ることや、耳にすること、
出会った人の様子などを一緒に体験して、
我々も事件の真相を一緒に考えながら観るしかない。
でも、これがひたすら単調なリズムで、
淡々と描かれるものだから、
とにかく眠たくて、眠たくて、眠たくて……(笑)
前半はかなりうとうとしちゃってて、
いろいろ大事な部分を見落としてしまったような気が。
農園を見回ってヒロインと会うあたりで
一度、しゃっきり覚醒したつもりだったんだが、
そのあとまた睡魔が忍び寄ってきて……。
若手警官に例の件が起きてからは、
しっかり集中して観られていたと思うけど。
― ― ― ―
この映画でとにかく重要なのは、主人公のイリエだ。
見た目はちょっと、デンジャラスのノッチとか、
ウォーレン・オーツを思わせる、疲れた初老の男。
(『コックファイター』つながりで、
そう思うだけかもしれないがw)
魯鈍そうな外見。猫背。ふらふらしたがに股歩き。
うつろな眼差し。弛緩した顔の筋肉。
田舎警官としての地域勢力との癒着。
若手警官に対するパワハラ的な言動。
けっして、善良な人間とはいいがたいが、
根っからの悪い人間というわけでもない。
終盤、元奥さんの口から語られるイリエの過去。
過去に不正と馬鹿正直に向き合った結果、
キャリアを喪った敗残者。それがイリエだ。
彼はそれをきっかけに「正しくある」ことを辞めたのだ。
そんな「惰性」で生き、引退後の果樹園での
生活だけを呑気に夢見るイリエのまわりで、
「日常」をゆるがす事件が立て続けに起きる。
長年続いてるような、村ぐるみでの密輸なら、
べつに見逃したっていい。
だが、殺人は? 見せしめの報復は?
ラストで、彼は行動する。
行動の結果は、ここでは書かない。
ただパンフで、パウル・ネゴエスク監督が面白いことを言っている。
主人公のラストのセリフについて質問されて、
このセリフを書いたのは脚本家だとしたうえで、
「なぜならイリエは常に物事に対する評価が甘いからです」と。
彼は自分のアパートが高く売れると思っていたし、
クリスティナが自分に恋をするかもしれないとも考えていた、と。
言われてみればそうだ。
彼は「なんとなく」、
いつも「なんとかなる」と考えている。
そして、うまくいかなくて途方に暮れる。
本作で、本来は悲劇に思われるような物語が、
どこか喜劇的な風合いをまとうのは、そのせいだ。
ドン・キホーテと同じようなもので、
彼はラスト、あれで意外と
「うまくいく」と思っていたかもしれないのだ。
だから、悲壮感がない。
とぼけている。
『ワイルド・バンチ』的な
「レッツゴー」「ファイノット」感がない(笑)。
そういうイリエに寄り添えた観客ならば、
この、全体に息を殺したように地味で、
そこはかとなくオフビートな映画を、
純粋に楽しめるのだと思う。
― ― ― ―
本作は結局のところ、ルーマニアの農村部においては一般的とされる、村ぐるみの汚職とちっぽけな正義の「兼ね合い」の話なのだが、そこはラストとも深くかかわりあってくるので、ここではあえて詳細には触れない。
とはいえ、「地方自治体レベルで機能している巨悪」を前に、「虐げられる弱者」がいるという理由で、ひとりの官吏が「正義」のために立ち上がることの意義と矛盾。
これ自体は、きわめて普遍的なテーマではあると思う。
犯罪自体が地域の主幹産業として成立し、村の富の大半を生み出す原動力となっていて、村民の大半がその恩恵に預かっているという場合、切り捨てられる弱者に報いるために悪を討つことが、本当に正義なのかどうかは、僕にはよくわからないし、あまり確信もない。
犯罪と正義については、いろいろなフェイズでの論理実験が可能だ。
たとえば、戦時中の「闇市」を法で裁いて、みんなで飢え死にしたほうがよかったのかという問いには、「しないほうがよかった、仕方がなかった」と答える人が大半だろう。
では、犯罪者のほうが一般人より多いような、メキシコの麻薬栽培地域での浄化作戦の場合はどうか? ああなると、もはや内戦と変わりないのではないのか。カルテルを温存するほうが、地域の「最大多数の最大幸福につながる」とはいえないか?
あるいは、日本の遠い過去を振り返ったとき、田沼時代の賄賂政治は間違いなく江戸の貨幣経済を発展させ、松平定信や水野忠邦の「正義」の改革は、むしろ江戸幕府を衰退させたのではなかったか。
「悪を裁く」というのは、意外に「社会を弱らせる」ことにもつながる諸刃の剣である。
現代の日本においても、その構図は変わらない。
「悪」を通じて流通している金や利権は、必ずしも巨悪の懐のみに滞留しているわけではない。そこから土建業やら飲食やらといった「特定の業種」に流れて、間違いなく「誰か」の得にはなっているし、それで生活が出来ている人たちがたくさんいる。彼らは悪の「おこぼれ」に預かってはいるが、必ずしも「悪そのもの」ではない。
僕たちは本作において、ルーマニアというきわめて旧弊かつ前近代的な土地柄で、まさにそういった社会の矛盾の「縮図」をまざまざと見せつけられることになる。
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今回、パンフレット記載の専門家のコラムが、作品の理解にとても参考になった。
観終わったあと「なんか最後以外はだっるい映画だったなあ」と思った人こそ、パンフを購入して答え合わせをされることをぜひお勧めしたい。
学習院女子大学の中島崇文教授は、ルーマニアの地域性と犯罪状況について、示唆的な一文を寄せている。この映画で描かれていることが、ごく通常の「あたり前」なのだと教えてくれる。
そのあとの町山さんのコラムでは、「なぜニワトリなのか」が鮮やかに論証される。
町山さんいわく、本作の邦題は新約聖書のマタイ福音書からとられている。
イエス・キリストが使徒ペテロに予言したセリフだ。
「あなたは今夜、ニワトリが鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」
ここからの解説は本当に素晴らしいし、一読の価値がある。
ただ、観ていてそんなことに気づいたり考察できたりする客は、ほとんどいないだろうが(笑)。
ちなみに監督自身はニワトリについて、もともとの脚本には出てこなかったのだが、オープニングとエンディングに登場させるのはいいアイディアだと思ったと述べている。「物語の見届け人」が必要だったのだ、と。
あとモルドヴァにロケハンに行ったときに、実際にあちこちでニワトリがうろついていたのも大きかったらしい。監督からは一言も新約聖書の話は出てきていないようだが、たとえディープ・リーディングだとしても、町山説には実に説得力がある。
というか、町山説に確信があったからこそ、配給会社はこの邦題をつけたということなのだろう。
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●シネマカリテでは、映画が始まる前になんと監督本人が突然映像で登場して、日本の観客に向けて挨拶をしてくる珍しい仕掛けあり。
監督曰く、観て面白かったらぜひSNSで宣伝してね。面白くなかったら面白かったとウソをついてねってことでした(笑)。
●とにかく「酒」と「たばこ」が頻繁に出てくる映画。
このあたり、現代劇なのに、まるで西部劇のようだ。
たばこを渡して火をつけることと、ショットグラスに酒を注いで渡すことが、ある種の「共犯性の確認」になっているあたりも、実に西部劇っぽい。
●ところどころで、シンメトリカルなショットが画面を引き締めている。
とくに元奥さんとのシーンは、冒頭の売却予定の部屋での対話、中盤での予定を変更する際の対話、噴水での資料引き渡し時の対話のいずれもが、シンメトリカルな構図どりとなっている。
●いっさいの宗教的な威厳を感じさせず、ただのプロレスラー崩れの用心棒みたいな言動しか作中でしない謎の狂犬司祭が草。でも胸には大きな十字架が輝いている!
●村長宅での食事シーンは、ルーマニアならではの感じで面白かった。あの黄色いシフォンケーキかトルティーヤみたいなのは、コーンミールを練ってつくる主食らしい。
シモーヌ・シニョレみたいに肥った村長夫人の、慈愛に満ちた雰囲気もいかにもそれらしい。そういえば村長一派の面々は、良いものを食ってるからか、みんなよく肥えている。
●基本ずっと静かな映画であるぶん、イリエが絶叫するシーンには、いずれもインパクトがある。とくに若手警官のヴァリ絡みで、彼は何度か衝撃を受けて大きな声を出す。
そもそも、ヴァリにやたらきつく当たってたのも故あってのことであり、実際は「内心彼のことはかわいがっていた」のだろう。
相棒のために、大金を渡してくる自分の飼い主を●●●●●にするって展開は、実は『ガルシアの首』ともよく似ているような気がする。
●イリエが川に顔を映す例のシーン、僕はなぜか『ガルシアの首』で、ウォーレン・オーツが出陣前に部屋で鏡に自分を映して、一瞬だけサングラスを取って自分の素顔を見つめるシーンを思い出していた。どっちも銃に再装填するシーンが近くにあるからかもしれないが。
●結局、この閉鎖的な村において「川」こそは重要な外界との出入り口(接点)であり、そこを支配しているのが、まさに村長一派だということだ。ラストが埼玉あたりの河川敷のキャンプ場みたいな川べりで展開されるのも、決して故なきことではない。