ノー・アザー・ランド 故郷は他にないのレビュー・感想・評価
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ノー アザー ランド
自身の物の知らなさを痛感しました。
現行のガザ侵攻は、ハマスがイベント会場を急襲し、多数の人質を取ったせいだと誤解してました。
それ以前から、日常的にガザに押し入り、家屋を破壊し、暴力を振るう。
至近距離からの、発砲までも。
子ども達が授業を受けている最中に、学校を襲い、子ども達を放り出し、眼の前で校舎を破壊する。
男女差別論者ではないが、女性兵士が子ども達を抑圧する姿に、とても衝撃を受けました。
イスラエルを唯一止められる超大国の大統領は、パレスチナの人々を追い出して、一大リゾートを造る等と言い出す始末。
かつてナチスに虐げられた人々が、パレスチナ人に同じ虐待を続けている。
救いようのない、悲劇の皮肉です。
真のジャーナリズム
身の危険を冒して撮影する若き監督たちには頭が垂れる思いだ。銃を持った兵士たちに臆することなくカメラを向ける姿からは真のジャーナリスト魂が感じられる。人権を無視したこの理不尽な破壊活動を世界に伝えようという強い意志が全編から伝わってくる。力作と言って良いだろう。
監督は4人の連名となっている。映画はその中の二人、パレスチナ人のバーセルとイスラエル人のユヴァルを主な登場人物に据えて、イスラエル軍によるパレスチナ人に対する弾圧が映し出されていく。これが現在イスラエルで起きていることだと思うと、暗澹たる気持ちにさせられる。
映画はこうした惨状を赤裸々に捉えていくが、同時に取材するバーセルとユヴァル、立場を超えた二人の友情も描かれていく。これは終わりの見えない不毛な争いを照らす小さな光のように感じられた。彼らのように分かりあえることが出来れば、このような醜い争いなど起こらないのに…と思う。
印象的だったのは、あるパレスチナ人青年がイスラエル兵に撃たれて四肢麻痺の身体になってしまうエピソードである。家も破壊されて住む場所を失った家族は洞窟の中で惨めな暮らしを余儀なくさせられる。青年の母親の深い慟哭に憐憫の情が禁じ得なかった。
もう一、パレスチナ人とイスラエル人では車のナンバープレートの色が違うというのも印象的だった。パレスチナ人の車は緑色、イスラエル人の車は黄色のプレートと分けられている。バーセルの父親は給油所を経営しているのだが、店先に黄色と緑色のナンバープレートが掲げられている。これはどちらの車でも給油できるという印なのだろう。
そして、当然のことながら緑色のナンバープレートの車は居住区を出ることが出来ない。そのためユヴァルとバーセルが会うためには、いつもイスラエル人のユヴァルがパレスチナ人のバーセルの家を訪ねることになる。うろ覚えであるが、ある時バーセルがこんなことをポツリと呟く。
「いつか君を訪ねる日が来るだろうか?」
この言葉は二人の立場の違いをさりげなく物語っているように思った。
確かに二人は同じ志を持つ盟友である。しかし、決して対等というわけではなく、根本的な所ではやはり格差が存在するのである。願わくば自由に行き来できるようになればいいのだが、果たしてそんな未来はいつになったら来るのだろう…と考えさせられてしまった。
また、映画のタイトル「ノー・アザー・ランド(原題)」は、他に行くべき場所はないというような意味だが、これもバーセルの思いを表した言葉と言えよう。ユヴァルには帰れる場所がある。しかし、自分にはここしかないという悲しみ。二人の住む世界の違いを端的に表しているように思った。
ちなみに、最近、4人の共同監督の内の一人が、イスラエル人の入植者に暴行を受けて軍に連行されたというニュースが話題になった。その後、無事に保護されたということだが、その時に受けた傷は今でも癒えてないという。
実際に本作でもバーセルたちが軍人から暴行されたり連行されそうになるシーンが出てきてヒヤッとさせられた。今回の事件は実際にそれが起こってしまったというわけである。
このような危険な状況を顧みず勇猛果敢にカメラを回し続けた4人の監督たちには、改めて敬服するばかりである。
恐怖に駆られているのはどちらか。
映像を観ていると、恐怖に駆られているのは、パレスチナの人々ではなく、軍や武装した入植者の方であることがよくわかる。自分たちのしていることは国際法違反であることを自覚し、人道上の後ろめたさもあるからこそ、武力や詭弁のような国内法を盾に、破壊活動や言論統制を進めて、時には実際に発砲もするのだ。
本当に哀れなのはどちらか。
ガザ侵攻前のイスラエルのパレスチナへの戦争犯罪については、アジアンドキュメンタリーズの「ガザ 自由への闘い」が無料で視聴できるので、ぜひこちらもご覧いただきたい。
単品購入という形にはなるが、そのサイトには、「医学生ガザへ行く」もある。在りし日の美しいガザの街並みと、そこに暮らす人々が、当たり前だが、とても人間らしく生きている様子が伝わってくる。
パレスチナで、恐怖に駆られた狂信者たちの被害に遭っているのは、単なる数ではなく、固有名詞を持った一人一人の人間であることを忘れないようにしたいと強く思った。
そして、どちらの国家や民族を支持するとか、右だ左だという二者択一に陥ることなく、真に公正公平と社会正義が実現する世界の方向を見据え、自分のできることをしたい。
【”シオニズムの壁は越えられないのか!”ヨルダン川西岸のパレスチナ人居住地区の青年が、イスラエル人青年と共にイスラエル軍により破壊されて行く故郷の姿を4年に渡り記録した値千金のドキュメンタリー作品。】
■2019年。バゼルが暮らすヨルダン川西岸のパレスチナ人民居住区に、イスラエル軍が軍事訓練施設建設を口実に、パレスチナ人私有地をブルドーザーで破壊し始める。
激しく抵抗するパレスチナ人達だが、銃を持つイスラエル軍に家を壊され、洞窟に家財一式を持って避難する。
バゼルはその様子をスマホで撮影し、ネットで配信する。その状況を知りイスラエル人ジャーナリスト、ユーバールがやって来て、取材や編集に協力するのである。パレスチナ人の一部から非難されつつも。
彼らの抗議の声やイスラエル軍の非人道的な行為は世界に発信されるが、イスラエル軍の破壊行動は過激になって行き、家だけではなく学校を壊し、ナント生命線の井戸までコンクリートで塗り固めるのである。人道違反である事は、明らかである。
◆感想
・このドキュメンタリー映画の価値は、イスラエル軍の非人道的な蛮行を世界に知らしめた事と、制作にイスラエル人が加わっている事である事は、論を待たない。
彼らの行為は、正に命懸けで世界にパレスチナ人居住区で何が起きているのかを伝えたモノであり、そこにはシオニズム、反シオニズムの壁はない。微かなる希望がそこから感じられるのである。
・それにしても、イスラエルのネタニエフ達政治家は且つて、ユダヤの民がナチスドイツにされた非道なることを忘れたのであろうか。この映画で描かれている事は、且つてユダヤの民がナチスドイツにされた事を、そのままアラブの民にしている事だからである。
現代社会に蔓延る全体主義、自国ファースト思想の浸透であろうか。住民一人に発砲するイスラエル軍の姿と、息子を銃撃され下半身不随になった事を嘆く母の姿が哀しい。
・映画の中では、バゼルとユーバールの会話も映される。バゼルは”法学の学位を取ったのに、イスラエルの建設現場の仕事しかない。”と嘆く。又、ユーバールは”パレスチナ人の自由なしに我々の安全はない。”と言う名言をさり気無く口にするシーンも映される。先見性の或るユーバールや、登場しないが共同監督をしたラヘル・ショールの様な思想を持つ政治家を、イスラエル政府の要衝ポストに置いてくれないかな。良識あるイスラエル人に是非とも行動を起こして貰いたいモノである。ご存じのように、イスラエル人の中には、ネタ二エフの行為を批判している人が多数居る事は、信用できる新聞が報じている。
それで思い出したが、共同監督のハムダン・パラルが暴行され、イスラエル軍に一時拘束されたニュースが流れた時はイスラエルもそこまで堕ちたか、と思ったが解放されて良かったよ。
・けれども、ユーバールの”パレスチナ人の自由なしに我々の安全はない。”という言葉が現実になった23年10月のイスラム組織ハマスによるイスラエル攻撃には、暗澹たる気持ちになった事を想い出す。
序に言えば、自分に有利な情報のみ真に受けて、衝動的に発言、行動するアメリカのオレンジ色の顔の、頭が空っぽの男は少し黙っていて欲しいのだけどな。事態を悪化させているだけなのだから。
<千年以上続く宗教問題が根底にあるので、そう簡単には解決しなだろう事は十二分に分かってはいるのだが、ユダヤの民もアラブの民も、シオニズム、反シオニズムの壁を越えての融和を模索する気はないのだろうか。
”怒りは怒りを来す。”と言う言葉を知っているのだろうか、と思ってしまった作品である。
だが、この作品は、命の危険がある中で製作、公開した若い世代の4人の映像作家兼活動家の存在に微かなる希望を感じさせてくれる作品でもあると私は思うのであり、そこにこの作品の値千金の価値があると思うのである。
何時か、全てのユダヤの民とアラブの民が、今作のバゼルとユーバールのような関係になる事を望むモノである。>
<2025年4月6日 刈谷日劇にて観賞>
今後はどこの国でも同様のことが起こる可能性がある
Wikipediaでマサーフェル・ヤッタを調べると現地の言葉で「何もない」というのが地名の由来だそうだ。そんな何もない土地でも古くから人が住んで生活している。逆に、軍や入植者は何もない土地に何を期待して追い出そうとするのだろう。と思っていたら、土地目当てではなく、単にそこに住む人たちの生活を破壊するのが目的だったという。ひどい話。
パレスチナ人とイスラエル人、2人ずつの共同監督のドキュメンタリー。家屋をブルドーザで押しつぶすイスラエル軍の軍人たちはサングラスで表情が見えないが、どんな心境だったのだろう。やめてくれと懇願するパレスチナ人に向けて、カメラの前でも平気で発砲するのも衝撃だ。理解できない。撮る方にイスラエル人が入っているのなら、軍側のコメントも欲しかった。
しかし、どんな事情があろうとも、子供たちの眼前で小学校の建物を破壊する道理はないだろう。
追い出された住民たちはどこへ行くのだろう。都市部へ移住させ、今度はその都市丸ごと別の理由をつけて爆撃するつもりでは、とガザの惨状を見て考えてしまう。
自分の生まれた故郷は忘れられないものだよね。そうだろ?
逞しく、勇気溢れる姿に感動
21世紀の現代においても、
はるか昔の植民地と変わらず、
武力で先住者を追い出し、土地を強奪することが
日常的に繰り返されている現実に対して、
そしてテクノロジーは著しく進歩しても、
人間自身がまったく進歩していないことに対して、暗澹たる気持ちになった。
仮に古代の歴史とか、法律とか追い出す側に何か理由があるにしても、
長く同じ地に住み、平和に暮らし家族の歴史を紡ぎあげてきた先住者に対して
敬意をもって近しい目線、態度で接することが人としての最低限だと思うが、
そうできないのは、差別とか偏見とかが根底にあるんだろうなと想像する。
頻繁に武器を目の前に突きつけられる不安に晒される日々でも、
ひたすら悲観的に落ち込むことなく、
家族みんなの集まる食卓には、会話に笑いもあるし、
厳しい現実に悩みながらも、将来や家族について思いを馳せる
若者の強く逞しい姿にはほんとうに勇気づけられ、救われる思いがした。
命をかけて現実を伝え、そして様々に考える機会を与えてくれたことに感謝。
不法入植という「絶望」の実態
本作は、中東の地で続くパレスチナ問題を映し出したドキュメンタリーである。ユダヤ人とパレスチナ人が共同で制作し、ユダヤ人の中にもパレスチナ人への仕打ちに憤る人々がいることがわかる。映像は淡々と事実を映し出し、視聴者に直接的な説明を与えず、感じ取ることを求めている。
◇土地収用の実態
ヨルダン川西岸における入植地の接収は国連決議に反し、国際法にも違反している。正式な国家として成立していない状況を利用し、パレスチナ人の土地が奪われ続けている。映画では、住民の抵抗に対する発砲、住居の破壊、井戸の封鎖、夜間の家宅捜索など、数々の暴挙が映し出される。
◇ユダヤ人ジャーナリストとパレスチナ人
パレスチナ人コミュニティに溶け込み、事実を伝え続けるユダヤ人ジャーナリストの存在が印象的である。彼は軍や入植者の行動に立ち向かいながらも、パレスチナ人と友情を築いていく。彼らの関係は、映画の中で唯一希望を感じさせる瞬間である。
◇日常の抑圧
ガザ地区のみならず、西岸地区においても、パレスチナ人の日常は制限されている。経済活動や移動の自由が奪われ、監視と圧力が続く。入植地の拡大により、土地を失った人々が強制的に移住させられる現実も描かれている。
◇移民政策と入植者
中東の地では、移民の受け入れが積極的に行われている。近年のロシア・ウクライナからの移民増加により、さらに多くの土地が奪われている現実がある。土地を追われるパレスチナ人の苦悩が、この映画を通じて浮き彫りになる。
◇長期化する闘争は子孫が継承
パレスチナ人は、世代を超えて土地を守るための闘争を続けている。短期的な抵抗が無力であっても、彼らは長期戦を覚悟している。怒りと悲しみを抱えながらも、土地への愛着を胸に、未来への希望をつなぎ続けている。
本作は、単なる過去の記録ではなく、今もなお続く現実を映し出している。パレスチナ人の声に耳を傾け、抑圧の歴史を記憶し続けることが、我々に求められているのかもしれない。
両方の歴史をいちから学ぶ必要がある
この事実に正当性はない
政治的歴史的背景がどうあれ、100年かそれ以上も前からここに住み、平穏に暮らしてきた人々が、家を壊されインフラを破壊され身体の安全すら脅かされて、私有地であるにもかかわらずそこから追放されつつある目の前の事実に正当性はない。
イスラエルは、飛行場建設はこれ以上イスラム勢力を拡大しないため、とか言っているらしい。
ここで暮らす村人たちは、対岸のガザ地区の過激な人たちとは違って、ただ日常を暮らしてきただけだ。激しい憎しみや怒りや不満や、切羽詰まった理由がなければ過激な行動はしないのが人間だと思う。過激な行動には危険が伴うので、平穏に暮らしている人ならわざわざそれを壊すような行動は極力避けるでしょう。
にもかかわらず、この仕打ち。司法がすでに平等ではない。なにもないところに激しい憎しみや怒りを生み出すだけの、極端な悪手だ。
何世紀も迫害されて流浪の民だったユダヤ人がようやく自身の祖国をもてたのがイスラエルなら、前からの住人と争いを避け可能な限り共存していくのが国民の幸せに繋がるのは子供だってわかる。
パレスチナ問題「シロウト」の自分からは、ユダヤ人として受けてきた積年の恨みを、パレスチナのイスラム教徒というだけで手あたり次第八つ当たり的にぶつけているように見える。おそらくは見せしめ、牽制ということだろうと思う。
個人的にはユヴァルのように非人道的な行為に心痛めるユダヤ人もいるが、国家がこの不条理な占領・追放と迫害政策をとっている以上、ほとんど何にもならない。
こんなことを続けていたら、いづれ「ナチスドイツがしたことにも一理ある」と考える人が増えてしまうのではないか。
ただただ胸が痛む
私達日本人に、この作品に星をつける権利があるのだろうか
正義とは、一体何?
人間が持つ、根本的な矛盾を目の当たりにする。
遠い海の向こうの事は関係無いと思ってる日本人が観るべき作品。
本年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した本作。
紛争中のガザ地区の話では無いが、この作品の舞台はガザ地区よりはまだ良いと言われている“ヨルダン川西岸地区”のドキュメンタリー。同じ“人間”がかくも非人道的な事を行なっているのかと思うと胸が張り裂ける。
そこに人権などない。
そして、海の向こうの出来事に、ほとんど触れる事も無い日本の報道機関やジャーナリズム、毎日使うスマホの情報は人々の思考にあわせた都合の良い情報ばかり。
知らぬ間に、何者かに支配されている我々に“民主主義”の“正義”を語る資格はあるのだろうか?
ヨルダン川西岸地区という通り、川の対岸はヨルダン王国。中東は「危険」という先入観があるかもしれないが、ヨルダンは比較的安全な国と言われている。外務省の渡航危険レベルでは“1”十分注意となっているが、エジプトやモロッコもレベル“1”、地域によってはより危険な地区もあり、中東の中では比較的治安は良いとされている。実際10年ほど前に映画「インディージョーンズ」でも有名なペトラ遺跡に行きたくてガイドブックを購入したが、「とても治安が良い。一般家庭に鍵が付いていない家も多く、道に迷ったらどこからともなく人が集まって、あーだこーだと教えてくれる」なんて嘘か本当かわからない様な情報が載っていた。
そんな、ヨルダンの対岸に位置するパレスチナ人の土地。
Wikipedia(適切な出典では無い)には、ユダヤ人入植地について「イスラエル入植地はアラブ人を追放する事を目的とした物ではなく、実際に行ってもいない。また、入植地はヨルダン川西岸地区の3%程度の面積である」と発表しているそうだが、そんな方便が嘘八百な事は容易に想像できる。
何故イスラエルの人々はそんな非人道的な事をするんだろう、何故?
日本人がイスラエルに“イメージ”するのは、恐らく“ユダヤ人”の国、そして“ユダヤ人”と言えば、第二次世界大戦で抑圧と虐殺をされた民族、そう思うのは私だけでは無いと思う。
しかし、この作品に登場するイスラエル兵士や入植者達の姿にはそんなイメージは結び付かない、彼らの行為は全く共感できないし、何故この様な事をするのか、理解もできない。
海の向こうにいる日本人には、まるでウクライナで非人道的なジェノサイドを行なっているロシア人兵士と同じに見える。
そして、そんな非人道的な行為を支援しているのが“アメリカ”だという事もわかっている。
何故「力による現状変更」を、日本の民主主義同盟国でもあるアメリカが支援するのか?
正義とは何なのかがわからなくなる。
日本国憲法第十四条
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
法治国家における“法”とは、公正で公平な社会を築く基礎であり、国民の自由と権利を守る民主主義の根幹だ。
ただ、法律にも矛盾が無い訳では無い。
人を殺す事は“悪い事”、「そんな事は当たり前」と思うだろうが、戦争で“敵”兵士を殺す事はある意味“良い事”英雄視される事だってあり得る。
昨年公開された映画「オッペンハイマー」に映し出された原子力爆弾をとってみても、日本人にとっては“悪”な存在だが、アメリカ人にとっては“善”な存在だ。
21世紀になっても、世界のどこかで殺戮が繰り返されている。「人を殺してはいけない」という“概念”は、決して人間の本能では無いのだ。
そんな、人間の中に当たり前の様にまかり通っている“矛盾”を、改めて痛感させられた。
今日ドラッグストアでチョコレートを買おうとして躊躇した。有名メーカーの手頃で美味しいチョコレート。
以前、カカオ原産国の農場で、人身売買で買われた子供がカカオ農場で働かされていることが問題になった。そして、我々が身近に享受しているささやかな喜びも、遠い目の見えないところでは全く違う真実があるのかもしれないと初めて知った。
原産国の児童労働は未だ改善されていない。
日本の有名メーカーの、子供等を笑顔にさせるお菓子、なのにそのお菓子の向こうに何があるのか、なんて考えて買う事も無いだろう。
我々には知らない事が沢山ある。目の前に見えている事が全てではない。
ただ大切なことはある。
それは、“真実を見極める”事。
断片的でもよい、常に事実を見つめそれらの行為が人類にとって正しい事なのか、正しくない事なのか。
その先にある真実とはなんなのか。
人間が“真実”とはなんなのか見つめる事を放棄した時、人間は滅びのカウントダウンを始めるかもしれない。
この95分の映像の“事実に”触れる事は、真実に辿り着くための重要な一歩かもしれない。
3月26日BBCの報道で、映画「ノー・アザー・ランド」の共同監督でパレスチナ人のハムダーン・バラールさんが、イスラエル人入植者に暴行された後に軍に連行され消息不明になっていた。と報道があった。米アカデミー賞でオスカーを掲げていたのがついこの間なのに、
ヨルダン川西岸の入植地の警察署で「恣意的に」拘束され、イスラエル兵から暴行を受けた、イスラエル人入植者たちが村を襲撃したとき、入植者たちはバラールさんの頭を「サッカーボールのように」蹴った、軍に拘束された後も目隠しをされ、イスラエルの兵士らが交代で見張りに来るたびにバラールさんを蹴ったり棒で殴ったりしたとの証言もAP通信に述べている。
日本の地上波報道機関でこのニュースに触れているニュースは聞いたことが無い。残念ながらそれが事実。
“真実”がどこにあるのか、この95分のドキュメンタリー映像を、その目で見て、確かめて欲しい。
パレスチナ人の不満はわかるが・・・
破壊される故郷を撮影するパレスチナ人青年が2019年夏から2023年10月までの4年間にわたり動画を記録したドキュメンタリー。
ヨルダン川西岸マサーフェル・ヤッタで生まれ育ったバーセル・アドラーは、イスラエル軍による占領が進む故郷の様子を幼い頃から撮影し、世界へ向けて発信してきた。次第にイスラエル軍の破壊行為は過激さを増し、ガザのハマスが2023年10月にイスラエルへ攻撃した事により、ヨルダン川西岸のマザーフェル・ヤッタにも影響があり、撮影が続けられなくなった、という話。
不条理な占領行為というのはパレスチナ人からみた言い分であり、1900年から住んでいたと言ってたが、紀元前10世紀頃にはその地に古代イスラエルが有ったのだし、1948年の現イスラエル建国によりユダヤ人はやっと約束の地に戻って来れた訳で、その後も領土を巡る争いは続き現在に至る、という事だろう。
ユダヤ人は約束の地を追われ、現イスラエル建国まで長い間住む所を持てなかったのだから、いつから住んでいた、というのも言い出したらどこまで遡るのか、と収拾がつかない気がする。
不法占拠と言えば、日本の北方領土を今だに占領し続けてるソ連からのロシアや、今もウクライナで酷い事をしてる同じくロシアなんて、あんなもんじゃない。
マリウポリの20日間、などはもっと悲惨だった。
住民を無差別に殺し、人々を車に積んで自国の別の場所に運び、強制労働させ、抗議が有ったら釈放と称して送り返す。
そんな事に比べたらまだゆるい感じがした。
生まれた土地を離れたく無いという気持ちは良く伝わったが、もっと酷い侵略者は他にいくらでもいると思う。
嘆くだけでは、、、
あまりの現実に理解が追いつかない。
アカデミー賞をはじめ世界中で高く評価されても、パレスチナの状況は悪化するばかりだ。長年、多くの人が声を上げ、今日も世界中でデモが行われている。それでも現実は変わらない。イスラエルの正義を語る声はほとんど聞かれないのに、この事態が容認され続けていることに違和感を覚える。
同時に、イスラエルの安全保障への脅威や、一部の過激なパレスチナ人によるテロ行為が状況をさらに悪化させている現実もある。暴力の応酬が、和平への道を遠ざけている。
映画を観ても、「パレスチナ人は迫害されているよな」という記憶だけが残り、私たちは今日も日常を生きている。
世界中が怒っている。けれど、その怒りは現実を動かさない。
この映画の称賛が、免罪符になってはいけない。
自分もまた、「分かったつもり」になっていないか――そんな問いが残る。
解決には、構造そのものを問い直す必要がある。
それでも、信頼される指導者が現れ、国家としてのビジョンを描けたなら――そこに希望はある。
国家とは象徴ではない。経済、防衛、統治、外交。現実的なビジョンと、それを導くリーダーシップが不可欠なのだと思う。
見捨ててないよ
学校をブルドーザーで壊し、発電機を奪い、取り返そうとした人を撃ち、井戸を埋め、大工道具も奪い…。
イスラエルや入植者の酷さはSNSでよく知っていたので驚きはなかった。SNSだと入植者の子供までもがパレスチナ人を迫害していて怒りがわく。
あんな風に簡単に人が撃たれ、誰も罰せられない世界があるなんて。それが同じ現代に起きてる。
バーゼルとユバルにいつしか芽生える友情めいたもの。パレスチナ人とイスラエル人、立場の違いが浮き彫りになる。交わされる言葉、沈黙。
時には怒りが抑えられなくなって、バーセルが無口になるシーンもあった。いつか自由に行き来できるようになればとユバルに言われても、バーセルはうまく思い描くことができないようだった。
ユバルがアラビア語を覚えたことでいろいろなことを知ったと言っていたので、ヘブライ語だと情報に偏りがあるのだろう。それにしても、イスラエル兵や入植者はどんな気持ちであんな酷いことをしているのか、そちらのインタビューもあってもよかったかも。聞くに耐えない言葉だとしても。
私からみると、パレスチナ人もイスラエル人も見た目では見分けはつかない。よく似ているように思う。彼らが破壊し、追い立てているものはなんなのだろうか?恐れは何も生まないのだと思う。
希望があるとすれば、今日の映画館にたくさんの人がいたこと、このドキュメンタリーがアカデミー賞をとったこと。世界は見捨ててないよと伝えたい。
70年以上にわたるイスラエルの侵略とパレスチナの苦難を多くの人に知ってもらえたらと思う。どっちもどっちではないし、暴力の連鎖ではない。イスラエルによる侵略とパレスチナによる抵抗なのだと。
世界平和は永遠に来ないのか
映画を観たばかりで起きた、この映画のパレスチナ人監督へのイスラエル兵による暴行、拘束と釈放のニュース。
イスラエルパレスチナ問題は複雑過ぎて意見する事はできないが、仕事で毎日イスラエル製機会を動かし、あちらのエンジニアもたまに来日来社してくれるが、そんなイスラエルに対する俺の感想は「理解できない」。分からないとしか言えない国。
映画は西岸地区でのイスラエル兵によるパレスチナ人迫害を克明に映し出して行く。
平日にも関わらず、都内の映画館は満席に近かったが、日本人がパレスチナ問題に関心を寄せるのは正直難しい。
イスラエルの後ろには西側諸国、パレスチナの後ろにはアラブ諸国、ロシア、中国がいる。この対立が第三次世界大戦につながれば世界が滅びる。その可能性は決して低くない。
今必見の一本
パレスチナにおける等身大の若者たち
ドキュメンタリー作品の魅力は、ストーリーに頼らないからこその空気感だと思う。バーセルとユバルの関係は友情というのはあまりに曖昧で、でもそこがいい。バーセルは逮捕を恐れる普通の青年でユバルはイスラエルのやり方に疑問をもちつつも等身大で、どこにでもいるような二人がこれ以上ないほどの非道な暴力と抑圧を直視し映像に残し続ける。この作品の一つの柱はこの二人のリアルな心模様でもう一つの柱はヨルダン川西岸のパレスチナ人居住地区で何が行われているか、だと思う。村人が使う井戸にコンクリートを流し込み、小学校をブルドーザーで破壊し、水道や電線を切り、毎日一戸の家を破壊するようなやりかたで、村人の心を挫く。パレスチナ人を追放する光景や入植者による暴力は、同時代にこれが行われていると思うと苦しくなる。社会は正義ではなく力によって支配されているということを痛感しつつ、やるせなくなる。
バーセルも、そしてパレスチナ人に時折責められるユバルも、諦めたようなうかない表情が目立つものの時折若者らしい姿もみせる。それがまた切ない。ユバルの語る絵空事はバーセルには響かないし事態はむしろ悪くなってゆく。家を壊されても洞穴に住むことでマサーフェル・ヤッタを離れようとしなかった村人も、事態が変わっていくことで離れることを与儀なくされる。
普通の若者二人がとったマサーフェル・ヤッタの真実。懐かしく温かい故郷を踏みにじられるということの痛みを、少しは共有できただろうか。人間性を放棄し、子どもたちがいる学校を潰し井戸を埋める行為は、イスラエルの若き兵士の心をも蝕んでいくんじゃないか。パレスチナという最も人間性が軽視されている地においての、等身大の若者の視線がなんとも言えない重い作品だった。
全122件中、21~40件目を表示










