「それでも、すべては国民の側次第」お坊さまと鉄砲 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
それでも、すべては国民の側次第
〈映画のことば〉
世界の他国では国民が血を流して与えられたものが、国王から与えられようとしている。
ラマが若僧に鉄砲2丁の入手を指示したのは、その鉄砲の武力(武装)で何かコトを起こそうということではなく、これから民主主義の世の中になる(=武力ではなく、言論によって世の中のものごとが決められるようになる)のであれば、銃器は必要がなくなるので、政治世界の変化の象徴として、銃器を仏舎利に葬(ほうむ)る必要があるという意味合いだったようです。
経営の神様と言われた故・松下幸之助翁は、自著で「(主権者である)国民が政治を嘲笑しているあいだは嘲笑に値する政治しか行なわれない」「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しかもちえない」という二つの言葉を繰り返して公言し、国民一人ひとりがもっと自分のこととして政治に関心を寄せなければならないと呼びかけたということです。
国王が政治の第一線から退いて、ブータンがどんな国になっていくのかは、その当のブータンの国民次第ということでしょう。
本作は、「民主主義」という政治体制の本来の姿をちらりと垣間見せつつ、その全貌を静かに暗示させる一本として、なかなかの佳作の評価に値すると、評論子は思います。
(追記)
評論子の住む都道府県の東の方にある、とある市町村で、全道で初めて情報公開条例を施行した日、件(くだん)の市町村の首長は、自分の執務室と担当課との間を、何度も行ったり来たりしたと聞きます。
その都度、担当職員との間で「(公開請求は)あったか?」「ありません。」という会話を、無限ループのように繰り返したとか。
情報公開制度は、今まで行政だけが独占してきた情報を住民にも公表し、タックスペイヤー(有権者=公費の負担者)として、行政を監督・監視するという住民の側の強力なツールであることは間違いがないのですけれども。
しかし、結局は「ツールを与えられても、そのツールを使いこなす術を知らなければ「宝の持ち腐れ」で、何の役にも立たない」ということでしょうか。
前掲の映画のことばは、東洋の端の方のどこかにある、唐辛子のような形をした細長い国にも、そのとおりに当てはまりそうな箴言であるとも、評論子は思います。
(追記)
その「東洋の端の方のどこかにある、唐辛子のような形をした細長い国」も民主主義国家を自称しているようですし、世界でも民主主義国家として見受けられているようではありますけれども。
その国の民主主義も、本作のブータンと同様に「(GHQによって)与えられた民主主義」の国家です。
その国に真の民主主義が根づいてはいないのではないか、と思うフシが時として見受けられるのは、やっぱり、彼(か)の国の民主主義が、本作でのブータンと同様に、自らは血を流すことなく(上から)与えられた民主主義だからでしょうか。
本作は、評論子には、そのことにも思いを至らせてもらえた一本だったことも、せっかくこのレビューをアップするに当たっては、申し添えておきたいと思います。
(追記)
本作が実話ベースのものかどうかは、評論子は寡聞にして知りませんけれども。
社会の複雑化・国民の価値観の多様化に伴い、もはや一人の為政者(国王)が一国を治めることが難しくなってきている…合議制の議会によらなければ国民の利害を適切に調整することは難しくなることを理解していたのであれば、時のブータン国王の先見の明には敬服します。
わが国でも五箇条の御誓文(明治政府の施政方針)に「万機公論に決すべし」と謳われたことと、その趣旨は同じなのだろうとも思います。
talkieさん、お邪魔します。・_・
色々と深い所まで考察されたレビュー内容に
いちいち頷きながら拝読しました。
降ってきたようにいつの間にか手の中にかあるモノには
その有り難みを感じるのがなかなか難しい。
そういうものなのだろうなと思います。
ただ、その「何か」を得るために血を流すことの無かった
こと自体は「幸運なこと」としていかなければいけない
のだろうなぁ ともまた、これもしみじみと。
この作品考えれば考えるほど、奥の深い作品だなぁと
思えるようになりました。