「描かれすぎた秒速5センチメートル」秒速5センチメートル 暁の空さんの映画レビュー(感想・評価)
描かれすぎた秒速5センチメートル
新海誠作品の中でも、とりわけ静かな痛みを描き個人的には一番お気に入りの作品。したがって実写版は楽しみと不安相反する気持ちで鑑賞。
そんな立場からすると今回の実写映画化においては、その「痛みの本質」がやや形を変えてしまった印象を受ける。
なぜ、「あの曲」の使用をあのタイミングで、しかもあんなに短くしたんだ!
結論から言えば、この作品は「原作を見たかどうか」で評価が大きく分かれると感じる。
16mmフィルムで撮ったかのようなルックは素晴らしい。(時代ごとにその「画面の粗さ」が変わっていればもっと最高だったが。)
原作をトレースしたかのような画作りも、リスペクトを感じ好感。
内容も時系列や構成はやや変えたものの原作から大きな改編はないように「一見」思える。
が、私は原作との大きな、決していい方向ではない違いを感じてしまった。
一番残念なのは原作アニメ版が持っていた核心、すなわち、音楽と映像が一体化して生まれた“感情の余白”が抜け落ちてしまっている点。
原作版ラストで流れるあの曲こそ、貴樹と明里が再び言葉を交わすことのない世界における“唯一の対話”であり、感情の断絶を超えてつながる魂の余韻。主人公二人の切なさや想いや寂しさや儚い希望や現在の心境すべてをその歌詞に託した存在。
だが今回、その機能を大きく削いでしまった。作品の核心が静かに止まってしまったような寂しさがある。
一方で「その代わりに」といった印象で余計なものが足されている。原作にはないキャストから貴樹が明里の気持ちを知ってしまうシーンである。
その一瞬の「貴樹の了解」が、物語の詩情を決定的に損なってしまった。原作において二人は、互いの心を知らないまま時間の流れに呑まれ、言葉にならない想いが空白として残ることで観客に永遠の余韻を残した。そこに「知ってしまう」瞬間を挿入したことは、作品を“文学”から“説明”へと引きずり下ろしてしまった感さえある。
結果として、本作は「描かれすぎた秒速5センチメートル」になってしまった。
原作が観客の心に委ねていた部分を、映画は親切に埋めてしまった。その親切さが、この物語にとっては最大の不幸である。
タイトルの「秒速5センチメートル」。それは桜の花びらが落ちる速さであり、ひょっとしたら雪の落ちるスピードであり、愛が終わる速さでもある。
だが、本当に美しいのはまだ落ちきっていないその瞬間だったのだと原作は語っている。今回の実写版はその瞬間を見逃してしまったように感じる。
山崎まさよしの曲が、原作とは違う“動”の場面で使われたことで歌詞が入りにくく感じました。
寂しさ紛らすだけなら 誰でもいいはずなのに
星が落ちそうな夜だから 自分をいつわれない
このフレーズなどは、明里のみならず花苗や水野との関わりを保管してくれます。
反面、原作の余白を丁寧な台詞と展開で埋めすぎていたのは、自分も残念でした。
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