「原作の大切な部分を大切にしなかった作品」秒速5センチメートル mgktさんの映画レビュー(感想・評価)
原作の大切な部分を大切にしなかった作品
過去で足を止めてしまった貴樹と歩みを止めなかった明里。遠く離れた二人が偶然踏切ですれちがうことで貴樹は再び歩き出す。これが原作の大切な部分だったと考えている。
ところがこの実写作品は脚本と演出はその部分を大切にしなかった。もしかしたら飲み会やプラネタリウムで偶然会っちゃうのかもというシーンをいくつも作った。公開前の人物相関図を見てそんな展開は止めてくれよと考えていたことを思い出した。
ほんとは「君の名は。」をやりたかったの?大人になって岩舟に向かう場面はもうその場面のための場面であって蛇足じゃないか。
構成が時系列に沿っておらず回想シーンを行ったり来たりするせいで二人の距離感に一貫性がなくなってしまった。
明里が手紙を見直すシーンやパンフレットで貴樹の名前を見るシーン。あれは二人の距離を縮めたかったのだろうか。だとするとテーマが壊れる。それに縮まったのに明里は何もしないの?縮まらないのならなぜ出した?
そもそも明里はどう受け止めたのかがわからなかったが。
大人の貴樹を日常のコミュニケーションも拒否するような社会性を欠いた人間という描写は何のためだったのか。
貴樹と理紗の関係をコミュ障同士の傷の舐め合いかと思わせるような関係で描写したのはなぜなのか。見かけは普通の恋人同士のような関係を作っているのに貴樹がどこかで踏込ませないいるから「心は1センチくらいしか近づけませんでした」という台詞に意味が出てくる。
あんなよくわからない関係ではその言葉に意味があるのか?
大人の明里のキャラクターもわからない。どこか内向的なおどおどした雰囲気を出す必要はあったのだろうか?本屋とか少し特殊な設定にしないで普通の企業のオフィスで働いたほうが貴樹との対比になったのでは?
そもそも明里を深堀りする必要あったの?貴樹からは遠くて見えない明里に色々あるんだよねーという光景を見せられてもノイズになっているのでは?
突然明里の恋人が出てくるが最後だから慌ててぶっこみましたという感じである。ところでいつからいたの?飲み会の誘われたシーンのときからいたらまずくない?
先生が東京にいてというのも疑問がある。なぜ全く関係ない人ではダメだったのか?飲み会で高校時代のこと思い出とそして花苗の話を出したいから?それは出すべき場面なの?
高校時代のタバコのエピソードは何の意味があったのか。先生と話をするきっかけなら別の理由を作れなかったのか?やんちゃしてましたというエピソードを他で使わないなら意味がない。花苗が真面目だけど翳がある貴樹を好きになりましたではなくて不良少年でしたではどうしても近付けない存在として花苗が気付く対象として壊してないか?
そういえばロケットの打ち上げ。原作では架空の惑星探査機の打ち上げで孤独な旅で何かの暗喩だったのだろう。その替わりにボイジャーを出したのだろうけどそれならあのロケットは何の象徴なの?
最低の演出はプラネタリウムで明里の幻を出して貴樹を泣かせたこと。なんだこれは?神のお告げが降ってきたので貴樹は言われた通り従いますじゃないか。内省による変化を役者の演技だけで作れないから安易な手段に頼る。
おらこれで泣けよおめーらという感じか?
二人の距離がわからないまま最後の踏切。もはやこの映画にはこのシーンは必要だったのかというぐらい価値が下がってしまった。
One more time one more chanceも使わないと怒られるから使いましたという感じで使う意味がわからない使い方だった。
エンディングの1991もこの映画のエンディングとしては合ってない。天門の曲のアレンジのほうが良かったのではないか。ちぐはぐな映画の内容にはこれで合っていたのかもしれないが。
たしかに原作の要素は散りばめられていた。原作にあった意味は失われて実写独自の部分との繋がりもなくただの存在として。
映像は霞みがかった絵が多く新海の絵とは違うよね。再現を目指していたのでもないと思うけど。
役者の演技は良かったと思う。与えられた役柄を演じていたという意味ではしっかりしていた。
その点はプラス。
結局この映画は商業的には成功するのかもしれない。「秒速5センチメートル」の実写化ではなく恋愛映画の一つとして。
明里が約束の場所に来ないエピソードがあり、館長との会話があり…
その後に踏切で振り返っちゃダメじゃないかと思います。
あれだったら、岩船の桜の木を踏切の代わりにしてあそこで終わった方がよかった。
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