「ある意味、頭脳犯的なしたたかさが透けてみえる「イヌ映画」」ブラックドッグ いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)
ある意味、頭脳犯的なしたたかさが透けてみえる「イヌ映画」
ずばり言ってイヌ派だ。犬種は問わない。時間さえ許せば、ひたすら愛でていたい。そんなだから「犬が出てくる映画」にも目がない。今年に入って観た中では、新作の『スーパーマン』と旧作『スターレット』がイヌ映画として出色だった。
そこで本作『ブラックドッグ』である。ここに登場する準主役級のイヌは「狂犬病感染を疑われる賞金首(!)の野犬」という役どころ。なんでもグレイハウンドとジャックラッセルテリアとのミックスなのだとか。映画ではめったに見かけない犬種で、痩身のフォルムが異彩を放つ。ちょっと痩せすぎではと心配になるほどだ。
そんな、ひときわ目を惹くルックスの反面、犬種的には「演技」に不向きではないかと懸念するも、コレがなかなかどうして芸達者なのだ。
大型犬のわりに体のキレがよいだけではない。ときにコワモテの野犬らしく牙をむくかと思えば、飼い犬だった往時を偲ばせる甘えた仕草で体をすり寄せてくる。主人公が立ちションした真上に重ねて、マーキングで足上げションする仕草など、思わず吹き出してしまう。
カンヌ国際映画祭2024の「パルム・ドッグ賞」において、フランス映画『犬の裁判』の最高位に次ぐ審査員賞に輝いたのもナットクの「名演」である。ときに達者すぎて、名子役のような「あざとかわいさ」すら垣間見えるほどだ(もっともコレは犬のせいではなく演出の問題であろう)。
ここで他の動物たちにも触れておくと、なによりも先ず、種種雑多な犬たちの群れに目を奪われる。元ペットが野犬化したという設定だから当然、種類もさまざまだが、荒涼たる原野に本来生息しないはずの犬種が駆け回る光景はなかなかシュールだ。映画冒頭、不意に野犬の群れが地響き立てて走り込んでくる描写も実にすさまじく、西部劇での牛のスタンピードや『七人の侍』で馬を駆る野武士集団をおもわず連想させる。
また、そこここにたむろする犬たちを捉えたロングショットは、さながらウェス・アンダーソン監督作『犬ヶ島』の実写版といった趣きだ。丘陵に佇むオオカミの姿も、同監督の『ファンタスティック Mr.FOX』終盤に見られるショットそのもの。さらに度々出てくるドリー撮影の横移動は同監督独特の作風を思い出させる。
一方、ファーストショットで、35ミリフィルムの質感を湛えたスクリーンに荒野が映し出されると、マカロニ・ウエスタンのような無国籍感が一気に拡がる。剥き出しの岩々に風吹きすさび、根無し草がころがる。そんな景色の中を疾駆する野犬狩りのピックアップトラックやバイク集団は、まるで『マッドマックス』シリーズみたいだ。
本作の舞台は、ゴビ砂漠の片隅に位置する寂れた街である。時は四川大地震や北京オリンピックがあった2008年。劇中でもそれらのトピックは象徴的に描き込まれている。
その一つとして、かつての集合住宅が爆破解体されるという極めて印象的なシーンが終盤に出てくる。北京五輪を控えて再開発の波がこの地にも押し寄せたせいなのだが、コレもまた、現代フランス映画で〈パリ郊外もの〉と称されるジャンル映画によく見られるモチーフだ。例として、ここでは『バティモン5 望まれざる者』『GAGARINE/ガガーリン』の2本を挙げておきたい。ついでに言うと、『GAGARINE…』には皆既月食を団地住民が総出で観測するシーンがあるが、本作にも地域住民による皆既日食観察のエピソードが出てくる。
こういう一連のモチーフの「拾い方」や「見せ方」、あるいはピンク・フロイドがガンガン流れる「音楽設計」だとか、人気の失せた市街地を虎が悠然と歩くような「絵づくり」を見るにつけ、この監督は、観客に対してアーティスティックに訴求する術を熟知しているなとつくづく感じる。一見オフビートな作風を装いつつ、メジャーな国際映画祭での話題づくりや世界の映画マーケットをにらんだ、頭脳犯的なしたたかさが透けてみえるのだ。
最後に余談だが、かの映画監督ジャ・ジャンクーが本作に「街を仕切る顔役」として出演している。その彼がどこか劇作家・俳優の松尾スズキに似ているのだ。また顔役の取り巻きには、劇作家の赤堀雅秋や演出家の宮城聰に似ているヒトもチラホラ見える。さらに、主人公に遺恨を抱く肉屋のオヤジさんの顔は黒沢清監督にダブって見える。あれま。
