敵のレビュー・感想・評価
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「敵」は誰ものもとにもやってくる
儀助が見た敵とは何だったのか?
老いそのものか、または穏やかな老いを妨げる何かか。
映画化を知ってから原作を読んだが、「これ、どうやって映画にするんだろう?」というのが正直な感想だった。
まず、前半は儀助の日常描写、というより生活習慣の説明が、微に入り細に入りなされる。食事のこと、知己や親族のこと、家の間取り、預貯金、性欲、体調、野菜、諸々。映画と違って会話劇ではなくほとんど儀助のモノローグで、ひとつのテーマにつき7〜8ページの分量の章立てで淡白な日記のような文章が延々と続く。
確かに儀助という老人の解像度は4Kレベルに高まるのだが、話がわかりやすく動かない。ちょうど中盤にある「敵」の章あたりからようやく起伏が出てくるが、幻と現実のあわいをさまようように物語は展開してゆく。
この分じゃ映画はとっつきにくい仕上がりなのかな、という不安がよぎったが、意外と見やすかった。
原作で言葉を尽くして説明されていた儀助の生活上のこだわりが、ほぼ映像表現に置き換えられたことで随分すっきりした。言葉がなくても原作に近い印象が伝わってくるところは映像の力だ。
序盤の、丁寧に暮らす儀助の淡々とした日常描写は「PERFECT DAYS」を思わせる心地よいリズムがある(ただし生活費は全然違っていて、原作によれば儀助はこだわりや習慣のために毎月40〜50万出費している)。彼の食べる朝昼の食事がどれも美味しそう。
演じた長塚京三は儀助に近い79歳、パリのソルボンヌ大学で学んだ経歴を持つ。181cmの長身で、足が長くすらりとした立ち姿がインテリ設定に合う。儀助ははまり役ではないだろうか。
そんな彼が2回目の内視鏡検査(の妄想)で縛られて四つん這いになり、そのお尻に内視鏡カメラがちゅちゅっと吸い込まれるシーンは笑ってしまった。その後度々現れる妄想シーンも、いい塩梅のユーモアがあって楽しい。
そんなユーモアの向こうに透けて見えるのは、一見理性と知見で余生を御しているように見える儀助の人間臭い部分、あえて不穏当な言葉で言えば無様な部分だ。
彼はフランス近代演劇史の教授という経歴からくるインテリらしいプライドを持つ反面、自分を慕う教え子靖子に性的妄想を抱いたり、バーで出会った歩美に易々と金を渡したりと俗っぽい煩悩も捨てきれずにいる。普段はプライドによって抑え込まれている煩悩が、彼の妄想の中で顕在化する。筒井康隆によると、この妄想は認知症など病的なものではなく、あくまで儀助が"夢と妄想の人"であることに依るのだそうだ。
妄想に現れる亡き妻や現世の人々とのやり取りは、儀助の秘めた願望や後悔なのだろう。妻との入浴や、「フランス旅行に行けばよかった」という後悔の告白。終電までの時間で靖子を抱こうとするのも心のどこかにあった欲望だ。
旅行雑誌への寄稿を打ち切った出版社の社員犬丸の妄想での扱いは散々だ。打ち切り通告の席で、儀助のフランス語の返しを理解しなかった犬丸を、彼は内心嫌悪したのだろう。妄想の中で寄稿の継続を依頼しにきた犬丸は、鍋の肉を食べ尽くす傍若無人な人間として振る舞う。そして終いには儀助の知性を理解する靖子に殴り殺され、椛島の掘った井戸に放り込まれる(笑)。
そんな儀助も、最後は隣家の臭いおじさんと通りすがりの犬(名前がバルザック笑)の飼い主と共に、見えない「敵」に撃ち殺される。ここ以降は映画オリジナルで、ちょっとホラーチックなラストカットが秀逸。
筒井康隆は映画化にあたって、64歳の時に原作小説を書いたことについて「年をとるのが怖かったからでしょうね」とコメントしている。
その怖さの源を想像してみる。取り返しのつかない後悔を抱えることか。社会での役割を失ってゆくことか。年の功で日常をコントロールしつつ穏やかな余生を過ごしたいのに、不如意な欲望から逃れられないことか。
結局誰にとっても、現世の煩いや執着を手放して穏やかな死を迎えることは、かなりハードルの高いことなのだろう。物語中盤で病床に伏した湯島も、妻の前では寝たふりをしつつ、「敵」の影に恐怖しながら死んでいった。
今際の際まで惑い続け、意のままにならないものを抱えたまま終わってゆくのが大半の人間の人生なのかもしれない。
それがむしろ当たり前なのだと思っていっそ受け入れれば、死に方に対するハードルが少しだけ下がるような気がする。結局は、今を生きることに集中するしかない。
筒井御大のように理性的に恐怖と向き合う勇気のない私は、そのように開き直ってみたりする。
77歳の元大学教授に襲いかかる敵の正体は幻覚か、それとも。。。
妻に先立たれた77歳の元大学教授の儀助が、東京都内の山手にある古い日本家屋で慎ましく、日々のルーティンを守りながら暮らしている。とは言え、彼が焼く魚は美味そうだし、たてるコーヒーの香りがこちら側にも届きそうだ。何より、彼は枯れていない。時折訪れる教え子に密かな欲望を抱いたりしている。
ある日、儀助のパソコンに突然"敵がやってくる"というメッセージが届いて以来、彼の意識は一気に混濁していく。それは現実か、幻か。そして、敵襲来以前の日常はどうだったのか。儀助の混乱はそのまま観客にも伝染し、多くの人が感じる老醜の残酷という聞いたような結末に収まらない、衝撃のラストへと突き進んでいく。それは、筒井康隆の原作にもなかった映画オリジナルのアイディアだとか。観客を混乱させて、さらに異次元へと誘い込む脚本と演出に思わず息を呑んだ。
筒井原作に綴られた儀助の人物像はユーモラスで、やたら男性性器や性欲にまつわる記述が登場する。77歳でそんな?と思うわけだが、映画ではそんな主人公を長塚京三が演じることで、さもありなんと思わせる。何しろ長塚=儀助はエロくてかっこよくて、知的なのだ。気がつくと女性に覆い被さっているような、前のめりで痩せた身体にも妙な危うさがあり、それさえ魅力になっている。観ていて疑問に感じたところを後で誰かと話なくなる、対話に飢えた新春のシネフィル向き。
「敵」とは
元大学教授の渡辺儀助は連れ合いを亡くしてすでに二十年。一人暮らしがすっかり板についていて家事全般をそつなくこなしている。特に料理へのこだわりが強く毎度食卓に並べられる食事は充実していた。
悠々自適な暮らし、年金と少しばかりの原稿料で食いつないでいるが食と酒にはこだわりがあり摂生をする気もなく今の生活スタイルを変えるつもりもない。このままの生活が維持できなくなればその時がXデーだとばかりに限りある残りの人生を満喫したいという。
そんな彼の気ままな余生が徐々に侵食され始める。それはパソコンにいつも一方的送られてくるメールからだった。いつもの迷惑メールだとして無視してきた彼だがある時ふと目に付く文言が。
「敵」と書かれたそのメール、いつもの怪しげな迷惑メールとは違う文言ながらもやはり彼は無視し続けた。
儀助の周囲には彼を魅了する二人の女性の存在が。元教え子の鷹司靖子、行きつけの文壇バーには女子大生の菅井歩美。なにかと彼女らは彼の自尊心をくすぐり誘惑してくる。いやそれは彼の妄想に過ぎないのかもしれない。
そんな彼の下心を見透かしたかのようにあるいは彼の抱く罪悪感が妻信子の亡霊を見せるのか。あるいはこの家にはかつての住人たちの霊が住みついているのだろうか。彼は何かと妻の亡霊に翻弄される。
そして迫りつつある「敵」の存在。それは北からやって来るという。北の国の独裁体制から解放されたその住民たちが難民となって押し寄せてくるというまことしやかなネット上のデマにより作り上げられた妄想なのであろうか。
たちまちあたりは戦場のような騒乱に包まれる。それは儀助が母の胎に宿っていたころの戦時中の空襲を思わせた。
そこに漂うのは死の恐怖。「敵」はゆっくり近づいてくるのではない、それは突然現れる。「敵」とはなんなのか、それは「死」そのものではないのか。
敵とは、その正体とは。それはけして人間が逃れられないもの、自分自身の死を言うのではないだろうか。儀助は自分の死を常に意識していた。自分の今の生活を維持できなくなる日が来れば潔く死のうと。あえて自分の生を引き延ばすための節約もせず食べたいものを食べ、飲みたい酒も飲む。そうして時が来れば命を絶とうと。
愛する妻を亡くしもはやこの世に未練はない。死が向こうから来るのを待つのではなく自分から死を受け入れてやろうと。そう考えて余生を過ごしてきた。しかしいざ過ごしてみると誘惑も多い。周りには思わせぶりな美女たち、思わず下心も芽生えてしまう、そんな自分の罪悪感が妻を呼び覚ます。
この年齢になり人生をすべて見極めたつもりだった。いまさら死を恐れることなどないと。しかしやはり死への不安や恐怖は拭えない。Xデーが来たら潔く自死すると決めていた儀助、しかしそれが来ることがいつかはおぼろげにわかっていても、それはいつか来るものでありそれがすぐにでも訪れるとは思っていなかった。健康診断を避けてきたのも自分の死を直視させられるのを避けたかったからにほかならない。
しかし下心から女子大生歩美への援助で貯えの金を渡してしまい、ことのほかXデーが目の前に来てしまった。まさかこんなにも早く。常に死を意識していながらもしかしそれはまだまだ遠い先のことだと高をくくっていた。死はゆっくりと近づいてくるものだと、しかしそれは突然やってきてしまった。
いくら長い人生を生きてきて経験を積んでも死だけは経験できない。死は未知の領域だ。儀助は覚悟していたようでその実、覚悟なんてできてはいなかった。
いったんは首を吊ろうとする儀助だが、それも尻をついてのもの。彼の死ぬことへのためらいがそこからも見て取れる。
友人にも死の期限付きで生活すれば人生が充実するなどと語りながら、やはりその不安は払拭できてはいなかった。そんな彼の潜在的な死への不安や恐怖が「敵」となり、メールを通してじわじわと彼にその予兆を知らしめ、ある時突然襲いかかったのかもしれない。
死という名の敵。生きる上では常に対峙すべきもの。生を望めば望むほど死という敵の存在が大きくなる。生に執着すればするほど死の不安と恐怖は大きくなって彼に強大な敵となって襲い掛かってくる。
受け入れようが受け入れまいがやがて死は必ず訪れる。そして儀助にも死が訪れる。「敵」は受け入れたとたんそれは「敵」ではなくなる。死を受け入れることはそれは死の不安や恐怖からの解放を意味する。
そうして死から解放された彼の魂は安住のこの地、この住み慣れた家に宿ったのかもしれない。それを知った彼の甥はおいそれとはこの家を売り渡すことはできないであろう。
相続手続きがなされる主を失った邸宅で儀助の甥が彼の双眼鏡を何気に覗くと二階の窓際に佇む儀助の姿があった。
独り身で悠々自適な生活を送り続けていた主人公、しかしそこには常に老いと死がつきまとう。そんな老いと死への不安や恐怖が「敵」という形となって彼をじわじわと追い詰めていった。
高齢となれば連れ合いは必ず先に逝く。孤独な老後の暮らしで誰もが味わう死への不安や恐怖を筒井文学特有の語り口で見事に映像化した。
十代の頃夢中になって読み漁った筒井文学の世界がそのまま再現されたような作品だった。一見平凡な日常が徐々に非日常に侵食されてゆく様、スラップスティックな笑い、悪夢のようなシュールリアリスティックな現象。
筒井氏はむかし村上龍氏との対談で非現実なことを描くには現実的な描写がしっかりと描かれてないといけないと述べていた通り、本作は前半はごく普通の日常がリアルに描かれ後半から超現実的な現象が描かれて見る者を悪夢へといざなう。まさに筒井氏の十八番と言える作風を見事に映画という映像表現に落とし込んだ監督の筒井康隆愛がにじみ出た作品だった。
筒井文学ファンなら本作を存分に楽しめたことと思う。と言っても私自身筒井文学から離れてかなりの時間がたつ。父親と同い年の筒井氏がいまだ健在なのがうれしい、早速原作本を注文した。なんせ80年代までしか氏の作品は読んでいない。ベストセラーになった文学部唯野教授でさえ読んでいない。これから読ましていただこう。
ちなみに私が好きなのは七瀬三部作、俗物図鑑、大いなる助走、乗越駅の刑罰、などなど数え上げたらきりがない。誰か有名な作家が言ってた、青春期の読書は恋愛と同じだと。まさに青春時代夢中になって読み漁った筒井文学は私にとって恋愛だった。
男性の秘めたることをバラしちゃいけないと思ってしまう映画
筒井康隆原作、長塚京三が主演。「桐島部活~」の吉田大八が脚本監督。東京国際映画祭グランプリ。
モノクロで丁寧に作られている。初老の域に入った男性にとって、けっこうドキっとする映画。
前半は、一人暮らしをとても丁寧にテンポよく描く。ちょっと気が緩んできたら、後半はホラーのような「時をかける少女」のような掴みどころのない展開。それが、老人の独り身の老いてゆく怖さに繋がっている。
ラストの中島歩には笑った。この人いろんなのにちょい役で、場面をさらってゆく(Netflix「阿修羅のごとく」とか)。売れてるね、この人。
瀧内公美も不倫とか夫を誘惑といえば、彼女が選ばれる(「阿修羅のごとく」)。で、それが実にハマる。河合優実もなかなか可愛い。と男性の下心をくすぐる(中島歩はちがうけど)。
まあ、世の男性で、心当たりがある人は、なんとも居心地の悪い映画だと思う。
その意味ではよく出来た映画。
(そんな男性の秘めたることをバラしちゃいけないと思ってしまう映画)
妄想
老人男性が日常の妄想という敵に
追い込まれていくストーリー。
自分の老いに向き合う姿は滑稽でもあり
切なさも感じる。
自分自身と向き合い考えて、女性に対して
後ろめたさと醜態を死ぬギリギリまで
感じてる男性も多いのでは。
特に、ある年齢の男性に観て欲しい。
現実と虚構
前半は現実。
後半は夢の話。
ポイントは「なぜ、今夜はこの夢を見たのか?」という問い。
そしてラストシーンに必要なのは、「そもそも、これは現実なの?」という問い。
敵は誰なのか?そして、味方は誰だったのか?
この映画からは「今、あなたの周りに見えてるモノはホンモノですか?」と問われてる。
そんな映画だと、私は受け取りました。
敵は…
敵は我が身の、「妄想」って、ことね…。
そして、その「妄想」は、恐れと願望があいまって、老人特有の痴呆も絡み当て増幅ざれていくといことね…。
確かに怖い。
まさに痴呆症の人の思考についていかれないように、映画にもついていけない部分があった…。
結果、我々も「人様の恥ずかしく面白い生活」覗いている。
妻に先立たれて独り暮らしをする、引退した仏文学の教授の静かなる生活を丹念に静かに描く前半。
インテリで品のある人物だけに、起床してからの、朝食の支度、食事、身嗜み、清掃など、静謐に粛々とこなす様に、どこか不自然な印象も持ちながらも、独居暮らしのそこはかとなく垣間見られる哀愁に、誰もがいずれやってくる自分の未来を重ねて見てしまうだろう。
その普遍的でヤマもない前半を経て、中盤から虚構と現実な入り混じる展開となっていき、「敵」と呼ばれる未確認な存在と、隠喩を交えながらの物語が紡がれていく。
まーぶっちゃけ、後半から虚構と現実の区別が掴めなくなって、ちょいとお手上げ状態。このあたり、いっそのこと考察系ブログを確認してから鑑賞したほうが面白いかもです。
とりあえずわかったことは、インテリ系老人の隠キャはかなり痛いってことだ。
マジか…老後のために陽キャに転向するかー。
筒井康隆ワールドへの真摯な挑戦が可能にする没入感
老醜を晒すくらいなら己の命を絶つと意気込む元大学教授、
その均整の取れた生活は「敵」の到来を告げるメールと共に徐々に瓦解していく。
夏から秋、そして冬へと時の移り変わりを追うモノクロームの映像に
実感豊かな音を乗せて送られる主人公の末期の日々、その恐ろしいまでの実感に圧倒される。
不安、痴情、後悔、そして恍惚……打ち寄せる波にも似た感情は泡沫の夢へと溶けていき、
徐々にルーチンを保てず荒廃していく実生活に観客は主人公の老いを否応なく納得させられる。
そして孤独に震え春を待ち侘びる老翁の背に喚起させられる疑念、
「夏の輝かしき日々も既に忘我の人の妄想に過ぎなかったのでは?」……
その答えを得る者はいない。主人公も、観客も。
筒井康隆作品の本領とも言える世界観をかくも表現しきる熱演と構成に
ただただ敬服と言うほかない。
うーん‥‥?
長塚京三さん、久しぶりでした。
以前は良くドラマに出てましたね。
スクリーンで観るととってもカッコ良かったです。
なんだか不思議な映画でした。退屈を感じる事も無く終始引き込まれました。
しかしながら、理解不能‥?
うーん‥この映画で"敵“と京三さんの幻覚の伝えるモノとは‥?
理解しようとするが、出来ず。
最後のシーンで槙男さんが幻覚っぽいのを見ていたが繰り返すって事?
うーん‥‥‥
げんなりする
主人公の長塚京三が完全に認知症でつらい。うちも母が軽度の認知症で物忘れが激しいのだけど、まだ被害妄想などはないので助かっている。バーの娘の老人たらしっぷりが怖い。それこそ敵ではないだろうか。300万円とられたのは現実なのだろうか。現実と幻覚の境目があいまいに表現されているので何がなんだかよく分からない。
丁寧な自炊が描かれるが炭水化物がグルテンばかりだ。最近実験的にグルテンをオフにする食生活をしているので気になった。
年をとってもいいことなんか何もない。うちはまだ子どもがいるから助かっているが、もし子どもがいなかったら希望など何もなく、先細っていくばかりだ。
大学教授ということで最初から偉そうで、そんな彼がどんどんみっともなくなっていくのが面白い。遺書まで偉そうだった。
自分で意味づけができる作品
予告でとても気になったので見てみました。
予告で予想していた通りの内容で自分としてはとても良かったと思います。
前半の長塚京三さんが朝起きてごはん作って食べて歯磨きしてコーヒーの豆を挽いてコーヒーを飲む、スーパーで買い物をする、昼飯や夕食を作るというこのルーティンをセリフもなくモノクロ映像で淡々と映し出すところはなんだか不思議にずっと見ていられるものでした。長塚さんがすごく細くて背が高い感じがなんとなく松重豊さんに通じるものがあり飯を淡々と食う姿が孤独のグルメの吾郎さんにも見えたり、その出てくる飯がなんだかすごく美味しそうに見えたり飯テロ要素もある作品です。
そんな中、徐々に切り替わっていき、いつのまにか見ているこちらも飲み込まれている後半の世界観については見る側の想像力が求められると感じました。
あくまで私が感じたいくつかの点を書かせていただきますが「敵」という存在を意識し出して非現実な夢を見るようになってくくだりは、あのゆっくり流れていくような毎日が夏休みな感じの生活の中で先生は日常に何かしらの刺激を求めていたのではないだろうかと思います。その心境の現れがあの夢なのかなと。一見、真面目そうに見えるが作中の様子や会話で見えてくる先生の変態性がありました。あの年の老人の独居の人にしては老いを感じないような几帳面さ、近所を双眼鏡で覗きをしたりする面、真摯に振る舞いながら女の子や教え子の女性に下心を持つ面、そう思っていながら紳士ぶるけど実は想像しながら1人でしていることを夢で白状してみたり。
このような感じからあの非現実さは先生の中に何かしらの刺激を求めていたのだろうなと思いました。
もう一つ考えられるのは認知でボケが入ってきてその妄想を映し出していたのか。作中でも非現実な世界がクライマックスを迎えて、そこから日常に戻ったらすぐポックリ逝っちゃったので。
あとは犬のうんこのじいさん、あの人も認知が入ってきていてボケていて自分でうんこをあそこにしてそれをあの女性のせいだと思い込んでいたのかなとか思いました。
ラストシーンの双眼鏡に映っていたのは誰なのかマジでなんなのかはわかりませんでしたが
とにかく後半は意味がわからない分、様々な考察ができるような作品になっていると思います。
私もこの作品を見た他の方がどのように感じたのかを少し見てみたいと思います。
還暦目前の鑑賞者の感想
自身還暦を前にして老いの問題が自分事になっているところで本作を観れば、孤独や痴呆やこれからの過ごし方につき考えさせられるところは少なくなかった。 感受性は老いても衰えさせたくないと思ってはいるものの、環境や病がコントロールしたくてもできないのであるから、衰えをどれぐらい許容すれば苦しまなくて済むのだろうか、などとと自問したくもなる。
映画としては、モノクロの選択は良かったと思ったがそれこそ老いが理由なのか、画面が少し眩しく感じられてキツかった。一緒に観ていた同年代の妻も同じ感想だった。劇場には自分と同年代、そして少し年配の方が多かった。老いをテーマにした作品への世の中の関心の高さがうかがえた。
これも老いのせいなのか、最後のシーンが捉えられなかった。最後に映ったのはだれ(何)で、そのカットに含ませたかった意味は? 私を含め結構な老いた鑑賞者は動体視力の衰えゆえ捉えられなかったかも知れません。
でも興味深く観ることはできました。
敵とは…
77歳の方に世界がどう見えるかにスポットを当て、白黒の情景にしたり、極力BGMを抑えているようでした。
敵=死に対して怯えたり、先に生き別れた方のことを考えたり、過去へ後悔したり…
そして、敵が近づいてきた時には逃げ、向き合う決心をして、受け入れる…そんなことを感じました。
どんなに年齢を重ねても、死というのは近づいてくるまで怖いものなんですね…
私も年齢を重ねること、死ぬこと、怖いです…
敵は何処に?
原作を読んだのは大昔だったがあらすじはある程度覚えている。当時は30代だったので普通に娯楽小説として楽しめたが、正直70を過ぎてこの映画を観るのは辛いかも?僕の記憶では主人公は長塚京三のような紳士的な大学教授ではなくもっと尊大な(筒井康隆のような?)イメージだったが。瀧内公美は笑っていても怖く、河合優実は笑っていなくても、父親が破産して寸借詐欺を働こうとする時でも、幸せそうに見える(少なくとも僕には)のが対照的。パーフェクトデイズを思わせる歯磨きのシーンが多いが、ここまで何度も観客に見せる必要があるのかは疑問。モノクロにしたのはよかった様な気がする、下血シーンはカラーでは観られなかっただろうから。一人の食事でもきちんと材料から手作り(一人焼き鳥は初めて見た)する几帳面な主人公が途中からカップヌードルを食べる(僕と同じ)ように変化していくのは象徴的。敵は老いであり、そして着々と進行する認知症。僕もそろそろ老後の準備をしなくてはいけないのかもしれない。
敵の正体は
自分自身の老後が気になり、「敵」を鑑賞しました。
去年は「九十歳、何がめでたい」も鑑賞しましたが。
「敵」とは何か、劇中では直接的な説明が無かったのですが、主人公が飲み込まれた「悪夢」、それを引き起こした「老い」、となるでしょうか。
知的な主人公は自分を安売りすること無く、自尊心を持って規則正しい日々を過ごしていましたが、そんな人でも敵から逃れられなかったのですね。
準備を怠ることが無いようにしたいです。
まずは掃除をして身綺麗にしておかないと、と反省しておきます。
自分とは違うけれど、気をつけたい
同じ元大学教授だが、主人公ほど研究面での仕事の依頼や教え子との交情が全くないところは違うので、性的誘惑にかられる心配は少ない。詐欺に遭う可能性はあるだろう。コンピュータウイルス感染のようなことはつい最近経験したばかりで、情報面で致命的で、良い助言者に恵まれることが大事だと痛感しているところだ。近隣の揉め事に巻き込まれることもまさに直面している。本作のように、妄想に呑み込まれないように気をつけたい。
パソコンが壊れ、デジタル文書に著していた遺書と、アナログ文書に遺した遺書の内容は違っていたということだろうか。最後の場面は原作にはなかったらしいが、主人公が既に、死んだはずの祖父の幻をみたように、相続人も死んだばかりの主人公の幻をみてショックを受けたというのが当然のところだろう。
タイトルなし(ネタバレ)
こちらも安楽死の参考になりました。自分の死に方を決めていた主人公の生き方が。
(300万騙し取られて)不思議と怒りはないんだ。むしろなるべくしてなったような気っがする。世間知らずの大学教授への罰だよ。
という言葉が印象的でした。
モノクロでこそ際立ちます
妻に先立たれ、古い日本家屋に1人で住む渡辺儀助
設定は77歳でフランス文学の大学教授だった
独居老人と言っても、自炊して美味しいものもしっかり食し、公演や教え子から依頼される記事を書いたりして生活に張りがあるように見える
かつての教え子たちからも慕われ、時々は料理を振舞ったり、身の回りの雑用を請け負ってくれる教え子もいたり、たまには友人と酒を嗜んだりで、良い老後を満喫しているようにも見える
自分のお金の残高を計算しながら生活しているが、それはそれでしっかり見据えていてさすが元大学教授
かと思えば、行きつけのバーで働くバーのオーナーの姪っ子に大金を騙し取られたりして気弱な老人なところも
途中までこの映画のタイトルは「敵」であったことを忘れるほどだったが、パソコンに「敵」についてのメールが届き出したところで思い出した
そこから映画の雰囲気が変わりだし
儀助が悪夢を見るようになった
どれが夢でどれが現実か
覚めても覚めても夢なのか
そして敵とは
夢は全て儀助の妄想で、
その妄想が「敵」で
義助を追い詰めていたということなのだろうか
最後 儀助の遺言で槙男に家屋を託していたが、納屋の品物や、家の中の書物についても教え子に託したはずなのにそこには触れてなかったのは、教え子達も妄想?夢?だったのか
実はどこからが夢だったのか
モノクロなのも心理的に見入る要素になっていたし、最後まで不思議な感覚で鑑賞することが出来た
ある高齢者の心情を見事に描いた秀作
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと今作の映画『敵』を大変面白く観ました。
ある高齢者の心情を見事に描き切った秀作だと思われました。
主人公・渡辺儀助(長塚京三さん)はかつてのフランス文学者の権威であり、おそらくかつては時代の中心のフランス文学評論家として活躍した人物だと思われます。
しかし、フランス文学評論家として重宝された時代は過ぎ去り、主人公・渡辺儀助の社会的な権威は薄まっている事が、雑誌の連載掲載の先細りとしても示されます。
この、かつては時代に上げ底にされ、というより時代の価値観の中で必死に研鑽を積んだ足場が、時代が過ぎ去ることによって空洞になり、自身のプライドだけが宙をさまよっている状態は、大小はあっても高齢者の(特に男性の)誰しもに訪れる普遍性ある場所だと思われました。
今作はその意味で、主人公と同世代やそれに近い人なら当事者として、あるいは自身の父親として、あるいは自身の祖父として、多くの世代にも思い当たる関係深い映画になっていたと思われます。
主人公・渡辺儀助はこれまでと同様に(妻・渡辺信子(黒沢あすかさん)が亡くなった後からと思われますが)朝起きて自炊をし、日常生活を淡々と過ごしています。
しかし現実は、自身の足場は時代が過ぎ去った後に空洞になっており、自身のプライドだけが宙をさまよっています。
そして次第に自身の内面に、妻・信子の幻影や周囲の女性に向けられた性欲の妄想や悪夢や陰謀論が忍び込んでくるのです。
(今作はもしかしたら高齢者の女性とは違った感覚があるのかもしれませんが)
男性にとっては誰しもが避けられないある一つの高齢者の心情の過程を見事に描いた秀作だったと思われます。
(なぜ傑作とまで個人的には思えなかったかというと、とはいえ一方で私的には本質的なところで高齢者の感情がそこまで理解出来ているとは思えず、その点では私は今作の描写からは切実さの点で外部の人間ではあるからだろうとは思われています。)
私達は高齢者になって、
1.かつてあったがもうすでに無くなっている時代の足場を、今でもあったことにしてしがみつき「老害」として振舞い続けるか
2.時代によって簡単に自身の足場は無くなることを受け入れ、自身の価値観を常に捨てて辛うじて現在でも残った自身の価値観のみを残したままで新しい価値観を受け入れ続けるか
3.どちらもかなわず、最後には幻影と妄想と悪夢と陰謀に侵食され自身を消滅させていくか
それらに備えろと伝えている映画にも思われました。
そのことを全く理解する頭の無い”老害”と言っていれば時代を断罪し切った気になっている自身の表現の稚拙さ浅はかさを自らは理解していない、ごくごく一部の芸人やそれを持ち上げているさらに馬鹿な周囲などが存在はしてはいます。
今作の映画『敵』はそれらとは真逆な、遥かに深く現在への1つの解答を示し切った秀作だったと、僭越思われました。
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