敵のレビュー・感想・評価
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「敵」は誰ものもとにもやってくる
儀助が見た敵とは何だったのか?
老いそのものか、または穏やかな老いを妨げる何かか。
映画化を知ってから原作を読んだが、「これ、どうやって映画にするんだろう?」というのが正直な感想だった。
まず、前半は儀助の日常描写、というより生活習慣の説明が、微に入り細に入りなされる。食事のこと、知己や親族のこと、家の間取り、預貯金、性欲、体調、野菜、諸々。映画と違って会話劇ではなくほとんど儀助のモノローグで、ひとつのテーマにつき7〜8ページの分量の章立てで淡白な日記のような文章が延々と続く。
確かに儀助という老人の解像度は4Kレベルに高まるのだが、話がわかりやすく動かない。ちょうど中盤にある「敵」の章あたりからようやく起伏が出てくるが、幻と現実のあわいをさまようように物語は展開してゆく。
この分じゃ映画はとっつきにくい仕上がりなのかな、という不安がよぎったが、意外と見やすかった。
原作で言葉を尽くして説明されていた儀助の生活上のこだわりが、ほぼ映像表現に置き換えられたことで随分すっきりした。言葉がなくても原作に近い印象が伝わってくるところは映像の力だ。
序盤の、丁寧に暮らす儀助の淡々とした日常描写は「PERFECT DAYS」を思わせる心地よいリズムがある(ただし生活費は全然違っていて、原作によれば儀助はこだわりや習慣のために毎月40〜50万出費している)。彼の食べる朝昼の食事がどれも美味しそう。
演じた長塚京三は儀助に近い79歳、パリのソルボンヌ大学で学んだ経歴を持つ。181cmの長身で、足が長くすらりとした立ち姿がインテリ設定に合う。儀助ははまり役ではないだろうか。
そんな彼が2回目の内視鏡検査(の妄想)で縛られて四つん這いになり、そのお尻に内視鏡カメラがちゅちゅっと吸い込まれるシーンは笑ってしまった。その後度々現れる妄想シーンも、いい塩梅のユーモアがあって楽しい。
そんなユーモアの向こうに透けて見えるのは、一見理性と知見で余生を御しているように見える儀助の人間臭い部分、あえて不穏当な言葉で言えば無様な部分だ。
彼はフランス近代演劇史の教授という経歴からくるインテリらしいプライドを持つ反面、自分を慕う教え子靖子に性的妄想を抱いたり、バーで出会った歩美に易々と金を渡したりと俗っぽい煩悩も捨てきれずにいる。普段はプライドによって抑え込まれている煩悩が、彼の妄想の中で顕在化する。筒井康隆によると、この妄想は認知症など病的なものではなく、あくまで儀助が"夢と妄想の人"であることに依るのだそうだ。
妄想に現れる亡き妻や現世の人々とのやり取りは、儀助の秘めた願望や後悔なのだろう。妻との入浴や、「フランス旅行に行けばよかった」という後悔の告白。終電までの時間で靖子を抱こうとするのも心のどこかにあった欲望だ。
旅行雑誌への寄稿を打ち切った出版社の社員犬丸の妄想での扱いは散々だ。打ち切り通告の席で、儀助のフランス語の返しを理解しなかった犬丸を、彼は内心嫌悪したのだろう。妄想の中で寄稿の継続を依頼しにきた犬丸は、鍋の肉を食べ尽くす傍若無人な人間として振る舞う。そして終いには儀助の知性を理解する靖子に殴り殺され、椛島の掘った井戸に放り込まれる(笑)。
そんな儀助も、最後は隣家の臭いおじさんと通りすがりの犬(名前がバルザック笑)の飼い主と共に、見えない「敵」に撃ち殺される。ここ以降は映画オリジナルで、ちょっとホラーチックなラストカットが秀逸。
筒井康隆は映画化にあたって、64歳の時に原作小説を書いたことについて「年をとるのが怖かったからでしょうね」とコメントしている。
その怖さの源を想像してみる。取り返しのつかない後悔を抱えることか。社会での役割を失ってゆくことか。年の功で日常をコントロールしつつ穏やかな余生を過ごしたいのに、不如意な欲望から逃れられないことか。
結局誰にとっても、現世の煩いや執着を手放して穏やかな死を迎えることは、かなりハードルの高いことなのだろう。物語中盤で病床に伏した湯島も、妻の前では寝たふりをしつつ、「敵」の影に恐怖しながら死んでいった。
今際の際まで惑い続け、意のままにならないものを抱えたまま終わってゆくのが大半の人間の人生なのかもしれない。
それがむしろ当たり前なのだと思っていっそ受け入れれば、死に方に対するハードルが少しだけ下がるような気がする。結局は、今を生きることに集中するしかない。
筒井御大のように理性的に恐怖と向き合う勇気のない私は、そのように開き直ってみたりする。
タイトルなし(ネタバレ)
評判通りモノクロ版孤独のグルメだったが、自炊してる分より孤独感が増してるのですが端正な分、後半のカップうどんやあんパンで錯綜してる感じがより強く感じられた。
これはネタバレになるかも↓
筒井康隆原作のイメージより屋敷(家)に取り憑かれた『シャイニング』のような話だと思った。(最後双眼鏡でみたものとか)
恐るもの
白黒映画なのに
だから?なのか
食べ物が美味しそう✨
焼き鳥が一番食べたくなりました
最初みていて、パーフェクトデイズ的な感じかと思っていたら
平山さん役所さん的な?
全然違くて
自死を決めて生活をする
元大学教授
お金にゆとりがある時の生活から
行きつけBARオーナーの姪
健気な哀れな彼女にほぼ全財産をあげてしまう
これは現実出来事と私は捉えた
困窮しはじめてから、現実なのか
夢なのか
わからない展開
生きているのか、死んでいるのか
わからない展開が続く
敵は死だったのかなと解釈
主役は長塚さんじゃないとだめだと思いました。というか長塚さんだからとてもよい
夢じゃ、夢じゃ、夢でござる。いや、夢ではない。
1月31日(金)
1月にインフルエンザと虚血性腸炎で2度入退院を繰り返した高齢の母を見舞う。元気になって良かった。帰りにユナイテッドシネマ浦和で「敵」を。
祖父の代からの一軒家に住むフランス文学の教授だった渡辺儀助(長塚京三)は、20年程前に妻を亡くし、一人暮らしで買い物、料理、掃除、洗濯をこなし、コーヒー豆を挽いてコーヒーをいれて、仏文学に関する講演や原稿を書いて生活している。
昔の教え子(瀧内公美)が訪ねて来たり、友人とバーに飲みに行ったりもする。
貯金の残高からあと何年こんな生活が出来るかを計算して、その日を目指して生きている。
そんな中、あなたに500万円当選しましたとかスパムメールが来る中に、「敵がやってくる」というのがある。
そこから生活のリズムが狂い初める。
バーのオーナーの娘(河合優実)に金を騙し取られたり、亡くなった妻と一緒に入浴したり、昔の教え子とあわやの関係になったりと虚々実々の世界が展開される。
不条理なのは筒井康隆ワールド。
どこまでが真実で、どこまでが虚構なのか夢なのか。
夏、秋、冬とストーリーは進み、
「春になればまたみんなと会える」と言うのが儀助の最後の台詞だった。
「なれば?」冬には誰とも会っていないのか。するとあれは全てが幻覚、幻想、妄想か。春の儀助の葬式、本作のそれまでの登場人物は誰一人出席していない。
そもそも本作は、最初から全てが儀助の幻想だったのではないか。
「ファーザー」のレビューにも書いたが、認知症になると料理が出来なくなる。昔出来ていた事が出来なくなるのだ。
あれだけ手際良く調理していた儀助が冬には料理をせずパンをかじっていた。
しかし、美しいモノクロームの世界の瀧内公美の艶めかしさはどうだ。
儀助でなくても性欲を刺激されるのは間違いない。
いや、私が70過ぎたエロジジイだから言うのではなく、人間は70歳になっても性欲は衰えない。少なくとも精神的には。肉体が付いてくるかは別の問題だ。
辛いキムチを食べ過ぎて大腸炎で下血し、内視鏡検査を受けた儀助は医師に言われる。腸の機能は加齢で落ちているのだと。
(先週、母が虚血性腸炎で入院し大腸の内視鏡の画像を見せられたばかりなのだ)
やって来る本当の「敵」は、老いか、孤独か、死か。
老境に至りても、ひとは醜くて面白い。
筒井康隆は関西圏のテレビで鷹揚としゃべるおじいちゃんという印象しかない。
小説は読んだことない。時をかける少女とかの原作者だってことは知ってる。
吉田大八の脚本・監督ってことに惹かれて観た。
多分、ある種の認知のズレが始まった老人の、混乱から死への季節の描写なんだろなー。
かっこよく死に時を探しているけど、40くらいの教え子に欲望を抱き(瀧内公美さんがすごくいろっぽくてよい)夢精するし、20そこそこの小娘に鼻の下を伸ばしてお金を取られ、20年前に死んだ妻のコートに面影を求め、隣人の加齢臭に自分も臭くないかめっちゃ気にして石鹸をこすりつけ、金はとられるし絶望して自死しようとするのに、訳のわからんものに襲われたら抗ってしまうし、みっともなくて性も生もどっちも全然達観できてないやんってところが、生々しくて面白かった。
長塚京三さんの演じた、老境に至りてなおみみっちいプライドや欲望に拘泥する、普遍的でチャーミングな人物像がとてもよかった。だいぶ年とらはったなー、説得力ある画だけど演じるのに勇気いるよななど思った。
辛いレーメンでおなか壊して、大腸のカメラ検査の2回目で、女性医師に四つん這いにされて、下着おろされてはずかしいのに恥ずかしいと言えず、黒いホース状の何かが尻から吸い込まれる描写がおっかしくて、がんばって無音で爆笑した。
あと、犬の糞を放置するなとキレる隣人が、敵?に打たれて糞を尻でつぶしてしんじゃう描写と、犬の糞放置の犯人にされる女性の飼っている犬の名前がバルザックで、そんなところにまでフランス文学風味を…なども面白かった。
フードコーディネーターは飯島奈美さんだったよう。
社会の勝者であった人に
モノクロ画面については、モノクロ作品をたくさん観ているし(なんなら映画はモノクロの方が多い)、先に知っていたのもあり、そういう手法なんだな、程度だった。
画面に映る家電等が最先端なので、モノクロと映っているものとの間の軋みも味わいとなる。
そもそも妻を大分前に亡くしているのに家電が新しい、ということは自分で選別して購入する能力がある男性であることを表している。
庭掃除、料理、洗濯、廊下掃除(掃除機でははなく箒)の場面はあったが、しばしば登場する調理にまつわる台所の掃除はどうしたんだ、と思っていたら夜中にやっていた。
そのように主人公となる渡辺儀助は「丁寧なくらし」をしている。
フランス文学の教授職を退官して、貯蓄と年金、講演料や原稿料で生活している。
(ちなみにネット情報によると長塚京三氏はパリ大学に在籍していたことがあるそうな)
貯蓄があることも、退職したあとに小遣いというには十分すぎる(と思われる)収入があることも、社会の勝者であった彼を描き出している。
そういった下敷きの上に、老いによる孤独、隔絶感、閉塞感から芽生えた現実と妄想が降り積もってゆく。
最初は、雪が黒い地面に落ちて静かに溶けてゆくように、儀助という人間の中に吸い込まれて消えてゆくが、次第に、彼を浸食し、凌駕してゆく。
一応、女性として年金受給年齢まで日本で生きてきたものとしては、教え子の女性も夜間飛行というバーの女子学生もあざとさが目立つが、こういう罠に嵌ることにすら潜在的な願望を抱く男性は少なくないのかもしれない。
認知症になったらどうしよう、と悩む高齢者は多いが、病気と名付けられずとも、生命を授けられたものはすべからく老いて死んで行く。(どの程度の老いかはばらばらだが)
そういった事実を覚悟する意味で、社会の勝者として生きてきた方に観ていただきたい、と思った次第である。
まあ、それでも「オレ(だけ)は大丈夫」という人はいるけれど。
儀助の最後の姿から亡くなるまでの数ヶ月は描かれていない。
それは救いなのか恐怖なのか。
全く関係ないけれど、「猫と庄造と二人のをんな」を観てみようかな、と思った。
久々の筒井康隆ワールドを堪能
原作は読んでいないので、初めから『敵』とは何かを考えながら観ていた。ま、死だったり老いだったりだろうなと単純に想像していた。
同居している91歳の私の母親は認知症ではないが、ここのところ睡眠時間がやたら長く、何かに対して怒鳴っているような叫んでいる様な大声の寝言が多くなった。物忘れも酷くなってきて、そんな事聞いてない、私がいい忘れたからって人のせいにするななど理不尽な事を言ったりする頻度も増えて来た。
この映画で私の母の頭の中を垣間見た気がする。きっと母も、過去の記憶や、長い人生の経験からくる理想、恐怖などの妄想と現実の混乱の中で日々の生活を送っているに違いない。何度も出て行こうと思ったが、雨の日に縁側に一人ぽつんと座っているシーンを観て、最後の日まで一緒に居てあげようと改めて思った。
敵とYシャツと私
2025年2本目は、敵。
序盤は憧れるほど丁寧な生活が描かれる。
焼き鳥を串打ちし、すぐ混ぜる冷麺もきっちりと盛り付ける。
何気ない日常描写でありながら、退屈はしない。
敵が現れてからは生活が一変し、パジャマで過ごし、菓子パンやインスタント麺のズボラ生活。
この対比が素晴らしいと思いました。
どこからどこまでが現実なのか、だんだん境界線が曖昧になっていく感じがとても良かったです。
画面がモノクロなこともこの映画にとってプラスに働いていると思います。
敵は
老いですか?独居は少し寂しいですが、ある意味憧れの生活を送れているフランス文学の元教授ですが、段々と老いが迫ってきます。これは仕方ないですかね。できるだけ人に迷惑をかけない様にしたいものです。
老いるということ、その認知の乱れを巧みに描いた作品
映画「敵」
筒井康隆の同名小説を、吉田大八監督が映画化、2024年の第37回東京国際映画祭コンペティション部門において、東京グランプリ、最優秀監督賞、最優秀男優賞の3冠受賞ということで、期待して臨む。
主人公の儀助は、大学教授の職をリタイア、妻に先立たれているが、かつての教え子たちとの交流もあり、日々穏やかな生活を送っている。
年金と預貯金を計算、同じように生活できるであろう終わりの日を決め、遺言書をしたためつつ、その日に向けて淡々と暮らす老人。
その毎日のルーティンは、映画PERFECT DAYSの役所広司とも被る。そして毎日几帳面に暮らし、買い物をして美味しそうな料理を作り、ひとり食べる姿は、自分のそう遠くない将来をも予感させる。
そんな独居老人の儀助の前に、「敵」という得も知れないものが現れ、現実と妄想が交錯するカオスな展開。
もしかすると、それ以前から認知に乱れが生じていた可能性も多々あり、、、
舞台は現代であるが、モノクロ映像で描いたことにより、小津映画かのような、味わい深く映画らしい世界にどっぷり浸かることができる作品。
主人公の儀助を演じた長塚京三のキャスティングがドンピシャ。助演の瀧内公美、河合優実、黒沢あすか、彼女たちが見せる妖しい演技が、儀助の心の乱れをスクリーンにあぶり出していく。河合優実のファンとしては、そこも楽しめる要素。
特筆すべき点としては、前半に出てくる様々な料理が、モノクロながらもとても美味しく見えること。そして一軒家に住み、一般の老人より恵まれた環境の中、悠々と暮らす一人の老人が、乱れた心持ちの中、妄想と現実の狭間を生き、時に卑猥なことまでを頭に描いていること。
それらのどこまでが現実で、どこからが妄想か、観ている者にとっても掴みどころがないまま、巧みにスクリーンに映し出され、最期の時を迎える。
老いるということ、そこに突如現れる妄想や認知の乱れを上手に描いた、映画好きにお勧めの映画
妄想だろうが夢だろうが
やがて必ず来る死を感じながら端正な余生(こまめに作る料理が旨そう)を過ごしていた仏文学者の暮らしが悪夢に呑み込まれていく
モノクロームに、彼の老いた、それでいて枯れきらない身体が物語る
バーで出会った女学生に騙され、教え子の女性にのめり込み、亡き妻に罵倒される
(肛門にぶち込む女医も含めて女たちには惹かれる)
パソコンは乗っ取られて混乱した言葉で満ち溢れる
敵がいきなり群れ溢れ、北の方から銃撃される急展開
怖しい
無事に死んだ後の屋敷で、祖父は何を見たのか
夢オチを多用しすぎ
序盤は美味そうに食事を摂り、引退後の生活を楽しんでいた主人公が、敵が来るといったメールを受信したあたりから心身ともに不安定になっていく様子が描かれている。
不気味な演出をより不気味にしたり、血便や犬糞の生々しさを緩和したりと、モノクロの特性が巧みに活かされている。
終盤の納屋のシーンを観ると、主人公が生きていたときと死んで遺言を読まれているときの時間が交錯しているかのような演出になっている。
井戸を掘りに来た教え子が見たという若者は家を相続した親戚だったということだろうか。
中盤以降は夢オチが多用されるため、後半でインパクトの強い展開・演出を出されても冷ややかに観てしまう点は残念だった。
北から敵が攻めてくる…。老いと死と自分自身が襲い掛かってくる。瀧内公美の妖艶さがモノクロに映える。
二十年前に妻を亡くした後、穏やかに暮らしていた元教授である老人のもとに、ある日パソコンに「敵がやって来る」というメッセージが届く。
それを境に、静かだった毎日が徐々に崩れていく。
長年の後悔と、現在の恐怖、傷つけられていくプライド、そして、かすかな下心までもが入り混じって襲い掛かってくる。
自分自身の思考、感情から作られる生々しい幻覚の恐怖。
夢と現実が交錯し、次第に幻覚の比重が大きくなっていく。
モノクロの映像がちょうどいい。
カラーでは情報が多すぎて、うるさすぎる。
要するにA・ホプキンス主演の「ファーザー」のように思ったが、筒井康隆は「あくまでも”夢と妄想”」であるということらしい。
主演の長塚京三の抑えられた緻密で繊細な表現がいい。
そして、かつての教え子を演じた瀧内公美の、妖艶さを湛えた美しさが、ひときわモノクロの画面に映える。
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 身につまされました。“それ(敵)”は突然やって来る⇐人生の真理です。
①序盤は、引退した(実はクビになったことが終盤で分かる)大学教授の隠居生活を淡々と描いていく(白黒ということもあって)のかな、と思いきや、中盤からは夢とも妄想とも幻覚ともとれる映像が次々と差し挟まれて主人公の内面が暴露されていく。
映像で語る映画という媒体はこういう表現方法にやはり適しているなあ、と思う。
②成熟した立派な大人、終活バッチリ、俗世を超越している、嘗ての生徒達に慕われる優れた教授という表面(これも本人の願望、プライドなのかも知れない…)の下に、実は切れ痔に悩まされ、様々な煩悩(亡き妻への慕情、後悔、捨てきれない嘗ての教え子への欲望、性欲、劣等感、体臭-これよく分かるわァ、未練、不安、恐れ、虚栄心)が渦巻いているのがあからさまになっていく。
でも、自分も60過ぎて分かるけれど、残された時間も指折り数えられる段階に入ったし、世の中のことも少しは分かってきたと思うし、ちょっとしたことには驚かなくなっては来ていても、なかなか悟りの境地には程遠い。
でも、それが人間だし人生だと思う(開き直っております)。
そういう点ではとても人間臭い映画だ。
主人公が見ているのが夢なのか(夢精したから夢とも思えるし)、妄想なのか、そろそろ認知が入ってきたせいの幻覚なのか、死ぬ前に走馬灯のよう見る映像なのか、の解釈は観る次第だろう。
③「朝ごはん食べてから歯を磨く人なんだ」
というのが何故か印象的。
④長塚京三は、生徒達から慕われる教授だったのが納得できる懐の深さと、教え子から慕われる色気、そして少々世間に疎いピュアさもそこはかと漂わせて流石。
⑤時間軸が歪んでいるようなところや、古い家につきまとう幽霊譚ぽい味付けも、なんとなく筒井康隆らしい。
中高年向き、高尚かつ下世話な深み
単に「面白い」という表現では表せない、深みのある、多面的な印象を持つ映画でした。
観る人の年齢によっては、面白いどころか、身につまされる怖さを感じる映画でもあるでしょう。
何人かの方が書いておられるように、61歳の私も「PERFECT DAYS」を想起しながら観ていました。独身男性の、日々の生活を丁寧に描写するところが共通点。ただ、あちらは現役ブルーカラー労働者で、こちらは余生を過ごす高齢の元大学教授なので、生活のベースはかなり異なる。あちらは自然の木漏れ日を美しく描写し、こちらはモノクロで四季の移り変わりを定点観測のように日本家屋の中で描いている。どちらも、派手さはないけど中高年者が観て、人生の何たるかを感じる描写が多い。
この映画の原作は未読ですが、筒井康孝の小説、特にナンセンスもの(というべきか)は若い時にハマッてかなり読んだことがあります。映画の後半、どんどん不条理な描写が増えていき、現実と妄想の境がわからなくなり、夕食の鍋をひとりで全部食べて、殺されて井戸に投げ込まれる編集者のくだりや、犬のフン騒ぎ、内視鏡検査、夢精などなど「これは確かに筒井康孝の世界やん」と、昔読んだ小説を思い出しながら、笑いをかみ殺して観ていました。
高尚さを感じる場面と、バカっぽい場面、また「敵」が階段の下から集団で上がって来る、強烈に怖いシーン等が、作品の中に違和感なく同居していて、ちょっと他にない味わいを感じました。この監督の作品は初めて観ましたが、少なくとも筒井康孝作品を相当読んでおられると思いますし、演出レベルの高さに圧倒されました。
もともとは洋画・韓国映画好きで、あまり邦画は観ない方だったのですが、昨年は「夜明けのすべて」「アイミタガイ」「侍タイムスリッパー」等、良い作品をたくさん観たので、今回の「敵」も含めて、邦画に対する印象も良い方に変わってきました。
主演の長塚さんが素晴らしかった!
特に長塚さんの前半の演技にrealityがあった。日常の繰り返しだが、routine(同じ動作)ではなく、食事の準備をして、それを食べ、食器を片付け、洗うところまで、しっかりこなす。朝食には、ハムエッグや鮭の焼いたの、昼食には、蕎麦を湯掻いて冷水にさらし、ネギと共に、あるいは卵を茹で、スーパーの韓国系店員と相談して求めたキムチと、冷麺に載せて食べる。夕食には、レバーを牛乳につけて血抜きし、切って串に刺し、炭の上で焼いて食す。フレンチのレシピに挑むこともあり、ワインも時として食卓に載り、弟子たちとの会食も。77歳にして、あの食欲。身体が強くないと出来ない相談。朝と夜の歯磨き。夜は、少し前によく見た「糸ようじ」。
ただ、彼自身は、教授を退職してから、原稿を書いたり、講演を依頼されたりすることもあるが、退職後の境遇に決して満足していない。訪ねてくるのは教え子のみで、周りの人たちから尊敬を受けているわけでもなく、親から引き継いだ大きいが古びた二階屋の日本家屋に住み、食事に丹精を凝らすのも贅沢に見られているとこぼす。貯金の目減りにいつも気を配り、生きるために生きるだけの生活には満足できず、今の生活レベルが維持できなくなったら、一生を終えることも覚悟しており、遺書も準備している。
やがて彼は、老化からくる強い不安を背景として、夢とうつつの間を彷徨う。願望、妄想、不条理の三段階があったようだ。一番、現実に近い願望としては、よく訪ねてきて食事を共にすることもある教え子との性的な交わり。妄想としては、20年前に亡くなった妻が出没するようになり、教え子たちと同席したり、言葉を交わしたりする。亡妻が出てきたら、全部、夢の中と思ってよいのだろう。面倒なのは、非現実的かつ原作者の発想に基づく不条理。愛用のMacに「北からの脅威」がウイルス・メールとして現れて後、現実感を以って、暴力的に襲ってくる。これがタイトルにある「敵」の正体だし、内的な「不安」に呼応する外的な「不穏」、原作者の主題なのだろう。いくら想像の産物とはいえ、現実感ありすぎ。個人的には、この不条理だけは何とかして欲しかった。ただ、この映画にある種の活気をもたらしたことも事実か。
年齢を重ねることによる、認知症とは異なる、内的な不安との戦いをよく描いた映画だ。
老いと向き合う
元大学教授で仏文学研究の権威となればプライドもあるし弱みも見せられない。悟ったように教え子に語りながらも,内面は押し込められた煩悩が渦巻いていた。こんな矛盾を抱えて老後を生きるって辛すぎると言うのが最初の思いだ。最初はリアルな夢から始まり、その後はどんどん夢と妄想の境目がなくなっていく。
老いて自分がどうなるかはわからないし、想像するのも怖い気持ちがあるが、自分の気持ちに正直に生きたいなぁと思う。少なくとも,彼が日々の食事をきちんと作り,丁寧にコーヒーを入れて飲む姿は理想の老後に見えた。
原作は未読ですが筒井康隆ぎこの本を書いたのが63歳と観終わった後に知った。その年齢でこれを書く筒井康隆もすごいし、この本をこのような形の映像にする吉田大八もすごい。モノクロなのに色彩を感じる映画だった。
モノクロながら、鮮やかな色彩を感じさせる一個人の老後生活
『時をかける少女』『パプリカ』の日本文学界の巨匠・筒井康隆による同名小説を『桐島、部活やめるってよ』の吉田大八監督が映像化。生い先短い老人の慎ましやかな生活と、自制していた欲望が次第に表出していく様を、モノクロの映像で鮮やかに描き出す。
主人公の元大学教授・渡辺儀助を、ベテラン俳優であり儀助と同じくフランスと強い縁のある長塚京三が演じる。
妻に先立たれ、余生を都内の山の手にある古い日本家屋で過ごしている元大学教授・渡辺儀助は、年金と講演や執筆の仕事で得た預貯金を切り崩しながら、“来るXデイ”に向けて過ごしていた。それは、「毎月の支出からいつ預貯金がゼロになるかを割り出し、ゼロになった時に自殺する」というものだった。
日々の食事を全て手作りし、僅かな友人やかつての教え子、行きつけのバーで出会ったフランス文学を専攻する女子大生と過ごす。時に自らの加齢臭を気にしたり、身体の不調に悩まされながらも、季節は過ぎて行った。
そんな中、突如自宅のパソコンに送られてきた「敵が来る」というメッセージを皮切りに、次第に儀助は現実と妄想の狭間に飲み込まれてゆくー。
タイトルにある「敵」についての意味を探る時、ともすれば我々は、現在の世界情勢と結び付けて考えてしまうかもしれない。しかし、原作が発行されたのは1998年。本作で描かれる「敵」とは、全て儀助の中、それを見守る我々観客一人一人の中にある問題である。その事にアテンションするように、作中ではカトウシンスケ演じる新米編集者の犬丸が「ロシア問題か…」と呟いた際、すかさず靖子が「先生はメタファーの話をされているのよ」と訂正する。
現在31歳である私が思うに、本作で描かれている「敵」の正体とは、月並みだが“死”であり、“孤独”であり、何より“自分自身”に他ならなかったのではないかと思う。
預貯金から割り出した「あとどのくらい生きられるか」という計算に裏打ちされた“死”に対する覚悟も、ラストでは脆くも瓦解する。
外見では常に余裕を持ち、穏やかな姿勢で元教え子の鷹司靖子(瀧内公美)や女子大生の菅井歩美(河合優実)と接しながらも、密かに靖子への劣情を抱き、亡き妻である信子(黒沢あすか)の幻影を追って遺品のコートをクローゼットから引っ張り出して書斎のハンガーに掛ける。歩美の大学の授業料を負担すると申し出て、まんまと預貯金から300万円も失ってしまう。知人の湯島に語った「不思議と腹が立たない」という台詞にも、僅かな見栄があったのかもしれない。
トランクケースに溜まり行く、独りでは使い切れない程の量の石鹸は、儀助が妻を亡くしてから積み上げてきた“孤独”なのではないか。妄想の中で難民に向けて「好きなだけお持ち下さい」と自宅の塀の前にそれを置く様は、妻に先立たれ、友を失い、若い女に騙されて預貯金を無くした事で、自らの理性と自制心が限界を迎えてしまった儀助の「誰かこの孤独を消し去ってくれ!」という静かな叫びだったようにも思えるのだ。
だからこそ、儀助は自宅の庭に振り続ける冬の雨を前にして、「この雨があがれば春になる。春になればきっと、また皆に逢える」と、心の中で呟く。静謐で厳かな雰囲気を漂わせていた儀助の生活の下には、孤独と虚栄心に塗れたごく普通の老人、どうしようもない「人間」、「男」という性別の生き物の本質があったのではないか。
しかし、パンフレットを読むと、主演の長塚京三氏は更に深い領域まで渡辺儀助という人物を捉えている事が分かる。それは、フランス演劇・文学という高尚でインテリジェンスな分野に人生を費やして来た事から来る傲慢さ。妻の信子に注ぎ切れなかった愛情と侮り(「夫婦揃って貧乏暮らしをするなんて、君は耐えられなかったはずだから、先に逝ってくれて良かった」と口にする様や、フランス文学・演劇を専門としながら、一度たりともフランス旅行に行かなかった事)。性欲を自制心と虚栄心によって律する中で密かに、しかし確かに抱いていた下心。儀助が向き合う「敵」の正体とは、つまり彼がこれまでの人生で蔑ろにしてきたもの、それらからの“復讐”なのだと。
この事を受けて、私の中では心理学者のユングが遺した【向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる。】という言葉が思い起こされた。
他にも、“老い”や“恐怖”といった様々な「敵」を、観客一人一人が想像するだろう。その正体が何であるかが明確に語られない以上、それぞれがそれぞれの「敵」を想定して鑑賞し、考察して行く他ないのだから。
しかし、こうした内容やポスタービジュアルが与えるシリアスな印象とは裏腹に、本作は意外にも儀助の人間的・男性的な滑稽さをコミカルな表現で描き出す様も目立ち、それが魅力の一つとなっていた。
靖子を想って無精し、翌朝無様に下着を洗う姿や、痔の検査で内視鏡を挿れられる際、まるで掃除機のコードのように内視鏡が勢いよく入って行く様などは、場内からクスクスと笑い声が漏れていた。
また、信子が儀助に「この人(靖子)の事を考えて。勃起して。一人でしてたんでしょ?」と問い詰めるシーンでは、「…した。でも、想像の中だけだ!」と返す儀助に「想像するのが1番悪いのよ!」と激昂する姿が面白かった。
モノクロながら、その彩りの豊かさを感じさせてきた数々の料理シーン・食事シーンは、本作の最大の魅力だろう。本作は一個人の老後の私生活を描くと同時に、優れた飯テロ作品でもあったと思う。
物語冒頭から、起床した儀助は米を研ぎ、電気コンロで鮭を焼く。自ら豆を挽いて食後のコーヒーを嗜むのがルーティン。
湯島からの土産の手造りハムは、ハムエッグにして手際よく蒸し焼きにする。
たまの晩酌では、焼酎のお供に焼き鳥を自作する。レバーは血抜きし、葱間を作って焼き上げる。
朝食の白米を少し余らせて、塩昆布でサッとお茶漬けにする手際が美しかった。
好物の麺類は、素麺や冷麺を楽しむ。この冷麺の為に、拘りを持って買ってきた辛口のキムチが、翌朝痔を発症する原因となってしまうのだが。茹で卵を四つ切りにし、白胡麻を挽く手際の鮮やかさからは何とも悲惨な末路。
しかし、そんな食材や栄養に気を遣った食生活も、「敵」を前にして次第に現実と妄想の区別が付かなくなってからは、最終的には簡単なカップ蕎麦になってしまう。こうした食に対する姿勢の落差にも、抗いようのない“老い”を感じさせる。
渡辺儀助役の長塚京三氏の演技力には、今更賞賛を贈るまでもないだろうが、監督がキャストを想定して脚本の初稿を書き上げたと語るだけあって、儀助という人物のリアリティのある説得力は素晴らしい。時に滑稽な姿さえ晒してしまう振り幅の豊かさも、長塚氏が積み上げてきたキャリアの賜物だろう。
鷹司靖子役の瀧内公美の美しさは、モノクロの世界に於いて抜群の存在感を放っていた。本人も「モノクロ映えする」と言われた事があるというだけあって、妖艶さと成熟した大人の女性さを兼ね備えた靖子役はハマり役だったと思う。
老いるの怖い
今はYouTubeで年配女性のおひとり様暮らし動画なんかけっこうあって、老後も何とかなんじゃね?って思えてたのに…本作見ると「老いるの怖い」がぶり返してきた。キムチ食って血便出んのかよ!怖いよ〜!
自分が儀助くらいの年になる頃には、もっとライトな死に方が許される世界になっててほしい。歯医者行くくらいの感じで安楽死させてほしいし、死後のもろもろもネットでポチッと決めさせてほしい。
あとは、教え子の女性が色っぽかったですね。モノクロだと色彩がない代わりに陰影が強調されて、身体の凹凸がより目立つ感じがしました。
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