敵のレビュー・感想・評価
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老境に至りても、ひとは醜くて面白い。
筒井康隆は関西圏のテレビで鷹揚としゃべるおじいちゃんという印象しかない。
小説は読んだことない。時をかける少女とかの原作者だってことは知ってる。
吉田大八の脚本・監督ってことに惹かれて観た。
多分、ある種の認知のズレが始まった老人の、混乱から死への季節の描写なんだろなー。
かっこよく死に時を探しているけど、40くらいの教え子に欲望を抱き(瀧内公美さんがすごくいろっぽくてよい)夢精するし、20そこそこの小娘に鼻の下を伸ばしてお金を取られ、20年前に死んだ妻のコートに面影を求め、隣人の加齢臭に自分も臭くないかめっちゃ気にして石鹸をこすりつけ、金はとられるし絶望して自死しようとするのに、訳のわからんものに襲われたら抗ってしまうし、みっともなくて性も生もどっちも全然達観できてないやんってところが、生々しくて面白かった。
長塚京三さんの演じた、老境に至りてなおみみっちいプライドや欲望に拘泥する、普遍的でチャーミングな人物像がとてもよかった。だいぶ年とらはったなー、説得力ある画だけど演じるのに勇気いるよななど思った。
辛いレーメンでおなか壊して、大腸のカメラ検査の2回目で、女性医師に四つん這いにされて、下着おろされてはずかしいのに恥ずかしいと言えず、黒いホース状の何かが尻から吸い込まれる描写がおっかしくて、がんばって無音で爆笑した。
あと、犬の糞を放置するなとキレる隣人が、敵?に打たれて糞を尻でつぶしてしんじゃう描写と、犬の糞放置の犯人にされる女性の飼っている犬の名前がバルザックで、そんなところにまでフランス文学風味を…なども面白かった。
フードコーディネーターは飯島奈美さんだったよう。
社会の勝者であった人に
モノクロ画面については、モノクロ作品をたくさん観ているし(なんなら映画はモノクロの方が多い)、先に知っていたのもあり、そういう手法なんだな、程度だった。
画面に映る家電等が最先端なので、モノクロと映っているものとの間の軋みも味わいとなる。
そもそも妻を大分前に亡くしているのに家電が新しい、ということは自分で選別して購入する能力がある男性であることを表している。
庭掃除、料理、洗濯、廊下掃除(掃除機でははなく箒)の場面はあったが、しばしば登場する調理にまつわる台所の掃除はどうしたんだ、と思っていたら夜中にやっていた。
そのように主人公となる渡辺儀助は「丁寧なくらし」をしている。
フランス文学の教授職を退官して、貯蓄と年金、講演料や原稿料で生活している。
(ちなみにネット情報によると長塚京三氏はパリ大学に在籍していたことがあるそうな)
貯蓄があることも、退職したあとに小遣いというには十分すぎる(と思われる)収入があることも、社会の勝者であった彼を描き出している。
そういった下敷きの上に、老いによる孤独、隔絶感、閉塞感から芽生えた現実と妄想が降り積もってゆく。
最初は、雪が黒い地面に落ちて静かに溶けてゆくように、儀助という人間の中に吸い込まれて消えてゆくが、次第に、彼を浸食し、凌駕してゆく。
一応、女性として年金受給年齢まで日本で生きてきたものとしては、教え子の女性も夜間飛行というバーの女子学生もあざとさが目立つが、こういう罠に嵌ることにすら潜在的な願望を抱く男性は少なくないのかもしれない。
認知症になったらどうしよう、と悩む高齢者は多いが、病気と名付けられずとも、生命を授けられたものはすべからく老いて死んで行く。(どの程度の老いかはばらばらだが)
そういった事実を覚悟する意味で、社会の勝者として生きてきた方に観ていただきたい、と思った次第である。
まあ、それでも「オレ(だけ)は大丈夫」という人はいるけれど。
儀助の最後の姿から亡くなるまでの数ヶ月は描かれていない。
それは救いなのか恐怖なのか。
全く関係ないけれど、「猫と庄造と二人のをんな」を観てみようかな、と思った。
〝煩悩〟なんて都合のいい言い換えです
昨日のことです。
ナポリの窯でピザを持ち帰り購入し、自宅で冷え冷えのビールをグビッ!!昔から辛いのが好きなので、当然のようにTabascoをワンピースあたり3〜4滴大粒でかけました。案の定〜中略〜なわけです。病院へ行くほどではないのですが、若い頃に比べると、辛いものに対しての大腸の耐性(機能?)がすっかり弱くなっていることを痛感するばかりです。
シワとか肌のツヤとか人から言われなくても分かるような、加齢による変化についてはさしてショックは受けません。
けれど、20代〜40代、人によっては50代60代までは気にも留めなかったようなこと、それもまさか加齢で衰えるとは想像もしてなかった部分で衰えを自覚することになるという経験は結構ショックです。
歳を取る、というのは身体のあちこちで生じる〝まさかこんなところが!〟という加齢による変化(要は衰えのこと)に慣れていくことなのです。
なのに〝性欲〟(それを煩悩なんて呼ぶのは男にとって都合のいい言い換えでしかない!!)だけは、歳を重ねても衰えを感じない。機能は肉体的なものなのに、それが想像力から発するものだなんて極めて大脳的。その矛盾ってどういうこと?
知的作業を生業(なりわい)としているものにとってそのショックは簡単に整理できないから、自分の内面の課題ではなく、いちどきに襲って来る、自力で対処しようのない〝敵〟のようにも見えるのではないでしょうか。
原作者 筒井康隆さんの、テレパシー能力を持つ七瀬が主人公のシリーズでは、出てくる男はひとりの例外を除き、すべて女を見れば裸とセックスを想像しているように描かれています。
もちろんそれは作品全体から見れば部分的なものであり、主題ではないはずですが、男の一面としては絶対に切り離せない欲望のひとつです。
これぞ映画。悪くはない後味を噛みしめて余韻に浸る。
とても丁寧な暮らしをする主人公の姿に「PERFECT DAYS」を思い出しました。食も住もテキトーな私は憧れはしてもとても真似はできませんね。
でもその几帳面な日常ルーティンさえも、結末を知ってから思い返すと、別の意味があったんだろうなと気づいたり。
現実と妄想の境目が次第に無くなっていく不思議な作品で、モノクロ映像の鮮やかさが印象的。
長塚京三さんも、彼を取り巻く3人の女性も、まさにハマり役でキャスティングもお見事です。
レビー小体型の症状で幻視の出る肉親を近くで見てきたから、主人公に見える見知らぬ男や襲いかかる敵たちがとてもリアルに感じました。
老いも死も避けられないという現実。
筒井康隆原作なのでそれさえもSF的に飛びこえて映像にしてしまった吉田大八監督の手腕が光っていました。
久々の筒井康隆ワールドを堪能
原作は読んでいないので、初めから『敵』とは何かを考えながら観ていた。ま、死だったり老いだったりだろうなと単純に想像していた。
同居している91歳の私の母親は認知症ではないが、ここのところ睡眠時間がやたら長く、何かに対して怒鳴っているような叫んでいる様な大声の寝言が多くなった。物忘れも酷くなってきて、そんな事聞いてない、私がいい忘れたからって人のせいにするななど理不尽な事を言ったりする頻度も増えて来た。
この映画で私の母の頭の中を垣間見た気がする。きっと母も、過去の記憶や、長い人生の経験からくる理想、恐怖などの妄想と現実の混乱の中で日々の生活を送っているに違いない。何度も出て行こうと思ったが、雨の日に縁側に一人ぽつんと座っているシーンを観て、最後の日まで一緒に居てあげようと改めて思った。
敵とYシャツと私
2025年2本目は、敵。
序盤は憧れるほど丁寧な生活が描かれる。
焼き鳥を串打ちし、すぐ混ぜる冷麺もきっちりと盛り付ける。
何気ない日常描写でありながら、退屈はしない。
敵が現れてからは生活が一変し、パジャマで過ごし、菓子パンやインスタント麺のズボラ生活。
この対比が素晴らしいと思いました。
どこからどこまでが現実なのか、だんだん境界線が曖昧になっていく感じがとても良かったです。
画面がモノクロなこともこの映画にとってプラスに働いていると思います。
理性vs本能
敵は
老いですか?独居は少し寂しいですが、ある意味憧れの生活を送れているフランス文学の元教授ですが、段々と老いが迫ってきます。これは仕方ないですかね。できるだけ人に迷惑をかけない様にしたいものです。
観る人によってそれぞれ違う「敵」
中学生の時、筒井康隆の「狂気の沙汰も金次第」を読んでからファンになって、筒井康隆作品はほとんど読破しました。多くの作品を作り出している大御所ですが、すでに映画化されている「時をかける少女」や「俗物図鑑」みたいな解りやすいSF作品と、「虚構船団」や「文学部唯野教授」みたいな少々難解な純文学作品とに二分されます。今回の作品は後者ですね。
原作はもちろん読んだのですが、解りやすいSF作品とは異なり読むのに物凄く時間がかかったのを思い出しました。で、映画版なのですが、全編モノクロ(というか淡いセピア色?)で構成されていて、原作の雰囲気を上手く反映させていました。以前から教師役が上手な長塚京三を元フランス文学教授の主人公に据えて、エッセイやイラストにも造詣が深い松尾貴史を主人公の友達のデザイナー役、「ナミビアの砂漠」でも難解な役を演じきった河合優実を小狡い女子大生役に起用するなど、とても解りやすい作品に仕上がっていました。
長塚さんが良い
混沌の妙味
こわい映画でした。
大学教授だった男性が、
老いて内部から崩壊していく。
奥さんが亡くなり、一人暮らしの元大学教授。
なかなかシュッとしてカッコいい(長塚京三さん。このキャスティングはドンピシャ)。
昔の教え子が訪ねてきていい感じになっちゃったりする。
料理も淡々とこなし、レバーを牛乳に浸して臭み抜きをするあたり、ほんとにきちんとした生活をしていて感心する。
しかし、ポツポツあった仕事もなくなってしまうと、曜日、日付の感覚がなくなり、次第に昼なのか夜なのか時間もあやふやに。
生活がだんだん崩れていき、妄想が進む頃にはカップ麺を食べるようになる。
独居老人の生活の低下と老いの進行は比例するから、この辺りの表現は正確だし上手いなと思う。
白黒の画面が時間の区切れをいっそう曖昧にして、だんだん夢なのか現実なのか妄想なのかもわからなくなってくる。
老い、ボケを内部から見るとこういうことなんでしょうか?
内部はゆっくり崩壊していく。
外から見ると、ある日突然言動や行動がおかしくなったように見えるのだけれど。
結末に向かって混沌はどんどん激しくなり、見ている方も何が現実かわからなくなってくる。
彼が見る妄想を観客も一緒に見る
こわい映画でした。
老いる事は怖いのか?
過去に復習される男、儀助
老人と三人の女
筒井康隆の原作は未読。年老いた元大学教授の日常生活が丁寧に描かれる。焼き鳥を自分で作るほど、食事にもこだわりがあるよう。そんな平穏な一人暮らしに、見えない「敵」の影が忍び寄る…
とにかく長塚京三が主人公にぴったりはまっている。老体をさらしつつ、インテリで含羞を滲ませた役柄を演じられるのは、彼以外では考えられないほど。
亡き妻、かつての教え子、現役学生の三人の女性を、みな主人公が主観的に見た姿として描くことを徹底しているのも、面白い。芸達者な女優陣が、うまく色合いの違いを見せている。
後半の、現実と夢想が混然となり、侵食し合っていく様は、まさしく筒井康隆ワールド。しかし、滑稽さと情けなさを見せつつも、実写にすると、どうしても支離滅裂なものに見えてしまう。モノクロにしたのは正解だけど。
タイトルにもなっている「敵」は、素直に「死」のメタファーと読んだ。安らかで思い通りの死を迎えることは不可能なのだと、自分事として考えさせられる。
意図は分かるが、すっきりしない。
筒井康隆の原作を実写化したことで多くの人に評価されているが、私はむしろ映画を見るより原作を読んだ方が良かったかも、と思っている。それこそ、原作のある映画に相応しいのかもしれないが、映画単体で見た場合、面白さは今ひとつなのである。それは私自身が老いてきて、身につまされるからかもしれない。年甲斐もなく、まだ性欲があるのは良く分かる。ただ、北の敵というのが、いささか突飛な想像に思え、主人公の料理のリアルさと対照するにも、あまりにもチャチな感じがする。ただし、主人公が想像で恋する亡き妻、教え子、知り合った娘が黒沢あすか、瀧内公美、河合優美なのはそれぞれの役割に合ったキャスティングが最高で、彼女たちと相対するシーンはどれも好きだ。
老いるということ、その認知の乱れを巧みに描いた作品
映画「敵」
筒井康隆の同名小説を、吉田大八監督が映画化、2024年の第37回東京国際映画祭コンペティション部門において、東京グランプリ、最優秀監督賞、最優秀男優賞の3冠受賞ということで、期待して臨む。
主人公の儀助は、大学教授の職をリタイア、妻に先立たれているが、かつての教え子たちとの交流もあり、日々穏やかな生活を送っている。
年金と預貯金を計算、同じように生活できるであろう終わりの日を決め、遺言書をしたためつつ、その日に向けて淡々と暮らす老人。
その毎日のルーティンは、映画PERFECT DAYSの役所広司とも被る。そして毎日几帳面に暮らし、買い物をして美味しそうな料理を作り、ひとり食べる姿は、自分のそう遠くない将来をも予感させる。
そんな独居老人の儀助の前に、「敵」という得も知れないものが現れ、現実と妄想が交錯するカオスな展開。
もしかすると、それ以前から認知に乱れが生じていた可能性も多々あり、、、
舞台は現代であるが、モノクロ映像で描いたことにより、小津映画かのような、味わい深く映画らしい世界にどっぷり浸かることができる作品。
主人公の儀助を演じた長塚京三のキャスティングがドンピシャ。助演の瀧内公美、河合優実、黒沢あすか、彼女たちが見せる妖しい演技が、儀助の心の乱れをスクリーンにあぶり出していく。河合優実のファンとしては、そこも楽しめる要素。
特筆すべき点としては、前半に出てくる様々な料理が、モノクロながらもとても美味しく見えること。そして一軒家に住み、一般の老人より恵まれた環境の中、悠々と暮らす一人の老人が、乱れた心持ちの中、妄想と現実の狭間を生き、時に卑猥なことまでを頭に描いていること。
それらのどこまでが現実で、どこからが妄想か、観ている者にとっても掴みどころがないまま、巧みにスクリーンに映し出され、最期の時を迎える。
老いるということ、そこに突如現れる妄想や認知の乱れを上手に描いた、映画好きにお勧めの映画
<ストーリーを追ってはいけない映画かも>
●今、流行りはストーリーではなく「人物」にフォーカスする映画か
一昨年の「Perfect Days」、昨年の「ナミビアの砂漠」など、いずれもストーリーを追う映画ではなく、ただただひとりの人物の行動を追う。説明的なシーンは少なく、一人の人物像を感じとる事で成り立っている。
現在公開中の「敵」も、そんな映画か。
老境の高名な仏文学者。 出だしは、まさに人物が違うだけでPerfect Daysのような描き方だ。説明的なシーン設定もなく、淡々とした毎日をひたすら描き出す。すると、人物像も自然と浮かび上がってくる。そんな日常の中に、ほんの少しのノイズがヒタヒタと忍び寄る。
「敵」とは何者なのか。「敵」はどこにいるのか。「敵」の正体は? と、こう書くと、ストーリーを追って推理するような映画だと誤解されかねない。重ねて言う、理解するのはストーリーではない。人物のありのままの姿だ。
どんなに学があり高名であり、何不自由ない生活を自分自身で送れていたとしても、逃れられない「老い」。 昨今、PLAN75やロストケア、正体など、老いの社会問題をテーマとした映画が続々と生み出されているが、この映画は、老いのパーソナルでセンシティブな部分にフォーカスした問題提起となっているようだ。
妄想だろうが夢だろうが
やがて必ず来る死を感じながら端正な余生(こまめに作る料理が旨そう)を過ごしていた仏文学者の暮らしが悪夢に呑み込まれていく
モノクロームに、彼の老いた、それでいて枯れきらない身体が物語る
バーで出会った女学生に騙され、教え子の女性にのめり込み、亡き妻に罵倒される
(肛門にぶち込む女医も含めて女たちには惹かれる)
パソコンは乗っ取られて混乱した言葉で満ち溢れる
敵がいきなり群れ溢れ、北の方から銃撃される急展開
怖しい
無事に死んだ後の屋敷で、祖父は何を見たのか
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