敵のレビュー・感想・評価
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元大学教授が身の丈に合った隠居生活を送っているな、という印象で微笑...
元大学教授が身の丈に合った隠居生活を送っているな、という印象で微笑ましいスタート。
しかし、迷惑メールを簡単に開いてしまうし、添付されたURLもためらいなくクリックしてしまうなど危うい状況。
また、ロマンス詐欺に引っ掛かってしまうあたり、かなり世間知らずだ。
前半は割とおもしろかったが、色々な出来事が夢オチの連続で段々うんざりしてくる。
さらに後半はグダグダかつハチャメチャな展開で収拾がつかなくなる。
筒井康隆が本当にこんなしょうもない小説を書いたのか、それとも、原作はもっとおもしろいが、監督が無能なのか。
最恐のホラー映画
「敵」が支配する世界にとって、私こそが「敵」
施設に入っている父に会うのは半年ぶりだった。
半年前とそれほど変わらぬ見た目に安堵するも、すぐにその感情は畏怖となり、落胆へと変わっていった。
目の前に座っている父の穏やかな立ち振る舞いとは正反対に、つぶらな目は泳ぎ続け、誰かに助けを求めているように見えた。
きっと父が施設の外の人に会うのも半年ぶりなのだろう。
彼にとって日常に存在するのは、施設のスタッフだけであり、目の前に座る私は初めて会う見知らぬ人でしかないのだろう。
「敵」の侵食によって父は世界から排除され、施設に入ることで自分の人生を「立ち止まらせる」ことを強要された。
半年が経ち、「敵」に支配された父から見た私は、残念ながら「敵」でしかないのだろう。
穏やかな性格のおかげで敵意を剥き出しにされないだけ喜ぶべきか。
与えられたわずか15分という短い面会時間が永遠に感じて、途中から息苦しくなっていった。
15分を待たずに、私たちは面会を終え、父は施設のスタッフの介護で自分の部屋へと戻っていった。
スタッフの姿を見つけた時の父の安堵の表情を見た私は、非常に複雑な思いを抱えたまま、スタッフに一礼してその場を去った。
この静かな施設の中は「敵」が支配していた。
この中では、私自体が彼らにとっての「敵」なのだ。
筒井康隆さん原作の映画「敵」。
これまでに、「時をかける少女」や「パプリカ」「七瀬ふたたび」など、数多く映像化されてきた筒井康隆作品の印象はエンタテインメント性の高いSF小説。
しかし、この作品は少し趣が異なる。
原作の発行は1998年。
作者はおそらく還暦後に書きまとめ、断筆解除後に単行本として発表された。
主人公・渡辺儀助は75歳。
大学教授を辞して10年、悠々自適の余生を過ごす教養人。
フランス文学研究の権威として、時折依頼のある講演や稀にある執筆依頼の他は、規則正しい生活を重ね、誰もが羨む丁寧な暮らしを続けていた。
講演依頼を受ける基準は「謝礼が10万円である」ということ。
それ以下ならもっとオファーがあるはずだが、自分を安売りしないというポリシーで10万円以下なら即断りを入れる姿勢を崩さない。
三度の食事を大切にし、手間をかけて旬を盛り込んだ自分のためだけの食事を作る。
食後に挽き立ての豆で淹れた美味いコーヒーをゆっくりと飲み、夕食にはそれなりに贅沢な赤ワインをじっくりと嗜む。
人生の折り返しを過ぎた大人の男性から見れば、きっと憧れの老後生活の最上級のモデルケースのひとつだろう。
この映画を見るまでは。
自ら「立ち止まる」と決めた時、「敵」は静かに近づいてくる
人生を賭けて研究し続けたフランス文学への造詣によって、主人公・儀助はフランス文学の権威となり、大学教授にまでのぼりつめた。
そこでは自分を尊敬する弟子たちが常に集い、自分の一挙手一投足に賞賛の声が湧き、憧憬の眼差しが途切れることはなかった。
中には、引退した今でも彼を慕い、老人の一人暮らしの庵を訪ねる教え子たちもいた。
恩返しの思いで彼に執筆を依頼し続ける出版社勤めの教え子もいた。
けれど、かつて大学の教壇に立って熱弁を振るっていた頃の賑わいは、もう自分を囲むことはない。
恩返しの気持ちだけでは、大学教授の視点が抜けきらない原稿を畑違いの雑誌に掲載し続ける熱は続かない。
周囲は生き続けていた。動き続けていた。
しかし、儀助だけが動きを止め、過去に生きていた。
そして、そのことに彼だけが気づいていなかった。
生きるために変わり続け、動き続けている周囲の人たちの流れの中で、「立ち止まる」と決めた主人公だけが交わることなく、自然と傍に追いやられていった。
私たちにとっての「敵」は、果たして本当の「敵」なのか?
「敵」とは何か?
それは「立ち止まる」と決めた人を襲う「孤独」という名の疎外感。
「自分らしく生きる」と決めた者に訪れる「世の中から忘れられる」という喪失感。
「自分は変わっていない」にもかかわらず、周囲の反応がどんどん変わっていくことへの苛立ちや怒り。
ただ立ち止まっているだけなのに、どんどん世の中から取り残されていく驚きや違和感。
教え子たちが慕っていたのは、じつは自分個人ではなく、「大学教授」という肩書きや地位の方だったということに気づけたとしても、もう「敵」は心身を蝕んでしまったあと。
主人公が見ている日常は、現実世界のものなのか、彼の夢想・妄想なのか。
「敵」に侵食されてしまった後では、それを判別すべは本人でさえもう持ち得ない。
「敵」とは何か?
少なくとも、「敵」となりうるものが誰の心の中にも潜んでいるということは間違いない。
私に微笑むあの人は、本当に実在するのだろうか?
主人公・儀助は、自ら進んで「立ち止まる」ことを選択した。
本人はそう考えていたが、実際は流れ続ける社会から弾き出されただけだった。
そのことに気づいた時、儀助は遺書を書き、自死を選ぼうとする。
しかし、「敵」に完全に支配された状態では、もう自らの意思で何かを選択し、実行することさえ難しい。
今生きているのか、夢の中なのかさえ、本人には判別ができないのだから。
彼は妄想の中を生き、妄想の中で死ぬ。
この映画を見た50代以上は、きっと映画の中の光景にリアリティを感じ、恐怖に慄くはずだ。
果たして今、自分が感じていることは現実なのか? 妄想なのか?
親しくしてくれている友人は実在するのか?
いつも愛想を振りまいてくれる行きつけの喫茶店のバイトの子は、本当は自分に向けて笑ってなどいないのではないか?
毎年届く年賀状は、ただ機械的に郵送されているだけではないか?
届くメールは全て「敵」からのメッセージなのではないか?
父を介護するスタッフは、とても親切で優しい人に見えた。
父が住む「立ち止まった」世界でも、同じように見えているといいなと心から願った。
けり
吉田大八「敵」原作は知らなくて“敵”はネットで真実のメタファーなの...
死ぬ日を逆算して生きるけれど、
死ぬ日(X-da y)を逆算して生きていた渡辺儀助の、
完璧なルーティンを砕く【敵】とは❓
まるで役所広司の「PERFECT DAYS」を思わせる
毎朝のルーティーン。
原作(筒井康隆の同名小説)は儀助の日記形式で
書かれてると言う。
ただ役所広司の朝より、倍速で気忙しい。
追われるように手際は良いのだけれど、
余裕やゆとりがない。
しかしモノクロでも料理は旨そうで、伝わってくる。
ひとり焼き鳥は生真面目な儀助も、実に楽しそうだった。
長塚京三は言う、
吉田大八監督は原作を映画界に入る前の1998年には読んでいて、
いつか映画化しようと考えていた。
コロナ禍で予定がバタバタと消えて無粋を託っていた時、
ふと今こそ映画化しようと思ったそうだ。
主役は“長塚さん以外には考えていない“
長塚いわく、“私が歳をとるまで待っていたのではないだろうか?“
そう思うほど、何も考えなくて良くて、
ト書の通りに“歩き“、ト書の通りに“話した“
それだけで渡辺儀助になれた。
“私は何もしていません“
死を超越したような、死をコントロール出来ると考えてる前半。
迫り来るX-davを余裕たっぷりと待ち受けている・・・
ところがどうだ!!
後半はコントロールするどころか、無様に《敵》に怯え、
老いに侵食されていく。
老いへの優越から、ごく当たり前の弱い年寄りに
成り下がる・・・のではなく・・・
《死》も《敵》も《老い》も
見下すことなど不可能なのだ。
さまざまな出来事。
3人の女
瀧内公美、河合優実、黒沢あすか、
彼女たちは存在したのだろうか?
夢と妄想の産物ではあるまいか?
それにしても色っぽくて、しっぽりした瀧内公美、
小悪魔的に、殺し文句を連発して、大金を巻き上げる(?)河合優実、
20年以上前に死んだ妻の黒沢あすかまで現れる。
先生(儀助)は大学のフランス文学の元教授で、
瀧内公美は元教え子、
“今なら、セクハラ・・・ですよねー”
と言いながら、足繁く訪れて先生の手料理でワインのお相手をする、
眼福のような慎み深いしっとりした美しさ‼︎
瀧内公美も河合優実も超人気女優、
二人は幾つの引き出しを持っているのか?
役柄によってまるで別人に化ける演技巧者、
仏文の学生・河合優実は、プルーストやサン・テグジュペリ、
マルグリット・デュラス、などを持ち出して儀助を翻弄する。
“こんな会話に儀助は飢えていた・・・“
“知性で優位に立ちたい男のプライドをくすぐり捲る河合優実・・・
脚本も良いが三人の女が実に魅力的。
フランス文学の教授なのに、
“一回もフランスに連れて行ってくれなかった“
と恨み言を言う妻の黒沢あすか、
“実は会話に自信が無くてねー“
生きている間には一度もなかった、
同じ湯船につかり、向かい合う、
亡き妻と愛人(?)と旅雑誌の編集者、儀助の四人で囲むお鍋料理、
ちょっと滑稽で苦くて甘いシーン。
儀助は認知症・・・ではないと思います。
あくまでも夢と妄想が入り混じり、
《敵》に怯え、最後には《敵の襲来》に果敢に立ち向かう、
本当に長塚京三は適役でした。
ソルボンヌ大学を6年掛けて卒業した経歴。
実年齢とほぼ同じ79歳、
息子は有名・人気劇作家で演出家の長塚圭史で、
(KAAT神奈川芸術劇場の芸術監督)
その妻は常盤貴子、
長塚京三の遺伝子は社交的で優れた息子に引き継がれた。
心に刻まれる素晴らしい映画だと思います。
ラストの台詞
「この雨が上がったら春が来る、みんなに会いたいなぁ」
のところで、長塚京三さんは、涙ぐんでしまった、そうです。
阿川佐和子にそう話すのでした。
老いる…ということ
…おもしろい視点で見られる
妻に先立たれ一人で暮らす
真面目で几帳面な元大学教授の日常
全編モノクロ
料理は彩りは無いのですが
美味しそうに食べる姿や
食べる音で美味しさがわかる
食後豆から挽いた珈琲で
充実したひとときを楽しむ
途中から"敵"の存在が何度も出てくる
はじめはよく分からなかった
一人で暮らす生活で
老いからの"孤独"や"寂しさ"から
現実だと思っていた事が夢だったと
…可笑しな夢を見る
何度も何度も(最後の頃は悪夢)
現実かのような夢
記憶が遡っているかのような夢
最後は母の胎内にいるかの様な戦中の夢
季節は夏から冬の出来事
春になったらまた皆と会いたい
と最期のことばが切なく聞こえる
相続は従兄弟の槙男に託される
託された槙男は双眼鏡で伯父の姿を…
そして槙男の姿はない
ラストの意味がわからなかった
ミステリ(謎)な感じで終わる
所々笑える所もあり面白しろさもある
長塚京三さんをあてがきされた様な作品
リアルな感じが素晴らしい
他のキャストの皆さんもとてもよかった
まぁ〜…(本文に続く…)
目を覆いたくなる前半のプライドと痩せ我慢の痛々しさ。なぜか愛らしい後半の暴走ダメ爺さんぶり。
久しぶりに見る長塚京三。
落ち窪んだ目元、深くなった目尻の皺、
伸びきった喉元のシルエットは、すっかり老人のものだ。
モノクロ映像の深い陰影が、それを際立たせる。
「私、部長の背中見てるの好きなんです」
部下の女性の言葉に小躍りしていた
サントリーオールドのCMの長塚京三は
はるか遠い日のものだ。
仕事は遠のき、人付き合いも限られていくのに、
ブライトは高く、食欲も性欲もまだまだある。
人生の残高を計算しては心細くなるのに、
後輩に説教がましく人生の閉じ方を語ったりしてしまう。
ひとり自分のために美食をつくっては、
女性に振る舞って褒められる自分を妄想している。
しかし妄想は妄想。現実は変わり映えしない。
ひときわ強めの効果音が、老いの現実を容赦なく刻みつけていく。
この映画を観るひと(つまりぼく)が、
老いへの不穏な気配を感じていれば(つまりぼく)、
映画の前半は思い当たることばかり(つまりぼく)だ。
物語は動き出す。
元教授の大好きな(ぼくも好きだ)可愛い子ちゃんとの
甘い日々はガラガラと音を立てて崩れる。
自分を教授に引き戻してくれる教え子たちとのささやかな現実も、
妄想がじわじわと染みこんできて暴走し始める。
振り回され、混乱し、慌てたり、怖がったり、謝ったり。
だがしかし、教授はなぜか遥かに生き生きとしている。
何度も推敲した遺言書は、最後は万年筆で清書だ。
自分らしい知性に溢れている。
敵との戦いに自ら飛び込んで、最期を迎えたそのあとは、
懐かしいみんなと会える。
さあ、ぼくの遺書を聞いてくれ。
よくできてるだろ?
長塚さんは、前半のカッコ良いところが、痛々しくて見ていられず、
後半のカッコ悪いところが、人間的でいいやつっぽくて、よかった。
自分はどう老いたいのか、考えずにはいられなかった。
奇妙な展開と人生の終末期が見事にマッチした映画
質素だけれど、家事を自然体でこなす現実的な日常風景の前半と
幻想と現実がわからなくなる主人公の混乱が
観ている私たちも追体験していくような感じで
非常にリアル。
観終わった後も、現実と幻想に思いを馳せた。
それにしても、ご飯をとても美味しそうに食べる長塚京三さんがカワイくて魅力的、とても御年80歳とは思えなかった。
死ぬときはあんな感じ
長塚京三、瀧内公美、黒沢あすか、河合優実、すばらしい。
あと何年という計算をするところが、身につまされます。
なくなる時は、たぶん、現実と夢が混在してきて、わからなくなっていくのだと思い至り、あんな感じで死んでいくんだなという、身につまされる映画でした。
飯テロ→現実の崩壊
原作未読、前情報ナシで鑑賞しました。
文化系インテリじいちゃんの質素な日常に、虚構(妄想?)がいりまじり、境界があいまいになっていき…というおはなし
いや、こういう話とは思っていなかった。
つらかった。
アンソニー・ホプキンスの「ファーザー」のときもこういう感覚に陥って、号泣しながら観た。
敵。
老いなのか、死なのか、認知の歪みからくる漠然とした恐怖なのか。
わたしは認知症のメタファーと思ったし、監督もそのように考えているみたいだけど、筒井康隆氏は否定しているそうな。
こういう自我や認知が崩れていく話は恐ろしくて見ていられない…年とったら違う感想になるんだろうか。
白黒なのにご飯がとても美味しそうでお腹がすきました。
長塚さんも見事でした。一人でいるとき、靖子がきたとき、奥さんの幻に話しかけるとき、女子大生と会話するとき、それぞれ違った顔で。
瀧内公美さんがエローい!!!上品なのに、、
かわいいなあ。
あの色気はどうやったら出るんですかね?
あの女子大生は実在していたんだろうか。お金騙し取られたのは事実?(だからXデーが早まった?)
靖子があんなに美しく魅力的なのは、儀助の主観がはいってる?
もはやどこまでが客観的事実だったのかわからない
あと、ラストシーンの意味がよくわからなかったな
儀助がお家につく幽霊になってしまったかのようだった
追記
演出がホラー映画に似ているから
あんなに居心地が悪かったのかもしれない
3日経ったらだいぶ馴染んできて、原作を読みだした。
(原作の儀助は更にプライド高いしきもちわるい)
最初から儀助はオバケ(死後)だったのでは
でも流石にそれでは可哀想すぎるな、などと考える
余韻に浸れる作品
途中からよく分からなくなった
敵はいきなりやってくる
長塚京三さんのようになりたい。
長文のレビューが多いですね
老いとは自身を構成しているものがどんどんほどけていく過程
事前の情報で何となくイメージが出来ていたけど、大体そのとおりの映画でした。
長塚京三さんは77歳になったのですね。
この映画では老体を色々と出している。裸体とか。
ヒロイン的な女性が3人。亡くなった妻の黒沢あすかさん、教え子の瀧内公美さん、知り合った仏文学生の河合優実さん。
瀧内さんは、とても良い。
河合さんは、ハマり役だとは思う。
老いとは、自分自身を構成しているものが、どんどんとほどけていく過程なり、ということを再認識しました。
そういう事を書ける筒井康隆さんは、やっぱり凄いです。
良い作品だったが、
しばらく放置していたが、感想書くことにした。とはいえ、この映画については既にたくさんの激賞が届けられており、今更なにかを加えるのも蛇足のように思えてしまう。
ただ、その点こそが自分にとって本作に感じた言葉にならない引っかかりであり、多くの褒め言葉がなんだかこそばゆく感じられてしまう所以かと思われる。
確かに吉田大八の演出も、今どきにしては美しいモノクロームの映像も、長塚京三、瀧内公美、河合優実といった華麗な俳優陣の演技にも文句を言う筋合いはないのだが、個人的には「桐島、部活やめるってよ」の冴えた描写の方が優ってたように思うし、独りの孤独な老年を迎える男性の描写についてもヴェンダース「PERFECT DAYS」に軍配を挙げたい。
おそらくこの問題は、原作、筒井康隆の映像化困難に由来しているのだろう。原作は未読だが、筒井の作品世界についてはそれなりに読んできたつもりだ。
だけども、分散した出来事が、ラストに向けて収斂することなく、ある意味放置されたまま終わっていくのは嫌いではない。まあもう少し最期の長塚京三さんの感情が剥き出しになる瞬間があってもよかったかなとは思った。
「敵」とは
元大学教授の渡辺儀助は連れ合いを亡くしてすでに二十年。一人暮らしがすっかり板についていて家事全般をそつなくこなしている。特に料理へのこだわりが強く毎度食卓に並べられる食事は充実していた。
悠々自適な暮らし、年金と少しばかりの原稿料で食いつないでいるが食と酒にはこだわりがあり摂生をする気もなく今の生活スタイルを変えるつもりもない。このままの生活が維持できなくなればその時がXデーだとばかりに限りある残りの人生を満喫したいという。
そんな彼の気ままな余生が徐々に侵食され始める。それはパソコンにいつも一方的送られてくるメールからだった。いつもの迷惑メールだとして無視してきた彼だがある時ふと目に付く文言が。
「敵」と書かれたそのメール、いつもの怪しげな迷惑メールとは違う文言ながらもやはり彼は無視し続けた。
儀助の周囲には彼を魅了する二人の女性の存在が。元教え子の鷹司靖子、行きつけの文壇バーには女子大生の菅井歩美。なにかと彼女らは彼の自尊心をくすぐり誘惑してくる。いやそれは彼の妄想に過ぎないのかもしれない。
そんな彼の下心を見透かしたかのようにあるいは彼の抱く罪悪感が妻信子の亡霊を見せるのか。あるいはこの家にはかつての住人たちの霊が住みついているのだろうか。彼は何かと妻の亡霊に翻弄される。
そして迫りつつある「敵」の存在。それは北からやって来るという。北の国の独裁体制から解放されたその住民たちが難民となって押し寄せてくるというまことしやかなネット上のデマにより作り上げられた妄想なのであろうか。
たちまちあたりは戦場のような騒乱に包まれる。それは儀助が母の胎に宿っていたころの戦時中の空襲を思わせた。
そこに漂うのは死の恐怖。「敵」はゆっくり近づいてくるのではない、それは突然現れる。「敵」とはなんなのか、それは「死」そのものではないのか。
敵とは、その正体とは。それはけして人間が逃れられないもの、自分自身の死を言うのではないだろうか。儀助は自分の死を常に意識していた。自分の今の生活を維持できなくなる日が来れば潔く死のうと。あえて自分の生を引き延ばすための節約もせず食べたいものを食べ、飲みたい酒も飲む。そうして時が来れば命を絶とうと。
愛する妻を亡くしもはやこの世に未練はない。死が向こうから来るのを待つのではなく自分から死を受け入れてやろうと。そう考えて余生を過ごしてきた。しかしいざ過ごしてみると誘惑も多い。周りには思わせぶりな美女たち、思わず下心も芽生えてしまう、そんな自分の罪悪感が妻を呼び覚ます。
この年齢になり人生をすべて見極めたつもりだった。いまさら死を恐れることなどないと。しかしやはり死への不安や恐怖は拭えない。Xデーが来たら潔く自死すると決めていた儀助、しかしそれが来ることがいつかはおぼろげにわかっていても、それはいつか来るものでありそれがすぐにでも訪れるとは思っていなかった。健康診断を避けてきたのも自分の死を直視させられるのを避けたかったからにほかならない。
しかし下心から女子大生歩美への援助で貯えの金を渡してしまい、ことのほかXデーが目の前に来てしまった。まさかこんなにも早く。常に死を意識していながらもしかしそれはまだまだ遠い先のことだと高をくくっていた。死はゆっくりと近づいてくるものだと、しかしそれは突然やってきてしまった。
いくら長い人生を生きてきて経験を積んでも死だけは経験できない。死は未知の領域だ。儀助は覚悟していたようでその実、覚悟なんてできてはいなかった。
いったんは首を吊ろうとする儀助だが、それも尻をついてのもの。彼の死ぬことへのためらいがそこからも見て取れる。
友人にも死の期限付きで生活すれば人生が充実するなどと語りながら、やはりその不安は払拭できてはいなかった。そんな彼の潜在的な死への不安や恐怖が「敵」となり、メールを通してじわじわと彼にその予兆を知らしめ、ある時突然襲いかかったのかもしれない。
死という名の敵。生きる上では常に対峙すべきもの。生を望めば望むほど死という敵の存在が大きくなる。生に執着すればするほど死の不安と恐怖は大きくなって彼に強大な敵となって襲い掛かってくる。
受け入れようが受け入れまいがやがて死は必ず訪れる。そして儀助にも死が訪れる。「敵」は受け入れたとたんそれは「敵」ではなくなる。死を受け入れることはそれは死の不安や恐怖からの解放を意味する。
そうして死から解放された彼の魂は安住のこの地、この住み慣れた家に宿ったのかもしれない。それを知った彼の甥はおいそれとはこの家を売り渡すことはできないであろう。
相続手続きがなされる主を失った邸宅で儀助の甥が彼の双眼鏡を何気に覗くと二階の窓際に佇む儀助の姿があった。
独り身で悠々自適な生活を送り続けていた主人公、しかしそこには常に老いと死がつきまとう。そんな老いと死への不安や恐怖が「敵」という形となって彼をじわじわと追い詰めていった。
高齢となれば連れ合いは必ず先に逝く。孤独な老後の暮らしで誰もが味わう死への不安や恐怖を筒井文学特有の語り口で見事に映像化した。
十代の頃夢中になって読み漁った筒井文学の世界がそのまま再現されたような作品だった。一見平凡な日常が徐々に非日常に侵食されてゆく様、スラップスティックな笑い、悪夢のようなシュールリアリスティックな現象。
筒井氏はむかし村上龍氏との対談で非現実なことを描くには現実的な描写がしっかりと描かれてないといけないと述べていた通り、本作は前半はごく普通の日常がリアルに描かれ後半から超現実的な現象が描かれて見る者を悪夢へといざなう。まさに筒井氏の十八番と言える作風を見事に映画という映像表現に落とし込んだ監督の筒井康隆愛がにじみ出た作品だった。
筒井文学ファンなら本作を存分に楽しめたことと思う。と言っても私自身筒井文学から離れてかなりの時間がたつ。父親と同い年の筒井氏がいまだ健在なのがうれしい、早速原作本を注文した。なんせ80年代までしか氏の作品は読んでいない。ベストセラーになった文学部唯野教授でさえ読んでいない。これから読ましていただこう。
ちなみに私が好きなのは七瀬三部作、俗物図鑑、大いなる助走、乗越駅の刑罰、などなど数え上げたらきりがない。誰か有名な作家が言ってた、青春期の読書は恋愛と同じだと。まさに青春時代夢中になって読み漁った筒井文学は私にとって恋愛だった。
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