敵のレビュー・感想・評価
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「敵」は誰ものもとにもやってくる
儀助が見た敵とは何だったのか?
老いそのものか、または穏やかな老いを妨げる何かか。
映画化を知ってから原作を読んだが、「これ、どうやって映画にするんだろう?」というのが正直な感想だった。
まず、前半は儀助の日常描写、というより生活習慣の説明が、微に入り細に入りなされる。食事のこと、知己や親族のこと、家の間取り、預貯金、性欲、体調、野菜、諸々。映画と違って会話劇ではなくほとんど儀助のモノローグで、ひとつのテーマにつき7〜8ページの分量の章立てで淡白な日記のような文章が延々と続く。
確かに儀助という老人の解像度は4Kレベルに高まるのだが、話がわかりやすく動かない。ちょうど中盤にある「敵」の章あたりからようやく起伏が出てくるが、幻と現実のあわいをさまようように物語は展開してゆく。
この分じゃ映画はとっつきにくい仕上がりなのかな、という不安がよぎったが、意外と見やすかった。
原作で言葉を尽くして説明されていた儀助の生活上のこだわりが、ほぼ映像表現に置き換えられたことで随分すっきりした。言葉がなくても原作に近い印象が伝わってくるところは映像の力だ。
序盤の、丁寧に暮らす儀助の淡々とした日常描写は「PERFECT DAYS」を思わせる心地よいリズムがある(ただし生活費は全然違っていて、原作によれば儀助はこだわりや習慣のために毎月40〜50万出費している)。彼の食べる朝昼の食事がどれも美味しそう。
演じた長塚京三は儀助に近い79歳、パリのソルボンヌ大学で学んだ経歴を持つ。181cmの長身で、足が長くすらりとした立ち姿がインテリ設定に合う。儀助ははまり役ではないだろうか。
そんな彼が2回目の内視鏡検査(の妄想)で縛られて四つん這いになり、そのお尻に内視鏡カメラがちゅちゅっと吸い込まれるシーンは笑ってしまった。その後度々現れる妄想シーンも、いい塩梅のユーモアがあって楽しい。
そんなユーモアの向こうに透けて見えるのは、一見理性と知見で余生を御しているように見える儀助の人間臭い部分、あえて不穏当な言葉で言えば無様な部分だ。
彼はフランス近代演劇史の教授という経歴からくるインテリらしいプライドを持つ反面、自分を慕う教え子靖子に性的妄想を抱いたり、バーで出会った歩美に易々と金を渡したりと俗っぽい煩悩も捨てきれずにいる。普段はプライドによって抑え込まれている煩悩が、彼の妄想の中で顕在化する。筒井康隆によると、この妄想は認知症など病的なものではなく、あくまで儀助が"夢と妄想の人"であることに依るのだそうだ。
妄想に現れる亡き妻や現世の人々とのやり取りは、儀助の秘めた願望や後悔なのだろう。妻との入浴や、「フランス旅行に行けばよかった」という後悔の告白。終電までの時間で靖子を抱こうとするのも心のどこかにあった欲望だ。
旅行雑誌への寄稿を打ち切った出版社の社員犬丸の妄想での扱いは散々だ。打ち切り通告の席で、儀助のフランス語の返しを理解しなかった犬丸を、彼は内心嫌悪したのだろう。妄想の中で寄稿の継続を依頼しにきた犬丸は、鍋の肉を食べ尽くす傍若無人な人間として振る舞う。そして終いには儀助の知性を理解する靖子に殴り殺され、椛島の掘った井戸に放り込まれる(笑)。
そんな儀助も、最後は隣家の臭いおじさんと通りすがりの犬(名前がバルザック笑)の飼い主と共に、見えない「敵」に撃ち殺される。ここ以降は映画オリジナルで、ちょっとホラーチックなラストカットが秀逸。
筒井康隆は映画化にあたって、64歳の時に原作小説を書いたことについて「年をとるのが怖かったからでしょうね」とコメントしている。
その怖さの源を想像してみる。取り返しのつかない後悔を抱えることか。社会での役割を失ってゆくことか。年の功で日常をコントロールしつつ穏やかな余生を過ごしたいのに、不如意な欲望から逃れられないことか。
結局誰にとっても、現世の煩いや執着を手放して穏やかな死を迎えることは、かなりハードルの高いことなのだろう。物語中盤で病床に伏した湯島も、妻の前では寝たふりをしつつ、「敵」の影に恐怖しながら死んでいった。
今際の際まで惑い続け、意のままにならないものを抱えたまま終わってゆくのが大半の人間の人生なのかもしれない。
それがむしろ当たり前なのだと思っていっそ受け入れれば、死に方に対するハードルが少しだけ下がるような気がする。結局は、今を生きることに集中するしかない。
筒井御大のように理性的に恐怖と向き合う勇気のない私は、そのように開き直ってみたりする。
77歳の元大学教授に襲いかかる敵の正体は幻覚か、それとも。。。
妻に先立たれた77歳の元大学教授の儀助が、東京都内の山手にある古い日本家屋で慎ましく、日々のルーティンを守りながら暮らしている。とは言え、彼が焼く魚は美味そうだし、たてるコーヒーの香りがこちら側にも届きそうだ。何より、彼は枯れていない。時折訪れる教え子に密かな欲望を抱いたりしている。
ある日、儀助のパソコンに突然"敵がやってくる"というメッセージが届いて以来、彼の意識は一気に混濁していく。それは現実か、幻か。そして、敵襲来以前の日常はどうだったのか。儀助の混乱はそのまま観客にも伝染し、多くの人が感じる老醜の残酷という聞いたような結末に収まらない、衝撃のラストへと突き進んでいく。それは、筒井康隆の原作にもなかった映画オリジナルのアイディアだとか。観客を混乱させて、さらに異次元へと誘い込む脚本と演出に思わず息を呑んだ。
筒井原作に綴られた儀助の人物像はユーモラスで、やたら男性性器や性欲にまつわる記述が登場する。77歳でそんな?と思うわけだが、映画ではそんな主人公を長塚京三が演じることで、さもありなんと思わせる。何しろ長塚=儀助はエロくてかっこよくて、知的なのだ。気がつくと女性に覆い被さっているような、前のめりで痩せた身体にも妙な危うさがあり、それさえ魅力になっている。観ていて疑問に感じたところを後で誰かと話なくなる、対話に飢えた新春のシネフィル向き。
白黒の世界に襲われたのは
原作未読。
モノクロの映像は先入観でどうしても古きもの、と感じてしまう。そこで使われる家電は現代の物だ。一方でやかん、ホウキの登場。私の頭の中で時間軸が混乱する。
この時点で映画の作り手達に囚われてしまったのではないか、と思う。
公式サイトには渡辺(長塚京三)の生活の説明があるが、どこからが現実でどこからが夢なのか分からなくなってくる。身も蓋もない言い方だが全てが渡辺の夢か、もしかしたら認知症が渡辺に見せる世界なのかとすら考えてしまった。
でもここまでが現実、ここからは虚構とはっきりさせず交互が自然に、難なく繰り広げられる感覚。やはり私は術中にはまってしまったようだ。
敵。その正体は分からない。私にとってはこの白黒の世界が敵になって襲ってきたのかもしれない。
集団自◯なんて、あっかんべーだ
現実と妄想が判然としない世界にひとり古老の元大学教授が生を紡ぐ物語
ここには忖度する者もいないし、裸の老醜を晒したくないプライドがあるので、無限地獄のようだろう
街を歩くと一様に枯れた老人の孤独な姿を見ることが多くなった少子高齢化日本の今の姿
初老になる私にとって、痛い場面も続くが、真っ直ぐ前を向いて歩きを続けようと思った
彼の収支の現実も気になったが、原作にははっきりと書かれている その額からみればなんとでも再生しようと思えば出来る額である
ここは敵は自分にあるという踏ん張りは出来なかったものだろうか?切にそれを思った
「敵」が来る
「敵」とは「老いの恐怖」のメタファー??
うだつ
原作は未読です。
敵は体の衰えや病気なのかなと推測しながらの鑑賞でしたが、前半で混乱したのに後半で更に混乱する大変な作りでこれは自分には早かったのかな〜と思ってしまいました。
自分の貯金残高に見合った死に方をしたいという、将来的にそういうことを考えるのかなと思ってしまうシーンがあったり、生活へのこだわりだったり、徹底したマイルールが良い意味で居心地の悪さを体現していたのが良かったです。
日常生活での変化に一喜一憂している主人公が人間臭くて良いところだなと思いました。
後半は登場人物のテンションも映像も激しいものになっていき、死ぬ前ってこんくらい目まぐるしくなるのかなと思いつつも完全に振り落とされてしまいました。
単純に自分の健康周りだけでなく、過去の経験なんかも敵となって襲ってくるというところにはいたく心揺さぶられましたが、映像がどうにもホラーチックになってしまったせいで集中力が削がれてしまいました。
終盤の展開で潔く終わっていくところと中島歩さんの表情でゾワっとさせられましたがもう少し早く欲しかった〜となりました。
モノクロでしたが飯の美味そうさは抜群に伝わってきました。
シンプルな料理だけど一手間加えるだけで美味しさが爆増しましたし、先生の料理食ってみたいなーとなるのも良かったです。
女性陣は皆々様それぞれのオーラが放たれており、瀧内さんの色気は凄まじかったです。
劇場内には年配の方が多く、自分の心境に重ねる部分も多いのかなと思いました。
30年後くらいにこれを見たらどうなるのか、だいぶ先の自分にぶん投げておきます。
鑑賞日 1/20
鑑賞時間 15:50〜17:45
座席 D-12
名優「長塚京三」という罠
まず先に言っておきたいことは、「バルザック」はずるい。
なんというネーミングセンス。
思わず吹き出してしまったじゃないか。
難解映画の部類に属すると思う。
個人的にそういう映画はあまり好みではない。
「どういうこと?」な場面は多くあった。
でも、そういう難解な部分を抜きにしても、この映画は凄く面白いと感じた。
日本の暮らしをモノクロ画面で描かれると、最初はどうしても昭和とかの一昔前の日常を描いたものという錯覚に陥ってしまう(主演が長塚京三なことも影響していると思う)。
「この映画は今の日本が舞台なんだ」と自分に言い聞かせて納得させるのに少し時間がかかってしまった。
現代日本の生活をモノクロで描いた作品って珍しいと思う。
この映画、とにかく「…なんだ、夢か」な展開が多い。
後半は特に頻発。
それを常時モノクロで描かれるせいで、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、マジでわからなくなった。
こんな映画体験は初めてかもしれない。
映画が終わる頃には、自分が生きているこの現実も実は夢なのでは?とチラッと思ってしまった。
そんなことを思ったのは自分だけかもしれないが…
非現実なことが起きて、そこで長塚京三演じる儀助が目を覚まして「…なんだ、夢か」となるわけだが、夢として描かれていた場面は全て架空の話ということにしてしまっていいのだろうか?
それにしては、非現実なことが起こる直前までの出来事がやけにリアルに感じた。
夢として描かれた場面は実は現実世界で本当に起きた出来事であり、その現実を受け止めるのがあまりにも辛すぎるため、儀助が夢の世界の話ということにしてしまったのではないだろうか。
個人的にそう考えるとしっくりくる。
見当違いかもしれないけど…
見方によっては「陰謀論に囚われた男」にも見えるし、「認知症を患った男」にも見えるのは面白い。
前半は2023年12月公開の『PERFECT DAYS』っぽいと思った。
ダンディな独身男性の丁寧な暮らしが淡々と描かれていく作り。
『PERFECT DAYS』では、役所広司が仕事終わりにいつも居酒屋に行って食事する日々が綴られ多幸感に包まれていたが、儀助は自炊派。
調理して食べるシーンがやたら出てくるが、どの料理もプロ級の腕前でどれも美味しそう。
観ながら頭の中に『孤独のグルメ』というワードが出てきた。
一方、『PERFECT DAYS』と最も大きく違う点は、主人公の女性への執着(特に若い女性への)。
『PERFECT DAYS』の役所広司は女性に振り回されるだけの男だったが、本作は真逆。
話が進むにつれ、初老の男が若い女性に浮かれる話になっていくが、これが観ててきつかった。
二回り以上歳が離れた女子大生を家に招くことになり、儀助が家のPCで様々な料理を検索しながら何の料理を振る舞うかを思案する場面が、痛々しくて居た堪れない気持ちになった。
男の、他人には勘付かれたくない卑しい面を第三者がこっそり覗き見しているような作りになっていて、同じ男として、映画を観ながら何度も「ひえー」となってしまった。
この映画は他にもいろいろな今現在の社会問題が内包されているように感じた。
まず、高齢者の「老後の資金」問題。
儀助が、社会に迷惑がかかるから長生きを望まない考えを語る場面で、2022年公開の映画『PLAN 75』のことを思い出し、悲しい気持ちになった。
また、近年は大学の学費が右肩上がりに値上がりしていて、学生が学費を払えず学業を犠牲にしてバイトに励む場面が本作には出てくるが、これを高齢者のお金に関する問題と一緒に描いてしまうと、まるで高齢者のせいで若者が犠牲になっているような構造に見えてしまい、その作りには疑問を感じた。
この映画で個人的に一番凄いと思ったところは、終盤、井戸の前で滝内公美が言い放つ言葉。
今世間を賑わしているフジテレビ問題にも通じるような、現代日本(日本に限らないけど)の深刻な社会問題にぶっ刺さる一言になっていて、震えた。
1998年に発表された筒井康隆の小説を、わざわざ2025年に映画化したのはこのためだったのか。
儀助を紳士的な長塚京三が演じていることで何も問題ないように見えてしまっているが、独身男性が年の離れた元教え子の女性を家に招いている時点で、違和感を覚えるべきだった。
振りと回収のお手本
トランクケース一杯の石鹸等、老人が使える数などそれ程多くないのにという前段での、家の前でプレゼントとか、高等なジョークが続く本作 それにしても年齢を感じさせない長塚京三の俳優魂を改めて噛みしめた演技力である
老いは子羊のようにやって来てライオンのように去って行いく
〔PERFECT DAYS(2023年)〕での『平山』の暮らしぶりを「知足」とするなら、
本作の主人公『渡辺儀助(長塚京三)』は「高等遊民」とでもすれば良いか。
決まった時間に起き、用を足し、等の基本ルーチンは共通も、
料理は手ずから、
朝食後にはミルで挽いた粉でコーヒーを淹れる。
祖父の代からの古民家に住み、
食材は高級スーパーで調達、
調理器具も凝ったもの、
こだわりの食器を使い、
ディレッタントと表現したい暮らしぶり。
妻は二十年も前に無くし、
大学教授の職も随分と前に辞してはいても、
当時の教え子たちが
折にふれ訪ってくれるので
無聊を託つことなない。
年金に加え、泰斗であった仏文、
とりわけ演劇についての稿料で
当座の生活は賄える。
葬式代をのぞいた全ての預金が尽きた時は、
自分が死ぬ時と知己には嘯く。
あと数年先までは何の憂いも無い日常に思えた。
しかし、そんな彼にも「老い」はひたひたと迫って来る。
仕事で使うパソコンに表示されるスパムメールは
「またか」と余裕を以って即刻削除。
にもかかわらず、リアルな人間関係では
学究の徒にありがちな初心な側面を見せ、
あっさりカモにされてしまう。
夢とも現とも付かぬ幻視を体験し、
悪夢に目を覚ますことも度々。
目を掛けていた女性の教え子との関係性も、
自身の中での葛藤が顕わに。
ついには亡くしたハズの妻の姿まで見えるように。
そこで改めて自覚するのは、
傍に居て当然として扱って来た彼女への慚愧の念。
そんな折「敵について」と題されたメールが配信され、
何の気なしに開封したことから、
『儀助』の意識は更に混濁して行く。
「食」は暮らしの基本と言われるが、
日々の食事が変化することで、
体力や頭脳が衰えていく様を目の当たりにし、
近しい年齢の自分には他人事とは思えない。
後半の描写は
不条理滝な要素は強いものの、
当事者にとってはリアルな体験なのかもしれぬと気づいた時に、
自分の中で怖気をふるってしまう。
『筒井康隆』の原作は既読も、
映像化された時に、これほどの衝撃を感受けたのは、
偏に御年七十九歳の『長塚京三』が、
筋肉の落ちた体を画面にさらけ出しての熱演したことの賜物と感服。
自分の老いた体躯を多くの目に晒す役者魂にも賛辞を贈りつつ、
プロフィールを確認すれば
猶更、彼が本編に適役だったかを再認識する。
「敵」をある昭和人から見る
私は72歳男性です。「敵」映画を見て。昭和の中高生の頃、星新一や筒井康隆などを読んでいた。SFショートショート風でいうと[夢が現実を食った話]とも見えました?映画の最後で、現実に小屋に敵に反撃するため包丁や双眼鏡が出てくるところあり。夢に焦点を当てると、最初現実で教え子の訪問や下血して医者に行ったり、と1回の出来事から話が夢のほうへ話として膨らんでいく。亡くなった妻や教え子の女子、無礼な出版社の新人が都合よく一緒に食事するシーンがある。それらが主人公を非難、追い詰めていく。夢は後悔や非難される悔しさ、何かに追いかけられる事が多い。寝るごとに話が繋がっていく。老人になれば、人との関係はなくなっていき、誰にも必要とされないので、妄想が現実となっていく。ただ、老人のくせに性欲があったりして、こんな事考えているのかと思われるので、人にはお勧めしない映画である。
敵はそんな近くにいたかゴルァ!!!
作品全般がモノクロの映像を採用していた。
昨今では、色彩カラフルな日常で生きる現代人にとって、白黒の濃淡だけの世界は、
グレースケール効果として、スマホアプリへの依存度軽減などを、
期待するものとして利用される。
つまり、現代人にとってモノクロ映像は、
辛い世界、つまらない世界と受け取られかねないもの。
そのモノクロ映像で、序盤の儀助先生の日常生活を数十分にわたり、
淡々と描写するシーンが続き、冒頭から一瞬、脱落しそうになったが、
丁寧に丹念に儀助先生の日常ルーティンを描写してたので、意外と見入ることができた。
モノクロの、視聴継続にマイナス効果をもたらす要素を、
繰り返すルーティン動画の覗き見という、
Youtubeで不思議と再生回数が回るプラス要素により、
マイナスを相殺してくる。昨年の「PERFECT DAYS」を想起するような、
手法選択に感心した。
フランス文学のインテリ学者が主人公。長塚京三のイメージにピッタリな配役。
中盤から、幻覚と現実の境界があやふやになっていき、
主人公も観客も、不安と動揺が大きくなっていく。
主人公の仏文学者は、おそらく70過ぎのおじいさんだが、
「体の老い」と共に「経済面の不安」も、
幻覚を見る要因になっていると推測できる。
このじいさんの半分、いや、6割程度の私ですら、
この2つの要素は、少なからず毎日感じている。
ウォーキング1つするにしても、路地を数十分歩く事すら不安を抱くため、
路地ではなく、公園や競技場の周回に留めるほどに。
小さい方も、大きい方も、途中で用を足したくなる心配があるからである。
これは、実際に年老いてみないと、意外と実感できない感覚である。
映画1本見ることですら不安を抱く。開場直前まで待って催すかどうか判断する。
2時間映画ならまだしも、2.5時間だと、膀胱の具合が平静を保てるか、
自信が無いのである。
老いとは、病気を患ったりというものではなく、
体を、自分の意のままにコントロールできなくなる事。
もう四十半ばでコントロールできない。ああ不安だ。
ちなみに、同年代のオードリーのANNラジオの話題を少し。
映画の膀胱耐久の話。
特番収録時の膀胱耐久の話。
M-1審査員時に装着した尿漏れパットの話。
ラジオ体操に参加しラジオ体操第二はジャンプが多すぎて膝がもたない話。
体を張るロケで念入りにストレッチしないと危険な話。
肉が食えなくなってきた話。
脂っこいものが食えなくなった話。
稼いだ金は墓場に全部詰め込んでもらいたい話。
嫁のラーメン煮卵トッピングは命を削られるのと同じな話。
買いたいものが何もない話。
相方が浮気したら「敵はそんな近くにいたかゴルァ」と叫んでしまった話。
老いるって嫌だね。
11時40分、このままで!
“ゆきさん”にくすぐられて頓挫した感想を書くことに…
主人公のようなインテリは瀧内久美の眼差し対して、ついカッコをつけてしまう。“寂しからずや道を説く君”である。能書きなんかいいから私を抱いてと歌った与謝野晶子である。送ってくる秋波にドギマギするばかりだから、妄想で“イってしまった”後は下着のウエット感が虚しい、哀しい。
さて、本題の“敵”だが、インテリらしい最期を目論むも、容赦なく迫ってくる死には抗えず、妄想を肥大させるだけで、“北”からなんていうのも、暗示などではない。つまり、穿った見方をせずに敵=死なのだと私は解釈する。
だが、早々に、論客を自負する諸氏が、真顔で、それは老いである、孤独である、痴呆である、漠たる不安の総体である云々と、哲学的考察をかざしてマウントを取ってくるのだろうが、稚拙だと揶揄されても 自説はまげない。
晩年の岡本太郎のエピソードで、夜中にがばっと起きあがり、ブルブルと死の恐怖に戦慄するというくだりがあったが、なんびとたりとも、その恐怖をまぬかれぬ。キレイには死ねない。敵は容赦ない。
むしろ、生真面目な生活態度を送りながら時々みせる主人公の間抜けな行為でクスリと笑わせてくれるほうが、面白かったし、老境を深刻ぶって考え過ぎるのも如何なものか。
江国滋の句にこうある。『おい癌め酌み交わさうぜ秋の酒』自らの病を嗤うヤケクソのブラックユーモアなのだが、アルコールが末期癌にしみわたるだろうなー。
映画の主人公の対極いる自分のような自堕落な人間は、諧謔をもって死に際にじたばたしたいと思ったりするのです。
老後の男性一人暮らしの理想系かと思いきや
長塚京三は自殺未遂のシーンで本当は亡くなっていたんでしょうか。その後は「アザーズ」のように死者の世界から見た生者と、亡霊が入り乱れた世界が展開されていく。
敵とは死なのか老いなのか?
色々と解釈出来そうですね。
敵とは
起床して、朝食を作って、豆から挽いたコーヒーを入れて、歯磨きするシーンが淡々と続く。何か「PERFECT DAYS」を観ているような感覚になる。
男の一人暮らしは、臭くて汚くなりそうですが、清潔さを保つには、使ったらすぐ片づけることが重要だなと思いながら観てました。
フランス文学の元教授で、人生経験も豊富な初老の男性。でも、女性への欲望は年老いても全くなくなるものではなく、詐欺に遇ったり夢精したりで、実際には情けないことも多くあるもの。判断力も衰えてくるのでしょうか。
規則正しい生活を送っていたが、老化が進んでだんだん生活が乱れていく。
タイトルの「敵」とは老化やその先に迫って来る死を指しているのでしょうか。
裏・孤独のグルメ。
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