敵のレビュー・感想・評価
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老いたら身の程をわきまえろという圧力 ="敵”
「ただ生き延びるために生きるってことを、どうしても受け入れられないんだよ。」
「残高に見合わない長生きは悲惨だから。」
初老に差し掛かった私にこの台詞がぶっ刺さる。
ついこの前まで若手の部類だった自分なのに、急に定年のテンカウントが始まり、いつのまにか会社の期待も次世代に向けられるように。
狭い会議室で会議をした後など「おっさん臭」が残っていないか気になる。夕方になると発しているような、、毎日「石鹸」で身体を洗うのは必須事項。
定年後の仕事は「ツテから付き合いであてがわれないと」どうやら無いのだろうな。さもなくば若者といっしょにアルバイト?プライドが耐えられるか。(私は儀助と異なり耐えざるを得ないのだが)
身体も急にあちこち壊れだした。いつ何がみつかってもおかしくない。
若い女性に対する振る舞いも今まで通りだと「勘違いおやじのハラスメント」になり兼ねない。好意ではなく、単に私の立場に対して媚びているだけ、もしくは気を使っているだけであることを決して勘違いしてはならない。それこそ儀助のように「立場を利用したハラスメントですよね」と教え子から冷や水浴びせられかねないぞ。自戒せよ!
老いや死は少しづつやってくるのではない。気づいたらそこまできているのである。いつの間にか老いているのである。
それに対して自分の意識はまだ大学出て就職したときの気分。若手のまま。年を取れば中身も自然と大人になるわけではないんだな。はじめて知ったよ。
周囲の「老いたら身の程をわきまえろ」「慎ましく、ひっそり生きろ」という無言の圧力はこれからもっと強まっていくのだろう。
身体や見た目の劣化&周囲の扱いの変化 vs 自分の意識。このギャップが「北との戦闘」なのかもしれない。
気をつけないといけないのは「北による侵攻」はいつのまにか始まっているということ。
「イタイおっさん」と呼ばれぬために、身の程をわきまえ、シャワーも3日に1回と節約し、おしゃれなバーや食材やワインを嗜むなどはイタイ行動なので慎み、少ない年金と貯金でひっそり隠れるように生きて、ただ「来るべき北からの攻撃」に何ら抵抗せず早々に投降するのが正しい老いた者の在り方か。
なんだかくやしいな。
「ただ生き延びるために生きる」は私も耐えられない。私は人間であり、達観した仙人ではないのだ。
最後に儀助が北に向かっていった姿が脳裏に焼き付く。北との戦いに勝利することは決してない。でもだからといって。。
自分の生き方の矜持を考える。
吉川晃司の金言を置く。
「80までカッコつけて、『あいつ死ぬまでバカだったな』と言われたい。」
「元気でエロくないとしょうがないでしょう、人間は。俺は『理性は間違うけど本能は間違わない』と思っている。」
※前半はお腹が空いてくる。焼き鳥と蕎麦が食べたくなった。
※料理、洗濯物畳み、冗長なほどのキチッとした生活描写は何を現している?
※そういえば隣の席の観客が加齢臭、空咳、背中曲がりのコンボ。リアルに老いを感じた。
※現実と夢が錯綜する構成。何が現実で、どこから夢なのか、わからない。
※河合優美、ここでも登場!しかし魅力的な話し方。
※モノクロ映画は情報が限定されて集中できて良いな。
※長塚京三さんって、Wikiみるとパリ大学に6年間も留学していたと!フランス史教授の雰囲気も納得!
※SMAPの中井君、木村君と同じ年齢。だからかいつまでも自分も若いと思っていた。中井君の事件、、考えさせられる。。
「敵」は誰ものもとにもやってくる
儀助が見た敵とは何だったのか?
老いそのものか、または穏やかな老いを妨げる何かか。
映画化を知ってから原作を読んだが、「これ、どうやって映画にするんだろう?」というのが正直な感想だった。
まず、前半は儀助の日常描写、というより生活習慣の説明が、微に入り細に入りなされる。食事のこと、知己や親族のこと、家の間取り、預貯金、性欲、体調、野菜、諸々。映画と違って会話劇ではなくほとんど儀助のモノローグで、ひとつのテーマにつき7〜8ページの分量の章立てで淡白な日記のような文章が延々と続く。
確かに儀助という老人の解像度は4Kレベルに高まるのだが、話がわかりやすく動かない。ちょうど中盤にある「敵」の章あたりからようやく起伏が出てくるが、幻と現実のあわいをさまようように物語は展開してゆく。
この分じゃ映画はとっつきにくい仕上がりなのかな、という不安がよぎったが、意外と見やすかった。
原作で言葉を尽くして説明されていた儀助の生活上のこだわりが、ほぼ映像表現に置き換えられたことで随分すっきりした。言葉がなくても原作に近い印象が伝わってくるところは映像の力だ。
序盤の、丁寧に暮らす儀助の淡々とした日常描写は「PERFECT DAYS」を思わせる心地よいリズムがある(ただし生活費は全然違っていて、原作によれば儀助はこだわりや習慣のために毎月40〜50万出費している)。彼の食べる朝昼の食事がどれも美味しそう。
演じた長塚京三は儀助に近い79歳、パリのソルボンヌ大学で学んだ経歴を持つ。181cmの長身で、足が長くすらりとした立ち姿がインテリ設定に合う。儀助ははまり役ではないだろうか。
そんな彼が2回目の内視鏡検査(の妄想)で縛られて四つん這いになり、そのお尻に内視鏡カメラがちゅちゅっと吸い込まれるシーンは笑ってしまった。その後度々現れる妄想シーンも、いい塩梅のユーモアがあって楽しい。
そんなユーモアの向こうに透けて見えるのは、一見理性と知見で余生を御しているように見える儀助の人間臭い部分、あえて不穏当な言葉で言えば無様な部分だ。
彼はフランス近代演劇史の教授という経歴からくるインテリらしいプライドを持つ反面、自分を慕う教え子靖子に性的妄想を抱いたり、バーで出会った歩美に易々と金を渡したりと俗っぽい煩悩も捨てきれずにいる。普段はプライドによって抑え込まれている煩悩が、彼の妄想の中で顕在化する。筒井康隆によると、この妄想は認知症など病的なものではなく、あくまで儀助が"夢と妄想の人"であることに依るのだそうだ。
妄想に現れる亡き妻や現世の人々とのやり取りは、儀助の秘めた願望や後悔なのだろう。妻との入浴や、「フランス旅行に行けばよかった」という後悔の告白。終電までの時間で靖子を抱こうとするのも心のどこかにあった欲望だ。
旅行雑誌への寄稿を打ち切った出版社の社員犬丸の妄想での扱いは散々だ。打ち切り通告の席で、儀助のフランス語の返しを理解しなかった犬丸を、彼は内心嫌悪したのだろう。妄想の中で寄稿の継続を依頼しにきた犬丸は、鍋の肉を食べ尽くす傍若無人な人間として振る舞う。そして終いには儀助の知性を理解する靖子に殴り殺され、椛島の掘った井戸に放り込まれる(笑)。
そんな儀助も、最後は隣家の臭いおじさんと通りすがりの犬(名前がバルザック笑)の飼い主と共に、見えない「敵」に撃ち殺される。ここ以降は映画オリジナルで、ちょっとホラーチックなラストカットが秀逸。
筒井康隆は映画化にあたって、64歳の時に原作小説を書いたことについて「年をとるのが怖かったからでしょうね」とコメントしている。
その怖さの源を想像してみる。取り返しのつかない後悔を抱えることか。社会での役割を失ってゆくことか。年の功で日常をコントロールしつつ穏やかな余生を過ごしたいのに、不如意な欲望から逃れられないことか。
結局誰にとっても、現世の煩いや執着を手放して穏やかな死を迎えることは、かなりハードルの高いことなのだろう。物語中盤で病床に伏した湯島も、妻の前では寝たふりをしつつ、「敵」の影に恐怖しながら死んでいった。
今際の際まで惑い続け、意のままにならないものを抱えたまま終わってゆくのが大半の人間の人生なのかもしれない。
それがむしろ当たり前なのだと思っていっそ受け入れれば、死に方に対するハードルが少しだけ下がるような気がする。結局は、今を生きることに集中するしかない。
筒井御大のように理性的に恐怖と向き合う勇気のない私は、そのように開き直ってみたりする。
きちんとした生活に迫る「敵」
筒井康隆の原作ということで、現実と虚構が入り乱れるような内容なのかなと思って見に行った。原作は未読だったのだけど、概ねその予想は間違っていなかった。作品の前半は、老年期の元大学教授の丁寧な暮らしぶりを執拗なまでに見せていく。難解も麺類を調理して1人で食べるシーンを反復して、彼がきっちりとルーティンの中で生活をしている様を見せる。妻に先立たれ一人暮らしできちんとした暮らしをおくっている、日本家屋の住処も掃除が行き届いていて片付いている。
だが、一通の奇妙なメールがなぜだか彼の生活を狂わせていく。「敵がやってくる」という言葉を発端に不安に駆られるようになったのか、妄想と現実の境がなくなっていく。この感覚をモノクロの映像によって強化していたのが印象的。モノクロの白日夢感が、カラーでは出しにくい感じを作ってくれていた。主演の長塚京三氏は、老年期の見せたくない部分を見せながらも、威厳や清潔さを失わないところがすごいなと思った。彼じゃないと成立していない作品だと思わされる。
77歳の元大学教授に襲いかかる敵の正体は幻覚か、それとも。。。
妻に先立たれた77歳の元大学教授の儀助が、東京都内の山手にある古い日本家屋で慎ましく、日々のルーティンを守りながら暮らしている。とは言え、彼が焼く魚は美味そうだし、たてるコーヒーの香りがこちら側にも届きそうだ。何より、彼は枯れていない。時折訪れる教え子に密かな欲望を抱いたりしている。
ある日、儀助のパソコンに突然"敵がやってくる"というメッセージが届いて以来、彼の意識は一気に混濁していく。それは現実か、幻か。そして、敵襲来以前の日常はどうだったのか。儀助の混乱はそのまま観客にも伝染し、多くの人が感じる老醜の残酷という聞いたような結末に収まらない、衝撃のラストへと突き進んでいく。それは、筒井康隆の原作にもなかった映画オリジナルのアイディアだとか。観客を混乱させて、さらに異次元へと誘い込む脚本と演出に思わず息を呑んだ。
筒井原作に綴られた儀助の人物像はユーモラスで、やたら男性性器や性欲にまつわる記述が登場する。77歳でそんな?と思うわけだが、映画ではそんな主人公を長塚京三が演じることで、さもありなんと思わせる。何しろ長塚=儀助はエロくてかっこよくて、知的なのだ。気がつくと女性に覆い被さっているような、前のめりで痩せた身体にも妙な危うさがあり、それさえ魅力になっている。観ていて疑問に感じたところを後で誰かと話なくなる、対話に飢えた新春のシネフィル向き。
敵が来て
劇場公開時に観ていたが感想を書いてなかった映画。前半は主人公のシステマティックな中に楽しみを見出す日々の穏やかな生活が描かれていく。主人公の作るメシが白黒なのにとにかく美味そう。焼き魚にハムエッグにざる蕎麦に冷麺と、どれも長塚さんが実際に作り(あるいは作ってるように見せ)、そしてそれを実に美味そうに食う。また年下の友人や元教え子との交友などのささやかな日常の楽しみが描かれ、瀧内公美演じる美しい元教え子との食事や河合優実演じる女子大生との会話などにひそかに胸をときめかせる。それを観ていて、こういう生活もいいな、一種の理想かも、などと思わせてくれる。
だが後半、「敵」メールの受信と共に主人公のそんな日常は徐々に現実と地続きのような奇妙な夢(悪夢)に侵食されていく。実際、後半は夢から覚めたと思って、映画を観ていたらしばらくするとそれもまた夢だったという描写が何重にも続き、しまいには観てるこっちもどの部分が主人公の現実なのか、あるいは全部が主人公の夢・妄想・幻覚なのかわからなくなってくる。というか全部が夢・妄想・幻覚としか思えないカオスな展開となる。そのあたりのブラックな迷宮世界は筒井康隆的なのかもしれない(筒井の本を読んだことがないんではっきりとはわからないが)。また、観てて、こう言っちゃなんだけど、なんかちょっと身につまされるところもあったりなんかして、観終わってシュンとしちゃうというか深く考え込まされるというか。主人公は自分より20歳以上も年上なんだけれど、それでも。
それにしても、さすが長塚京三、素晴らしい演技でした。実は僕、昔から長塚さんが好きなんですよね。長塚さんは1995年にサントリーNEW OLDのCM(「恋は遠い日の花火ではない」ってやつ。監督は市川準)で一般にもブレイクし理想の上司とも言われたが、僕はそれよりずっと前の80年代から好きだった(我ながらシブい趣味の子供だ)。何のドラマで観たのかはすっかり忘れちゃったけど。女優陣も元教え子役の瀧内公美、バーでバイトする女子大生役の河合優実、亡き妻役の黒沢あすか、3人とも好演。特に瀧内公美は、あんな女性に親しく接されたらそりゃときめいちゃうだろ、というかときめかざるを得ないだろという説得力がありました。
誰にでもいつかは訪れる「敵」。
原作:筒井康隆ということで、なんとなく構えて見てました。
シュールな展開なんだろうな、と思いますよね。
ところが、前半は、ちょっといけてるシルバーな男の生き様を描いていて、
肩すかし。妻を亡くして一人ぐらいなんですが、知的な人で
料理も洗濯もきちんとこなし、シャンと生きている。
これはこれで、いい映画だな、と思っていたら、後半は雰囲気が一転。
いわゆる敵がやってきました。夢なのか、現実なのか、妄想なのか?
要するに、急にこうなってしまうということなのかな。
いろんな賞に輝いた作品のようですが、前半のムードのまま
ストーリーを追いかけて欲しかったな、個人的には。
「老い」とは「敵」?「味方」?
己を蝕む敵
モノクロの焼き魚が美味しそう
フランス文学の元大学教授。妻には先立たれ、都内の古い日本家屋にひとり暮らす。早起き、自炊、掃除、雑誌連載の仕事、友人との晩酌、教え子たちの訪問。静かで潔い生活を選択したはずの男に不穏な何かが迫る。
歳を取ったらこんな生活は悪くないなと思わせる、文学的隠居生活の描写が次第に崩れ始める。映画全体のペース配分が絶妙に良い感じで、これから起こることに期待膨らむ。
物語に何かが起こって欲しいという期待と、美しい生活が壊される不安が織り混ざり、またモノクロの効果もあって新鮮な後味が残る。
焼き魚が美味しそう。
最後は、うーん、文学的というか、筒井康隆ぽいというか、夢と現実が混ざり合った結末と言えば良いのか、説明し難い。
役者が皆さんお上手。
我々一人一人にも迫る“敵”
長塚京三氏を久々に見た気がする。
以前は映画にドラマ引っ張りだこだったが、近年はお歳を召して仕事量をセーブしているのか、露出が少なくなった印象。
本作は12年ぶりの主演映画。個人的に映画で最後に見掛けて印象的だったのは2014年の『ぼくたちの家族』。
ちょいちょい出てはいるが、この名優も静かにフェードアウトかなと思ったら、今年80歳になって自身の代表作やハマり役と言っていい作品に巡り会うとは…。
長塚氏が以前インタビューで語ったという“人生100年時代”。
本当に人生まだまだ先、何があるか分からない。
元大学教授で、フランス文学を教えていた儀助77歳。
長塚氏も昔、パリ留学の経験あり。吉田大八監督も当て書きしたという。
職は10年前にリタイア。祖父の代から続く古い日本家屋で隠居生活。妻には20年前に先立たれ、子供はおらず、一人暮らし。
職はリタイアしたが、時々講演や出版社から依頼された執筆を。
毎日決まった時間に起き、質素な食事や晩酌をし、パソコンに向かって依頼された原稿を書き…。買い物や日々使う文具もこだわり、徹底管理。毎日の営みやルーティンは『PERFECT DAYS』の平山さんのよう。
たまに数少ない友人や教え子が訪ねてくる。行きつけのバーに飲みに行ったり、自宅で手料理を振る舞ったり。
自由気ままな一人暮らし。ちょっと憧れる。
見るからに真面目そうな儀助。そんなイメージも長塚氏にぴったり。
性格も生き方も高潔かと思いきや、案外そうでもない。
近所で犬のフンでトラブル。途端に体臭を気にし、身体を洗う。
時折訪ねてくる教え子の靖子。大学在籍時から親交あり。美人で、最近離婚したという靖子。堅物に見えて、ちょっと下心ありの儀助。妄想の中で靖子と…。まあ、無理もない。夏、ランチやディナー、お酒も入って…。その相手が瀧内公美なら、男なら誰だってドキマギするって! それにしても本当に魅力的な女優さん。映画などではシリアス&クールな印象だが、たまにバラエティーに出ると明るくケラケラと笑い、そのギャップに萌えてもうた…。
行きつけのバーで、マスターの姪の歩美と知り合う。大学生でフランス文学専攻。フランス文学についての話やアドバイスはとにかく、若い娘(ブレイク&フレッシュの河合優実)と会うのが楽しみに。学費で困っている歩美。儀助は貯金を彼女に。それ以来歩美と音信不通に。まあ、そういう事。
身体は老いてもまだまだ気持ちはあり。それ故自分の愚かな部分も露見。悲哀やユーモアもあり、これも長塚氏のイメージに合う。
ショックではあるが、騙された事に不思議と腹が立たない。
なるべくしてなり、末路が早まっただけ。
端から長生きなど考えてもいない儀助。
貯金と一日使ったお金を計算し、後どのくらいで底を尽きるか。尽きる直前になったら葬式代くらい残して、自死を決めている。
遺言も書いてある。
騙し取られたのは自分の不甲斐なさ。そういう運命。“その時”が早まっただけだ。
さて、いよいよ自死しようとした時…
いや、ヘンな予兆は少し前からあった。
一通のメール。送り主は“敵”。
“敵”が来る。
ネット上でも“敵”についてあれこれと。
“敵”は日本に近付いている。
“敵”は南の方からやって来る。
“敵”はすでにもう来ている。あなたの近くにまで…。
何かの悪質メール…? 比喩…? デマ…?
何故かこれが妙に気になる儀助。
それからというもの、儀助の完璧だった生活が崩れ、次々奇妙な事が…。
靖子から誘い。ハッと気付いて起きると一人ベットの上。
病床の友人。ハッと気付くと…同じ。
近所でまた犬のフンのトラブル。何処からか飛んで来る銃弾。ハッと気付くと…同じ。
死んだ筈の妻が…。ハッと気付くと同じだが、これだけは夢でもこのままでいたかった。
妻、靖子、新担当編集のあり得ないシチュエーションで夕食。
これが現実ではないのは分かる。なのに、どれも妙にリアリティーがある。
どれが幻想か、どれが現か。何処から幻想だったのか、今現なのか。
端から儀助の妄想だったのかもしれない。
その狭間が曖昧…を通り越して、分からなくなってくる。
儀助の深層心理か、何の迷宮か、そもそもが分からなくなってくる。
それを印象的にする白黒映像。見る者を惑わし引き込む幻想的でありながら、美しい。
吉田大八の演出は、日常、ユーモア、シュール、サスペンス、哲学的などを織り交ぜバラエティー豊か。フィルモグラフィーの中でも異色作ながらしっかりと自分の作品に。『桐島、部活やめるってよ』『紙の月』などと並び、ベスト演出の一本。
長塚京三のハマり名演は言うまでもなく。今年の主演男優賞は吉沢亮で決まり!…と思ったが、大ベテランが立ち塞がる。
筒井康隆の同名小説が原作。幻想とリアリズム、哲学やナンセンスなど幅広いSF作家の御大の一人。
本作もいずれのジャンルにハマる。難解ではあるが、全く分からない/つまらない/飽きる事はなく、不思議と引き込まれた。
その一つに、“敵”の考察。
“敵”とは何だったのか…?
劇中では明確に描かれてはいない。
見る側が解釈。人それぞれ見方があると思う。
私的にはまず、死や老いと感じた。それは間違いなく込められているだろう。
平和ボケの日本に迫る危機警鐘。“北の方”だからあの国か、戦争の火種か。
コロナなどまた新たな未知の脅威かもしれない。
ひょっとしたらもっと個人の内面やパーソナルな事かも。年甲斐もない欲求や思い上がりや醜態への戒め。
“敵”ははっきりとしたライバル存在ではなく、何かのメタファー。答えはない。だから考察のしがいがあり、それがなかなか面白くもあった。
儀助は死去。
遺言に従って家や遺した書物などの事で関係者や唯一の親族の甥が集う。
物置で双眼鏡を見つける甥。覗いて家の方を見ると…
儀助の姿が。
ほんの一瞬だが、遠方を見渡している儀助。
亡き今もこの家に留まり、迫り来る“敵”に対しているのか、迎えようとしているのか、警鐘しようとしているのか。
我々の近くに、人それぞれの“敵”が迫り、或いはもう来ているのかもしれない。
妄想は人間を貶める「敵」
彼はフランス文学では著名な教授だった。モリエールら劇作家が専門。
プライドと名誉だけで生きてきた。
出入りの女性編集者にうつつをぬかす一方、亡き妻をパリに連れて行ったことは一度もなかった。
彼は庭が広い平屋の一軒家で一人暮らし。何を思ったのか、プライドと名誉と過去を封印しようと試みる。
完璧な自炊ぶり、モノクロの映像に、彼自作の料理が美味しそうに並べられる。
「残高に見合わない長生きは悲惨だ」が彼の口癖。
そう、彼は完璧に自分の老後を演出しようとする。
だが、人間完璧に生きようとすればするほど、どこかがほころびる。
それは妄想らしきもので具現化される。もしかしたら、幻想は人間の美しさを擁護する「味方」で、妄想は人間を貶める「敵」なのかもしれない。
モノクロの映像に、元教授が辿ってきた負の側面が漏れ出る。
そこを暴き出す、黒沢さやか、瀧内公実、河合優実の女優陣が、美しくも怖い。
元大学教授が身の丈に合った隠居生活を送っているな、という印象で微笑...
最恐のホラー映画
「敵」が支配する世界にとって、私こそが「敵」
施設に入っている父に会うのは半年ぶりだった。
半年前とそれほど変わらぬ見た目に安堵するも、すぐにその感情は畏怖となり、落胆へと変わっていった。
目の前に座っている父の穏やかな立ち振る舞いとは正反対に、つぶらな目は泳ぎ続け、誰かに助けを求めているように見えた。
きっと父が施設の外の人に会うのも半年ぶりなのだろう。
彼にとって日常に存在するのは、施設のスタッフだけであり、目の前に座る私は初めて会う見知らぬ人でしかないのだろう。
「敵」の侵食によって父は世界から排除され、施設に入ることで自分の人生を「立ち止まらせる」ことを強要された。
半年が経ち、「敵」に支配された父から見た私は、残念ながら「敵」でしかないのだろう。
穏やかな性格のおかげで敵意を剥き出しにされないだけ喜ぶべきか。
与えられたわずか15分という短い面会時間が永遠に感じて、途中から息苦しくなっていった。
15分を待たずに、私たちは面会を終え、父は施設のスタッフの介護で自分の部屋へと戻っていった。
スタッフの姿を見つけた時の父の安堵の表情を見た私は、非常に複雑な思いを抱えたまま、スタッフに一礼してその場を去った。
この静かな施設の中は「敵」が支配していた。
この中では、私自体が彼らにとっての「敵」なのだ。
筒井康隆さん原作の映画「敵」。
これまでに、「時をかける少女」や「パプリカ」「七瀬ふたたび」など、数多く映像化されてきた筒井康隆作品の印象はエンタテインメント性の高いSF小説。
しかし、この作品は少し趣が異なる。
原作の発行は1998年。
作者はおそらく還暦後に書きまとめ、断筆解除後に単行本として発表された。
主人公・渡辺儀助は75歳。
大学教授を辞して10年、悠々自適の余生を過ごす教養人。
フランス文学研究の権威として、時折依頼のある講演や稀にある執筆依頼の他は、規則正しい生活を重ね、誰もが羨む丁寧な暮らしを続けていた。
講演依頼を受ける基準は「謝礼が10万円である」ということ。
それ以下ならもっとオファーがあるはずだが、自分を安売りしないというポリシーで10万円以下なら即断りを入れる姿勢を崩さない。
三度の食事を大切にし、手間をかけて旬を盛り込んだ自分のためだけの食事を作る。
食後に挽き立ての豆で淹れた美味いコーヒーをゆっくりと飲み、夕食にはそれなりに贅沢な赤ワインをじっくりと嗜む。
人生の折り返しを過ぎた大人の男性から見れば、きっと憧れの老後生活の最上級のモデルケースのひとつだろう。
この映画を見るまでは。
自ら「立ち止まる」と決めた時、「敵」は静かに近づいてくる
人生を賭けて研究し続けたフランス文学への造詣によって、主人公・儀助はフランス文学の権威となり、大学教授にまでのぼりつめた。
そこでは自分を尊敬する弟子たちが常に集い、自分の一挙手一投足に賞賛の声が湧き、憧憬の眼差しが途切れることはなかった。
中には、引退した今でも彼を慕い、老人の一人暮らしの庵を訪ねる教え子たちもいた。
恩返しの思いで彼に執筆を依頼し続ける出版社勤めの教え子もいた。
けれど、かつて大学の教壇に立って熱弁を振るっていた頃の賑わいは、もう自分を囲むことはない。
恩返しの気持ちだけでは、大学教授の視点が抜けきらない原稿を畑違いの雑誌に掲載し続ける熱は続かない。
周囲は生き続けていた。動き続けていた。
しかし、儀助だけが動きを止め、過去に生きていた。
そして、そのことに彼だけが気づいていなかった。
生きるために変わり続け、動き続けている周囲の人たちの流れの中で、「立ち止まる」と決めた主人公だけが交わることなく、自然と傍に追いやられていった。
私たちにとっての「敵」は、果たして本当の「敵」なのか?
「敵」とは何か?
それは「立ち止まる」と決めた人を襲う「孤独」という名の疎外感。
「自分らしく生きる」と決めた者に訪れる「世の中から忘れられる」という喪失感。
「自分は変わっていない」にもかかわらず、周囲の反応がどんどん変わっていくことへの苛立ちや怒り。
ただ立ち止まっているだけなのに、どんどん世の中から取り残されていく驚きや違和感。
教え子たちが慕っていたのは、じつは自分個人ではなく、「大学教授」という肩書きや地位の方だったということに気づけたとしても、もう「敵」は心身を蝕んでしまったあと。
主人公が見ている日常は、現実世界のものなのか、彼の夢想・妄想なのか。
「敵」に侵食されてしまった後では、それを判別すべは本人でさえもう持ち得ない。
「敵」とは何か?
少なくとも、「敵」となりうるものが誰の心の中にも潜んでいるということは間違いない。
私に微笑むあの人は、本当に実在するのだろうか?
主人公・儀助は、自ら進んで「立ち止まる」ことを選択した。
本人はそう考えていたが、実際は流れ続ける社会から弾き出されただけだった。
そのことに気づいた時、儀助は遺書を書き、自死を選ぼうとする。
しかし、「敵」に完全に支配された状態では、もう自らの意思で何かを選択し、実行することさえ難しい。
今生きているのか、夢の中なのかさえ、本人には判別ができないのだから。
彼は妄想の中を生き、妄想の中で死ぬ。
この映画を見た50代以上は、きっと映画の中の光景にリアリティを感じ、恐怖に慄くはずだ。
果たして今、自分が感じていることは現実なのか? 妄想なのか?
親しくしてくれている友人は実在するのか?
いつも愛想を振りまいてくれる行きつけの喫茶店のバイトの子は、本当は自分に向けて笑ってなどいないのではないか?
毎年届く年賀状は、ただ機械的に郵送されているだけではないか?
届くメールは全て「敵」からのメッセージなのではないか?
父を介護するスタッフは、とても親切で優しい人に見えた。
父が住む「立ち止まった」世界でも、同じように見えているといいなと心から願った。
けり
吉田大八「敵」原作は知らなくて“敵”はネットで真実のメタファーなの...
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