「フツウに面白い映画」Broken Rage 西の海へさらりさんの映画レビュー(感想・評価)
フツウに面白い映画
二部構成の映画、前編はシリアスだけどネタ振り用。だけど、いきなり撃ちまくるところは北野武エッセンスとして残っていて観ていて気持ちがいい。
ストーリーラインも粗いなんていわれているけど、後編につなぐためにはこの程度にしておかないと内容が頭に入らない。印象的なシーンを作るという役割だし。
ちなみに短編映画で前編だけ出しても、面白いと思える映画だ。
後編は映画を観ているとみんなあるあるだと思うけど、「これってここで銃を忘れてたら笑うな」みたいなドジシーンをふっとオーバーラップさせたりする。没入すればするほど、そういう横やりが脳内で生成されがち。
僕的にはシリアスな映画ほど、笑いやおとぼけ、で感情の帳尻を合わせようとしているのだと思う。そうでないと、観ていて心臓がちぎれてしまいそうになるから。それくら、没入するというのは怖いことなのだ。脳のセーフティーガード機能というべきか。
という点で、この後編の面白さって、北野武監督がこれまでもシリアスな映画を撮影しているなかで、ふとアイデアにあったのかなーと妄想してしまう。ドンパチ、ドギャッと誰かを殺しちゃっても、ここでコケたら笑えるなとか。
そうでなければ、この後編の展開って映画化できないと思うんだよなぁ。普段からシリアスと笑いのバランスを脳内で取ってるんじゃないかなと、そんな勝手な妄想です。
常に、喫茶店のドアから大量の客が出てくるシーンは面白過ぎた。たとえば、殺し屋がカッコつけて店のドアを開けて入ってターゲットを仕留めに行く、なんてシーンなんかでもサラリーマンの客が五人ぐらい酔っぱらって出てきたらどうなるんだろうって、昔からよく思ってた。それも、演出のひとつとして撃ち殺すみたいなシーンがあったり、はたまたプロ意識の高い殺し屋は、酔っ払いにペコペコして謝って通してもらったり、みたいになると思う。
通常のシリアスな展開の映画の場合このシーンを盛り込んだとしても、笑いと連動させると映画的に成立しなくなるよねぇ。笑い一本で作ってるのが「オースティン・パワーズ」かなぁと思う。オースティン・パワーズの場合は、フリのシーンは観客の頭の中にあって、それをぶっ壊す方式。
くどいが、今回のブロークンレイジは前提のフリは北野映画に漂っているものだ。そこをまず映像化してフリとして正しく置いて、後編で笑うと言う仕掛けは、最近手の込んだよくできている漫才のようにも思える。ツービート時代の漫才ブームの頃ではなくて、今のM1の漫才師たちのような用意周到な手の込んだ漫才の方だ。
つまり、オースティン・パワーズのようにわざわざ前編のフリのための映画をナシで観客の脳内を下敷きにして、後編のみで笑いに結び付けることだってできたと思うのだ。だって、この映画を観る人たちは、北野映画を一度は観てると思うから。(この映画が北野映画初な人は、まずはソナチネとかその男凶暴につきなんかから始めて欲しい)
観客に北野映画の下敷きがあるはずなのに、あえて前編を作るってことは強烈にこのフリに対してこのボケという相関関係で理解して欲しいという作り手の熱い想いが溢れていると思うのだ。なんなら、前編→後編→前編 と観て欲しいのではと思わせるほど。(ごめんなさいそこまで観てません)。
と、ずっと観続けてきたファンとしては、北野武監督の老いてますます、と思う次第なのだ。落ちたとか、粗いとか、ってのはちょっと違うのかなーと思う。笑えないとか古いってのは、超笑いのセンスだから一周回っても、回ってなくても、「シリアスな場面でこける」と面白いというだけの話だ。笑いのセンスが進化しているしていないに関わらず、笑いをギャップと捉えていると、自然と笑えてくるんだけどなぁと。(オシャレな笑いではないというのはわかるけども)僕が腹抱えたのは「このハゲ」と言って、詰めるところです。