「泣けと迫る映画に観客は泣かない」366日 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
泣けと迫る映画に観客は泣かない
HYの楽曲「366日」をモチーフにした映画化と聞けば、ある程度予想はつく。泣ける、すれ違う、難病、未練、成長した子ども、録音メッセージ――いわば日本恋愛映画にありがちな「泣きのテンプレート」をすべて投入した感動製造機。観客に向かって「さぁ、ハンカチの準備はいいか?」と突きつけるような作り。しかし、この手法が2025年の観客にどこまで響くのか。冷静に考えれば、むしろ覚める要素ばかりが目に付く。
まず最大の問題は「難病」の扱い。日本の恋愛映画における難病は、古くは『世界の中心で、愛をさけぶ』から続く常套句であるが、本作ではもはや粗製濫造の域に達している。湊が病気を隠して別れを選ぶくだりなど、自己犠牲を美化するどころか単なる不自然さとして映る。現代の観客は、病気をパートナーと共有して共に立ち向かうことの方にリアリティを感じる。にもかかわらず、脚本は「言わずに離れる」ことでしか悲劇を演出できない。そこに人物の内面を掘り下げる丁寧さもなければ、病の経過を描く覚悟もない。極めつけは「サクッと完治」。観客は「結局なんだったんだ、この難病は」と白けるだけ。
次に、就職活動と妊娠のくだり。就活という社会的にシビアな局面で妊娠し、なおかつ直前まで関係を続けていたのに突如手のひら返しで別れる展開は、若気の至りや無鉄砲さを描きたいのかもしれない。しかし観客には「そんな神経だから就活もうまくいかないんだよ」という突っ込みしか残らない。さらに黙って出産し、本当の父親に何の連絡もしないという行動も、ドラマ上の仕掛け以上の説得力を欠いている。これでは登場人物が自律的に生きる人間ではなく、泣かせるために操られる操り人形に見えてしまう。
そして、本来なら感動の中心であるはずの美海と湊の物語よりも、観客の心をさらってしまうのは中島裕翔演じる琉晴の存在だ。ひたすらに優しく、報われないまま支え続ける姿に「いい奴すぎる」と涙する人はいても、主役二人の選択に共感する人は少ない。これは作品がめざした「純愛の悲劇」ではなく、「第三者の健気さに救われる」という構造的な皮肉だ。
では、なぜこの映画が一定の評価を得ているのか。それは作品内容そのものではなく、周辺の装置によるものだ。HYの「366日」という圧倒的に泣ける楽曲の存在。沖縄の海や空を切り取った映像美。上白石萌歌や赤楚衛二といった人気キャストの魅力。これらが感情を後押しすることで、脚本の粗を覆い隠し「泣けた」という感覚だけを残す。だが、それは映画そのものの完成度を評価しているのではなく、音楽や映像の外付け装置に支えられた錯覚に過ぎない。
総じて『366日』は、泣ける装置を詰め込みすぎてリアリティと共感を失った作品だ。観客は「感動してください」という押し売りに敏感であり、2025年の今、その手法はもはや時代遅れに映る。泣ける瞬間が断片的にあったとしても、積み重ねの不自然さがその余韻を台無しにする。残るのは「琉晴がいい奴だった」という副産物的な感動だけだ。映画が伝えたい純愛は霞み、物語の説得力は失われる。結局、この作品が教えてくれるのは「泣かせたい」という欲望が透けて見えると、観客は泣くどころか冷笑する、という単純な事実である。
はじめまして
みかずきです
こひくきさんのF1レビューが見つかりませんので、
こちらに返信します。
私のF1レビューへの共感&コメントありがとうございます。
私のレビューを高評価して頂きありがとうございます。
F1はドライバーとスタッフが一体となって挑む団体競技だと
常々思っていたので、そういう趣旨でレビューを書いてみました。
F1の主役はマシーンではなく人間なので、人間ドラマとして捉えて
レビューをまとめてみました。
私のレビューが素晴らしいとしたら、それはF1という作品が素晴らしいからだと思います。作品のメッセージ、テーマ、長所を捉えて分かり易くドラマチックにレビューに綴るのがレビュアーの使命だと思います。
では、また共感作でお会いしましょう。


