遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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射的プロ
1982年イギリスで、出版社で働く友人からのオファーで長崎の記事を書くと言う娘に、長崎出身の母親が長崎の怖い夢の話しを語って行くストーリー。
1952年長崎は、とりあえず広瀬すずがが若かりし吉田羊な訳で、そこに被爆母娘が絡んで行くけれど、序盤から違和感有りまくり。
そして佐知子の仕事がーアメリカがーって…。
なんとなくそうだよね…?と感じてしまうと、繋がったところでやっぱそうだよねぐらいにしか感じられず、更にはなんでこんなに回りくどく娘に話しを…と狙い過ぎに感じてしまい、本質の心情部分よりもそれが強くて響かず。
母親が書いた小説とか、そういう設定ならもうちょい納得感あったかもな〜。
原作者お墨付きの謎解き
原作を読んだ時点ではーー
佐知子はなんだか嘘ばっかりついてないか?と思わせる台詞が多く、
娘の万里子への当たりもキツすぎるんだが、
その実、悦子も明らかに嘘をついている場面があり、
そう考えると、万里子への接し方も含めて、悦子の一人称語りをどれだけ信用できるのか分からなくなる。
そうして頭がクラクラしてきたところで、
なんの謎解きもないまま、話は終わる。
1950年頃、長崎で長女景子を妊娠していた悦子が、
それから約30年、最近景子を失うに至った経緯は、
ほとんど何も明かされない。
こちとらのアタマの中でも、
過去の悦子と現在の悦子が同一人物だという気がせず、
むしろ佐知子が今の悦子?そして万里子が景子?とか妄想したり、
ハテナがいっぱい。
これってホントに完成形?とすら思う。
映画では、いったいどうするんだろう。
ふつうに撮るだけでは収まりがつかないんじゃなかろうか、と
余計な心配などしたりしていたんでありますが、
映画を観てーー
映画は、原作のエピソードをベースに、
(1) 人物設定の要素を追加/変更し、
(2) 日本(人)ならではの視点を加え、
そしてなんと、
(3) 謎に対する回答を提示した。
しかも、エグゼキュティブ・プロデューサーに
カズオ・イシグロの名が。
ということはこの回答/解釈は、
唯一とは言わないにしても、
原作者公認、ということになる。
(1)は、
原作では大学に入学していないニキが、
映画では大学を中退してライターしてたり、
原作にはなかった結婚願望を持ってたり。
正直、変える必要ある?
(2)は、
若き英国人たる原作者は思い及ばなかったのだろうけれど
戦後間もない長崎の日本人なら当然
こう言ったり思ったりするだろう、という設定の追加。
これはまあ、納得。
そして(3)がびっくり。
万里子は景子で、
佐知子は悦子の分身であり、虚構
だってんだから、ブッ飛んだ。
しかも、原作者お墨付き。
いやあ、そういうの、ありなのね。
おかげでワタクシは、
原作読後のモヤモヤが、スッキリ晴れたのであります♪
なお、
悦子/佐知子を演じた3人の女優さんの演技は、
それはもう、見事でありました。
【追記】
原作についてもう一度考えてみた結果、
佐知子と万里子は1960年頃の悦子と景子である、
という結論に至りました。
映画も、そういう見方で齟齬はなかろうかと。
自分を通すことの、代償と報酬。
日本を30歳前に出て、今は英国で暮らす悦子さんの半生が、「良識ある」(広瀬すず)と「自由奔放」な(二階堂ふみ)に分裂して描かれている。娘(万里子=景子)がかわいそうな気もするが、もう済んでしまったことは変わらない。
戦前の教育(洗脳?)を受けた三浦友和と松下洸平は戦後の世界になじめず、戦後の新しい教育(洗脳?)を受けた渡辺大知と対立する。
ラストシーンで長崎の稲佐山から見た美しい景色を、広瀬すずと二階堂ふみが並んで楽しそうに見ていたのが印象的だった。二人とも(実際は悦子一人だけど)、未来を見ていたのだろう。
ゆがめられた記憶
作家志望、次女ニキの視点が全てを明らかにする。
母の引越し荷物から、縁日の射的場で万里子が獲った筈の黄色い箱がみつかる。中には佐知子の荷物も多数あるのだ!昔語りを書き進めていたニキは、もやもやとしていた糸がピーンと張り詰めるのを感じる。これがここに在るのは?もしや佐知子と母•悦子は同一人物ではないのか!佐知子は母の妄想?記憶の中で創り出された架空の人物?同じ被爆地域に居たこと、女の子を育てていること、英語が分かること、アメリカ行きはイギリス行き?疑念がぐるぐると回りだす。
佐知子との出会いの話もなんだか可怪しい。『時々訪ねて来る外人さんは誰?』初対面の相手にそんな質問をするだろうか?何故その事を知っているのか、何処で見張っていたのか。しかし佐知子は『ああ、あれはね』と即答する。このやり取りは不自然すぎる。
そしてあの会話『私未だ言っとらん事がある』『いいのよ判っているから、私達は似てるもの』母•悦子がまったくの別人格として、ずっと語っていた佐知子は存在しないことをニキは気づきはじめる。
ただ、夫との離婚の経緯は不明だ。夫婦を訪ねてきた父親は、原爆のせいで日本は負けたのだという校長。その息子は妻を奴隷扱い。旧弊、日本の象徴であり、万里子(景子)が
行方不明になったときも無関心、同僚を連れ込んで酒盛り、父は警察に電話しろとだけ。私が被爆者だったら結婚した?の問いを無視する男と別れても不思議ではないが。
だから、実際、離婚後に河川敷のバラックに母子二人で棲んでいたのは母•悦子と景子なのだ。(映像としては、ちょっとだけ説明される。悦子が万里子を景子と呼び、うどん屋の客に悪態をつき、外人観光客を通訳、案内する姿。)うどん屋と通訳を掛け持ちしている時にイギリス人の父親と出会った、で説明がつく。
忌まわしい日本と訣別し、異国の地に活路を見出そうとしたのは自分のエゴで、我が娘を首つり自殺に追い込んだトラウマから逃れられない母•悦子の苦悩をやっと理解し始めたニキは
何故、母がウソの昔語りをしたのか、何故そうしなければ生きられないのか、外側から自己を客観視するために佐知子を産み出した心的補償とは……家族のストーリーを書くことで心満たされてロンドンの帰途につく次女は、たぶん、あの電話の不倫相手とも別れるのだろう。
久々に複雑な構造の文学作品映画を観た。実はノーベル賞イシグロ! ん?と思った人間なので原作も全く知らない。遠い山なみの光とは、明るく、たおやかな風景を想像したが、実際は昏く苦い夕景のひかりだった。被爆地ナガサキを背景にした戦後の女性の生きた証を見事に描いていた作品だと思う。
細部にも凝っていて、部屋の中の古いミシン、外から聞こえる干した布団を叩く音、路面電車の窓ガラスの隅が曇っている……等々。広瀬すずと二階堂ふみがキレイ過ぎるのは赦してほしい。レビュー始めてちょうど1年、良いものが観られました。
「驚きの真相」は楽しめるものの、疑問に感じることが多過ぎる
1980年代のイギリスで、1人の日本人女性が、自分の娘に、1950年代の長崎での思い出を語って聞かせる中で、彼女の人生が浮き彫りになっていく展開は、どこかミステリアスで引き込まれる。
心に鬱積しているものを抱える主婦を演じる広瀬すずもさることながら、まるで小津安二郎の映画の登場人物のような台詞回しで時代性を感じさせる二階堂ふみや、英語の台詞だけで年輪を積み重ねてきた女性を体現する吉田羊など、主要な3人の女優の演技も見応えがある。
娘が知りたいのは、母が、どうして戦後の長崎を離れてイギリスに渡ったのかということなのだが、その割には、1950年代の母の話に、イギリス人の父親が一向に出てこないし、その一方で、彼女が知り合った近所のバラックに住む親子が、駐留米兵と一緒にアメリカに移住するということが描かれて、徐々に違和感が大きくなってくる。
やがて、終盤で、母が語っていたバラックに住む親子こそ、母親自身と長女のことであったと判明するのだが、ここのところの描写は、バラックに近づいて行く母と、姉の部屋に近づいて行く娘のシーンがオーバーラップして、ゾクゾクするような衝撃を味わうことができた。
結局、母親は、近所に住む親子の話として、自分と長女のことを語っていたということなのだろうが、それはそれで「映像として見てきたものが現実ではなかった」という驚きや面白さがあるものの、それと同時に、多くの疑問や納得のいかないことも残されることになる。
まず、バラックに住む女性が主人公であったのなら、モダンなアパートに暮らす元音楽教師の主婦は、単なる妄想だったということなのだろうか?だとしたら、傷痍軍人で右手の指が欠損している夫や、戦前に軍国主義教育を行ったことを非難されている義父も、妄想だったということなのだろうか?
もしかしたら、こうした結婚生活は、主人公が、夫と別れてバラックに住む前の記憶だったのかもしれないが、だとしても、主人公が、被爆したことを隠して夫と結婚した上で、長女を妊娠したことと、長女が被爆して腕に火傷を負ったこととの間に、時系列上の齟齬が生じるのではないだろうか?
その長女は、渡英して成人した後に、自殺したということなのだが、その原因に、彼女が被爆したことが関係しているのかどうかも分からない。
あるいは、1950年代の母の妊娠と猫の妊娠・出産のエピソードと、1980年代の娘の妊娠のエピソードが重なっていたり、終戦後の長崎で赤ん坊を水に沈める女性のエピソードと、猫を牛乳の木箱に入れて水に沈める母のエピソードが重なっているように感じられるのだが、それらが何を意味しているのかもよく分からなかった。
さらには、河原で縄ひもを手にした母の姿からは、もしかしたら、彼女が、幼女連続殺人事件の犯人なのではないかとの推測も可能なのだが、こうした描写にも、何か意味があったのだろうか?
記憶力が衰え、思考が混濁している老人の思い出について、何が現実で、何が妄想かをはっきりさせようとしても意味がないということなのかもしれないが、少なくとも、一つの物語としては、こうした疑問について、何らかの解答を示してもらいたかったと思えるのである。
【「哀しきCeremony」今作は1952年被爆地、長崎と30年後の英国を舞台に、戦争の傷跡と当時の女性の生き方と願望をアーティスティックに描いた作品であり、解釈を観る側に委ねる作品でもある。】
■1982年。英国の郊外の邸宅で暮らす悦子(吉田羊)に、娘の英国人との間に生まれたニキ(カミラ・アイコ)は過去の話を聞かせて欲しいと頼む。
口を開いた母は長崎時代に出会った母と娘の事を淡々と語りだすのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・ご存じの通り、原作はカズオ・イシグロが1982年に発表し、王立文学協会賞を受賞したデビュー作である。但し、石川慶監督は若干内容を改編している。
・冒頭、”New Order” のデビューシングルでフッキーのリフが印象的な「Ceremony」が流れる。
”人は皆 それぞれ異なる物語を見出す・・。”と言うバーナード・サムナーが歌う印象的な歌詞と共に。
それを聞き、石川慶監督が原作をどのようにアレンジメントしたのか楽しみになる。
■長崎に住む悦子(広瀬すず)は、記者の夫、二郎(松下洸平)と暮らしている。彼女のお腹には新しい命が宿っている。ある日、悦子は知り合いの米兵とアメリカに行こうとしている佐知子(二階堂ふみ)と娘の真理子と出会う。
佐知子は悦子と違い自由人であり、河原で生活するも自立している。この佐知子を久しぶりに二階堂ふみさんが、眼光鋭く演じている。
そして、観て行くと分かるのだが、佐知子は夫に従う日々の悦子が作り出した、”憧れの像”である事が徐々に分かって来るのである。
・今作では二郎の父で且つて校長だった男(三浦友和)が、悦子と二郎の家に長逗留する。彼は紳士だが、彼の元教え子(渡辺大知)から戦時中の彼の教育を激しく糾弾した論文をある雑誌に書かれたことに激昂している。又、二郎も且つて戦地に出征した時に、父が両手を上げて万歳をした事に違和感を持ち、父と積極的には交わろうとしない。
又、佐知子は被爆している事への差別に毅然と向き合うが、悦子は自分が被爆している事を夫には内緒にしているのである。
ー この辺りでは、反戦思想がやんわりと描かれ、且つ佐知子と悦子の生き方の対比が描かれる。-
・ある日、悦子が窓の外を見ていると、知らない女が佐知子の家の近くの橋を歩いており、多発する児童殺害事件を心配していた彼女は佐知子の家に急ぐ。真理子も佐知子も家にいるが、佐知子はアメリカに急に行くことになったと言い、荷物を纏めているが真理子は可愛がっている猫を連れて行けない事に拗ねており、それを見た佐知子は猫が入った箱を川に沈めるのである。非常に印象的なシーンである。
その後、”佐知子が居なくなったあとに”一人で川の傍に居る真理子の元に、手に縄を持った悦子がにこやかな顔で近づいてくるのである・・。
・そして、ラストに再び流れる”New Order ”の「Ceremony」。成程ね。
今作は女としての自由を求めた悦子の、戦時長崎からの1982年に至る哀しき「Ceremony」を描いたのだろう、という事が分かるのである。
<英国の悦子が一人で住む家。
一番奥の部屋は普段は鍵がかかり入れないが、ニキが偶々その部屋に入った時に見つけた箱の中には”母が言っていた佐知子の写真や持ち物”が入っているのである。
そして、ニキの姉景子の縊死の理由は最後まで語られないが、物語の展開を見ていれば、自由を求めて夫を捨てて英国に来ながら、何処か虚無的に生きる悦子の姿を見ていれば、推測は付くのである。
今作は、1952年被爆地、長崎と30年後の英国を舞台に、戦争の傷跡と当時の女性の生き方と願望をアーティスティックに描いた作品であり、悦子の女としての哀しき生き方を「Ceremony」として捉えた作品でもあるのである。>
セリフが聞きとりにくかったが、芸術的な作品
原作未読。私の耳が悪いのか、とにかくセリフが聞きとりにくかったです。
映画の中では、娘の景子の自死の詳細は語られませんでした。
しかし、景子を投影していたと考えられる万里子の描写で川や紐が出てくるため、悦子(広瀬すず)は景子(被爆で苦しんでいたのかな?)を殺したのかなと勝手に推測しています。佐知子が子猫を川で窒息死させたので、この殺害方法かなと思います。
悦子は死んだ娘のことで苦しんでいて、そこから抜け出したい気持ちが何となく伝わってきます。
見ていて、芸術性はかなり高い映画だと思いました。
時代の変化 戦後の傷跡 フェミニズム ???
冒頭のニキと悦子の会話シーンでは、イギリスが舞台であるため英語が中心だが、吉田羊の日本人のアクセント強めの英語が逆にリアルでよかったと思う。流暢すぎても、成人してから渡英した日本人がネイティブ同様の発音になることはいくら夫と娘が英語ネイティブだとしてもまあ稀だと思う。ただ、悦子の英語のセリフ自体がセリフ感強めだったので、カタコトならカタコトらしくもっとカタコトな英語表現にしたほうが違和感はなかったと思う。
作中、悦子が夢についてニキに語るところから、イギリスと日本でシーンが何回も切り替わるようになるが、初めは違和感なく見られていたがだんだんと比重が日本での過去の話に偏り、たしかに登場人物もイベントも内容として濃いのは日本での回想だが、結局最後で佐知子と万里子は存在せず、夫も義父もいないことになるなら、登場人物の数よりも、実際にはどのように悦子がニキに語っていたのかが気になった。でもそれを含めてしまうと英語の会話量がさらに増えるから避けざるを得なかったのかもしれない。
あのヒモは?悦子を幼女連続殺人犯風にした意味は?
悦子は子猫たちを殺して、その箱を抱えた悦子を恵子は忘れられず、悦子が話す夢の内容中で、万里子と佐知子が言っていた赤ちゃんの死体を水から抱え上げる女性と重ね合わせているのか?でもイギリスでニキが見つけた箱の中には猫じゃらしのようなものも一緒に入っており、子猫を殺すのに使った箱をわざわざイギリスにまで持ってくるのも不思議。
夢についての語りの中では、佐知子がアメリカをものすごくドリームランドのように語るシーンがあるが、結局イギリスでも恵子は生きづらさを感じ(被曝しており、日本人であるが故の差別がひどかった)、異父姉妹とも仲良くなれないまま自殺してしまって、葬式にも来ないほどに険悪な仲。
フェミニズムに関しては、シングルマザーの佐知子と家庭を持ち退職した悦子で、女性の生き方の対比が示されているが、どちらにしても自分の生きたい生き方を選ぶには程遠いように感じる。それでも、希望がそこになると信じることはやめなかったし、希望がそこにあったが故の決断であったと過去の人生を振り返って合理化している。
当時、今の日本とは大きく異なる生きづらさを多くの人が感じていたのはよくわかった。オムレツのようないい変化もありながら、変化に流されて心に余裕がなくて、どこかにここよりいい場所があってそこでなら幸せになれるという幻想を抱きたくなる気持ちもわかる。
人生は選択の連続の結果だとよく言うが、自分から選択肢を増やして変化する方向へ行くのも、与えられた選択肢から最善を選ぼうとするのも、どちらにせよ選択であることには変わりなくて、変化に流されるのも抗うのも、変化に順応するのも、間違いではないのかなと思う。
ただ、佐知子と悦子の対比がメインなのは重々承知だし、映画の展開として2人が別々の人間ではなかったという要素がこの映画のクライマックスなんだとしても、佐知子単体としての人生、悦子単体としての人生、それぞれのストーリーをしっかり見守りたかった気持ちも残ってしまった。
偽り?真実は?!
1980年代イギリス、母・悦子が住む実家へ帰る次女・ニキ、執筆活動してるニキは1950年代の長崎、原爆を経験してる悦子へ取材をしながら、長崎時代の過去と“亡き長女・景子”の真実を知る話。
原爆後、子が殺されるという物騒な事件が起きてる長崎、住む団地から見える橋の向こうの家に住む佐知子と娘・万里子、原爆被害で今の土地へ越してきた2人と知り合う妊娠中の悦子だが…。
原作小説未読、本作を観終わって正直面白いとか微妙とかではなく???
女性にとっては余り自由が無く肩身の狭い時代に出会った自分を持ち前向きな佐知子と妊娠中で色々と我慢してる様にも見える悦子。
…ポジティブさはいいけれど自分の子供より私優先な母・佐知子、万里子が大事に育てる猫を取り上げて…こんな母だから?と、悦子とニキの会話の小出しで徐々に語り見せてく“亡き景子”、ストーリーは進みもしかして!?と察すものの、あんな母親だったからこういう形を取ったんだと解釈。
終盤ラストで見せる映像、佐知子の立ち位置に悦子?!佐知子は架空人物?!と混乱させられ解釈崩壊(笑)
長崎時代の夫は?とか色々?が多かったけれど若き頃の悦子演じた広瀬すずさんの画力で観れたって感じ。原作を知る方が観ても話が略されすぎてるのでは?と思った。
広瀬さん他キャストがいい
原作はまだ読んでいませんので、映画そのままキャストで考えると広瀬さんはやっぱり威力があるし、相手の二階堂さんも素敵でした。そして、歳を重ねた吉田さんもすごーくピッタリで良かったです。俳優さんの顔アップのシーンがどれも威力ありましたし、時代背景セットも素敵でした。終わったあと解釈に少し悩みましたが、全体的に良い作品でした。
丁寧につくられてはいるが
二階堂ふみは
あくまで
吉田羊の語りのなかでの
存在ということ。
だとすると
どこまでが
真実かあいまいになる。
三浦友和の役割は
語りの世界なのか、実在の世界なのか
前者だとすると
あえて必要な登場人物でない気がする。
路面電車のシーンも
吉田羊が景子役の子役と
同時間を過ごすのは
矛盾している。
もう一度
始めからみたい。
霧の中を歩くような鑑賞体験ーー戦後日本の記憶
カズオ・イシグロが20代に書いたデビュー作を原作に映画化されたという。彼の作品は「日の名残り」「私を離さないで」「クララとお日さま」を読んだことがあるけれど、この原作は未読だった。
全く知らないまま本作を観られるのは、幸せな体験なのか、無謀な挑戦だったのか……なかなかに手強い鑑賞体験であった。
どこまでがネタバレなのか、また僕がちゃんと観れているのかもわからないが、感想を書いてみたい。
この作品は推理小説などでいういわゆる「信頼できない語り手」による物語である。そして、映画の中では、語りと記念写真の食い違いなどで、そこまで映されてきた物語が信頼できないことを明示している。
ただ、その場面を見て「ああそうなのか」となったわけではなかった。よく翻訳ミステリー小説を読んでいると、誰が誰なんだかわからなくなることがある。それと同じで、主要登場人物の名前と役割が自分の中で混乱して分からなくなってしまったのだと諦めつつ、中盤は観ていた感じである。
多分これは、小説より映画の方がその混乱は大きいのではないだろうか。小説なら語り手が分かるけれど、映像の場合は、回想や主観的映像だと明示されない限りは、僕らは客観的描写、つまり事実(あくまでフィクション世界内での、だけれど)だと思って見ている。そこは部分は、もう少し分かりやすく表現してくれても良かった気がする。長い時間迷子のまま、半分あきらめつつ観ることになったからだ。
それでも見終わって、非常に強い余韻に浸っているのだから、これで成功なのかもしれない。
物語は、戦後7年後の長崎。そして27年後のイギリス。二つの時間と場所での、同一人物たちの物語である。
本作のPR映像に登場したイシグロによると、彼は5歳まで育った生まれ故郷、長崎を戦災と廃墟の街として記憶しておらず、未来に向けて発展する美しく元気な街だと記憶しているそうだ。
しかし、イシグロの記憶の中の長崎とは反対に、彼の誕生直前を舞台にしたこの映画は、戦争と原爆が登場人物それぞれに深い傷を与えている。
戦前の半宗教国家から、敗戦後いきなり民主主義世界に切り替わったわけだから、その2つの対照的世界をまたがって、大人として生きることがどれほど困難だったのかも、伝わってくる。
いきなり人間は生き方も価値観も変えることができない。それまで従ってきた基準が変わってしまうと、自分が心理的にバラバラになってしまうから、認知的不協和を解消するための合理化が行われる。要は自分が受け入れられるように自己物語を改変する心の働きがあるという。
そうした合理化が、この大戦後には日本中で行われた。共有できない個人の物語がさまざまな場面でコンフリクトを起こし、関係性も人生の一貫性も破壊されてしまった。それでもなんとか自己同一性を保って生きていかなければならないから、信頼できない語り手となるしかない、ということでもあると思った。
そもそも人は自己を通じてしか世界を認識できないから、常に世界はその人のフィルターを通してしかみることができない。
イシグロのノーベル賞受賞理由は「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」ためだそうだ。イシグロの作家としての特質が、私たち一人一人が幻想的感覚(主観的な世界理解)で生きていることを見事に描くことにあるということなのだろう。
だとすると、これまでに読んだ3作品以上に、このデビュー作にその特質が凝縮されていたのではないかとも感じた。
分かりにくさに文句も書いたけれど、原作を読んで、また映画を観直してと、何度も噛み締めるように鑑賞したい見事な映画であり映像だった。
主演の今をときめく女優たちもとても美しく抑制された名演を見せてくれるし、映像的にはおそらく明るいレンズを開放で使った浅いピントが、イシグロの幻想的感覚世界を見事に描写しているとも感じた。
原作を読み直して、もう一度鑑賞したいと思う。見直すたびに、霧の中を歩くような感覚で鑑賞した今日のことを、幸せなことだったと思い返すことになる気がする。
⭐︎3.4 / 5.0
9月5日(金) @映画館
遠い山なみの光
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見事なとっ散らかり脚本🙄(長崎である必要もないし三浦友和の無駄遣い)「ある男」より終わり方はスッキリだけど🙄いまひとつ
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#備忘録
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#映画好き
#映画好きと繋がりたい
#映画好きな人と繋がりたい
隠したい過去
吉田羊(歳を重ねた広瀬スズ)が、英国人との夫との間に設けた娘(次女)に、長崎時代の話を聞かせるストーリー。その中で、知り合いになった二階堂ふみとその娘(恵子)との関わりを話すのだが… 映画の最後で次女が発見する過去の想い出に繋がる幾つもの品が、実は二階堂ふみは存在せず、恵子は実の娘であったことが観客に判明する。即ち、幸せな結婚生活をしていた夫(松下洸平)も義父(三浦友和)も存在などしなかったのだ。娘に語るのは、嘘の過去なのだ。何故か、被爆者として生きねばならぬ中で隠したいことをしながら漸く掴んだチャンス(英国人夫)だったから。最後で、本作への評価に星一つ追加ですね。
選択を肯定したい自分と、後悔している自分を同時に語っているような映画
2025.9.5 一部字幕 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(123分、G)
原作はカズオ・イシグロの小説『A Pale View of Hills(邦題:遠い山なみの光)』
原爆直後の長崎を生き抜いた母と疎遠の娘を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は石川慶
英題の『A Pale View of Hills』は直訳すると「丘の上の淡い景色」という意味
物語は、1952年の長崎のことを1982年のイギリスにて回想するという構成になっていた
1952年の長崎には、原爆を乗り越えて専業主婦をしている悦子(広瀬すず)がいて、彼女には多忙な夫・二郎(松下洸平)と2人で暮らしていた
ある日のこと、2人の元に二郎の父・誠二(三浦友和)がやってきた
彼は息子の同窓会に併せて訪れていたのだが、一週間も早く到着していた
やむを得ずに息子の家で泊まることになったものの、父親とあまり一緒に過ごしたくない二郎は、仕事を理由に帰宅を遅らせ、父との将棋指しも拒んでいくようになった
父にはとある目的があったのだが、それに向かうためには心の整理が必要で、息子との会話が必要だと考えていた
それは、誠二の元教え子で二郎の友人でもある松田重夫(渡辺大知)が、ある雑誌書評にて、誠二の教育方針に対する意義を唱えていて、さらに「追放されて当然だ」という強い言葉で締めくくられていたのである
映画は、1952年と1982年を行ったり来たりする構成になっているが、1952年に関しては悦子の回想とニキが残された荷物から想像するものが入り混じっている
悦子は新しい時代に向かう中で、新しい生活をしたいと考えていたが、夫はそうは考えていない
これまでの日本と同様に「母親は母親らしく」という考えに固執していて、おそらくは子どもが生まれれば一切の自由を与えない夫になっていたと思う
この考えは、彼の父から受け継がれているものであり、それが時代の変化とともに古きものとして断罪されていく
教え子との会話では、かつて反発していた者が今の教育の主流となっていて、戦争に向かわせた教育を全否定されていた
誠二は師に対する敬意とか当時の努力を語るものの、松田たちの世代からすれば、結果こそすべてであると言えるのだろう
物語は、実は悦子=佐知子だったというカラクリがあり、記憶が時を経て分離しているのか、混在しているのかが不明瞭になっている
景子=万里子(鈴木碧桜)であり、1952年時点でのお腹の子どもとなるのだが、同時進行で万里子が描かれているので、とてもややこしい演出になっていた
1952年の悦子は少し先の未来の自分(=佐知子)を同時に語っていることになり、そこに嘘があるのかは何とも言えない
だが、ありのままを話せない自分がいて、あの選択は間違っていなかったと思い込みたいのだと思う
それでも、アメリカに来たことで景子は自殺してしまっているので、選択の正しさを思い描けない部分はある
そう言った後悔と肯定の間において、記憶はあたかも自身を分離させるかの如く、同時期に存在するという構図を生み出していたのではないだろうか
いずれにせよ、余白の多い作品で、観終わった瞬間にスッと入ってくる作品ではなかった
ニキが見つける遺物によって悦子の話の真実がわかるのだが、景子=万里子という関係性の他にも「佐知子が万里子を捨てて1人でアメリカに行ってしまった」とも考えられてしまう
それは、二郎との夫婦関係がどうやって終わったのかを描いていないからであり、かなりの部分が抜け落ちた回想になっているからだと思う
アメリカではなくイギリスを選択した理由もわからないし、佐知子をあたかも他人のように説明するための嘘であると言えるのだが、やっぱりわかりにくいよなあと感じた
予想外に面白かった
レトロ昭和、広瀬すず、毎度の苦手系。
でも今作品は良かった。面白かった!
凛とした役をこなす広瀬すずは相変わらずいいねー
結局、二階堂ふみの役は幻⁉️
あれは広瀬すずだったのかな?
中々長女の詳細が明かされないなーって思っていたら、まさかあの娘が長女だったとは。やられた。
広瀬すずの旦那さんは昔の写真だと外人で、過去のシーンでは松下くん、あのカラクリは謎でした。ん?
猫の最期のシーン
あれは嫌だねー
わざわざ必要だったのかな。
そんな事するなら猫の登場を遠慮して欲しい。
無駄に悲しい。
8番出口
これの前に観た「8番出口」よりは見どころがありましたが、映画を観ていてよくわからない度は同じくらいでした。
きれいな人が出てるぶん、こっちが少しだけ勝ちかも。
映画を観てからみなさんのレビューを読んで、なんとなく理解したふうを感じてますが、明日には忘れる程度の映画でした。
簡単なお話を、わざわざわかりにくくして映画を製作する人の意図ってなんなんでしょう。感性が腐ってるとしか思えません。
こりゃあと2回観なきゃ
僕ごときが一回観て全部理解して解釈して評論なんか出来るような単純な作品ではありませんでした。
「海街diary」みたいに、爽やかハッピーに終わる作品だと勝手に思って観たら全然違う。
戦争が日本国民全員に大きく深い傷をつけ、人それぞれに消化しようとしつつ、でも飲み込めず、体も傷み、心が七転八倒し、なんとかかんとか、もがきながら生きていた。
そんな時代に生きていない僕なんかがわかるわけがない。
登場人物全員がそれぞれの辛さに溺れまいと何かにしがみつき、ひたすら生きる。
「希望はたくさんある」・・・逆光の中の台詞
そうだ。何かを失っても、沢山失っても、大きく失っても、希望は必ずたくさん見つけられる。
苦しく辛い中でも、探せば希望はたくさんある。
ちょうど、僕が今、大きな物を失いつつあり、ターニングポイントの最中にあり、そのストレスにげんなり。
そんな時にこの作品が乗り越える希望をくれました。
最後は、実は全ての登場人物が同一人物の時間の線の中にあったというオチ。主観と客観の錯綜。あの時代の全ての人が、"戦争"という同一の大事件に巻き込まれ、葛藤し、それでも何とか生きて、そして未来に今の僕らに繋がっている。みんな同じ一本の線の上にいた。
いつの時代も苦しみや辛さは変わらずあり、でも、遠くの山際に薄暗く仄かに見える光に向かってただ歩くしかない。それが人生なんだろう、きっと、多分、恐らく。
文化も価値観も全てが変わりゆく。今もそうだ。昭和では普通の何ともないことが、今ではタブーだったりアンモラルだったり。三浦友和の演技はさすがでした。
この作品が魅せる光と影、そして音と風。素晴らしかった。
(滅裂、書き殴りです。)
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映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。