遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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ふせんかいしゅうしてくれー
最後にはいろいろとわかってくるのかと思いきや、
まさかのクロージング。
それは無いだろーと言う感じ。
演者の演技は問題無し。
黒ずくめの女の悪夢
カズオイシグロの長編デビュー作である『遠い山なみの光』の初映像化作品。原作が断片的な回想を中心とし、良い意味で曖昧さをうまく利用しながら、過去の長崎で出会った母娘と当時から現代にいたる主人公の姿をうまくオーバーラップさせる流れを、映像としてうまく表現している。イシグロ自身はかなりのシネフィルで、80年代の英国から始めずに、長崎の情景をまず見せることを石川監督にアドバイスしたらしい。その意味で、小説自体は個人の回想を夢の映像のように見せることを最初から意識していたかもしれない。
原作小説のキャラクターの対比は、したがって最初から意図されており、悦子と娘たち(景子、ニキ)、佐知子と万里子は、それぞれ重なるようになっているからこそ、石川監督の映像的なプロットもそれを強調するように描かれていて、これが原作にないようなミステリーの筋書きを可能にしている。
長崎の悦子の回想シーンの明るさは、現代の悦子の英国の映像の暗さと比べると、悦子が「悪夢」にうなされるのが皮肉なくらいだ。過去の方がある意味希望に満ちて輝いているからである。その明るさを侵食するような黒いしみとして姿を現すのが、万里子がいう「川の向こうの女性」であり、佐知子が語る万里子が見た自殺した女性、市電から見かけた黒ずくめの女である。
この黒ずくめの女とは、実際に佐知子が見たエピソード通り、子供を殺す女性である。そしてこの子殺しこそ、悦子を悪夢へとかりたてる黒いしみだ。佐知子の家に黒ずくめの女が歩いていくのを見かけた悦子は必死で万里子のところにかけつける。だがその姿は、結局のところ幻で、そこに続く流れで佐知子が自分の未来のために万里子を「殺す」であろうことを、佐知子が万里子の飼っている子猫を殺す形で暗示されている。
この佐知子と万里子の姿は、そのまま悦子と長女の景子と重なるように描かれる。悦子自身は長崎の原爆で生徒の子供たちを見殺しにしたことを悔いているが、自分の子供に違う人生を与えようと足掻いたうえで娘を失うことになる。それは佐知子が万里子にやっていたこととどれだけ違うというのか。年代の違う価値観、親と子がそれぞれ向き合わずにすれ違う姿は、原作同様に映画でも繰り返し現れる。義父の緒方さんと息子の二郎。緒方さんの教え子松田。彼らは自分が変わっていないことを痛感させられるが、すぐに自分を変えられるわけではない。だがオムレツの作り方を覚えるようには自分をすぐに変えられそうにない。
黒ずくめの女は、その意味で、すでに変わってしまった自分が、過去の記憶に入り込んで現在の悔恨の原因を探ろうとする姿そのものだ。あのときの自分は正しかったのかどうか。あのとき変わって本当に良かったのか。その答えは夢の中にはない。
原作と明確に違う描写として、ニキが景子のことで悦子と口喧嘩になり、悦子がニキを叩く場面がある。このような真っすぐな関係は、原作には見られない。過去の長崎の日本人の人間関係のように、言っていることと感じていることがいつもずれた感じになっている。悦子は映画の中では、景子のことには向き合いきれてないが、ニキとは向き合っていることがわかる。最後のシーンに描かれるように、「変わること」を実際に実行できるのは娘たちの選択にかかっている。
説明不足ではありますが良作
タイトルの通り、とにかく説明が少なく、観客の想像に委ねられる部分が多い作品です。
広瀬すずさんと二階堂ふみさんが同一人物であることは、容易に察しがつきます。吉田洋さんが娘に日本での出来事を語る際、穏やかな面を広瀬すずさんに、気性の荒い面を二階堂ふみさんに投影して描いているのだと感じました。
また、松下洸平さんとの関係については、二通りの解釈ができるように思います。
ひとつは、子どもが生まれたことで広瀬すずさんが被爆者であると判明し、それが原因で離婚したという可能性。
もうひとつは、広瀬すずさんが自分のやりたいことを追求するため、「変わらなければ」と考え、自ら離婚を決意したというものです。
ただ、それ以降のイギリス人との結婚や、万里子(景子)の自殺については説明がほとんどなく、観客の想像に委ねられていると感じました。特に、当初は「アメリカに行く」と言っていたのに、直前で「イギリスに行く」へと変わった理由がよく分かりませんでした。
また喪服のような黒尽くめの女性が登場しますが、何を暗示しているのかは分かりませんでした。
さらに、万里子の死についても、本当に自殺だったのか釈然としません。川辺で万里子が一人でいるところに悦子が紐を持って近づき、万里子が「なんで紐を持ってるの?」と尋ねると、悦子は「なんでもない」と曖昧に答えるシーンがあります。その場面を見たとき、私は「もしかすると万里子は自殺ではなく悦子が殺したのではないか」と疑いました。
しかし、イギリスでのアルバムには、悦子・万里子・そして夫と思われる人物が一緒に写っている写真があり、この推測は否定されました。結果として、真相は最後まで明かされません。
このように謎が多く、全体としては難解な作品ですが、キャストの皆さんの演技は素晴らしく、作品としての完成度も非常に高かったと思います。
特に広瀬すずさん、三浦友和さん、二階堂ふみさんの演技は圧巻で、なかでも広瀬すずさんは表情や話し方、細かい所作まで含めて圧倒的な表現力を発揮しており、まさにハマり役だと感じました。
あれはどういう意味だったんだろう?がいっぱい
分からなかったこと。どなたかご教示ください。
思い出したくない自分の過去を娘に語る時に、別の親子になぞらえて話していったんだ〜ということはわかりました。
しかし鑑賞後にいくつか疑問が沸きました。死んだ赤ん坊を水で洗っていた女性の話が出てきたのですが、すると箱に入れて川に沈めたのは猫ではなくてあとから生まれた子どもだったということなのか?、では冒頭にニュースに出てくる子どもの連続殺人犯も自分?と考えたんですが、考えすぎでしょうか。
路面電車を悲しそうに見つめる女性が吉田羊さんだったことも理解ができませんでした。
自分が理解できなかっただけで、セットや役者さんの所作などをよく見直せば、ほかにもたくさん考えさせられるポイントが増えていきそうな映画でした。
まず原作を読んで、もう一度見ないとなりませんね。
戦争の爪痕は様々な形で現れる
長崎を舞台に過去と現在が入れ替わりながらストーリーが展開する。そこにはわかりにくさはなく,むしろ,戦争が残した爪痕のあまり語られない部分が表現されていたように思う。
戦時下に教育者だった老人が戦後に受ける非難、被爆者がどれだけ肩身の狭い思いだったかなど感じられた。わかりにくいのは最後まで信じていた登場人物が結局想像の産物だったこと。戦時下での自分の行いへの悔恨が別の人物を生み出してその人がしたことにしたのか。ダンボールの猫のシーンが強烈だった。
最後に次女に変わらなきゃと言われて答えた彼女の顔には少し希望が持てたように思う。
そんなにボケるかな?
吉田羊演ずる今の悦子さんと思しき人物と同い年ぐらいですが、
30年ぐらい前のことなら詳細部分は忘れていることがあっても
あんなに記憶が混同するほどぼけていません。
わざと作り話をしてるのかなと思いました。
戦前は音楽を習っていて家でオムレツをつくったりティーセットでお茶を飲むような暮らしをしていたお嬢様の悦子さんが戦争と被ばくで生活が激変。
復員してきたザ昭和男の旦那さんとは離婚し戦後の生活は真知子さん的な生活になった。
戦後は米兵にくっついてアメリカに行く人は多かったから真知子さんがアメリカに行くという話はすんなり理解できたけど、なぜアメリカでなくイギリスにわたったのか説明がほしかった。そこは作者一家が長崎からイギリスにわたってイギリス生活をしているからイギリスにしたと推測。そんな単純な思考かどうかはわからないけど唐突にイギリスが出てくることでこの話を理解するのをややこしくしているような気がしました。
最後の意味がよくわからない。
出てくる女優は皆綺麗。三浦友和も、息子よりかっこいいと思う。
ストーリーは、最後の最後まで事実と思って観ていたが、あれは想像なんだとネタバレを読んで理解できた。
唐突すぎてよくわからなかった。
話のつながりも、いつイギリスに行くのか、吉田羊になるまでのいきさつも、途中は???だった。
だいたいが広瀬すずの想像。
なるほど。
深すぎる。
あとから謎とき楽しめる映画
1982年に刊行された,ノーベル賞作家カズオ・イシグロの長編小説デビュー作をもとに石川慶監督で製作された作品です.
晩年の悦子を演じる吉田羊は,撮影前に英国に短期留学しただけあって,流ちょうな英語での演技は見事です.
最近うなされる夢について,友達のはなしという形で,自らの過去の話をしますが,30年前の物語で登場する,若き悦子役の広瀬すずと友達として登場する佐知子役の二階堂ふみが,いかにも昭和の女優という雰囲気を漂わせていて,素晴らしかったです.
なぜ,悦子が二郎と別れることになったのか(たぶん悦子が被爆者であることを知ったため),なぜけいこが自殺したのか(たぶん「猫」のことが尾をひいて英国に馴染めなかったため),なぜ回想シーンで晩年の悦子が若い悦子たちが乗っている電車を見ていたか(たぶん晩年の悦子が自分を客観視できるようになってきたため),など謎が多く,その答えを想像することも楽しめる作品と思います.
大人版・思い出のマーニー
二つの時代の雰囲気、空気感が素晴らしい。
少し難解な作品で最後までよく分からなかったところもあるけど、それも含めて不思議な魅力がある作品だと思った。
少し幻想的で怪奇な雰囲気は、思い出のマーニーを連想させた。
「妊娠」「子供」「時代の変わり目」「女性」といったテーマが複層的に、ときに肯定的に、ときに否定的にあらわれ、感情を揺さぶられる。
過去を描く映画では、過去はセピア色に理想化される傾向があるけど、この作品では過去はその時代の嫌な空気も含めて描かれているようで、そこが良かった。
この作品のテーマは正直分からないし、原作もたぶんこれから読むことは無いと思うが、自分なりにこの作品から感じたことは、「どんなにそれが残酷なことであっても、人は過去のために生きてはいけない」ということなんではないかと思う。
人間が生きるということはきれいごとだけではすまないことがある。自分の犯してきた罪や業(ごう)や後悔や過ちなんかで人はまみれている。
それでも人は生きていかなければならないし、進んでいかなければならない。そのことによって人を傷つけたり、間違ったことだと分かっていて進まなければならないこともある。
忘れたい過去を編集した端正な『或る女の記』
カズオ・イシグロ原作で、50年代の長崎と80年代のイギリスを舞台に、日本人女性の半生をミステリアスに描く作品です。まず、美しく整えられた映像が素晴らしく、過去の長崎は淡くノスタルジー溢れるタッチ、現代のイギリスは暗く冷たいタッチなのは、主人公の心象風景のようです。この映像をバックに主演三人の女優の競演に惹きつけられ、なんか日本映画離れした作品でした。お話しは過去の長崎と現在のイギリスを行き来しながら、観客に語られていた過去が徐々につじつまが合わなくなってきて、最後に一気に難解な結末になります。正直言って作品を理解したとは言えないけど、主人公は、自分の過去と他人の過去のいいとこ取りをする事で忘れたい過去を塗り込めているように感じました。そういう意味では、佐知子は悦子が頭の中で作り出した想像のキャラクターにも思えますし、被爆者である過去、女性は男性に隷属することを課せられる風潮を消し去り、自分で未来を切り拓きたい願望が今日の悦子を創り上げたのかもしれません。久しぶりに映画を観て、あれこれ考えて楽しかったです。役者では、ダントツに広瀬すずの名演が素晴らしかったです。クラシックな雰囲気と美しさに加え、柔らかいトーンの長崎弁のセリフ回しがピタリとはまっていました。二階堂ふみは、こう言う正体不明の役柄をやると本当に上手です。木箱を川に沈めるシーンはおっかなかったです。
この物語に景子の死は必要なのか?
主人公を悦子と佐知子に分離させた意図が今一わからない。最後は悦子は佐知子なのだと言う解が示されたが、そもそも一人の人格を二分化した意図がわからない。マリコが景子だったと言うことも明かされたが、それがどうしたのか、と言うのが率直な感想。悦子の夫や義父は一体なんなんだったの?またマリコの年齢設定が腑に落ちない。昭和27年当時の年齢は8歳くらいか。すると渡英後の1956年に生まれたニキとの年齢差は12歳。12歳もの歳上の姉とあのような葛藤を抱えうるだろうか?思春期を迎える頃は姉は既に二十歳をとっくに過ぎている。完全に別世代で姉妹と言うより親子関係といった方が近いかも知れない。普通に見られるような姉妹の葛藤のようなものはまずあり得ないと考えるのが普通。また、この物語にただの苦労話ではなく非日常的な悲劇性をもたらせているのは景子の自死だ。この事件が縦糸となって物語全体を暗く照らしている。これがあってこそのこの物語だ。フィクションとは言え、人の命を奪ってまで物語を描こうとする作者の利己的な欲望に少々の躊躇いを感じる。
昭和の男はダメを痛感。
昭和生まれのおじさんなので、劇中の昭和おじさん2人のいけなさ加減が辛いくらいでした。蛇足ですが。
ロープウェイの展望台のシーンで、万里子の視線に違和感を感じたことで
ヒューマンミステリーである今作の基本の嘘、ミステリーを知ることが
できました。
長崎弁、標準語、英語と話す言葉が違うけど、それは同じ人物が生き方を変えた
ことを示しているのでは?と思いました。
主人公の辛い境遇を乗り越えるための嘘、それは許される嘘なのでしょう。
娘がその嘘に気づくことで、親子の絆が深まったと思います。
観終わって、疑問というか謎が多く残りましたが、それらの伏線回収は本作の
メインではないのでしょう。鑑賞した人の考えにゆだねるのでしょうね。
でも、ちょっとすっきりしない気持ち悪さは正直残りました。
先週、東野圭吾作品を鑑賞した後だからかなぁ~~~。
まとめると、見ごたえあります。見終わった後に、誰かと話したい!と思う作品でした。
反芻すればするほど…
戦後に価値観が変わる中で生き抜いた女性のお話し?
長崎で被爆この世の地獄を経験し、戦後はGHQにより強制的に価値観を変えられ…
今は穏やかにイギリスで暮らす女性の物語。
と、書くとなんだか穏やかな映画だが、終始不穏な空気が流れる。
ジャーナリストになりたい娘のニキは、長崎での母の経験を書き留めるため、母にインタビューを始める。
母は記憶を探りながら日本での思い出を語りだす。
姉の景子の自死を隣人に無いこととして語る母。
そんな様子に憤るニキ。
『景子のことも私のこともあなたにはどうでもいいことでしょ!!』
後半の猫を川に沈める描写…
あの描写は?あの描写は?
もう一度観たくなる映画です。
心の傷を抱えながらも生きる女性
この物語に出てくる男性はずるく弱い。
ニキの不倫相手は、奥さんといつまでも別れない。長崎を広島と言い間違え、ニキの話を真剣に聞いていない。悦子の夫の二郎は、もし、私が被爆していたら、結婚しなかったか?の問いに、ちゃんと答えない。二郎の父で元校長の緒方は、かつての教え子に戦前教育の罪深さを指摘されても、受け入れることが出来ない。一方、悦子は外国軍人と再婚し渡英して二人姉妹を育てるも、長女は自死で亡くしている。異国の地で、心に傷を抱えながらも前向きに生きようとする悦子さんに、たくましさを感じた。
エンタメとしてでなく芸術としてなら
ノーベル賞の文学賞の作家の長編小説デビュー作品を自分でエグゼクティブプロデューサーとして映画製作にタッチしているだけで凄いです。
しかし観に来た横並びの客は寝ていて大いびき。私は原作未読で難解なストーリーに加えて、戦後の女性の精神的解放に主眼があるみたいですけど、あんまり得意な題材ではないので苦しみながら観ていました。
広瀬すず、二階堂ふみに吉田羊まで揃う作品はそうないのでと思って観ていました。ドキドキ、ワクワクを求めて観ていたらつまらないでしょう。
純文学を紐解く映画を求めているなら本人がプロデューサーなんだから良き作品になっていると思います。
人の苦しみがここまでくるとは
悦子には(きっと自分のことを真理子と悦子が語る場面にはあるが)2面性の顔があって優しく子供に接することができる悦子、残酷なことをし、残酷な言葉をかける悦子がいたと考えます。
もしくはあの時の自分に対し、今の自分があの時の自分にこうしたら良かったのではないかという後悔が生じていたのではないでしょうか、
その顔に自身で気づいていたが、どうすることもできず、イギリスに行けば状況が変わるだろうと悦子は信じていたのかもしれません。
最後の方の場面で、悦子が船に座って、アメリカに行きたくないと言っている子供をみている傍ら、草のつるをもっており「子どもはなんでそれを持っているの?」と疑問形で問いかけている場面がありました。私はそこで子供を殺そうとしていたのではないかと読み取りました。子供も殺されるという考えに一瞬よぎった瞬間でもあったのではないかと思います。子供を無理矢理イギリスに渡英させましたが、あの時の苦しみは癒えるものではなかった。そして、あの時の場面を思い出す日々が続いたのかもしれません。そして子供はその記憶の伏線をなぞり(なぞりたかった訳ではないと思う。顕在化された記憶の中で苦しみ、いつの間にか「草のつた」という苦しみから逃れたくて)、つたに似た紐で首をつって亡くなったと私は捉えました。あくまで、一度映画を観た私の捉え方のため、もし違う見方の方がいたら教えて頂けたら嬉しいです。
難しい作品
現代のイギリスと戦後の日本のシーンが交互に物語が進む。
この先どのように展開してイギリスに行くことになるのか。ずっと考えていましたが、まさかの展開に。戦後の日本のシーンは、悦子は回想する自分で、当時の自分が佐知子ってことでしょうか。
難しい作品ですね。でもとても面白かったですよ。
団地とオムレツとそしてバイオリンと憧れと
不条理、そしてデビッド・リンチ作品が大好きな人なら
あのラストは充分に理解できる良作だったと思います
原作は読んでないけど監督さんには一本取られたなと…
ネタバレになるといけないんであまり書けないけど
戦時下、特に原爆で夢見る女性が惨状下でも生き延びなければならない
過去を打消したくても打ち消さすことができない
実際の日本人の夫は恐らく戦死していて、戦時中に生まれたのが
あの長女なのでしょう
演者さんたちもお見事でした
タイトルなし(ネタバレ)
原作を読んだのは二年ほど前。早川が出してるんだ、と、ちょっと珍しく思って手に取ったのかもしれない。カズオ・イシグロの作品で読んだことがあるのはいまのところこれだけ。
カズオ・イシグロが英語で書いたものを翻訳したものなので、ちょっと日本の文学と比較するのも違うかもしれないが、どことなく庄野順三とか辻邦生とかを思い起こすような雰囲気を感じた。
原作でも若干ホラーテイストだったが、映画の方もそれは同じで最後の方は悦子が語った佐知子という女性とその娘の万里子という過去に会った人々というのは悦子の体験をもとにした空想か妄想という表現をしていた。小説の方ではそういうことは想像をたくましくしないと特に感じ取れないくらいには具体的な記載は無かったとおもう。それ以外にも映画化に当たっては少々変更された点もある。
悦子役の広瀬すずは私のイメージに近いだろうか。佐知子にはもう少し影があるような雰囲気だったので、二階堂ふみだとちょっと明るい感じに見えてしまう。
役者も演技など悪くは無かった。三浦友和はこういう役が多くなった。吉田羊とカミラ・アイコはあまり親子には見えなかったがそこは特に気にならなかった。
1950年代の再現は結構頑張っていたように思う。当時を知っているわけではないけど。おなじく1982年もだいぶ過去になったので、そこも当時の雰囲気が再現されていた。
正直、原作自体面白いとかそういう印象もなく、全体にじめっとしたウェットな雰囲気の小説だな、という感じを受けたくらいだったので、映像化されてそこはさほど変わらなかった。ただ、映画の方が、色々とメッセージ性が強くなっているというか、原作にこんな意図はあっただろうかという印象を映画の方には感じた。
思い出とは消えていくことである
人の記憶というものは、曖昧なものだ。そして、思い出として残っていたものもいつかは消えていく。
年月が過ぎるにつれ、記憶というのは姿かたちを変え、正確に覚えておくことはできない。
もちろん良い記憶だけではなく、嫌な記憶はある。
誰しも何かにあこがれて、嫌な記憶からは目をそらす。事実を歪曲してしまう。
この映画はかなり「曖昧」な部分を意図的に盛り込み、どこまでが真実なのか、をとらえることが難しく描かれているが、時代の変化というものを例えたかったんじゃないかと感じた。
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