遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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あとから謎とき楽しめる映画
1982年に刊行された,ノーベル賞作家カズオ・イシグロの長編小説デビュー作をもとに石川慶監督で製作された作品です.
晩年の悦子を演じる吉田羊は,撮影前に英国に短期留学しただけあって,流ちょうな英語での演技は見事です.
最近うなされる夢について,友達のはなしという形で,自らの過去の話をしますが,30年前の物語で登場する,若き悦子役の広瀬すずと友達として登場する佐知子役の二階堂ふみが,いかにも昭和の女優という雰囲気を漂わせていて,素晴らしかったです.
なぜ,悦子が二郎と別れることになったのか(たぶん悦子が被爆者であることを知ったため),なぜけいこが自殺したのか(たぶん「猫」のことが尾をひいて英国に馴染めなかったため),なぜ回想シーンで晩年の悦子が若い悦子たちが乗っている電車を見ていたか(たぶん晩年の悦子が自分を客観視できるようになってきたため),など謎が多く,その答えを想像することも楽しめる作品と思います.
大人版・思い出のマーニー
二つの時代の雰囲気、空気感が素晴らしい。
少し難解な作品で最後までよく分からなかったところもあるけど、それも含めて不思議な魅力がある作品だと思った。
少し幻想的で怪奇な雰囲気は、思い出のマーニーを連想させた。
「妊娠」「子供」「時代の変わり目」「女性」といったテーマが複層的に、ときに肯定的に、ときに否定的にあらわれ、感情を揺さぶられる。
過去を描く映画では、過去はセピア色に理想化される傾向があるけど、この作品では過去はその時代の嫌な空気も含めて描かれているようで、そこが良かった。
この作品のテーマは正直分からないし、原作もたぶんこれから読むことは無いと思うが、自分なりにこの作品から感じたことは、「どんなにそれが残酷なことであっても、人は過去のために生きてはいけない」ということなんではないかと思う。
人間が生きるということはきれいごとだけではすまないことがある。自分の犯してきた罪や業(ごう)や後悔や過ちなんかで人はまみれている。
それでも人は生きていかなければならないし、進んでいかなければならない。そのことによって人を傷つけたり、間違ったことだと分かっていて進まなければならないこともある。
忘れたい過去を編集した端正な『或る女の記』
カズオ・イシグロ原作で、50年代の長崎と80年代のイギリスを舞台に、日本人女性の半生をミステリアスに描く作品です。まず、美しく整えられた映像が素晴らしく、過去の長崎は淡くノスタルジー溢れるタッチ、現代のイギリスは暗く冷たいタッチなのは、主人公の心象風景のようです。この映像をバックに主演三人の女優の競演に惹きつけられ、なんか日本映画離れした作品でした。お話しは過去の長崎と現在のイギリスを行き来しながら、観客に語られていた過去が徐々につじつまが合わなくなってきて、最後に一気に難解な結末になります。正直言って作品を理解したとは言えないけど、主人公は、自分の過去と他人の過去のいいとこ取りをする事で忘れたい過去を塗り込めているように感じました。そういう意味では、佐知子は悦子が頭の中で作り出した想像のキャラクターにも思えますし、被爆者である過去、女性は男性に隷属することを課せられる風潮を消し去り、自分で未来を切り拓きたい願望が今日の悦子を創り上げたのかもしれません。久しぶりに映画を観て、あれこれ考えて楽しかったです。役者では、ダントツに広瀬すずの名演が素晴らしかったです。クラシックな雰囲気と美しさに加え、柔らかいトーンの長崎弁のセリフ回しがピタリとはまっていました。二階堂ふみは、こう言う正体不明の役柄をやると本当に上手です。木箱を川に沈めるシーンはおっかなかったです。
この物語に景子の死は必要なのか?
主人公を悦子と佐知子に分離させた意図が今一わからない。最後は悦子は佐知子なのだと言う解が示されたが、そもそも一人の人格を二分化した意図がわからない。マリコが景子だったと言うことも明かされたが、それがどうしたのか、と言うのが率直な感想。悦子の夫や義父は一体なんなんだったの?またマリコの年齢設定が腑に落ちない。昭和27年当時の年齢は8歳くらいか。すると渡英後の1956年に生まれたニキとの年齢差は12歳。12歳もの歳上の姉とあのような葛藤を抱えうるだろうか?思春期を迎える頃は姉は既に二十歳をとっくに過ぎている。完全に別世代で姉妹と言うより親子関係といった方が近いかも知れない。普通に見られるような姉妹の葛藤のようなものはまずあり得ないと考えるのが普通。また、この物語にただの苦労話ではなく非日常的な悲劇性をもたらせているのは景子の自死だ。この事件が縦糸となって物語全体を暗く照らしている。これがあってこそのこの物語だ。フィクションとは言え、人の命を奪ってまで物語を描こうとする作者の利己的な欲望に少々の躊躇いを感じる。
昭和の男はダメを痛感。
昭和生まれのおじさんなので、劇中の昭和おじさん2人のいけなさ加減が辛いくらいでした。蛇足ですが。
ロープウェイの展望台のシーンで、万里子の視線に違和感を感じたことで
ヒューマンミステリーである今作の基本の嘘、ミステリーを知ることが
できました。
長崎弁、標準語、英語と話す言葉が違うけど、それは同じ人物が生き方を変えた
ことを示しているのでは?と思いました。
主人公の辛い境遇を乗り越えるための嘘、それは許される嘘なのでしょう。
娘がその嘘に気づくことで、親子の絆が深まったと思います。
観終わって、疑問というか謎が多く残りましたが、それらの伏線回収は本作の
メインではないのでしょう。鑑賞した人の考えにゆだねるのでしょうね。
でも、ちょっとすっきりしない気持ち悪さは正直残りました。
先週、東野圭吾作品を鑑賞した後だからかなぁ~~~。
まとめると、見ごたえあります。見終わった後に、誰かと話したい!と思う作品でした。
反芻すればするほど…
戦後に価値観が変わる中で生き抜いた女性のお話し?
長崎で被爆この世の地獄を経験し、戦後はGHQにより強制的に価値観を変えられ…
今は穏やかにイギリスで暮らす女性の物語。
と、書くとなんだか穏やかな映画だが、終始不穏な空気が流れる。
ジャーナリストになりたい娘のニキは、長崎での母の経験を書き留めるため、母にインタビューを始める。
母は記憶を探りながら日本での思い出を語りだす。
姉の景子の自死を隣人に無いこととして語る母。
そんな様子に憤るニキ。
『景子のことも私のこともあなたにはどうでもいいことでしょ!!』
後半の猫を川に沈める描写…
あの描写は?あの描写は?
もう一度観たくなる映画です。
心の傷を抱えながらも生きる女性
この物語に出てくる男性はずるく弱い。
ニキの不倫相手は、奥さんといつまでも別れない。長崎を広島と言い間違え、ニキの話を真剣に聞いていない。悦子の夫の二郎は、もし、私が被爆していたら、結婚しなかったか?の問いに、ちゃんと答えない。二郎の父で元校長の緒方は、かつての教え子に戦前教育の罪深さを指摘されても、受け入れることが出来ない。一方、悦子は外国軍人と再婚し渡英して二人姉妹を育てるも、長女は自死で亡くしている。異国の地で、心に傷を抱えながらも前向きに生きようとする悦子さんに、たくましさを感じた。
エンタメとしてでなく芸術としてなら
ノーベル賞の文学賞の作家の長編小説デビュー作品を自分でエグゼクティブプロデューサーとして映画製作にタッチしているだけで凄いです。
しかし観に来た横並びの客は寝ていて大いびき。私は原作未読で難解なストーリーに加えて、戦後の女性の精神的解放に主眼があるみたいですけど、あんまり得意な題材ではないので苦しみながら観ていました。
広瀬すず、二階堂ふみに吉田羊まで揃う作品はそうないのでと思って観ていました。ドキドキ、ワクワクを求めて観ていたらつまらないでしょう。
純文学を紐解く映画を求めているなら本人がプロデューサーなんだから良き作品になっていると思います。
人の苦しみがここまでくるとは
悦子には(きっと自分のことを真理子と悦子が語る場面にはあるが)2面性の顔があって優しく子供に接することができる悦子、残酷なことをし、残酷な言葉をかける悦子がいたと考えます。
もしくはあの時の自分に対し、今の自分があの時の自分にこうしたら良かったのではないかという後悔が生じていたのではないでしょうか、
その顔に自身で気づいていたが、どうすることもできず、イギリスに行けば状況が変わるだろうと悦子は信じていたのかもしれません。
最後の方の場面で、悦子が船に座って、アメリカに行きたくないと言っている子供をみている傍ら、草のつるをもっており「子どもはなんでそれを持っているの?」と疑問形で問いかけている場面がありました。私はそこで子供を殺そうとしていたのではないかと読み取りました。子供も殺されるという考えに一瞬よぎった瞬間でもあったのではないかと思います。子供を無理矢理イギリスに渡英させましたが、あの時の苦しみは癒えるものではなかった。そして、あの時の場面を思い出す日々が続いたのかもしれません。そして子供はその記憶の伏線をなぞり(なぞりたかった訳ではないと思う。顕在化された記憶の中で苦しみ、いつの間にか「草のつた」という苦しみから逃れたくて)、つたに似た紐で首をつって亡くなったと私は捉えました。あくまで、一度映画を観た私の捉え方のため、もし違う見方の方がいたら教えて頂けたら嬉しいです。
難しい作品
現代のイギリスと戦後の日本のシーンが交互に物語が進む。
この先どのように展開してイギリスに行くことになるのか。ずっと考えていましたが、まさかの展開に。戦後の日本のシーンは、悦子は回想する自分で、当時の自分が佐知子ってことでしょうか。
難しい作品ですね。でもとても面白かったですよ。
団地とオムレツとそしてバイオリンと憧れと
不条理、そしてデビッド・リンチ作品が大好きな人なら
あのラストは充分に理解できる良作だったと思います
原作は読んでないけど監督さんには一本取られたなと…
ネタバレになるといけないんであまり書けないけど
戦時下、特に原爆で夢見る女性が惨状下でも生き延びなければならない
過去を打消したくても打ち消さすことができない
実際の日本人の夫は恐らく戦死していて、戦時中に生まれたのが
あの長女なのでしょう
演者さんたちもお見事でした
タイトルなし(ネタバレ)
原作を読んだのは二年ほど前。早川が出してるんだ、と、ちょっと珍しく思って手に取ったのかもしれない。カズオ・イシグロの作品で読んだことがあるのはいまのところこれだけ。
カズオ・イシグロが英語で書いたものを翻訳したものなので、ちょっと日本の文学と比較するのも違うかもしれないが、どことなく庄野順三とか辻邦生とかを思い起こすような雰囲気を感じた。
原作でも若干ホラーテイストだったが、映画の方もそれは同じで最後の方は悦子が語った佐知子という女性とその娘の万里子という過去に会った人々というのは悦子の体験をもとにした空想か妄想という表現をしていた。小説の方ではそういうことは想像をたくましくしないと特に感じ取れないくらいには具体的な記載は無かったとおもう。それ以外にも映画化に当たっては少々変更された点もある。
悦子役の広瀬すずは私のイメージに近いだろうか。佐知子にはもう少し影があるような雰囲気だったので、二階堂ふみだとちょっと明るい感じに見えてしまう。
役者も演技など悪くは無かった。三浦友和はこういう役が多くなった。吉田羊とカミラ・アイコはあまり親子には見えなかったがそこは特に気にならなかった。
1950年代の再現は結構頑張っていたように思う。当時を知っているわけではないけど。おなじく1982年もだいぶ過去になったので、そこも当時の雰囲気が再現されていた。
正直、原作自体面白いとかそういう印象もなく、全体にじめっとしたウェットな雰囲気の小説だな、という感じを受けたくらいだったので、映像化されてそこはさほど変わらなかった。ただ、映画の方が、色々とメッセージ性が強くなっているというか、原作にこんな意図はあっただろうかという印象を映画の方には感じた。
思い出とは消えていくことである
人の記憶というものは、曖昧なものだ。そして、思い出として残っていたものもいつかは消えていく。
年月が過ぎるにつれ、記憶というのは姿かたちを変え、正確に覚えておくことはできない。
もちろん良い記憶だけではなく、嫌な記憶はある。
誰しも何かにあこがれて、嫌な記憶からは目をそらす。事実を歪曲してしまう。
この映画はかなり「曖昧」な部分を意図的に盛り込み、どこまでが真実なのか、をとらえることが難しく描かれているが、時代の変化というものを例えたかったんじゃないかと感じた。
久々にテーマのはっきりした映画でした
難解とのレビューが多かったので、覚悟をもってみましたが、悦子の回想を通じて見えた、戦前教育からの脱却と女性の地位向上というテーマがしっかりと伝わって来ました。
何故、次郎と悦子が離婚したのかとか、広瀬すずにはちょっと役どころが重すぎたのではないか、とかの細かい不満はが私にはありましたが、見てよかったと思える作品でした。
理解できない派でした
110分までは良かったけど、最後の最後で妄想って⋯なんでもあり過ぎでは。嘘と言うには設定が分厚すぎるし余白が多すぎる。
猫ではなくケイコを殺してしまっていたようにも解釈できるし、ニキも最初からいなかったかもしれない。そもそもイギリスにも行ってない創作かもしれない。いや、創作なのですけどね。。。
ニキが実在すると仮定して、お父さんの手紙がなぜ実在するのかが分かりませんでした。
→全て実在していて、佐知子は米国、悦子は英国に行ったという解釈もできるのですかね。うーん、この設定がない方が私は楽しめた気が⋯
ストーリーはさておき、キャストの演技は素晴らしく、稲佐山での2人の掛け合いの美しさに特に感動した。
ジャンプスケア的なシーンが多かった点は好きになれなかった。
嘘は幸せと平和への願い
今年は終戦80年。…にも関わらず、反戦を訴えた作品に決定打が無かった気がする。『雪風』なんてとんだ時代錯誤作で落胆を通り越して呆れた。
9月になってようやく本命作登場かと期待。
それが本作。カズオ・イシグロのデビュー小説の映画化。
1980年代からイギリスに拠点を移し活躍する氏だが、元々は長崎生まれ。母親が原爆投下で負傷するなど長崎の悲劇やあの戦争を身をもって体現。
戦争を全面に押し出すのではなく、記憶や心の傷や過去の陰として忍ばせ、戦争を問う。私の好きな作風。
しかし…。
1980年代の英ロンドン。大学を中退し、作家を目指す若い女性ニキは、母・悦子が一人暮らす実家に赴く。
母は日本人で父はイギリス人。ニキは二人目の娘。
悦子は昔長崎に住んでおり、日本人男性の最初の夫が。長女・景子もいた。
最初の夫と別れイギリス人の夫と再婚し、景子を連れてイギリスへ。
が、景子は自殺。夫とも死別。以来ニキとも関係がぎくしゃくし、疎遠になり…。
何故異父姉は自殺したのか…? 何故母は日本を離れイギリスに渡ったのか…? 長崎時代の母に何があったのか…?
長崎を題材にした本を書く為、ニキは母に過去を聞く。悦子が語り出したのは、よく見る夢の話…。
戦後すぐの1950年代の長崎。悦子は夫・二郎と団地で暮らし、身籠っていた。
団地から望める河を挟んだバラックに、米兵が出入り。そこには一人の女性が暮らしていた。
悦子はひょんな事からその女性・佐知子と娘・万里子と知り合い…。
現在と過去が交錯。
現在は現悦子の心情やニキとのぎくしゃくを反映して、淡々静かで映像も暗め。
過去は二人の女性の出会いや交流を表すように、美しい射光やノスタルジック。
どちらも映像・照明・美術・衣装が素晴らしく美しく、それぞれの時代の空気を感じさせる。
とりわけ50年代長崎の佐知子が暮らすバラックや店々が並ぶ裏通りなどは戦後の傷痕を醸し出す。
その一方、悦子の暮らしはブルジョワ風。
それを対比させる悦子と佐知子。
意外にもこれが初共演の広瀬すずと二階堂ふみ。現日本映画界を代表する若き実力派二人の共演にまず惹かれた。
今年は『ゆきてかへらぬ』『片思い世界』『宝島』と快進撃。広瀬すずが昭和の日本女性の美しさを魅せる。
ミステリアスで独特な雰囲気で印象残す二階堂ふみ。個性的な役をやらせたら同世代随一。
とにかくこの二人が魅せてくれる。眼福もの。
吉田羊はほとんど英語台詞で、流暢な英語を披露。
カミラ・アイコの聡明さ。子役・鈴木碧桜の野生児のようなインパクト。初めましての二人も印象的。
松下洸平や三浦友和もアンサンブルを奏でるが、女たちの物語。美しさ、儚さ、魅力に浸る。
悦子と佐知子。性格は違う。
貞淑な妻の悦子に対し、佐知子は自由奔放。悦子は夫の後ろに一歩下がるが、佐知子は柄の悪い男にも食って掛かる。
悦子が佐知子の自立した姿に憧れを感じていくのは見ていて分かる。
あの時代に特に女性が、そんな生き方は難しかった。
憧れや対比であると同時に、似通っている部分もある。
悦子は佐知子の自由な生き方に憧れている。佐知子も自由に見えて、自由を欲している。
娘のいる佐知子と身籠っている悦子。若い母親として。
だからそんな二人がシンパシーや交流深めるのは必然だが、それ以上の関係が…。
二人共、被曝者。
悦子は自信の被曝によりお腹の子供にも影響が…と気が気でない。被曝の事を夫にも隠している。
悦子が涙ながらに苦しい胸の内を打ち明けるシーンは広瀬すずの熱演もあって胸に迫る。
佐知子の場合は自身は元より、万里子の身体にはっきりと被曝の痕が。
働く飲食店の客から風評差別を受けるシーンがあったが、まだまだこんなものではないだろう。
カズオ・イシグロが長崎時代に受けたであろう風評被害への憤りを感じた。
戦争が終わり、時代は新しく変わっていく。しかし、それを受け入れられない者も。
悦子の義父は小学校の元校長で、悦子もその下で勤めていた恩師でもある。穏やかな義父だが、当時子供たちに軍国主義の教えを説いていた。あの当時だから…ではあるが、義父は自分は間違っていないと断言。その事で息子と考えの違い、教え子から糾弾される。
原爆や戦争の後遺症を引き摺り…。ここだけでも『雪風』なんかより見るべきものあった。
『愚行録』『ある男』と同系統でヒューマン×ミステリーは石川慶監督のスタイルになりつつある。
カズオ・イシグロが敬愛した小津安二郎や成瀬巳喜男のような静かなタッチの人間ドラマの中に、徐々に明かされていく秘密。悦子の“嘘”。
そこが驚きのどんでん返しになるのだが、ズバリ、佐知子=悦子、万里子=景子。佐知子と万里子は実在しておらず、全て自分たち母娘が体験した事だった…。
何故悦子はそんな回りくどい話を…?
ただ体験談としては辛く苦しいものがある。あの時代の女たち…。
架空の憧れの存在を置く事で少しでもの救いを。
実在はしてなかった。でも、私たちや彼女のような女性は何処かに存在していた。
娘の事もある。思い出の中の美談“女たちの遠い夏”だけではない。
色々と考察のしがいあるが、府に落ちない点も。
長崎時代の悦子の夫や義父は存在していたのか…?
と言う事は、景子は二郎の娘…?
米兵とアメリカに行く筈だったのに、何故イギリスに…?
イギリス人夫との出会いは描かれなくても致し方ないが、景子が自殺した理由は…?
景子との間に何があった…?
アメリカ行きの事で揉め、子猫も原因…?(はっきりとは見せないが、猫好きには辛いシーン…)
悦子とニキも何がきっかけで確執解消…?
ここら辺も見る者委ねで見た人によって解釈はあるが、どうも宙ぶらりんな感じが…。
考えに馳せて作品に浸れるというより、イマイチすっきりしないモヤモヤ感しか残らなかった。
戦争の傷痕、女たちの姿/女優陣の演技、作品の美的センスなどは良かったが…。
全体的にちょっと分かり難かった気もする。
戦後の過渡期を生きた人々
カズオ・イシグロ作品の特徴であるいわゆる「信頼できない語り手」による手法で描かれた本作。
主人公の悦子自身により語られる彼女の過去の出来事。それは彼女が渡英する前、故郷の長崎での夏のひと時、友人関係にあった佐知子とその娘万里子との出来事であった。
戦後の混乱期から高度成長期へと向かおうとしていた当時の日本。戦争の傷をいやす暇もないくらい好景気に沸き、人々は活気づいていた。
悦子も夫の二郎の仕事は順調で生活は安定しており、初めての子供にも恵まれた。そんな社宅の団地に住む悦子とは対照的な暮らしをしていた佐知子。名家に嫁ぎながら戦争で夫を失い、いまや貧しくみじめな生活を強いられていた。
彼女には裕福な叔父の家での安定した暮らしという選択肢があったが、米国人の恋人との渡米にこだわった。
敗戦後日本にもたらされた民主主義が人々に自由を与えた。それは戦前、軍国主義の下で思想統制がなされ多くの思想家たちが投獄されていた時代とは真逆の自由な時代。
かつて体制側に加担した悦子の義父緒方は職を解かれ糾弾される立場となった。かつての教え子でさえ自分を批判する寄稿文を寄せている。彼もこの時代の過渡期に、価値観の変化に置いてきぼりを食らった人間の一人だった。
一方で女性たちには参政権が認められ、女性の自由意思が認められる時代になったかとも思われた。しかし実際は夫と異なる政党への投票は憚れるなどまだまだ女性たちには不自由な時代であった。
安定した暮らしを得る代わりに女性は家に入りそこでただ漫然と歳をとっていく、そんな人生から抜け出したいと佐知子が渡米を願ったのも無理からぬことであった。確かに渡米すればそれが必ずしも幸せにつながるとは言えない。それでもそれに人生をかけたいという彼女の思いは強かった。たとえそれが自分の娘を犠牲にすることとなったとしても。
劇中で何かと不穏な描写がなされる。幼児連続殺人事件の報道、赤ん坊を水につけて死なせる若い女の話、万里子の飼う子猫を川に浸して死なせる佐知子、足に絡まった縄を手にして近づく悦子におびえ警戒する万里子。これらの描写はこの過去を回想する悦子自身の主観が大きく影響したものと思われる。
悦子は友人佐知子のことを話しているようでその実、自分のことを話していたのだ。彼女は自分の人生の決断に負い目を感じていた。娘景子を犠牲にしてしまったという負い目を。だから自分のことを他人の話に置き換えて娘ニキに話していたのだった。
夫二郎との生活に満足してるようで悦子の心は揺れ動いていた。ここでの安定した生活、ここで暮らす方が娘景子にとってはいいことなのだろう。しかしそれは自分が女としてただ家に閉じ込められて漫然とした人生を送ることを意味した。
悦子は昔ながらの日本の古い価値観の下で女性の自由意思が尊重されない人生よりも知りあった英国人男性との渡英の道を選んだ。それが娘景子を幸せにしないと知りながら。
彼女は自分の人生のために娘を犠牲にしたのだ。もちろん結果的に不幸な結末を迎えただけで必ずしも悦子のせいだとは言いきれないが、少なくとも景子の自殺が彼女にそのように思い込ませたのは事実だった。
過去の回想の中での数々の不穏な出来事は親にとって足手まといの子殺しを思わせるものであり、悦子が娘を自死に至らしめたこと、娘を犠牲にしたことへの罪悪感が彼女の過去の記憶に干渉したからであろう。
景子は新しい環境になじめず引きこもりになり、はては自死にいたった。これは悦子のせいではないのかもしれないが、母として娘を犠牲にしてしまったという重荷を感じずにはいられなかったのだろう。そんな彼女の負い目が本作で彼女を「信頼できない語り手」とならしめたのだ。そして見る者はそのヒューマンミステリーに酔いしれるのである。
思えば新しい環境になじめなかった景子は古き時代の象徴ともいえた。新しい価値観を受け入れることができず保守的な性格が災いして周りの環境に溶け込むことができず破滅を迎えてしまう。
時代の変化と共に価値観も変化する。その変化についていけない人間は生きづらくなる。緒方がそうであったように。
悦子は時代の変化に順応してこの古き祖国を捨て去り新たな環境へと旅立った。女性が自由に生きられる環境を求めて。
そしてそこで生まれたニキは母悦子との価値観の相違に苦慮していた。ニキはもはや結婚にさえ縛られない、女性として生きる上で制約を一切感じない生き方をする女性であり、渡英のために結婚に頼らざるをえなかった母悦子以上に何物にもしばられない自由人であった。そんな彼女にすれば結婚にこだわる母悦子は彼女にとっては古い価値観の持ち主であった。
ある意味古き時代の象徴ともいえる景子の犠牲のもとに新しい時代の象徴のニキは生まれた。ニキは母の決断は正しかったと励ます。その決断のおかげで今の自分が存在するのだから。ニキに励まされて悦子も納得するが、それでも彼女は娘景子を想う。
祖国を捨て、娘を捨ててまで自分の人生を手に入れようとした悦子。古き日本を捨てて、自由を求めて渡英した。しかし彼女は古き時代の象徴ともいえる緒方を尊敬し慕っていた。
日本の持つ古き伝統や習慣を愛していた。そんな祖国に置いてきたものへいま彼女は思いを馳せる。娘への思い、義父への思い、あの日見た遠い山並みの光に今彼女は思いを馳せる。この遠い異国の地から。
本作は原作者がエグゼクティブプロデューサーをつとめただけにかなり完成度の高い映画化であった。
雰囲気は館ものゴシックホラーに近い
原作未読。美しい女優、穏やかな情景をずっと映しているのに、極端なアップや画面の狭さもあって、ひたすらに不穏。終盤の、封じられた部屋で家族の秘密のアルバムを恐る恐るめくる…というシーンはこの映画全体の縮図でもある。原爆による大量死を背景に、長崎から渡英した女性の苦難の一生を辿る…といったありきたりな要約では到底収まり切れない、暗く恐ろしいなにものかが、この物語の奥底に隠されている。1枚1枚薄皮を剥ぐように、その核心へと進んでいく本作の道行きには、奇妙な酩酊さえ覚えるが、最後に至っても、「真実」は薄暗い闇の中に残されたまま。(例の「紐」は、渡英の邪魔となる娘への殺意を象徴したものだ、とか渡英によって結果的に娘を自殺させたことへの悔恨が回想に投影された、とか)解釈を巡らせることはできるが、推理小説のように謎がきれいに解き明かされはしない。3人の父、3人の女、3人の娘が居て、うちそれぞれ1人は幻、もしくは亡霊のようなもの…といった図式も描けるか。謎を「箱」(本作に繰り返し登場する象徴的アイテム)に押し込めたまま、ただ生き続けるしかない…彼女たちも、我々も。恐らく今年の邦画で一番の大傑作。
原作は「信用できない語り手」の悦子が一人称で語る(騙る?)小説 映画は母の語りを聞いて回顧録を編む悦子の娘ニキの視点が加わるメタ構造 モダンホラーと文芸作品の両面を持つ傑作
原作は1982年発表の日系英国人のノーベル文学賞作家カズオ•イシグロの長篇デビュー作『遠い山なみの光』(原題: “A Pale View of Hills”)です。この小説は1980年代初頭の英国に住む悦子という長崎出身の日本人女性が1950年代前半のある年の夏を回顧して書いたという形式で「わたし」(悦子)の一人称で語られます。
登場人物は悦子(映画では広瀬すずが演じています。’80年代の悦子は吉田羊)とその周囲にいる人々、夫の二郎(松下洸平)、二郎の父親で悦子からみると義父にあたる「緒方さん」(映画では三浦友和が演じています。二郎との結婚前から交流があるようで一時期は悦子の養父みたいな存在であったみたいなことが小説では示唆されますが、背景はよくわかりません。映画では小説より少しだけ具体的になります)、古くからの知り合いでうどん屋さんを経営している藤原さん(柴田理恵)、緒方さんのかつての教え子で今は緒方さんに批判的な松田重夫(渡辺大知)、そして、悦子にとってはその夏に知り合った新たな友人である佐知子(二階堂ふみ)、佐知子の幼い娘 万里子(鈴木碧桜)。一夏の間の(映画では1952年と表示される)、悦子とこれらの人たちとの直接的、間接的な交流が淡々と描かれます。
そして、80年代パートには悦子の娘ニキ(カミラ•アイコ)が登場します。原作小説は悦子の一人称語りなので視点が悦子から動くことはありませんが、映画のほうでは、ライター志望のニキが母親の語りをもとに自分の英国人の父親と結婚して英国にやって来た母親の回顧録を書こうとしているという設定が新たに加わり、80年代パートはニキの視点で描かれていると思われます。また、ニキには日本生まれで悦子といっしょに英国に渡ってきた景子という姉がいたのですが、自死してもういません。50年代パートで語られる夏は悦子が未来の景子を妊娠していた時期です(この景子という名は、50年代には既に亡くなっていた緒方さんの妻、すなわち、悦子の義母の名前からとったと原作小説にはありました)。
さて、50年代パートですが、登場人物それぞれのその夏の様子のみが描かれているだけの感じで、それ以降の彼ら、彼女らの消息がまったく描かれていません。また、それまでの各人の背景についてもあいまいな感じです。特に原作小説のほうは余白がたっぷりととってある感じですが、映画のほうでは原作のままでは映像作品として成り立たないからなのか、多少は具体的になっています(それでも原作小説ほどではないにしろ、余白たっぷりです)。
小中学校レベルの図形の問題を解くときに「補助線」というのを使うことがよくあります。的確な補助線を一本引くと難しいと思われた問題がたちどころに解けてしまう…… この映画は、ちょっと掴みどころのない印象のあるカズオ•イシグロの “A Pale View of Hills” いう小説に対して「文学的補助線」を引こうとしているようなところがあります。ただ、幾何の問題なら解答はひとつで補助線一本でめでたく正解に到達してカタルシスを感じるということになるのですが、こっちのほうは、その補助線によって新たなものが見えてきたと感じるかもしれませんが、余計なお世話だと思う原作読者もいるだろうし、補助線のおかげで逆に謎が深まったということもあるかもしれません。原作既読者からしてみると評価が別れる映画かもしれないと感じました。
私が原作小説を読んだときに感じたこの小説のいちばんの魅力はカズオ•イシグロの書く会話の面白さでした。例えば、悦子と佐知子の会話。現状を肯定し、緒方さんの示すような古めの価値観も支持して今いる現状の中に幸せを見い出そうとする悦子に対して、プライドが高く現状に満足せず、海外に出てゆくことで新たな一歩を踏み出し、幸せを掴もうとする佐知子…… 映画のほうで少し残念だったのは悦子のほうが方言を使っていて、それがノイズに感じられたことです。小説のほうでは悦子も佐知子もたぶん当時の育ちのいい日本人女性が話していたであろう標準的でニュートラルな日本語で話しています。考えてみれば、原作は英語で書かれているわけで、訳者の小野寺健氏(故人。1931年生まれで悦子とほぼ同世代と思われます)の訳が十分な成果をあげていると感じます。他に緒方さんと二郎の父子の会話、緒方さんと悦子の会話あたりも含めて会話は全般的に小説のほうに魅力を感じました。
原作と映画の決定的な違いは、30年後の悦子が語る50年代パートの悦子と佐知子に関して、小説では微妙な違和感を示すだけにとどめているのに対して、映画では悦子と佐知子が実はひとりの人間であることを映像で示すところまで踏み込んでいることです。それを終盤に「伏線回収」するために悦子と佐知子の演出があざとくなっている印象を持ちました。特に佐知子は終盤に悦子に「回収」されてしまうため、映画ではだんだんと精彩を欠いてゆくように演出されている感じで、小説の佐知子のほうが魅力的だと思いました。ということで、先述した「補助線」でもっとも重要な線は悦子がニキに語る30年前の長崎での出来事に潜んだ大きな嘘を暴いてしまうというこの線だと思いますが、この補助線は引いてもよかったのでしょうか。
あと、終戦後80年の節目の年に上映されたからかもしれませんが、「戦争」とか「原爆」とかいうキーワードにこだわり過ぎている感があるのも気になりました。原作小説にはない、二郎の傷痍軍人設定や悦子が夫にする被曝の有無に関する質問などは屋上屋を架すような感じです。カズオ•イシグロの伝えたかったテーマはもっと普遍的で幅広いものだ思います。私が特に印象に残った登場人物にうどん屋を経営している藤原さんがいます(映画では柴田理恵が演じてました)。彼女は軍人の奥様かなんかで裕福な暮らしをしていたのが、戦争に自分と長男以外の家族全員を奪われ、うどん屋を始めたのです。もうこれだけで戦争と戦後のリアリティを感じることができます。プライドの高い緒方さんや佐知子からの「上から目線」を感じながらもプライドをかなぐり捨てて前向きにうどん屋を続ける藤原さんの姿は、新しい女性の生き方を示しているようで実は男頼りの佐知子に対するアンチテーゼのようになっていますし、終戦で価値観が大転換した後、うだうだと観念的な言い合いをしている緒方さんと松田重夫のような男たちとも対照的です。このあたりの登場人物の配置の仕方はさすがカズオ•イシグロだと思いました。
といったところで、ここで原作のほうではなく映画のほうの美点を挙げたいと思います。私はニキをライターにして、そのニキが母親の回顧録を書く目的で母親の長崎時代の話を聞くというメタ構造にしてニキの視点を入れたところだと思います。原作小説にももちろんニキは登場しますが、悦子の一人称で書かれた小説なので悦子の目から見たニキになります。この映画の80年代パートは、ニキ、それも50年代の悦子がそうだったように新しい命を胎内に宿している状態のニキが母の話を聞いて回顧録を書くのです。ニキは母の話が不自然だったり、錯綜していたり、矛盾点を含んでいたりするのに気づきます。
そして、「ママ、ケイコの死はママにとっていくら悔やんでも悔やみきれないことで墓場まで持ってゆくような後悔の念なのでしょう。ママは自分の選択のせいでこうなったとして、過去が直視できないのね。私はママは悪くないと思う。そんな嘘はやめてもっと楽になって前を向きましょう。ママはこれまでもこれからも私のロールモデルよ」そう、あの悦子の嘘を暴く補助線はニキが引いたのです…… とすれば腑に落ちると私は感じました。まあでも、ニキがどんな回顧録を書くかは定かではありません。悦子が信用できない語り手であったようにニキも信用できない語り手になる可能性もあります。この作品はミステリ味はありますがミステリではないので、一連の出来事の背景が分かり、真実にたどり着いてカタルシスを味わう、なんてこともありません。結局、謎は謎のままでこの不条理劇は幕を閉じます。
ミステリではないと書きましたが、ホラー風味はあります。川の向こう側というのは「死」のメタファーなんでしょうか。そうすると川は「三途の川」ということになります(ちょっと古典的)。可哀そうな子猫たちは三途の川を渡ってしまいました。ロープは「束縛」のメタファーなのかな。親の子に対する束縛、夫の妻に対する束縛、師の弟子に対する束縛……
まあ結局、身も蓋もない言い方をすると、謎は謎のまま、観客をケムに巻いたまま物語は終わるのですが、そこはそれ、ノーベル文学賞作家カズオ•イシグロ原作の作品ですから、文芸作品ぽいテーマを見つけておきたいです。人は時としていくら悔やんでも悔やみきれない後悔の念を持つことになって真っ暗闇の中にいるような気分になることがある。でもその真っ暗闇の中でも丘の向こうに淡い光が差しかけているので、それを頼りに前に進もう、といったあたりのことでしょうか。”A Pale View of Hills” というタイトルにも、そんなメッセージが込められているように感じました。
原作既読者としては、映画化がけっこう難しい小説ではないかと思っていましたが、映画を観て不満点もあるけど、よくできてるなと感心しました。鑑賞後に原作小説を再読してみましたが、前にも増して味わい深かったです。ということで、レビューが小説と映画の合わせ技みたいになって長くなりましたが、実まだまだ書きたいことがたくさんあって自分でもびっくりしています。長文、失礼しました。
タイトルなし(ネタバレ)
イギリスに渡った悦子が次女のニキに話す長崎の出来事から始まる
終戦後、夫の二郎と団地に住んでいた頃に川の付近に住んでいた佐知子と万里子に出会う
佐知子はアメリカに行くと言っていた
最後に佐知子の子供万里子がKEIKOだったのも悦子が佐知子だったのもなんだかよくわからないし
同一人物なら佐知子はアメリカに行くと言ってたのに何故イギリスなのか
夫の二郎とはどうなったのか?
悦子が被爆してるのを隠してたのを薄々気づいてたような感じだけど、やっぱりそれが原因で別れたのか?
それも幻覚なのか
だけど、義父の緒方先生の手紙は残してあった
二郎と父の確執もそりゃそうだなと思った
戦地に行く時にあの誇らしげに万歳三勝した顔が忘れられないと
よく朝ドラで見るシーンこの時代だから受け入れてたのかと思ってたがそうじゃない
そんな事あるわけない
この映画イオンで見たのだけど映像が暗過ぎてよく見えない場面が何度かあったTOHOシネマズで見られた方はそんな事なかったキレイな映像だったと言ってらしたのでこれから観る場所を考えようか
だけどポイントで安くなったりするのは見過ごせない
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