遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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役者陣は素晴らしい…
長崎で原爆を体験し、戦後にイギリスに渡って暮らしていた日本人女性の悦子。作家志望の娘ニキに長崎時代の体験を尋ねられて少しずつ語りだすのだが……。
1980年代のイギリスの田舎町に住む悦子が1950年代の長崎を思い出しながら語るという形式をとるのだが、その記憶は一見はっきりしているようで、実はぼんやりとした景色(a pale view)の如く細部は何となく誤魔化されている。
その時代の価値観や差別意識などを何となく匂わせながら、でもオブラートに包みながら描く手法は、好きな人は好きなのだろうが、個人的には鼻につく感じで、正直、自分の趣味ではなかった。
欧米人の日本人への見下しや、女性・被爆者・傷痍軍人等への差別など、古い価値観から抜け出せない人々を糾弾したいのならハッキリと糾弾すればいいのに、雰囲気だけ美しい景色で誤魔化していないだろうか?
それでも救いなのが、登場する役者陣が皆とても達者なこと。2時間みるに耐えられるのは彼らの功績が大きいだろう。
路面電車や長崎駅ホーム車両や橋の欄干などがいろいろ変で画面が雑過ぎです。
本筋とは別次元?で違和感がありました。
まず長崎電軌(路面電車)の車両。この時代にこのような明治期のものはありません。
また、国鉄長崎駅のホーム向こう側に停車している車両。どこ?欧州なの?全く当時の日本の客車とは別物でこれはあり得ません。
更に、走り去る路面電車になぜ白色の前照灯が点灯しているのか、、
前照灯は文字通りヘッドライトですから後部になった場合は消灯して代わりに赤色の尾灯を点灯します。これは自動車も同様です。
そして川に架かる歩道橋?にも違和感アリアリでした。
この欄干の模様は1980年代みたいですね。とても戦後すぐにあったものとは思われません。
時代考証が全くなっていません。
団地の台所から居間の間にお弁当などを渡す小窓があるなど部分部分でこだわりがあるのに全体を諦観するとてんでなってません。
そのせいか映画に没頭できず、テレビの安ドラマのような大雑把な製作だなあ、という印象しか残りませんでした。
被爆者差別という時代背景
原作は未読ですが、長崎の原爆資料館で「被爆者だから結婚が破談になった」話を読んだ覚えがあります。
悦子にも幸せになる権利はあって、だから「あの時はそうするしかなかった」のだろう。
必死に生き抜いてきたけど、「自分の人生はこれでよかったのだろうか」と背負ってきた十字架の重みに押しつぶされそうになっているようでした。
ニキがこれから、悦子の抱える深い闇に向き合い、執筆を続けていくことで、希望が見出せるのかなと思います。
静かに流れるイギリス時間…激流な人物史の対比!!
人は物語に生きる
人は物語に依存して生きていると思います。有名大学卒の人生、一流企業社員の人生、金持ちの奧さん、立派な教育者、頑張っているお父さん、そういう物語を折に触れ、人に伝え、自分を確認しています。人からもその物語を称賛されることもあるでしょう。しかし、人に語れない物語しかなければ? 別の物語を作り、その物語で生きる他ないかもしれません。悦子は被爆者のことを隠したかったし、イギリスでは自分の娘が自殺したことも隠したかった。ニキは日本での悦子のことを知らないし、姉の景子の本当の物語を知らない。人は物語を知らないということで、不安になる。ニキも別の意味で、別の物語の中を生きるしかなかった。だから、実家に寄りつこうとしなかった。
物語の中では、変わらないと、という台詞が何度か出てくる。これは軍国主義から変わる、男性中心主義から変わる、女が自由に生きる、という意味でもあるが、物語を変える、つまり本当の自分の物語で生きるべきだということではないだろうか。そのことにより、幸せになるのかどうかはわからない。遠い山並みの光のように、それは沈んでいくのかもしれないし、あるいは昇るかもしれない。いや両方なのだろう。
私の父には弟がいた。祖母から何度も聞いていた。祖母は六人生んで、そのうち、三人が病気で死んだということになっていた。特に長女の愛子のことはずっと語っていた。よくできた子どもだったようだ。あとの二人のことで一人だけつとむという人のことは名前を聞いていた。父と琵琶湖へ泳ぎにいった。小2の頃だ。偶然父の友達に出くわした。そのとき、つとむくんはどうしてる? と聞かれた。父は少し困った顔になり、死んだんや、と言った。おばあちゃんもいうてたしなー。と思った。それから50年近くたって、父と飲んだ。父は死を意識していたと思う。その頃、何度もうちにきて、飲みたがった。あるとき、自分にはつとむという弟がいると言った。知ってるよ、おばあちゃんに聞いてたから。病気で死んだんやろ? というと、自殺したんやといった。驚いた。と同時に、本当の物語を祖母も父も言えなかったのだろうなと思った。恥ずかしから? 私に影響を与えないように?
私は驚いたが、物語が開いたような気がした。つとむさんは自殺したけど、それまで懸命に生きようとしていたはずだと感じた。それ自体、また別の物語なのかもしれない。でも、つとむさんの物語を私は大事にできると思った。
悦子の物語は、美しい物語ではなかった。猫も殺したし、景子を殺めようともした。
しかし、そのことを佐知子の物語として語り直すうちに、変わった。
物語には力があるという。語ることで何かが変わる。
そのことをまた、自分ごととしても確認できた。
広瀬すずさんの圧倒的美しさ✨✨
記憶の境界線の曖昧さ
やはり原作を読んでないと厳しいかな
信頼できない語り手の自己欺瞞
原作を読んで勉強していきましたが…
前評判で、難しそうな印象があったので、原作を読んでしっかりと勉強して鑑賞しましたが、かえって良くなかったかもしれません。映画と原作は全く別な作品として鑑賞すべきものかもしれない。
最近、ドストエフスキーとトルストイの作品を再読しているが、古典と呼ばれるこれらの作品は、実に微に入り細に入り、人物の背景、心情が描かれるから、読み手の想像の余白は全くない。
ところがカズオイシグロのこの作品は、人物の背景、心情はできるだけ割愛しようとするから、読み手は余白だらけということになる。トルストイなら、原爆の被害の状況から、被害者の心情まで事細かく描くであろうが、カズオイシグロはそれを最低限に抑えている。だから、読者がしっかりと読み取るしかないのだ。
小説としての一本の大きな木がある。この木にどんな花が咲き、どんな実がなるかは、読者におまかせなのだ。
だから、この映画のような、衝撃的な結末にもなんら不思議はないことになる。
総監督のカズオイシグロにも、なんの異論もなかっただろう。そこには自分の描いた一本の大きな木は、ちゃんと存在しているのだから。
ところで、稲佐山ロープウェイは1959年開業だから、映画小説の時代設定の1952年には存在しない。となると、あのロープウエイのシーンは…。景子(7歳)=万里子、悦子=佐智子ということが成り立つということになるのだ。
石川慶監督考えましたね。何度小説を読み返しました?1回読んだきりの私は、思いもよりませんでした。
でも、悦子はニキにこんな嘘をつく必要があったのでしょうか?謎です。
だから評価は☆4.5とします。
でも、これ以上考えだすと、きりがないので、コメントでのご意見はご遠慮ねがいます。
原作に沿った、オマージュ作品かな
虚構が入り混じる昔話。解釈は人それぞれ
カズオ、イシグロの原作は未読。
まず広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊。俳優陣の演技が素晴らしかった。
広瀬すずのスクリーンでの画面映えはエグい。
何が真実で何が物語なのかよくわからなかった。
ただそれでいい。戦時中戦後を生き抜いた人間は、きっと嘘をつきたくなるような事、記憶を改竄したいような事があるのだろう。
真正面から戦争を扱っているわけではないが、戦争の悲惨さが伝わってきた。
広瀬すず、二階堂ふみの2大女優の共演。
だからこそ戦後の人々の心の痛みが理解できた。
カンヌ映画祭「ある視点」部門出品に相応しい作品。
自分の答えや感想を大切にしたくなる
昨今の映画特有のCGやVFXによる、映像のチープさや無機質さ。舞台やセットの作り物感。美しすぎる服や顔は非常に残念。しかし、この映画のマイナスな点は、それくらいであり、他の点においては非常に完成度の高い作品と言える。
私がこの映画を見に行こうと思うきっかけとなったのが、映画館で放映されていた予告編の音楽だった。そして劇中の音楽も素晴らしい。アコースティックな楽器本来のサウンドをベースに、特殊奏法を多用した前衛的なサウンドも使われていた。この2つのサウンドを演出と心理描写で使い分けていたところも評価できる。はっきり言ってしまうと、この映画は答えを求めようとして見ると、非常にわかりづらい。そこで劇中で重要なシーンや、ヒントとなる箇所では、わかりやすい音楽で盛り上げ、音楽で訴えかけてくる。一見すると、滑稽で、笑いが込み上げてくる。しかしもし、その訴えかけてくる音楽がなかったら、私は重要なシーンを「ふーん」と見逃していたに違いない。音楽によって説得力を持たせる手法に気がついた時、音楽を効果的に使っていたのだなと感服させられた。これは作り手の聴衆に対する優しさと言えるのではないだろうか。そして劇中最後に流れるF.メンデルスゾーンの「無言歌集 第二巻 Op.30 1.変ホ長調〈瞑想〉」は、今までの緊迫したストーリーや音楽を最大限に緩和し、強烈な印象を残す。食後のデザートのような。
この映画のもう一つの核となっているのが、光や画角による心理描写である。役者に光を当てる角度や、役者を撮影するカメラの角度によって、目の中に反射する光の量を変化させている。また、日本の伝統芸能の能の面のように、顔にあてる光の量や角度を変化させることによって、表情そのものは変わっていないにも関わらず、印象を大きく変化させる手法が多用されている。それらは言葉以上に何かを強く訴えかけてくる。また、様々な画角を使い分け、聴衆に予感をさせる。重要なのはその予感が当たるかどうかではなく、それによって聴衆に強い恐怖心や期待感を抱かせることだ。この光と影、画角への凄まじいこだわりは、極めて芸術的である。
前述したように、この映画は答えを求めようとして見ると、見終わった後に腑におちない感じがして納得できない。それは、劇中で重要なことについて明言されず、多くのヒントや匂わせが張り巡らされ、見ている人一人一人によって気がつくものが違えば、それを重要なことか、そうでないことかに分ける線引きも違う。その気づきと取捨選択によって、見ている人一人一人によってストーリーや解釈が大きく変わってしまう。この映画には模範解答はなく、答えはこの映画見た聴衆の数だけあるのではないだろうか。「もう一度見ればこの映画の答えに近づけるのではないか?」と思い、もう一度見に行き、さらにもう一度見に行ったとしても、最初の「もう一度見ればこの映画の答えに近づけるのではないか?」に戻ってしまうだろう。ゴールのない迷路のような、錯視によって登り続けてしまう「ペンローズの階段」のような。そのもう一度見たくなる欲求を渇望させる魅力や力がこの映画には秘められている。
この映画についての様々な人の感想や、考察は数多く見ることができるだろう。しかし私は見たくない(だからこの文章には考察はおろか、ストーリーについては一切触れなかった)。自分の答えや感想を最も大切にしたと思えた映画は今までにない。そしてこの映画を見た多くの人がそう思っているのではないだろうか?正直、このような作風の映画は日本ではウケが悪く、はやらない。予想するに、多くの聴衆は「怖い」「よくわからない」といった負の感情を抱く。しかし、そこがこの映画の魅力であり、最も評価されるべき点であることは間違いない。
最後に、この映画で私が最も心を打たれたセリフを一つ。
「ただ生きているだけ」
素敵な映画だけど難しい
原作は未読です。
カズオ・イシグロといえば、「わたしを離さないで」が有名ですよね。
この映画は真実はこうでしたと、はっきりした答えを描いてなくて、観た人それぞれ違う解釈をしてそうな感じです。
私も見終わった瞬間は、頭の中が整理できず、謎がいっぱいで、「え?どう言うこと?」意味がわからない部分がたくさんありました。
言えるのは、人の記憶は当てにならなくて、自分の願望によっても、変わっていってしまうと言うことです。
出演の広瀬すずと二階堂ふみが、とても素敵で良かったです💕
二階堂ふみは、謎めいた役柄は似合ってますね。
悦子と佐知子。
別人と思っていたけど、話が進むにつれて、ふたりが重なって見えてきました。
ロープウェイ観光で、同じ色の服を着て、悦子が万里子を悪く言う男の子を一喝する場面で、一致しました。
佐和子は悦子なのだと。
万里子と恵子。
イギリスに馴染めずに、自殺してしまった恵子。
悦子は、きっと自分を責めてるから、万里子を守ってあげたいと思ったのでしょう。
「死んだ赤ちゃんを水に沈めた」女の子人や、子猫を水に沈める佐知子の事を思い出すのは、きっと恵子を助けられなかった事で心を痛めているのでしょう。
足に絡んだり、手に持ったりしてた縄も、そのことを比喩してるのではないのでしょうか。
紅茶ばかり出す佐知子、橋を渡る喪服の女など、
他にも謎めいた様子が散りばめられてて、不思議な感覚の映画でした。
けれど全体に描かれてるのは、「女はもっと自由に生きて、前に進んでいかないと」
と言うことです。
夫の二郎は男尊女卑そのもので、今観ると酷い夫ですが、あの時代は結構当たり前でした。
しかし、その時代に留まってはいられないのです。もっともっと女性は前出ていくべきなのです。
そんな明るい未来が、ラストに描かれていたように感じました。
広瀬すずは合わない
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