「もう一度観て確認したくなる余韻の残る映画」遠い山なみの光 C.B.さんの映画レビュー(感想・評価)
もう一度観て確認したくなる余韻の残る映画
昨日映画館で観てきました。原作はこれから読むかもしれません。サンプルをKindle にダウンロードしました。しかし、映画化するに当たり脚色により原作とは異なる内容になっているかもしれません。以下は私個人の解釈です。確認のため、もう一回くらいは見るかもしれません。
母は「嘘」の話をすることがあることを次女であるNikiは、眼の前で知ります。そしてその「嘘」は長崎で被爆したことを表に出したくないことからつながっているのでしょう。
被爆者は差別を受けていたのですね。
差別者に対する怒りが「うどん屋」のシーンです。お店の女主人は、差別者である客に謝罪はしますが、怒りをぶちまけた店員側に対して、行為を責めたり、謝罪を要求したりはありません。ここに母が長崎を離れた理由が暗示されています。戦争に対する怒りは、緒方さんと教え子とのシーンで示されます。
その緒方さんは義父として訪ねてきています。普通であれば「お義父さん」です。しかしそのように呼ばず職場の上長であった「緒方さん」と呼びます。ここ、不自然ですよね? 緒方さんの息子と結婚したので、自分だって緒方さんです。夫も自分の父としての対応はせず、他人行儀です。父とは思えない理由が語られますが、作り話なので真実味がないのです。緒方さんは実在しましたが、義父?夫?妊娠している本人という家庭は「虚」の作り話です。夫とどのように別れたのか?死別なのか離婚なのかも説明がありません。生まれてきたはずの子供はどこにいったのでしょう?
緒方さんの前で、子どもたちを思い嗚咽するシーンがあります。子どもたちと一緒に被爆したのに、自分はそれを隠して生活していることの悔恨かな?と想像しました。
団地から見下ろす河原の一軒家で娘と暮らす女性が「本人」です。本人は「知り合い」の女性として、自身を投影しています。二人が一人なのではないか?というのは、二人が同じ色の洋装で最後に並ぶシーンで暗示されます。
イギリスに移住しますが、大きなお腹のシーンはなく、出産した子なのか他人の子なのかも説明がありません。日本人2人という事実のみがあります。ここは視聴者の解釈に任せられているのだろうと思います。家の中に捨てられなかった長崎時代の品物が残されています。どちらが「本人」であったのかの種明かしでしょう。子供が写っている写真はありましたが、女性二人が写った写真があったか思い出せません。
(追記) 映画を観た翌々日のメモです。
新たな思いつきがあったので、残します。河原の一軒家で暮らしていた娘さんは子猫を拾って育てようとします。これは「本人」と英国に渡った子供のメタファーではないかとふと思いました。それが分かるように広瀬すずさんと全く似ていない子役を探し、服装も全く異なります。なにしろカズオイシグロ原作なので、意味のないシーンは無く、いろいろな仕掛けがそこかしこに配置されているだろうということです。子供がクモを食べようとするシーンもそうです。あれは何の暗示か?と考えていました。戦争に巻き込まれ、被爆し、差別にあう。そして生き延びるために不本意なものを喰らう。まさに8本足のクモを食べるようなものでないかと想像しました。
仰るとおり、二度見したくなる作品だというのに同意します。私も2回観ました。初見はストーリーを追おうとして、肝心のシーンやセリフ、それと人物の表情変化を見過ごしていましたが、2回目はそれらを確認的に見ることができました。他の方は「とっちらかっている」「わけがわからない」というご意見もありますが、仰るとおりムダなシーンはまったくないと思いますね。この作品はテレビドラマのようにストーリーの進行を追うものではなく、記憶から引きずり出したイメージの映像化といったものなので、そう思ってみればいろいろなメタファー、記憶の変形、補完に満ちていると思います。ムダなシーンはないと書きましたが、敢えていうとラストの今の悦子が過去の自分と「景子」を何か言いたげに見守っているところは、確かに強い悔恨を示してはいますが、いささか説明的過ぎたのでなしでも良かったかもしれません。その前のニキとのピアノのシーンで十分窺いしれましたので。
長い時間をかけて歪められた悦子の記憶は、もうすっかり嘘の認識すら無くなって脳内に定着している。しかし作家であるニキはそれらを汲み取って理解していることが救いですね。
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