リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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みんな痛みを抱えて生きていく
ニューヨークに住むユダヤ人のデヴィッドと、兄弟のように育った従兄弟ベンジー。亡くなった最愛の祖母の遺言によって、自分たちのルーツを知るポーランドのツアー旅行に参加する。
その過程でそれぞれの痛み、人生を見つめ合い、時にはぶつかり、時には涙し、ハグし合う。
明るく陽気でマイペースなコミュ力オバケのベンジーを演じたキーラン・カルキンが素晴らしかった。底抜けの明るさで人の懐にスッと入って魅力するのに、ふとした瞬間どこか寂しそうで、脆そう。このベンジーのキャラクターがストーリーの肝と言っても過言ではないから、それを見事に演じていたキーラン・カルキンに拍手を送りたい。
そしてその対極にいるデヴィッドは、真面目で大人数もハメを外すのも苦手。私はデヴィッドの気持ちがすごくわかる。というかデヴィッドみたいな人の方が大半だろうから、ベンジーを羨ましくも憎たらしくも思う気持ちがすごくわかると思う。
ホロコーストからの生き残りの祖母を持つふたりは、ユダヤ人の歴史の痛みを知ることで、自身の痛みや生き方を振り返る。
こんな地獄を生き抜いて生まれた自分たちは、ちゃんと真っ当に大切に生きないとと思う。でもそれは日本人だって同じだ。
けれど思うのだ。確かに過去の歴史と比べると今の方が幸せで、当時の人たちからしたら今の時代のそれぞれが抱えている痛みなんて痛みに思われないかもしれない。
「昔はなーもっと大変だったんだぞ」その一言で何も言えなくなってしまい、痛みが膿んで治らなくなる人だっているのだ。
自分の抱える痛みは自分にしかわからないし、人の数だけ痛みの種類がある。
でも理解ができない痛みを抱える人に寄り添って、大好きだよと抱きしめることで、理解は出来なくても、その人の痛みを和らげることは出来るんだと信じたい。
歴史と今の痛みを描きながら、ユダヤ人の歴史も学べる素敵なロードムービーだった。
痛みは天秤にかけられない
原題「A Real Pain」は、「面倒なやつ、困ったやつ」といった意味だ。
オープニングで空港のベンチに座るベンジーの横にこのタイトルが浮かぶ場面は、彼がその面倒なやつであることを示唆しているようでもあり、実際ツアーの序盤ではその通りの印象を受ける。
それがラストシーンで再び彼の面差しと共にこのタイトルを見る時には、直訳の「本当の痛み」の方の意味合いが色濃く浮かぶ。最初のタイトルコールと対になった演出が効いている。
多分多数派だと思うが、私もまたデヴィッド寄りの人間なので、彼がベンジーの奔放さに困惑する気持ちは手に取るように分かった。
ワルシャワ蜂起記念碑の前で、おどけた写真を撮るベンジーを不謹慎に思って小声で注意したら、意外と他のツアーメンバーもベンジーのノリに付き合いだすのを見て気後れするところなんかはすっかりデヴィッド目線になり、疎外感に胸の奥がヒリヒリした。
ルワンダ虐殺サバイバーのエロージュやガイドのジェームズとの間には気を揉むようなやり取りがあったのに、最終的にベンジーは好かれてしまう。一見不躾なのに、その裏にある率直さという美徳がちゃんと伝わるのは羨ましい個性だ。
自由なベンジーの横にいると余計に自分の不器用さが際立って惨めな気分になる。一方で、彼がほんの数ヶ月前にオーバードーズ(OD)で生死の境を彷徨ったことも知っている。そんなデヴィッドは、好意や羨望に憎しみまでも入り混じった複雑な感情をベンジーに抱く。
だが、ベンジーの目にはデヴィッドの生き方の方が自分の人生よりよほど眩しかったのではないだろうか。行きの飛行機でデヴィッドの仕事をからかった時や、彼の家族の話を聞いている時、ベンジーはどこか寂しげだった。
対人関係は不器用であっても、デヴィッドには定職があり、家に帰れば愛しい妻とかわいい我が子がいる。
自分の家に会いに来るよう請うベンジーに、デヴィッドはベンジーの方がニューヨークに来ればいいのにと返す。でも多分、デヴィッドの幸せな家庭を見ることはベンジーにとって辛いことなのだ。
ラストシーンを見る頃、私はいつの間にかベンジーの目線になっていた。
こうした2人の男性それぞれの生きづらさが、ホロコースト史跡ツアーの道程と共に描かれる。
ツアーメンバーとの夕食の席で、デヴィッドはベンジーについて「祖母がホロコーストを生き延びた結果奇跡的に僕たちは生まれたのに、あんなこと(OD)をしていいのか」といった主旨のことを言った。確かにホロコーストは近代で他に類を見ないほどの圧倒的な「痛み」だ。その痛みを前にすれば現代人のパーソナルな苦悩は、一見ちっぽけなもののようでもある。
デヴィッドの言葉は、祖母のルーツを尊重する思いから出たものだろう。だが一方でこれは苦悩を抱える本人にとってはあまり役立たない論理だ。むしろ、ホロコーストの苦難に時間の隔たりを超えて全霊で感情移入する敏感さを持つからこそ、ベンジーは生きづらさに苦しんでいる。
「本当の痛み」は主観的なものであり、別の悲劇と比べたからといって卑小になったり偽物になるわけではない。
この物語がありがちな結末を迎えるとしたら、別れ際の2人の明るい表情で終わることだろう。だが実際は、あたたかい家庭に帰るデヴィッドと、そのまま空港に残るベンジーが対照的に描かれた。
旅の始まりでは待ち合わせ時間の何時間も前から空港に来ていて、旅の最後の別れ際にはしばらく空港に残ると言ったベンジー。元の日常で彼を待っている孤独との再会をしばし先送りにしているような、憂いを含んだ眼差しに胸が締め付けられる。
旅の経験は確かにこれからのベンジーにとって支えになるだろう。でも、彼の苦悩が即座に消えるわけではない。結局は旅の後の日常で、ひとりで地道に折り合いをつけてゆかなければならない。Real Painとはそういうものだ。
そんなことを思わせる、まさに現実的なラストシーンだった。
重いテーマの作品だが、全編を彩るショパンを聴きながらデヴィッドたちが訪れる史跡を順番に見ているうちに、ツアーに同行してポーランドを巡っているような気持ちになる。また、基本的にデヴィッドとベンジーのやり取りは軽やかで時にユーモアがあり、物語に親しみを感じさせてくれる。
人の心の痛みというものについてやわらかに問いかけ、安直ではないラストでその問いを問いのまま観客の心に残す。繊細で率直な誰かとしばらく過ごした後のような、不思議な余韻の残る映画だった。
家族の歴史を辿る旅は今の自分とこれからの自分を考える旅
ジェシー・アイゼンバーグが自らのルーツであるユダヤ系ファミリーの歴史を辿る旅を、疎遠だった従兄弟とのロードムービーとして描いている。アイゼンバーグはホロコーストを生き延びたポーランド人の祖先を持つ。従って本作は、自伝的要素が多く含まれたアイゼンバーグによるファミリー・ヒストリーと言ってもいいだろう。
実際に、映画はワルシャワにあるゲットーの英雄記念碑やクリジボウスキ広場、ルブリンの旧ユダヤ人墓地、最後はナチスの強制収容所のガス室へと舞台を転換させていく。それは、我々もホロコーストツアーが体験できる時間でもある。こんな機会は貴重だと思う。
過去に目を向けることは今を、そして、これからを見つめること。主演と監督を兼任するアイゼンバーグの脚本は、彼が演じる主人公のデヴィッドと、この役で本年度の演技賞を総取りしそうなキアラン・カルキン扮する従兄弟のベンジーが、互いの不信感を不器用に乗り越えていく過程に重きを置いている。それは誰もが思い当たることだから、人種や舞台を超えて心に刺さるのだ。
ショパン曲のBGMの煩さは敢えての狙いか
映画に登場する早口で饒舌で神経質なユダヤ系アメリカ人男性、と聞けば大勢がウディ・アレン監督・主演の諸作を思い浮かべるだろう。ジェシー・アイゼンバーグは、アレン監督の「カフェ・ソサエティ」で主演し、もともと親和性が高かったのか影響を受けたのかは定かでないが、アイゼンバーグ監督第2作でそうしたキャラクターである主人公デヴィッドを自ら演じるということは、性的虐待で映画界を追放されて不在となったアレンの“立ち位置”を受け継ぐ意志の表れだろうか。
デヴィッドと従兄弟のベンジー(演じたキーラン・カルキンがアカデミー賞助演男優賞ノミネート)は正反対な性格と説明されているが、どちらも神経症気味で生きづらさを感じているという共通点がある。そんな2人のロードムービーなので、理屈っぽい長台詞、奇声、突飛な行動などが、観る人によってはイライラさせられる要素になるかも。
2人は亡き祖母がナチスドイツに迫害されるまで暮らしていたポーランドを訪れ、第二次大戦の史跡ツアーに参加する。ガイドのジェイムズ(「エマニュエル」でも重要な役を演じたウィル・シャープ)が史跡の説明をしているあいだ、ポーランドを代表する作曲家ショパンのピアノ曲がBGMで鳴りまくっていて、これが台詞に重なって相当うるさいのだが、その後の展開を考えると、あのうるささもジェイムズの内なるいらだちを観客に体感させる演出の狙いなのかもしれない。精神的にしんどい映画ではあるが、本編1時間半という短さに救われる。
他者の営みの先に生きている
ハートフルいとこ旅的な気持ちで見に来たけれど、想像以上に重くてずっしりした。
繊細で表情豊かで人に好かれるも定職に就かずフラフラとマリファナを吸う陽キャと、美人嫁と可愛い息子がいるも他者の目が気になって仕方なくて社会に馴染むのに必死や陰キャ。
わたしは後者にめちゃくちゃな親近感を覚えて、共感性羞恥を味わった。
記念写真ではしゃぐの、無理だもんな。
なんというか、当たり前なんだけれども、私が今住んでいる家に住んで私という歴史を紡いでいるのと同じように、歴史の上に生きた人々もその人の歴史を毎日毎時間毎秒紡いでいたんだよな、と改めて思った。
そりゃそうだろと言われたらそりゃ、そうなんだけどさ。
例えばこう、徳川家康が豊臣家を滅ぼしました!と聞いても、ふーん、としかならないけれど、そこには徳川家康という人間と、豊臣秀吉、茶々、秀次、秀頼、……みたいな人間が当たり前だけど存在していて、それを刺して、頭を切り落とした人がいるわけで、もっといえば、兵糧攻めで苦しんだ人だっているわけで…みたいな気持ちになった…………
歴史って授業で習うものだし、年号なんて覚えてもどうせ何か新事実が発覚する度に変わってゆくのだから、と思っているけれど、そこには当たり前だけど、当たり前に人の営みがあって、その先で私は生きているのよな、と思った。
ただ、これをずっと考えながら生きるのはあまりにも重いから、難しいけれど。
それから、万人に好かれていてコミュ強だったとしても、幸せな家庭に身を置いていたとしても、どんな人だって、どんな過去があってどんな事を後ろに抱えて、生きてるなんて、言わなきゃ伝わらないし、聞かねばわからん。その抱えているものが、どのくらい大きいかなんてのも人によって感じる重さは違う。
とかなんかそういうことをいっぱい考えた。
いや、ずっと、考えてるとこ。
それぞれ痛みを抱えて生きている
気にするな
立ち上がって歩き出す
ちょっと苦手かも。
場の空気みたいなものを壊さないように生きているので、ベンジーのような人は苦手なんだけど、じゃあデイヴに共感して観られるかというと、彼でさえちょっと無理って感じがする。
というか、純日本人である自分にとって、アメリカ人の突然怒鳴り散らしたかと思うと、急に冷静になってさっきのことを謝るみたいな状況が理解できないんで、この二人の濃いやり取りを観ているのが苦痛。
兄弟のように育ったとしても、いとこ同士であんなに寄り添うってことも感覚としてわからない。
ホロコースト映画は山ほどあるけど、「ポーランド」も景色ってのは珍しいから、その素晴らしい風景にプラス1。
会話が面白くて、何度か噴き出したのでプラス1。
全体としていい映画なんだろうとは思うけど。
誰でも、困った自分を抱えて生きてる
主人公2人の其々のキャラクターに少しづつ自分にもあんな面ある、デイヴィット8.5対1.5ベンジー。人生に馴染めてるようで馴染めない、困った自分がチョイチョイ顔を出す。2人のロードムービーの設定だけど、アイゼンバーグは人間の【心の穴】を表現したかったの?だとしたら表現うまいな、才能あるんだ、今後の作品に期待します。ベンジーが収容所の帰りのバスで泣いた場面、帰りの空港で2人キツく抱き合う場面、泣けてしまいました。
人付き合いあるある
タイトルなし(ネタバレ)
デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)とベンジー(キーラン・カルキン)はニューヨークに暮らすユダヤ人のいとこ同士。
ふたりは、先ごろ亡くなった祖母の遺言資金で、彼女の故郷・ポーランドの歴史ツアー旅行に参加することになった。
WEB広告制作で安定した家庭も持つデヴィッドに対して、他人を魅了するがエキセントリックで危うさを抱えたベンジー。
ツアーでの行動は、そんなふたりを物語っていた。
特に、ユダヤ人虐殺にからむ地への訪問では、ベンジーの行動は常軌を逸しているすれすれだった。
かれらはツアーを離れて祖母が暮らしていたポーランドの家を訪問する。
別の住人が住んでいるその部屋のドアの前に、訪れた印に石を置こうした・・・
といった物語。
ときおり常軌を逸するすれすれの行動をとるベンジーは少し前に自死をしようとしたことが中盤で明らかになる。
四十目前にして抱える生きづらさ。
センシティヴという言葉だけで片付けられないものがあるのかもしれないが、多くは描かれない。
映画全編を通じて、背景などそれほど多くは語られない。
が、多くは語られない中で、ちょっとしたこと(旅行で同じとか、飲み屋で隣り合わせとか)で知り合って事情を知ることは、日常の生活でも多い。
つまり、本作の観客は、そういう日常の隣人の立場でいることが求められている。
最終盤、自死を選ぼうとしたベンジーの左頬をデヴィッドは平手打ちで殴る。
ホロコーストの地の訪問や祖母の生家の訪問でベンジーは心に痛みを感じただろうが、お前が死のうとしたことで俺はもっと痛みを感じたのだというデヴィッドの主張。
頬の痛みのリアルな痛みは、俺の心の痛みだと伝えるデヴィッド。
ベンジー、お前を喪う方がどれだけ痛いか、わかってくれ。
そのリアルな痛みでベンジーは救われる。
演出的には、巻頭と巻末でタイトルが表示されるが、巻頭のそれはベンジーの右頬横(向かって左)に出るが、巻末では打たれた左頬横(向かって右)に出る。
簡潔な演出ですばらしい。
なお、のべつショパンのピアノ曲が劇伴以上に主張して鳴り響くのだが、ショパンがポーランド出身ということだけでなく、うるさいともいえる音楽はベンジーの心の不安定さを表しているのだろう。
ま、それにしてもうるさいことには変わりはないのだけれども。
ジェシー・アイゼンバーグ、かなり計算した演出力ですね。
大嫌いで大好きな、愛すべき相棒
設定が「今」のアウシュビッツテーマものという珍しさ、ダブル主演の二人のロードムービー的要素、ポーランドの美しい景色を映画に写し込んだロケハンと撮影、これらのすべてがうまく合わさった、質の高い作品だと思いました。
全編に流れるショパンのピアノ曲も映画の雰囲気を盛り上げる良い仕立て役になっていたと思います。
ジェシー・アイゼンバーグ演じるデイヴの苦しさや痛みとキーラン・カルキン演じるベンジーの苦しみや痛みは少し異なるものだけれど、そういうものはみんなの中に必ずある。
それらは、映画の中での、印象的な主役二人のそれぞれのカットで語られる。
奔放で人を惹きつけるかに見えて、空港で、寂しそうな何とも言えぬ表情でそこにいる人々を見つめるベンジーを切り取ったラスト、ベンジーの持つ、自分にないものに嫉妬や羨ましさを感じ、ディナーの席でそういう気持ちを全部吐き出してしまうデイヴ。二人とも「大嫌いで大好きな、愛すべき相棒」のことをずっと思ってる。
でも、それは心の底にあるだけで表にはなかなか出てこない。だから、別れは何だかとても寂しい。
先述したラストの(でも冒頭とも繋がっている)ベンジーの顔は本当に心に残ります。
今を生きている人々にも、歴史の中の人々にも、それぞれに「リアル・ペイン」がある。でも、ただ「痛み」であるだけではない。
そういうものとどう付き合うか、自分に問うことのできる、とても余韻の残る映画でした。
おそらく、アカデミー脚本賞に本作でノミネートされた、ジェシー・アイゼンバーグの才能によるところも大きいんだと、映画の余韻を感じながらあらためて噛みしめています。
隔世の感
「ソーシャルネットワーク」でザッカーバーグを演じてから15年。当時はベンジー側だったアイゼンバーグのまとも人間ぶりに戸惑いつつ、ポーランドの旅を楽しみました。上手いなぁと思うのが、誰しもデーブに共感しているであろうシチュエーションでベンジーが全てを持っていくという残酷なまでの反復。「変人を観察する」と言って空港に残った彼の表情が印象的でした。
とても良い
劇場で予告を見て気になっていた作品。
デヴィッドがひたすら留守電に状況報告し続ける冒頭のシーンで、すでにこれは好きだと確信。
テーマはかなり重いものだと思いますが、ピアノ音楽が心地よく、全体的にゆっくりと穏やかに時が流れるようなロードムービーで、心癒される時間でした。所々で笑わせてくれるのも良かった。
社会人になりきれず引きこもり(に近い)生活を送っている私は、ベンジーの行動や気持ちに共感できる部分が多く、完全にベンジーの視点から観ていました。
ベンジーのように素直で純粋で人の痛みが分かり、どこか子供のように無邪気で誰よりも優しい心をもった人は、大半の大人たちのように社会で生き延びることが難しいのだと思います。
一方でデヴィッドのように仕事があり幸せな家庭も築いて、辛いこともあるけど表には出さずに社会で生き抜いていくには、人(や自身)の痛みに鈍感になる、または気付いてもスルーするスキルが多少必要なのではと思います。
これは、ツアー初めの方でマーシャが深い悲しみを秘めた目をしていることに気付き、話しかけに行くベンジーと、そんな風には見えなかった、1人になりたいのでは、と話すデヴィッドにも表れているかと思います。
この旅を通してベンジーに心境の変化があったのか、この後ポジティブに人生を歩んでいくのか、それともまた自殺しようとしてしまうのか、エンディングからは読み取れないところもリアル。
この映画を観て、人の痛みを本当に理解することは難しい、そして理解できたとしても、他人の力でその痛みから解放してあげることは不可能に近いのではとさえ思いました。
でもだからこそ、家族や友人など周りの人が何か痛みや悲しみを抱えていれば気付いて味方になってあげられるよう、普段からもっと気にかけたり会話をしたりしよう、とリマインドしてくれているような気がします。
キーラン・カルキンの演技、本当に素晴らしくて最初から最後まで引き込まれました。ジェシー・アイゼンバーグも。特にレストランでベンジーが席を立っている間に本音があふれて止まらないシーンが印象的でした。
観る人によって捉え方が大きく変わってくる映画だと思うので、他の方のレビューも読んでみたいと思います。
出口が無い苦しみを、軽く笑い飛ばす二人旅。
話はユダヤ人の死んだばあちゃん大好きだった甥っ子達がばあちゃんがホロコーストの生き残りである事を辿る旅の中でそれぞれの痛みを確認癒して行く話です。
ツアーという型でワルシャワからビルケナウそしてばあちゃんの暮らした家へ、、。実際にあった人類最大級の悲劇を背景に人の心の中にある苦悩をミクロマクロ行ったり来たり笑いも交えて巧みに描いてます。まあどちらも簡単に癒せたりしないんだょなぁ、、と見てて納得しつつモヤる映画でした。
マコーレの弟というよりイライジャとマッツを足して2で割った感じのキーランの存在がデカいし助演男優賞ノミネートも納得の演技だった。
で私は「ソーシャルネットワーク」の印象しか無かったんだけどオリジナル脚本と監督と主演もやってるジェシーアイゼンバーグもユダヤ人だったりして、かなり今作品で注目されてるんだろうなあ。
デイブのアンビバレントな感情
ツアーから一日早く離れるシーン ガイドがベンジーとはハグして「指摘ありがとう、君に会えて良かった」と心通わせてるのに、自分とは「じゃあ」とだけのあっさりした離別。
離婚直後のマーシャに、気遣って声掛けない方がいいと遠慮してたのに、ベンジーは「マーシャと朝まで騒いでた」とあっさり打ち解けてる。
「あれ、コイツ問題児なのに、なんでこんなに人気あんの!?、俺は。。」というデイブの何とも言えない表情が印象的。
不可解、抵抗感、羨望、卑下そして根っこにある友情などがないまぜとなった感情描写が実に素晴らしい。
アイゼンバーグの確かな才能を確信。次作に期待してやまない。
兄弟の様な従兄弟な二人
いとこ同士のデヴィットとベンジー。彼らはホロコーストサバイバーの祖母から幼少の頃、兄弟のように育てられた。そして最近その祖母が亡くなり遺言によりそのおばあちゃんの祖国であるポーランドへ旅行する事になる。二人は兄弟の様に育ったが、大人になってからは疎遠だった。なぜならデヴィットは神経質で他人を気にする性格で一方のベンジーは感受性は豊かで社交性はあるが他人を全然気にしないタイプで全く正反対な人間なのだ。
だからデヴィットはベンジーの事が大嫌いだけど大好きなのだ。この矛盾は映画を観れば良く解る。そしてデヴィットはベンジーの事を絶えず心配しているのだ。そして二人は昔おばあちゃんの住んでいた住宅に行くが来た標に玄関前に小石を置くのだが近所の住人から咎められる。よって二人共石を持ち帰る。デヴィットは帰国後それを自宅の玄関前に置くが、ベンジーはどうしたのだろう⁇それがどうしても気になってしまった…。
ショパンの曲が良かった
ジェシー・アイゼンバーグを見てソーシャルネットワークを思い出し、懐かしかった。主人公二人の祖母や歴史、仕事、境遇、家族への複雑な思いに共感するが、旅の仲間とのやりとりやポーランドの美しさも楽しい。ショパンの曲が聴きなれないものも多かったが新鮮で良かった。
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