悠優の君へのレビュー・感想・評価
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本人にしかわからない思いを、伝えることのむずかしさ
他人にどうしても理解してもらえない事を、胸に秘めている人はいるのだろうが、それをわかってもらえない苦しさが、十代の未熟な時期のやりとりとして描かれると、自分がかつて通った時期だからこそ胸が痛くなった 「それ」を自分で病気として認めることは大きな壁であるし、何度も苦しんだうえで心療内科や精神科を受診しても、たかだか数分の診察時間で伝えることの難しさを思うと、この主人公の優乃が一人で病院に行って大丈夫だったのだろうかと心配になった この映画、監督自らの幼少期からの体験がベースになっていることが語られていて、きっと監督は何らかの治療を受けて、今日こういった創作活動ができるところにおられることを思うと、完治することはむずかしくても、このテーマを解決すべく闘っている監督の姿を嬉しく思う 悠を演じた水崎さんと監督は同級生で、監督がこの病気と向き合っていたであろう地元神戸で製作されていることも、事実の重みを感じる
精神科や心療内科の医師、また相談支援を仕事にされている医療ソーシャルワーカーの方たち、患者や家族は大変な思いを日々している中で、自分の思いをやっとの思いで「受診」「相談」しているのだから、その思いに携わられている方は向き合って欲しいと思います
他人から見ておかしいと感じる「常識」と闘っている方たちが、相談しやすい場がたくさん作られますように(12月12日 京都出町座にて鑑賞)
傷付き続けていい人なんて、いないんだよ
人知れず不調を抱える優乃と、それを見守る悠が少しずつ接近し、前に進む姿を描いた物語。
引いた距離から二人を長回しで撮る場面の、ゆったり・ゆっくりとした独特の空気感に癒しを感じる作品だった。特に、波打ち際で二人が会話するシーンで砂の上を歩くふらふらとした歩みや、会話の受け答えの隙間に表れる人間味が心地よかった。
強迫症に対する理解が深まれば、と作られた作品だそうだ。
強迫症は行動こそ特徴的であるが、強迫観念と強迫行動の因果関係、またそれに対する当人の許容範囲が必ずしも合理的でないために周囲からの共感が得られにくいケースが少なくない。強迫観念や強迫行動は表出する一角にすぎず、ストレッサーとの関連性が薄い場合もある。そのため周囲が当人の困りごとに寄り添おうとしても共感したり説得して安心させることが難しく、かえって当人の孤独を深めてしまうことにもなりかねない。
本作はそうした強迫症の機微をとらえ、優乃の苦しみの表現や悠の寄り添い方について不調者ファーストの描写をしていたと思う。監督が強迫症の経験があるとのことで、きっと監督は自身の病識を得る方法や、寄り添ってくれる人と良い出会いをされたのではないだろうか。
心の病をケアする体験談においては度々、レアな環境や一足飛びの展開が『理解ある○○』などと揶揄されることも多い。おそらくそれらの体験談は本人の活動記録に終始し、『理解ある○○』の何がどう本人に効いたのかが整理できていないのだろう。自分は、悠の優乃への寄り添い方や優乃が悠に手を差し伸べ返そうとした形にこそ、ケアを支える人・ケアに臨む人・支え合う人々の普遍な形があるように感じた。関係の深さや長さ・実効性は別にして、『理解ある○○』は決して稀なものではなく誰でもがなれるのだと思う。
未診断の時点を描いている物語であるため、本編には強迫症という言葉は出てこない。だからこそ心と体が思い通りにならない生きづらさを抱える人全てに当てはまる物語だと思う。強迫症に悩む人だけでなく、多くの人に届いて欲しい物語だった。
物語はいまひとつ、描き方は好きだった
色々、考えさせられる作品
強迫症は名前に関して聞いたことがあってもどんな病気かわからなかった。
今回の作品は、強迫症について知ることができ良かった。悠も一人が好きで
人との付き合いが苦手。優乃は頻繁に手を洗わないと気が済まない。
優乃の行動がきになった悠が、話しかけたことがきっかけで優乃は本音を話す。どんな場面でも、人の悩みを聞いてあげ、自分も打ち明けてお互い理解
しあえば、乗り越えられる。この2人の行動から学んだ。素晴らしいストーリーで、色々考えさせられる作品だった。
本日定休
強迫性障害歴20年
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