「「トラウマと再生」」火の華 かなさんの映画レビュー(感想・評価)
「トラウマと再生」
渋谷ユーロスペースに小島監督、俳優の山本一賢、ダンカンさんの舞台挨拶とトークショーの上映回に見に行きました。
トークショーでは花火作りの大変さを話していました。
この映画は「自衛隊日報問題」を下敷きにして、イメージを膨らませた小島監督と山本一賢が企画、脚本した作品です。
テーマ性は重いですが、「人間が突然ショック」を受けたときに
「トラウマ」が発生するのかと恐怖に陥りました。
以下、私の映画評を読んでください。
【映画評】
人間がなんの準備もせず覚悟も持たず突然戦闘に巻き込まれ、人を殺し友人を殺されたらどのような心持になるのか。それをこの映画は元自衛隊員島田のトラウマとして見事に描出している。
映画は2016年、南スーダンPKO自衛隊日報問題を下敷きにしている。自衛隊員が海外で活動できるのは非戦闘地域に限定されているが、日報の中に「戦闘」という文言が使用されていて南スーダンが非戦闘地域ではなかったという問題提起がなされ文書が残っていたからだ。
島田はいつもトラウマから戦闘の悪夢を見る。仕事中でも戦闘のトラウマが彼を襲い問題をおこし花火会社へ職を変える。慣れない職人仕事をしながらも徐々に慣れていく。しかし花火打ち上げ当日、花火の音と閃光に戦闘のトラウマが重なり島田は野原をやみくもに逃げ走る姿は戦闘の恐怖を伝える秀逸なシーンであった。
南スーダンでおきた戦闘は上層部から「なかったことにする」と言われ戦士した友人は交通事故死にされ問題は隠蔽された。それに意を反する元隊員や元隊長がテロを計画し島田を誘うが彼は同調しなかった。島田には事件を上層部から「なかったこと」にされた悔しさや憤りではなく、自分の手で人を殺し友人が目の前で殺されたという事実こそが島田が人間として生きられないトラウマの発生源なのだ。
このテロ計画と実行をフィクションとして映画に取り入れた作り手の意図の賛否は言いたくない。非戦闘地域にいた元隊員や隊長にしてみれば、戦闘が起き、人を殺し、同僚が殺されたことを「なかったこと」にはできない、強い気持ちが働くことも考えられるからだ。
しかし作り手の主題はテロの良し悪しではなく、島田が花火職人として復帰したこと、つまり人間として「再生」できたことを主題にしている。なぜ「再生」できたのか。それは過去の目の前でおきた事実を知る者が誰一人いなくなったからだ。
人間がトラウマにとらわれるのは、事実を知っている他者がいるからだ。トラウマを惹起した人間が捕らえられたり、死刑になっても、世間が知っているからトラウマは一生消えない。しかし島田の場合は目の前でおきた事実を自分だけで抱えるのであればずっと軽くなる。もはや誰も目の前でおきた事実を知らいないからだ。
島田は数年後南スーダンで死んだ友の弔いとして花火を打ち上げる。打ち上げた花火が夜空に輝く華のようであった。この「火の華」とともに島田は人間として「再生」したのだ。
