劇場公開日 2025年2月21日

「アメリカ映画の伝統とは」ブルータリスト moviebuffさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0アメリカ映画の伝統とは

2025年3月2日
PCから投稿

この作品、物語の筋はある意味移民にまつわる非常に伝統的なアメリカ映画である。正直何かすごい意外性があるタイプの映画ではない。ただ、作品のスケール感、音楽、映像、演技のクオリティが素晴らしく、映画を観ていることの充実感が非常に高い。

なぜ私がこの作品をアメリカの伝統的映画と言ったか。この話は呪いの物語だからだ。一つは権力の呪い。そしてもう一つは芸術の呪い。

権力についての物語は何度も何度もアメリカ映画史の中で語られてきた。市民ケーン、ゴッドファーザーパート2、ゼアウィルビーブラッドなどなど。権力を手に入れれば入れるほど、その人物は幸せになるのではなく、呪われていく。そのことをわかっていても止められない。権力のゆがみのようなものがこの映画でも何度も描写されている。なぜそのような物語が何度も何度もこの国では作られるのか?それはアメリカという国家の覇権国としての力と、そこからくる苦悩がいつも物語の根底に流れているからだ。アメリカ映画はキャラクター、物語というメタファーを通してアメリカという国家を映し出す。

富豪のハリソンと建築家ラースローはどちらも呪われているのだが、その呪いの種類が違う。ハリソンはまさにトランプ的なアメリカの権力志向のマッチョイムズだが、ラースローの場合は自分の究極のアイデアを形にすることに人生をかけていて、そのためにたくさんの物を犠牲にする。それは宮崎駿の風立ちぬで主人公がたくさんの人が不幸になっても自分の究極の飛行機を作るという夢をあきらめられないのと同じである。彼は「美」に仕えている。ただ、そのためにはハリソンという悪魔との取引が必要であり、それにより彼はむしばまれていく。それはもちろん、映画監督という仕事の狂気、この作品を作っているブラディ・コーベットの自分自身への言及でもある。

クレジットタイトルのグラフィックデザイン、映像と音楽のクオリティから感じる野心。わざわざ、ビスタビジョンのフィルムで撮った映像(現代の映画はカラーグレーディング処理により色とライティングをを演出のために統一させすぎて、逆に色の豊かさにかけているという事を今作では思い知らされる)で、超大作のような映像のスケールをこんな規模の作品でやってしまう度胸。

例えば一昨年のトッドフィールドのTARのような本当に表現自由度の高い作品は確かに今の時代にもある。ただ、そのトッド・フィールドにしても、アリ・アスターのようなA24関係の作家であっても、実はちゃんと観客にショックを与えるようなツイストやギミックは用意しているのだ。ある意味タランティーノ、ポール・トーマス・アンダーソン以降のアメリカインディペンデントの映画のあり方とでも言えるだろうか。私はPTAの大ファンだし、それが悪いと言いたいのではない。ただ、今の時代はそういう映画しかないのが問題だと思う。逆に映画表現の自由度がせばまっているような気がするのだ。

文学作品のように個人的な物語を積み上げて積み上げてゆっくり、しっかりと見せていくという、昔なら当然のようにあった映画のストーリーテリングをやるのが現代では逆に勇気がいることなのではないか。他人に刺さろうが刺さらまいが、巨費がかかろうが、自分が信じる物語を自分のために作る。そこに映画という芸術の素晴らしさと狂気を同時に感じる。私はここらへんで、やはりマイケル・チミノやテレンス・マリックの70年代の作品を思い出さずにはいられなかった。

あと、最後にもう一つ。この映画の最初の自由の女神のシーン。音楽とともに、本当ならとても開放感があるシーンとなるはずだ。ただ、私はこの映画を2025年の3月2日に見た。つまり、アメリカが自由の国では最早無いのではと、世界中が感じている中で見た。だから、あの逆さまに移された自由の女神のシーンには開放感よりもむしろ不穏さがあり、複雑な感情になった。そして、実際にこの映画は主人公と妻にとってアメリカは彼らが思っていた国ではなかったという結論へと向かっていく。ハリソン家の東欧移民への態度にもそれは見て取れる。私は見終わった直後、この映画は普遍的ではあるが、同じ「アーティストと権力」をテーマにしたTARと比較すると現代性が欠けているのではと思っていたが、実はそうではなかった。この映画はひょっとしたら時間が経つとともに、更に深い意味合いを帯びてくることになるのかもしれない。

moviebuff