劇場公開日 2025年2月21日

「シオニズムの映画、建築家の映画、芸術家とパトロンの映画、そして反トランプの映画……。」ブルータリスト じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5シオニズムの映画、建築家の映画、芸術家とパトロンの映画、そして反トランプの映画……。

2025年3月2日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

とても「豊かな」映画だと思う。
何が「豊か」かというと、
「時間」の使い方が。

すべてのシーンにおいて、ゆったりと構えて、
じっくり、手をかけて撮ってある。
時間の制約を気にせず。撮りたい間合いで。

きょうび伝記映画で、こんな「贅沢」な時間の使い方をする映画は本当に稀なので、そこはとても心地よかった。
「映画がいくら長くなっても全く気にしない」という前提で、無尽蔵に、時間というリソースを使って撮り上げる、おおらかなスタイル。
なんていうか、「源泉かけ流し」の温泉みたいな「豊かさ」を感じる。
あるいは「拾い放題」の果樹農園のような。
ふだん気にかけていることを、気にしないでいい豊かさ、とでもいうのか。

なぜか昔から、映画業界というのは「上映時間」を異様に気にする業界だ。
なるべく長くなりすぎないように。
客の飽きがこない程度の長さで。
コンパクトにまとめていくのがベター。
そう考える上層部と、長尺で撮りたい監督とのあいだで、今までにどれだけの激しい衝突と闘争が繰り返されてきたことか。

その「せちがらさ」から、
なぜか『ブルータリスト』は
完全に「解放」されている。
インディペンデント映画の、
インディペンデントたるゆえんである。

上映時間が何時間になろうが、まったくかまわない、
そんなことはどうでもいい、気にしない、考慮だにしない、
とにかくすべてのシーンを、撮りたいテンポでじっくり撮る。
そのことを優先して、結果長くなったところで、観てくれる人はちゃんと観てくれる。
その確かな理念に基づいて、本作は「自由」に撮られている。

凄いな、と思うのは、主人公であるラースローの人生を描くために「とりたてて必要のない」ようなシーンまで、じっくりと腰を据えて撮っている部分だ。
すなわち「主人公の人生を語る」ことだけに汲々としない。
3時間半の映画を、2時間半にするために、切り詰めない。
思えば、僕たちは、あまりに「説明的」で「せかせかした」映画に慣らされてきたのではないか。たとえば、マーティン・スコセッシのような。
本作の間合いは、たとえばベルイマンやヴィスコンティといった監督に代表されるような、欧州のテンポ感であり、語りの感覚だと思う。アメリカ人の撮った21世紀の映画としては、なかなかに得難いものだ。

結果として『ブルータリスト』は、
そこまで劇的でも、派手な話でもないのに、
観ると3時間半もかかる、不思議な映画となった(笑)。

収容所生活とか、脱出劇といった要素は敢えて、前段階の要素として捨象される。
物語は、無事に到着するところから始まり、そのまま主人公はさくっと従弟の家に迎えられる。
家具製作の手伝いを始めてからも、大きな波乱めいたものはない。
なんとなく、従弟の奥さんから嫌われるとか。
(この辺、ちょっとエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』っぽいかも)
施工主と、リフォームで衝突するとか。
結果的に、家を追い出されることになるとはいえ、
「いかにも映画らしい波乱」があるわけではない。

そこからも、起きることはどれもちっぽけだし、世界観は常に狭い。
「復活劇」といっても、喧嘩した施工主が気を変えて雇い直してくれただけの話だし、結局映画のなかでは、ひとつの建物を延々ちまちまと作っているだけだ。
2時間くらい経って、ようやく奥さんと姪っ子がアメリカに渡航してくるが、ここにも劇的な要素は何もない。ふつうに電車で着いて、部屋も与えられ、基本よくしてもらえている。
終盤の展開も、切迫感があって濃密ではあるが、お話としてはむしろ広がりをもたず、「個」と「個」の精神的な闘争の話に終始している。

こういう、「大きな物語」をあえて志向しない映画を、3時間半の長尺で撮って、飽きさせず、満足感を与えて綺麗にまとめるというのは、想像以上に難しい作業だ。
若い監督にはなかなかできないことだが、それをブラディ・コーベット監督は成し遂げてみせた。
アカデミー賞候補に挙がるのも、むべなるかな、と思う。

― ― ― ―

●一義的に言えば、『ブルータリスト』は、シオニズムの映画であり、真正面からユダヤ人移民の苦悩を描いた映画である。
わざわざ主人公に『戦場のピアニスト』で一度亡命ユダヤ人役を演じたエイドリアン・ブロディをふたたび起用してまで、「これはそういう映画だ」と、これ見よがしに強調してきている。
エイドリアン・ブロディは、おそらくあの「巨大な鼻」のせいで、欧米人から見ると本当に「ユダヤ人らしいユダヤ人」なのだと思う。
ついこのあいだ、ブラッドリー・クーパーがユダヤ人のレナード・バーンスタインを演じるにあたって、「つけ鼻」を用いたという理由でバッシングされたことがあった。裏を返せば、それくらい「大きな鼻」はユダヤ人のアイコンとして欧米で深くしみついた共有イメージだということだ。そういえばフランス映画の『ふたりのマエストロ』でも、ユダヤ人親子役には巨大な鼻をもつユダヤ系俳優が起用されていた。
逃亡時にブロディの鼻が一度「折れて」、その痛みに耐えるためにヤク中になるという展開は、まさに「ユダヤ人であるがために人生をへし折られた」主人公の暗喩である。作中では、もう一回彼が「鼻を傷める」シーンが出てくるが、やはりこれも彼のキャリアの挫折と呼応している。

●それから、この映画は、「建築」の映画でもある。
丘の上に、ひたすら大型の建造物を建て続ける話という意味では、ケン・フォレットの『大聖堂』をどうしても思い出さざるを得ないが(あれは12世紀中葉を舞台に、イギリスの架空の町で一人の石工が大聖堂を建築するまでの群像劇だった)、本作で扱われているのは、「ブルータリズム」建築(コンクリートを用いた無骨な外観のモダニズム建築の一様式)だ。
なにせ、本作のタイトルは『ブルータリスト』。わざわざタイトルに付すくらいに、監督にとって主人公のこの属性は重要だということだ。
主人公のラースロー・トートは架空の人物だが、その経歴に関してはハンガリー出身でドイツからアメリカに渡ったブルータリズムの建築家、マルセル・ブロイヤーと共通する部分が多い。
ユダヤ人で、バウハウスでグロピウスのもと学び、戦争を機にアメリカに渡り、鉄パイプを曲げたモダンな椅子をデザインし、うちっぱなしのコンクリートを素材とした建築を得意とした著名な建築家。
おそらくなら、ラースローという人物は、ブロイヤーの人生を土台に、監督がさまざまな亡命ユダヤ人の物語を重ねて作り上げられたキャラクターということなのだろう。

50年代にブルータリズム建築が流行した背景には、戦後の経済的に厳しい時代にあって、資材であるコンクリートが著しく安価だったということがある。これは、50年代アメリカの変革を描こうとする本作でも、結構重要な要素だと思う。
華美で旧弊な上流社会が、モダンで大衆的なデザインと美学を獲得していく過程においてもまた、資本主義が密接にかかわっていることが如実に示唆されているからだ。
実は、これは舞台芸術においても同じことが言われていて、ワーグナー楽劇における新バイロイト様式の発端には、極度の資金難とコスト削減の必要性があったとされる。
ブルータリズムと新バイロイト様式。資本主義の「負」の要素が、芸術の新たな動きを加速させたというのは、興味深い現象だ。

なお、コンクリートの打ち放し建築といえば、日本人なら誰しもが安藤忠雄を思い出すはずだ。
独学で構築された彼の建築美学は、どちらかというとル・コルビュジェからの影響が強く、必ずしも50年代~70年代のブルータリズム建築の継承者とは考えられていないようだが、今回の映画できわめて重要な建築上のアイディアとして扱われる「光の十字架」は、まさに安藤忠雄のトレードマークのようなものだ。
茨木春日丘教会の壁に穿たれた「光の十字架」がつとに著名だが、淡路島にある「海の教会」では、十字架型の天井採光から差し込んだ光が壁に「光の十字架」を浮かび上がらせるという、まさに本作に出てくる大聖堂と同じ意匠が用いられている。
現在、アメリカでは安藤忠雄に建築を依頼するのが、大富豪にとっての最大のステータスともきく(カニエ・ウエストとか、ビヨンセとか)。コーベット監督がブルータリストを題材に映画を製作しようと思いついたときに、同じ打ち放しのコンクリート建築を得意とする安藤の仕事が脳裏をよぎったということは、十分に考えられるのではないか。

他にも、本作に「建築」にまつわる要素は多い。
たとえば、バウハウスといえば、本作に特徴的なデザイン化されたオープニングとエンディングのクレジットは、まさにバウハウス的な美学に彩られている。
オープニングの洒落た処理にも感銘を受けたが、斜行するエンドロールというのは人生で初めて観たので、おおいに驚いた。
あと、建築絡みでいうと、ラストで捜索隊が到達する市民センター兼大聖堂の「地下」空間は、明らかにオーソン・ウェルズの『オセロ』に出てくるアル・ジャディーダの地下貯水槽を意識してるよね……?? この監督さん、実はかなりのシネマフリークではないかと思う(なにせ、わざわざハンガリーでフィルム撮りして、ビスタビジョンを採用しているくらいのオタクぶりである)。

●それから、この映画は、芸術家とパトロンの関係性を描いた映画でもある。
本作における新興の大富豪ハリソンは、単なる「悪役」として描かれているわけではない。
資本家であるがゆえに、芸術にあこがれ、新奇な創造に焦がれ、天才に執着する、ある意味とても「人間味のある」パトロンとして描かれている。
一方で、主人公のラースローもまた、一筋縄ではいかない人物として描出される。彼があちこちで厄介者扱いされるのは、単なる出自の異質性のみに起因するものではない。自堕落で、傲岸で、短気で、恨みがましい。しかも重度のヤク中である。天才であるのは間違いないが、やりにくい人間であることに変わりはない。ハリソン一家からすれば、たしかに、「われわれは十分あなたに我慢させられている」と言いたくなるようなキャラクターだと思う。

そのなかで、監督はきわめて粘っこく、「才能はあるけど社会不適合者の天才」と「成功者だが芸術的センスをもたない俗物」の、数十年に渡る精神的闘争を描き込んでいく。
そこにあるのは、敬意と嫉妬、支配と被支配、援助と恩義、実際的な用途と芸術的な要請のせめぎあう、熾烈でインティメットなマウント合戦だ。
僕は意外とガイ・ピアースが熱演するハリソン氏を嫌いになれなかった。
大理石鉱山での「アレ」も、どうしても手の届かない天才を、なにがなんでも征服したいという妄念が劣情へとねじ曲がったとすれば、なんだか可哀そうな気すらしてくるくらいだ。

●で、最後に、本作は反トランプの映画でもある。
そもそも、ブルータリズム建築はトランプが前政権時に「醜い」とレッテルを張り、連邦政府の建物は「美しい建築」(=古典様式)にしなければならないとする大統領令を出したいわくつきの建築様式だ(翌年バイデンが取り消し)。監督はこの件に言及したうえで、「人々を苛つかせる」からこそテーマにしたかったと述べている。
共同脚本家のモナ・ファストヴォールドが、ハリーJr.役の若手俳優について「ジョー・アルウィンは初めて起用した俳優だけど、彼の演技を観てすぐに、まるでトランプ支持者のような姿を見ることができて安心した」と言っているくらいで(笑)、ハリソン一家とその仲間たちをトランピストに見立てて、ユダヤ人建築家との差異を際立たせ、やがて「愚弄」する「明快な意図」をもって作られた映画であることは間違いない。
本作のラストはまさに、「親トランプ的人物」に復讐したいという、リベラル寄りの制作者の「怨念」の発露でもあるだろう。
個人的に、そういう映画の作り方自体は気に食わないけれど、「だからこそ」この作品はアカデミー賞にもノミネートされている、というわけだ。

なお、今年のアカデミー賞の「傾向と対策」については、また別のところで書いてみたい。

じゃい
talismanさんのコメント
2025年3月4日

あと、ラースローの「鼻」もすごく気になりました。ナチの時代のドイツでのユダヤ人差別ポスターなどで、ユダヤ人の顔はまさに悪意の意図で描かれていて男性の鼻は大きく長く表情もことさら醜く描かれています。欧米のユダヤ人に対する外見観は未だに変わっていない、変えていないことにかなりショックを受けました。アジア人に対する外見ステレオタイプもまだまだしぶといですね。欧米では外見が重要視される歴史と伝統と文化があって、彼らもそこから抜けたくてもなかなか抜けられないんでしょうね。
あと、シオニズム、これはあの一言も発しなかった姪が、イスラエルに移住し大人になってからの最後のスピーチで滔々と語る姿に、イスラエル人とユダヤ人は違うんじゃないの?!と言いたくなりました。
じゃいさんの豊潤なレビューがきっかけになって色んなことに気づき考えることができました。ありがとうございます!

talisman
talismanさんのコメント
2025年3月4日

確かに(いきなりすまません)、町の景観にとって重要な「大きな」建築物はその時の国の意向にものすごく影響受けますね。ウィーンの国立歌劇場付近含めての建築はいかにも大昔からのもののような古典様式だけれど、実はたかだか19世紀末のものだ。だからウィーン市内にたまにチラホラ建っている斬新なデザインの建物(今では建築の観点でも観光名所になっている)は当時は批判、バッシングの対象だったようだ

talisman
talismanさんのコメント
2025年3月3日

じゃいさんのレビュー、読み応えあり気づきがありました。トランプのことは、そうか!でした。ハリソンの息子をどう捉えていいかいまだにわかりませんが、嫌な奴、父親に媚び依存し機嫌をとろうとする息子。一方で双子の娘は父親とそんなに距離が近くない感じ。もう一度この映画、映画館で見ようと思わせてくれたじゃいさんのレビューでした。ありがとうございます

talisman