ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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どう死ぬかは、どう生きたかということ
自分の命が残り少ないと察知した女性が、最期の日々をかつての親友に託して旅立とうとする。尊厳死、安楽死というワードで括られがちな映画だが、よく見るとそうではなく、どう死ぬかというテーマは、どう生きたかに繋がり、看取る側も自分の人生とどう向き合うかについて言及した、アルモドバルらしい斬新な視点がここにはあった。
そして今回も、アルモドバルは使う服や食器の色彩、部屋に飾られたアート、小説、映画を使って、観客の五感を常に刺激する。すべてに意味があるのだ。1度観ただけではなかなか全部理解できないのだが。
中でも最も斬新な提案は、死ぬ間際まで人は美しくあれ!ということだと感じた。それは死期が迫るほどに美しく、細く、カラフルになっていくティルダ・スウィントンに象徴されている。
女性らしいわがままがむしろ羨ましかった
女流小説家(ジュリアン・ムーア)は新刊本のサイン会で10年以上疎遠だった知人の女性戦場ジャーナリスト(ティルダ·スウィントン)が癌で入院中と聞き、病室を訪ねる。ステージⅢの子宮頸癌で治験プログラムの対象だったが。肝臓と骨に転移が見つかり、治験薬の効果はないと悟った彼女から安楽死の立会を頼まれる。
ジャーナリストには10代で産んだひとり娘がいたが。娘の父親は高校の同級生で、ベトナム戦争でのPTSDが原因で亡くなっていた。父親の存在をわざと伏せ、仕事に逃げたせいもあり、母娘関係は長い間疎遠なままだった。
スペインの巨匠アルモドバルの初の英語版映画。アルモドバル監督らしい、こころの機微を二人のベテラン女優がごく自然な演技で魅せてくれる。二人の共通の元恋人のデミアンが完全に黒子に徹するのが粋。初恋の男がベトナム戦争で壊れて帰って来たのに、戦場ジャーナリストになるっていうのはちょっと理解しがたかったが、どんな覚悟だったのだろうか。
マーサの娘、そっくりでした😎
真っ赤な口紅に黄色のスーツ。ベランダのソファ以外に高いんですよね。きっと。
僕は、「死んだら全部終わり」と思っていたが
末期ガンで余命僅かとなった友達から「心が決まったら薬物を飲んで安楽死したいので、その日まで隣の部屋で一緒に過ごして欲しい」と依頼された女性の物語。ジュリアン・ムーア、ティルダ・スウィントンという二大女優の実質的には二人だけの会話劇です。
二人が語る過去の思い出・後悔、死への怯えの言葉は何気ない物までもが切実で、観る者の足許からゆっくりせり上がって来ます。僕は、死んだら全てはそこで終わりで、その後になど何もないと思っています。なのに、人間は死んだらどうなるのかなぁ等と、この映画と並走しながら
ぼんやり考えていました。死んだらどうなるかと言う事は、どの様に生きたかと言う事の裏返しなのでしょうか。この歳になると染みるなぁ。
地味だけれど深く素晴らしい作品でした。
あっぱれ! 貴女は生まれ代わる
アルモドバルが今回取組んだテーマが尊厳死で、末期(確かレベル3)という友人の死に付き添おうとする作家が主人公になる
ジュリアン・ムーアはさすがに存在自体で役にはまっているが、前回鑑賞したメイ・ディセンバーとは真逆のキャラクターで、死にゆく友人に自分を抑えて寄り添う
対してその末期の友人のティルダ・スウィントンは一人では死にたくない、人の息遣いがする空間で最後を迎えたいという考え ウーンと唸ったのはそれはわがままなのか?自分らしい死を迎えたい意思自体は分かるが、他者を巻きこんだこのドタバタぶりにアルモドバルの皮肉が込められていそうだと思った
自作で生い立ちや母への郷愁をあれほど繰り返した監督が、そのことを悲嘆場だけで済ます訳が無い その答えはラストのスウィントン二役の娘の登場で完結した
死にゆく女性は友人を利用し、娘とは疎遠とのたまったとしても、見事にその精神は引き継がれ、まさに生まれ変わって登場する 男にはまさに出来ない芸当 あっぱれとしか言えない まさに女性万歳がテーマだと気づいた時、アルモドバルらしいアメリカ映画なのだと納得した。大好きな所以なのだ
死のイメージと対照的な鮮やかな色使い
静謐な気迫に見とれる
演技
稀有な親友
諸行無常?色即是空?否、人生は面白い
尊厳死、難しい問題です😱
不治の病に冒され安楽死を望む女性と、それに寄り添う事を決めた親友の最期の数日間。
扉を開けて寝るので、貴方に隣の部屋にいて欲しい、でも朝もし扉が閉まっていたら、私はこの世にはもう居ない…。
怖すぎるでしょ😱
アカデミー賞受賞女優2人の緊張感ある掛け合い。ピンクの雪が印象的。
もし、自分がどちらかの立場になったら、どうするんだろう。尊厳死、難しい問題です。
とてもよかった
これでもかと言うほどしっかり死と向き合っている。見ている間ずっと死について考えさせられ、しんどいが緊張感があって引き込まれる。
それにしてもいくら友達とは言え、あんまりなお願いをしすぎではないだろうか。結局警察に詰められるし、しかもあの賃貸物件は事故物件だ。アメリカではあまり気にしないのだろうか。
ジュリアン・ムーアには子どもがいないようだ。作家として充実した人生を送っている。二人とも富裕層でフルーツを食べきれないほど平気で買う。しかしどんなに大金持ちでもお墓にお金は持って行けない。だけど死ぬときにカツカツなのもつらい。
現れた娘が亡くなった友達と瓜二つで、ご本人の二役なのだけど、亡くなったばかりなのに再びご本人登場で喪失感が削がれる。娘だとしてもゲソゲソで末期がん患者みたいだし、お父さん似でぽっちゃりした子がよかったのではないだろうか。
タイトルなし(ネタバレ)
作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、書店のサイン会でかつての友と再会し、かつて恋人を奪い合った仲の親友マーサが重い病で入院していることを知らされる。
病室で対面したマーサ(ティルダ・スウィントン)は治療に対して後ろ向きだった。
一人娘とも折り合いが悪い。
それは、マーサが子育てを一顧だにせず戦場カメラマンとして活動していたからだが、娘の出生とその後の娘の父親のいきさつも関係していた。
そんなかつての話をイングリッドに語ったマーサは再び治療に専念に、いっとき光が見えたかに思えたが、病状は急激に悪化。
遂には、自身の最期の姿を描くようになった。
それは、自ら選ぶ死。
ただし、誰かに看取られたい。
が、その誰かは娘ではない。
何人かの友人に相談したが断られた末、最後の最後、マーサが頼みにしたのはイングリッドだった。
ふたりは、郊外の森のなかにあるスタイリッシュな邸宅で、マーサ最期の日を迎えることなった。
ただし、その日がいつかは、まだわからない。
いつも開いているマーサの部屋のドアが閉まった日、それがその日なのだ・・・
といった物語。
鑑賞から2週間近く経ってのレビュー。
鑑賞直後は、本作、個人的にうまく咀嚼して飲み込めず・・・という感じでした。
(いまは飲み込めているけれど)
観ていて気になったのは、映画前半の語り口。
森でのふたり暮らしを始めるまでの導入部で、ここをしっかり描かないと後半につながらないので難しいところ。
だが、語り口として採用した演出は、やや安直で上手くない。
マーサから語られる過去のエピソードが、過去シーンの映像となって再現される。
彼女が直接体験したエピソードはそれでもいいのだけれど、娘の父親の最期のエピソードを再現する必要はなかったなぁ。
なにせ、マーサは現場におらず、あくまでも伝聞事項なので、観客にわかりやすくするだけの演出。
イングリッドに語るだけでは観客に伝わらないと思ったのかもしれないが、あくまでもマーサの出来事として描かないと視点に乱れが出る。
マーサの視点で描くなら、語りは語りのままで、娘の父親の最期の地を彼女が訪れ、そこに立つ画を写す、とかか。
森のなかの邸宅のエピソードの数々は、さすがに上手い。
いずれも、すぅっと心に入って来る。
が、映画最終盤で、マーサの娘が登場したあたりから困惑した。
まあ、マーサの娘を○○が演じていることもあるのだが、マーサとイングリッドの話から、アルモドバルお得意の母娘の話にまたしても帰着するのか、と。
なので、鑑賞直後は、あまりうまく飲み込めず。
が、3度登場する「雪降る」シーンから考えると、うまく飲み込めるようになった。
(3度のうち1度は、映画『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』の映像)
死者と生者に等しく雪は降る・・・
死者と生者を隔てるものは、ほとんどない。
ただ、死んでいるか、生きているか。
マーサの娘とイングリッドが並んでいるラストショット、イングリッドにはマーサが生きていることを実感したのだろう。
化学反応
アルモドバル監督初の英語作品で、ジュリアン・ムーアが初参加。彼女の存在で監督の世界観が少しマイルドになったような気がします。
ティルダ・スウィントンとは同い年で、バチバチの演技合戦になるのかと思ってたんですが、意外とかわされたというか淡々とした競演に感じました。
ジュリアン・ムーアはいつもながらの「寛容」と「誠実さ」がにじみ、一方ティルダ・スウィントンはこちらも彼女らしい泰然とした魅力で演じ切ってました(戦場ジャーナリストにはちょっと見えませんでしたが)。
お互いへの尊重は間違いなくある感じですね。
ティルダの覚悟の演技は、若い頃に重用されたデレクジャーマン監督の死(52才でHIVで死去)の影響があるとインタビューでコメントしています。
死の自己決定権、死に方を選べるということ
安楽死、尊厳死の問題は世界中で議論が活発で、もはや避けては通れない問題。誰もが当事者になりうるから本作は身につまされる思いで鑑賞した。
自分がマーサの立場だったら、イングリッドの立場だったら、どうするだろうか。自分と親友とに当てはめて考えた。主演のお二人は少し上の世代だけど、その年齢になって同じ状況に立たされたらどうするだろうか。
イングリッドの立場なら、もし隣の部屋にいてほしいと頼まれたらそうするかもしれない。劇中の彼女のようにマーサの心変わりを期待しつつ何か打開策が浮かぶかもしれないと淡い気持ちを抱きながら親友のそばに付き添ってあげれるし。ただ、毎朝の安否確認のために部屋のドアを確認しに行くのはさすがにメンタル的に応えるだろうな。
たまたま風でドアが閉じてしまってそれを見たイングリッドが悲しみに暮れてるところにマーサが平然とした顔で現れるくだり、あれはやると思ってたけど、イングリッドにしたらたまったもんじゃない。あそこで彼女はリタイアするかと思ったくらい。
自分が自殺ほう助の容疑をかけられるリスクを負いながら引き受けた彼女には感心するけど、ただ仲のいい友人だからというだけでなく彼女の小説家という職業が関係したのだろう。こんな体験はなかなかできないだろうし、実際に本を書きたいと言ってたしね。
ではマーサの立場ならどうだろう。こちらはイングリッドほど答えは簡単ではない。実際に彼女のような状況に置かれないとその心理を読み解くのは想像だけでは難しい。治る見込みのない病の治療を続ける苦痛、薬品投与で自分を失いそうになる恐怖。それはそのときになってみなければ実感できないだろう。マーサは化学療法を受けてる間は自分が自分である部分は10%と話していた。
自分を失ってまで、自分らしさを失ってまで寿命を少しだけ伸ばすよりも、最後まで自分らしく生きて最後は自分の意思で人生の終わりを決めたい。そう考えるのも理屈では理解できてもやはり他人事として考えてしまう。
そうなのだ、所詮は他人事なのだ、人の死というものは。自分の死は他人にとっては他人事なのだ。自分の人生も死も、それは至極当たり前のことだ。だから自分の人生をどうするか、どう終わらせるかはとても個人的なことであり他人にとやかく干渉されるものではないのだ。
自分の人生をどう生きるか自分で決められる権利があるのなら、自分の人生の終わらせ方も自分で決められる権利があるはずだ。死の自己決定権だ。
ただ、その個人的な権利と命を尊ぶ社会倫理とが対立する。この問題が容易に解決できないところがそこにある。
命は尊いものだ、神から与えられた命を粗末にしてはいけない、死んで花実が咲くものか、乗り越えられない試練を神は与えない、命尽きるまであきらめずに頑張れば必ず救われるなどなど宗教的教えからことわざまで。そんな社会の固定観念が自己決定権の邪魔をする。
そんなことは聞き飽きた、そんなことは十分承知の上での決断なのだ。何十年も人生を生きてきた自立した人間が出した答えに水を差さないでくれ。そんな当人の気持ちも理解できる。ただ、逆につらい状況下で通常の精神状態ではないのではないかと周りは勘繰りたくもなる。
マーサがイングリッドから同じ問いを投げかけられた時うんざりした表情をしたのは再三同じことを言われたからだろう。
自分が自分であるからこそ自分の意思で決断したのだ、人生の終わらせ方を。どうかその自分の意思を汲み取ってくれ、私の意思を尊重してくれ。そう言われたら周りの人間は何も言い返せないだろう。
人生はよく旅に例えられる。旅の行程、行き先を本人が自由に決められる。そして旅をいつ終わらせるかも。
私の人生の旅はまだしばらくは続きそうだが、もしマーサと同じ状況に立たされた時、旅を終わらせるかどうかはその時の自分の意思で決めたいと思う。
覚悟と感謝
アルモドバルの最近(と言っても10年くらい?)の作品、たんたんと、...
アルモドバルの最近(と言っても10年くらい?)の作品、たんたんと、アルモドバルの今思う気持ち、考えていることが、映し出されているように感じて、静かに共感できる。
相変わらず、インテリアもファッションも素敵過ぎなので、それだけでも満足度高いのだが、ちょうど最近日本で展覧会していたアーティストの作品が、主人公の部屋に飾られていたり、意外と日本ではまだよく知られてないようで驚く子宮頸がんが取りあげられていたのも感心した。
アルモドバルの作品は、昔っから、本人の関心、悩みごと、思ってることを美しく、印象深く伝えてくる。
映画と監督が一緒に歳とっていく感じがますますいい。
ジュリアン・ムーアに注目したことなかったが、それにしてもこの人この感じのまま長い(ある一定のところから老けない?)、演技もほんと自然でさすが。
あー、そうだろうな、って思うところは期待通りで、アルモドバル映画としては見やすい作品だと思った。
主人公が忘れ物、探し物する場面はどういうアクセントとしておかれたのか。
もう一回見て、気づくことがありそう。
見送るパターンとして、警察沙汰になるのも厭わない
友人を持てたラッキーなはなしの設定。
死という重めのテーマを和らげる、着ている服の色や家具の色が視覚的に美しい。
家で最期まで暮らし看取って家の座敷で通夜を行い、葬式も家で行っていた昭和の終わりまでは、わざわざ映画にするまでもなく日本人的には、死と隣り合わせに生活しどうやって生きるかは皆が学ぶことが出来た。生き残った人は、両親や親戚の死にいくさまを何度も見て、自分の生きる残りの毎日のことを考えて生きていく。そういう日本でした。
娘さん役が一人二役っていうのより、やはり、べつの人物が演じるほうが良かったのでは?そして、融通の効かない警察官が宗教的に許さないと強く言ったり、助けてくれるボーイフレンドが地球温暖化を作っているのは極右のせいだと、どことなくトランプの悪口をいれているところが、映画を作った時期と監督や脚本家の意見だろうか?
安楽死って、キリスト教的に許されない科学的なこと、超現実主義の頭の良い系の人がするという自負があるんだーと、再確認した。そういえば、祈りの言葉は一切なかった。
尊厳はダメなのか…
死の選択の自由は···
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