ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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変わった座組のアルモドバル映画
アルモドバルは英語圏でもやっぱりアルモドバルな映画を撮るという印象は、短編だった『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』から変わらないのだが、主演の2人の演技の上品さもあって随分とさっぱりした映画になっというか、やはりスペインの役者と撮っているときの方が純正のアルモドバルだなとは思ってしまった。もちろんティルダ・スウィントンもジュリアン・ムーアも申し分なく魅力的で、ジョン・タトゥーロだっていい異物感だと思ったけれど、英語圏の演技とスペイン人の演技は本質的に何が違うのだろうかと興味深く考える機会になった。またすべてのカットがアルモドバル的であるにも関わらず、アルモドバル汁が『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』より希薄だと思ってしまったのは、単にテーマが違うからという理由かも知れないし、今回の作品のほうが年齢的な成熟が反映されやすくてソフィスティケイトされたのかも知れない。いずれにしても、本作みたいに変わった座組のアルモドバル映画はもう数本は観てみたい。
どう死ぬかは、どう生きたかということ
自分の命が残り少ないと察知した女性が、最期の日々をかつての親友に託して旅立とうとする。尊厳死、安楽死というワードで括られがちな映画だが、よく見るとそうではなく、どう死ぬかというテーマは、どう生きたかに繋がり、看取る側も自分の人生とどう向き合うかについて言及した、アルモドバルらしい斬新な視点がここにはあった。
そして今回も、アルモドバルは使う服や食器の色彩、部屋に飾られたアート、小説、映画を使って、観客の五感を常に刺激する。すべてに意味があるのだ。1度観ただけではなかなか全部理解できないのだが。
中でも最も斬新な提案は、死ぬ間際まで人は美しくあれ!ということだと感じた。それは死期が迫るほどに美しく、細く、カラフルになっていくティルダ・スウィントンに象徴されている。
視界に入るもの全てが美しい👁️
心のドアは開いている
人の欲望や尊厳を刺激的かつ意欲的に描いた作品も印象的だが、やはりペドロ・アルモドヴァルと言うと、女性や家族を題材にその様々な愛のカタチを色彩豊かに謳い上げた作品が思い浮かぶ。『オール・アバウト・マイ・マザー』や『ボルベール 帰郷』などがお気に入り。
初の長編英語作品に挑戦してもそのスタイルは変わらず。
もし、あなただったら…?
長らく疎遠だった友人に死期が近い事を知る。
再会し、頼まれる。
“その時”、隣にいて、と…。
作家のイングリッドは知人から、旧知の戦場カメラマンのマーサが重い病で入院している事を知らされる。
久し振りに再会。マーサは末期のガンで余命僅かであった。
空白の時間と残された時間を埋めるかのように語り合う2人。
そんな中で、治療を拒み安楽死を望んでいる事、“その時”に隣にいて欲しいと頼まれる。
悩むイングリッドだったが、2人は森の中の小さな家で共同生活を始める。
マーサは言う。隣の部屋のドアは開けておいて。もし閉まっていたら、その時私は…。
もし自分が同じ事を頼まれたらどうするだろう…?
承諾する…?
いや、それより前にまず思う。何故、私…?
親しい仲ではあったが、もっと親しい人や身内もいる筈。マーサには娘がいる。
しかしマーサにしてみれば、イングリッドにしか頼めないのだ。
べったり寄り添い合う仲だと拒まれる。それに、私たち母娘の事情も知っている…。
戦場カメラマンとして名は馳せているが、決して満ち足りた人生ではなかった。殊に、家族に関して…。
戦地で出会った恋人。彼の子供を宿すも、PTSDになり、他人を助ける為に火に包まれた家へ…。
両親の愛にほとんど恵まれなかった娘ミシェル。
死期が迫って関係を修復したいなんて一方的…と痛烈に描いた某映画もあったが、やはり人が最期の時思うのは、自分の事より愛する者の事なのである。
語り合ったり、映画を観たり…。
空白を埋めるこの一時一時は青春のよう。
若かろうと中年だろうと、その顔の輝きに違いはない。
でも度々、不安に駆られる。今日起きた時、ドアが閉まっていたら…?
風などでドアが閉まっていたらたまったもんじゃない。
そして遂に、“その時”が…。ベランダのチェアに眠るように横たわるその姿に、覚悟はしていたかのように…。
何故、自分が頼まれたか…?
私に出来なかった事を、きってあなたならしてくれると、託されたのだろう。
イングリッドはミシェルに連絡。
やって来たミシェルと共に、2人で過ごした森の中の小さな家へ…。
ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアのケミストリー!
劇中さながら受け身に徹したジュリアンに対し、ティルダのさすがの土壇場。
本当に末期ガンに思える役作りは勿論、何と母娘一人二役…!
娘役時の若々しさやそれを演じてしまうのにも天晴れだが、母娘一人二役に強いこだわりと母娘の切っても切れぬ縁を感じた。
静かな森の中の、美しい家の中で…
母の思いに触れる娘、その傍らにいるであろう母、それを見守る友人…。
アルモドヴァル作品の中でも、最も眼差しや余韻が暖かい人間讃歌。
安楽死は、尊厳死
癌になりたくない! 特に日本では
今の保健医療体制では、抗癌剤はルーレット。
その薬が自分に合っているのか、効果が期待できるのかは問われないし
それを調べることさえ出来ない
たまたま効けば Lucky~! これが現実
薬は担当医によって、その病院と提携されているものだけが提供され
病院では、癌の餌となるブドウ糖を点滴される
その人の癌に合った食事も、調べてもらうことはないままに
吐き気、嘔吐、倦怠感、脱毛、痛み、朦朧とした日々が続く
激痛を抑えるために打たれる某薬によって、感覚はなくなり、家族にもちゃんと意思を伝えることも出来なくなり、延命治療の末、自分や国の大金を使って、
文字通り「眠るように亡くなっていく」そこに生き抜いてきた者の意思はない
これが、人間の最期の姿であって良いはずはない
1日も早く法律を変えなければ、明日は我が身である
自らの意思で選択した安楽死が、犯罪だという社会で大丈夫なのか
マーサのように、最期は自分で見つめ、考え、実行できる社会でありたい
いえ、そんな社会にしなくてはならない
この作品が、2021年に安楽死が合法化されたスペインの映画であることは、
世界への問題提起でもあるのかも知れない
家族や愛する人の尊厳死を受け入れる側の苦悩も、
イングリッドを見ていて、痛切に感じるし胸が締めつけられるが
「死」を忌み嫌うものとしての位置づけから、次の生への楽しい旅立ちだと
捉える考えも、今後は必要になってくる気がする
苦しむ人に寄り添い、共感し、全てを受け入れるなんて、強くないと出来ない
ただそばにいることが、当事者にとってどれ程安心できるのか
大病を経験した者には、きっと分かると思う
マーサの部屋のドアが閉まっていた(実行した)時のシーンは、必要悪?
まさに、この映画のハイライトだ
死ぬ間際にあんな大豪邸に思いつきで住めるのは、ごくごく一部の富裕層だけ
あまりにも趣味のいいアート、カラフルな服や部屋、そして調度品の数々が、
この映画からリアル感と共感を削ってる
親友の方も、1ヶ月間、仕事もしないで付き添えるなんて、庶民にはあり得ない
髪の毛も抜けていない美し過ぎる癌患者マーサ これも現実ではあり得ないけれど
それでも心に残る素敵な映画だった
見終わって振り返ると、「自由だ」とマーサが礼賛する同性愛者の2組の珍しい生き方が
核となって深海を流れていた
そして最後に、親友でもあり作家でもあるイングリッドが
詩を紡ぎつつ、エンディングへ
雪が降っている
一度も使わなかった寂しいプールの上に
森の木々の上に
散歩で疲れ果て あなたが横になった地面に
あなたの娘と私の上に
生者と死者の上に降り続く
歳を老いる毎に
何とも言い難いというか、予想以上に重石のような余韻
当方も、病気ではないが怪我で生活にかなり不便な状況を三回経験して、1、2回目の時は精神的にも追い詰められた時があった。
状況ではなく身体的なものは、自身から避けることが出来ない。
多分、そういう経験のある人はこの映画を足し引き無しにありのまま観了出来た気がする。
嫌味なく、昨今の環境・親子・尊厳問題なども取り入れられていて、
共通の元彼のセリフ 「世界中の詩人が詩で訴えても1本の木も救えない」
が特に印象的だった。
怪我・病気をしていなくても、歳を経過していくと興味を持つことすら本当に薄れていく。
生きていく持続力だけで気力・体力が限界に近づいていっていると否応なく理解する。
雪は『洗い清める』という意味合いもあるので、主人公の深層心理はやはり『救われたい』だったんだろう。
でも自我が無くなっていくのがそれ以上に耐えられないというのは解らないでもない。
こういう重いテーマの映画ではあまり無い、色彩使いの華やかさが、
重石のように纏った空気を清浄してくれるようだった。
【スペインの名匠ペドロ・アルモドバル監督が老境に至り、或る戦場ジャーナリストの女性の死生観を、愛と尊厳を込めて、洗練された美しき色彩で彼女の衣装、意匠と取り巻く風景を描いた趣高き作品。】
■子宮癌に侵されたマーサ(ティルダ・スウィントン)は、彼女の病を知ったかつての親友・イングリッド(ジュリアン・ムーア)と再会し、病室で語らう日々を送っていた。
癌治療を拒み自らの意志で安楽死を望むマーサは、人の気配を感じながら最期を迎えたいと願い、“その日”を自ら決断した時に隣の部屋にいてほしいとイングリッドに頼む。
イングリッドは、少し考えた後にその申し出を受けるのである。
◆感想
・ご存じの通り、今作はスペインの名匠、ペドロ・アルモドバル監督が初めて長編英語映画に挑戦し、第81回ベネチア国際映画祭の最高賞、金獅子賞を獲得したヒューマン・ドラマである。
・まず、思うのは”安楽死”と言う重いテーマを扱いながら、物語の流れが軽やかで色彩が美しいという事である。
物語の流れは、マーサが戦場カメラマンとして生きて来た人生を、病床でイングリッドに語り、実際にその映像が映される構成になっている。
そこでは、恋人だったフレッドが戦地に出掛けPTSDになり戻り、彼の子を宿しながらフレッドが無人の家の火災の中、人を助けるために死ぬシーンなどが描かれる。
・又、マーサが父の名を明かさなかった事から、疎遠になった娘ミシェルとの関係も語られる。
・イングリッドはマーサの願いを聞き入れ、場合によっては自殺幇助罪に問われかねないのが分かって居ながら、マーサの願いを聞き入れるが、彼女も又それに対する葛藤を抱えており、且つてはマーサの恋人であり、今は自分のパートナーであるデイミアン(ジョン・タートゥーロ)にその事を、マーサには内緒で相談しているのである。
だが、その描き方は重くはなく、逆にどこかユーモラスに描いているのである。
・更には、ペドロ・アルモドバル監督が描出したマーサの最期の日々の彼女の色彩豊かな衣装や、一カ月借りた瀟洒な住宅の中の家具や美術品の数々から、監督の”人生の最期は、華やかに自分の意志で終えるべきである。”というメッセージが伝わって来るようである。
・マーサが、イングリッドが居ない時に、瀟洒な住宅のテラスのリクライニングチェアーで、紅い紅を唇に塗り、黄色い衣装で眠るように息絶えている姿も、監督のメッセージであると思う。
彼女の死を知りやって来た娘ミシェルを演じたティルダ・スウィントンの姿には驚く。非常に似た女優さんだな、と最初思った程に、若々しいのである。
そして、ミシェルはイングリッドと、マーサが死を選んだリクライニングチェアーに並んで寝そべると、空からは雪が舞って来るのである。
趣高き美しき、ラストシーだと思う。
<今作は、名匠ペドロ・アルモドバル監督が、或る女性戦場ジャーナリストの女性の死生観を愛と尊厳を込めて、美しき色彩で描いた作品なのである。>
西洋の宗教感では次の部屋は2つしかない。天国と地獄。だから、騒ぐ
マンハッタンのど真ん中で摩天楼をバッグにして雪が眺められる個室。
そんな手厚い治療を受けている人が、死は自分で選びたい。(?)
付け足して、ご都合主義の如く戦争でのトラウマを添加する。冷静に考えれば、その多くのトラウマの元は西洋による侵略の成れの果て。
夫がベトナム戦争へ行って、自決の如きに死をえらぶが、相変わらずのアメリカの戦争感。アメリカ軍による侵略行為がどれだけベトナムの一般市民に傷を残したか。相変わらずである。
エドワード・ホッパーとかアンドリュー・ワイエスの絵を意識しているのは分かるが。ちょっとばかり稚拙。
この映画の角度で安楽死が語られると、必ず優生保護法の話が復活する。
「苦しまずに死にたい」って気持ちは分かるが、だから「死を選ぶ権利を寄こせ」は少し横暴だろ。それを法制化するなんてもってのほか。
西洋の宗教では、自殺では地獄へ行くから、それに異議を唱える。そこから安楽死の是非は始まっている。
従って、そう言った宗教感の無い日本人は、自ら青木ヶ原へ行く以外無い。
生きている限り、それはリスクとして死ぬまで持なねばならぬもの。
平常心であれば、最初から死にたいと思う者はいないだろ。
私には綺麗すぎた
テーマとなっている安楽死については高い関心がありました。映画祭で金獅子賞を受賞したことも、女優さんへの期待もあり、鑑賞しました。知的な会話も鮮やかな色使いの美しい映像も、俳優さんたちの演技にも惹き込まれました。でも鑑賞後にえもいわれぬモヤモヤ感が拭えず、満足度高かったと思えたのになぜそのような気持ちになるのか整理がつきませんでしたが、時間を少しおいて判りました。
綺麗すぎたのです。
主人公二人はそれはそれで苦楽を経て現在の境遇にあることになっていますが、いかんせん老いても経済的に恵まれた環境にいるため、考え方や捉え方も含めて死に美しく対峙できているのです。それは自分にはどう望んでも決してできないこと。
あんなに美しい場所を臨終の場に選ぶことは言うまでもなくできません。実際には日々の治療代を心配したり、残された近親者への負担を考えたり、多くの泥臭いでも切実な問題に直面しつつ、その中で安楽死という選択を選ぶか否かを判断することになるのだろうとしか想像できない。
テーマが実際的であるがためにこの作品の世界に身を置くことができなかったのだと気付きました。
結構重い作品。死とは何か考えてしまった
配信(アマゾンレンタル)で視聴。
予告編を観た段階では重い内容かなと想像がついた。しかし、実際観たらここまで重いとは思わなかった。今回のケースは友人だが、もし恋人、親子、兄弟、姉妹でも通用するストーリー。死とは何かこの作品を観て改めて、考えさせられた作品。脚本は素晴らしかった。特にラストは素敵な終わり方。ジュリアン・ムーア、ディルタ・スゥイントンの演技も素晴らしかった
ずっと余韻に浸ってる
細部に特別さが宿る
「自分の死」を、自己がコントロールする権利
知的、合理的、情け容赦がない、孤高、
そんなイメージのティルダ・スウィントンが主役です。
湿っぽくもお涙頂戴になる筈がありません。
元NYタイムズの戦場従軍記者で、ボスニアやイラクを取材した
マーサが癌になり療養中。
その情報を、作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、
自身の出版記念サイン会で、友達から知らされる。
早速見舞いに行き、旧交を温める。
子宮頸がんのステージ3で、抗癌剤治療の途中であると聞き、
励ますのだった。
しかし次に見舞いに行くとマーサは抗癌剤治療の成果がまったく
なかったことを怒り、治療を後悔していた。
「やはり、自分の勘の通りにすれば良かった・・・」
そして、暫くして、マーサはイングリッドに、ある頼みを話す。
ネットで劇薬を手に入れていて、頭がはっきりしているうちに、
薬を飲んで自殺する。
それをマーサに見届けて・・・と、
隣の部屋にいてほしいこと、
“ドアが閉まっていたら、それが決行した合図よ!!”
と、頼むのだった。
癌の治療を見聞きしていると、再発して骨や脳に転移して、
苦しんでしかも治療費や保険の利かない注射に大金を使い、
結局は苦しんだ挙句に闘いに敗れる。
「自分の死」なんだから、主導権は自分が握りたい、
そう思うのも自然なことだと思います。
マーサが言います。
もう楽しいことが何もない、
化学治療のせいか、頭がすっきりせず、
★本も読めない、
★文章も書けない、
★音楽を聴いても虚しい、
★映画も楽しめない、
(私も映画が面白くない・・・そうなったら生きていたくないかも)
マーサが癒されるのは、鳥のさえずりだけ・・・
自殺を決行するために借りた家は、超モダンな邸宅。
外観はなんとも歪で、窓枠が四方八方を向いている。
しかし広いガラス窓にウッドデッキが、とても美しい。
マーサはイングリッドに、剃りの合わない自分の娘ミシェルの事を
語る。
ミシェルは母が秘密にしている《自分の父親》を知りたがったこと。
殆ど産みっぱなしで、子育てを親任せにして、
自分は戦場を飛び回ったこと。
自殺した後の警察への対応や遺産のこと。
甘さや装飾のない削ぎ落とした個性のティルダ・スウィントン。
女性らしく瑞々しいジュリアン・ムーア。
原作はイングリッドの小説らしい。
ペドロ・アルモドバル監督も年齢を重ねて、成熟した印象です。
それまでのホモセクシャルの立場から性的マイノリティの
過剰なテーマから、人間の本質を見つめる作風に変化した印象です。
テーマは終末医療へのアンチテーゼだと思いました。
自分らしい死に方とは
誰が監督とか知らず、ティルダが出ていること、死の捉え方に興味があって観ました。
ほとんどがマーサ(ティルダスウィントン)とイングリッド(ジュリアンムーア)の2人の会話で進んでいきます。
戦場記者で死と隣り合わせで生きてきたマーサはずっと前から死の準備ができていると言います。しかし、新しい治療が功を奏さないと悟ったときの取り乱し方は真に迫っていました。わずかな希望に自分の生を丸ごと託したのに、死との境目を面前に晒されて、心が波立たないわけはない。
看取る役割を引き受けることになるイングリッドも心が乱れます。イングリッドの少しコミカルさも含んだ人間らしさー例えばお互い共通の元彼とよりを戻したことは口にしないーも、物語に真実味を与えるスパイスになっていると思います。
人間らしさといえば、マーサも娘と断絶して生きてきた不器用な生き方が回想を交えて再現されます。人は時代に翻弄されながら生きているのですね。
マーサが選択する自分らしい死は、法律的にはアウトです。尊厳を持った生き方、死に方とはなんだろうと考えさせられます。
夜明けまで映画を一緒に観て、一緒に森を散歩すること、何気ない日常の一コマのようなことが、マーサにとって心残りを吹っ切るきっかけとなります。
この映画の死生観の基礎は、元彼が口にする地球温暖化と極右、新自由主義がマーチしている悲観的な世の中への捉え方にあると思いました。しかしイングリッドは、そんな世の中かもしれないがやり方はあるはずだ、と。イングリッドの人間らしさ、柔軟さがこの映画に希望を与えていると思いました。
調べてみると、アルモドバル監督は抑圧に抗ってきた方なんですね。
最後のキリスト教福音派と思われる、感情を交えない警察官の頑なさとイングリッドとのやりとりがあるのは必然ですね。
ティルダの衣装やインテリアの色使いがとても素敵。もう一度観てみたいと思う映画でした。
かなり物足りない
ヴェネツィア金獅子のアルモドバルにティルダスウィントンとジュリアンムーアでテーマが安楽死と言うことで期待値をダーンと上げてしまったのを見逃し続けてようやく観れたが、そこまで面白くなかったな。
それくらいイメージではマスターピース感あったので。
タイトルは某ガールズグループと間違えそうになるけれどいいタイトル。原作があるんですね。とても文学的。そして作家と記者?の設定なので会話もとても文学的というか知的。なるほど、尊厳死考えそうな感じはある。
段々と痩せゆくティルダはどんどん妖精か幽霊かわかんなくなるくらい凄みがありつつ、肝心の薬を置いてきたり、こうしたら死の予兆よ、みたいなことを言うので引っかかったり意外に遊んでるのがイタリア人だなあ。ホッパーの絵が出てくるけど、ベランダのソファの色と服の色、肌の色、髪の色、そんなところがアルモドバルでしたね。とは言えやはり物足りない。
アメリカだからか。。
4番目の友
癌を患うマーサが計画的な死を選ぶことを決意し、病気の噂をきっかけに再会した旧友・イングリッドに残りの日々の立ち合いを依頼する物語。
映像美や静謐な空気感、死を扱いながらも悲劇で終わらず生者の物語として〆る点など、映画としてはとても良いものだと思う。
旧交を温める思い出の話題と、人生を締めくくる回顧の話題が交互に出たり、ジャーナリストとして事実と共にあったマーサと作家として感情と共にあったイングリッドの対比も面白い。終わりを選んだ人の後始末について触れるのも、扱った問題を美化するつもりはないというスタンスが見える。
そうして映像作品としてもシナリオとしても優れ、丁寧に作られているだけに、ただ一つ、非常にマーサファーストな世界観が引っかかった。
母親不在のシングルマザー家庭で娘が父親を求める態度を「しつこい」と評し、治験の意義を無視して投げ出す点はまだしも、犯罪幇助に問われそうな形で友人を巻き込むのはマーサの人物像との矛盾を感じた。また、ストーリー上のイングリッドがあまりにも『理解あるイングリッドちゃん』で、イマジナリーなのではないかと疑った。
マーサを知性と思考力を持つ自立した人として繰り返し描写している分、旅立ち方を決意するまでの準備の甘さや大人らしからぬ振る舞い、イングリッドの都合のよさが悪目立ちしていて、ティルダ・スウィントンのような超然とした役者でなければマーサの印象は違ったように思う。登場人物達と自分では『自立した大人』像が違うのかも知れないし、マーサの振る舞いこそが安楽死や尊厳死に対する作り手のアンサーなのかも知れないが。
その他、死を恐れるイングリッドが介護でも看護でもない形の看取りを経験することで成長する点や、病気と闘うことを当たり前とする同調圧力や強いサバイバーであることを尊ぶ風潮へ疑問を投げかける点など、鑑賞後に掘り下げたくなるような魅力的なポイントも多く、得るものが多い作品だったと思う。
映画の必要があるの?
全145件中、1~20件目を表示












