「理解できないことのリアリティ」ハイパーボリア人 sumuさんの映画レビュー(感想・評価)
理解できないことのリアリティ
好きか嫌いか、お勧めするかしないか、そうした基準の一切を跳ね除ける作品。
見たあとしばらくの間、理解もできなければ、言葉にもならず。
ただこの作品を見た、という体験だけが内側に残った。
体感的には、「川辺を散歩していてなんとなく川の水を触った」とか「真上を飛行機が飛んで空を見上げた」とかと似た体感。
感情を大きく揺さぶられるというよりは、目の前に流れた出来事に、意味や理解を求めると困惑する、という感じ。
映画を見て2日経ち、身体の内側にいたハイパーボリア人の記憶と少し話ができるようになってきた感覚があり、記述してみている。
今日は予想外な出来事に遭遇して、怒ったり悲しんだりグラグラと気分も混乱していた。
一息つくと、ふとハイパーボリア人の映像の断片が思い浮かんでくる。
私が混乱している状況の中、意外なことに親しみを感じたのがこの映画だった。
その要素
わけが分からぬままにポンと混沌とした状況に投げ込まれる
自分の身の回りの大半は、自分の考えや予想に反して展開している
自分自身すら辻褄の合わない要素をあわせ持つ
愛する人が何を考え・信じているのかも到底理解できない
ある時180°人や物事の見え方が変貌する
ありがちな非現実的な感動ポルノに心揺さぶられる
作り込みリアリティを求めるほどにリアリティが遠ざかる
取り組んでいるうちに段々と理解を超える次元に到達し、ただ続けている
これらの断片について思うことは、映画なのに、とても自分の現実に近しいもののような感覚だった。
混沌としていて、そこには一貫した筋道は見えず、ただあちこちに巻き込まれていく。
自分で意味を見つけて、理解しようとすることで自分が保たれる。
自分が保たれる一方で、流したこと、忘れたこと、整理されていないこと、辻褄の合っていないことを抱えていることも確か。
チリの監督ということもあって、ホドロフスキーも思い浮かぶ。
映画監督でもあり、演者でもあり、サイコマジックで人をケアする者でもある…複雑な肩書きのあるホドロフスキーも、時折り主演の人物と重なって見えた。
この作品を通して、映画自体が期待されていることや映画が果たす機能を、解体・拡張しようと実験しているかのような。
オオカミの家でも感じた、身体の内側に残る感覚が、より理解とは遠い場所で生じる作品をみた。