劇場公開日 2024年10月5日

トワイヤン 真実の根源のレビュー・感想・評価

全1件を表示

3.0チェコのシュルレアリスムを代表する女流画家トワイヤンの画業を概観するドキュメンタリー

2024年10月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

今年は、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してから100年のメモリアル・イヤーに当たる。
ちょうど京都・板橋・三重では「シュルレアリスムと日本」展が開催され、板橋で見逃した僕はわざわざ三重まで観に行ってきた(日本におけるシュルレアリスム受容を、作品本意でうまくまとめて概観してみせた画期的な展覧会だった)。
一方、ユーロスペースでは、シュルレアリスム100年映画祭と称して、著名画家のドキュメンタリーや代表的な映画作品を特集上映するという。あえてダリやマン・レイではなく、ルネ・クレールとブニュエル、ハンス・リヒターというのがミソで、これはさすがに観に行かねばと、日曜にまずは3プログラム「はしご」してきた。こちらはその一本目。

女性としてシュルレアリスム運動に参加した存在として著名な、チェコの画家トワイヤンをめぐるドキュメンタリー。

しょうじき映像作品としては、大した出来ではない。
映画というよりはテレビのノリで、しかも2015年に作られたとはとても思えないくらい、古臭い作りでびっくりした(1980年代くらいのセンス)。
中でインタビューイがしゃべっているときでも、のべつまくなしにBGMでクラシックを流していて、聞き取りにくいことこの上ない。テンポ感としても、全体にせわしなく、詰め込みすぎ。肝心の絵画作品のほうも、映像でじっくり見せてくれないのでいらいらする。
トワイヤンの人柄や芸術観についての言及もあまりない。知られざる一面について深く掘り下げるとか(たとえばトワイヤンのセクシャリティとか)、トワイヤン芸術の内実に迫ろうといった高尚な学究的モチベーションも、あまり感じられない。
一方で、チェコの絵画芸術運動の概略的な歴史や、参加したメンバーの変遷、そのなかでのトワイヤンの立ち位置といった大雑把な状況を把握するのにちょうどよい内容であるのは確かで、そういった教育的な意図でつくられた入門者向けの啓蒙映画として捉えるべきものなのだろう。

トワイヤンについて詳しく知っている日本人はそうそういないだろうし、彼女の参加したチェコのシュルレアリスム運動がどんなものだったか知っている人も少ないはずだ。
僕自身、小学生時代からダリやミロをこよなく愛し、大学では西洋美術史を専攻し、ヒエロニムス・ボスで卒論を書きながらも、トワイヤンについては名前といくつかの代表作を知っていた程度だった。チェコのシュルレアリスム運動に関しても、かのヤン・シュヴァンクマイエルが自らをシュルレアリストと位置付けていることくらいしか知識がなかった。

その意味では、ダダの反芸術運動を震源地として、フランスでシュルレアリスム運動が勃興し、それがヨーロッパ各国に「飛び火」していく過程(その前にはキュビズムの伝播が先駆けてあって、トワイヤンも影響を受けていた)や、東欧では直接的に新芸術運動が共産主義および反政府運動と結びついていた点、トワイヤンには(ある意味シュルレアリスムとは対極的な)「人工主義」を標榜していた時期があったこと、常に彼女の画業にはパートナーとしてのインドリッヒ・シュティルスキーが存在したことなどは、よく理解できた。

お宝映像としては、ラスト近くでアンドレ・ブルトンが川でメノウを採っているホーム・ヴィデオのような映像があって、裸のブルトンが動いているのを観たのは初めてだったので、ちょっと興奮した。あとは、森のなかで車座になってゲームに興じるシュルレアリストたち。ブルトンが仕切っていて、トワイヤンも横に座っている。なんだか、老人になっても学生運動の気風が抜けない、中央線沿線の闘士崩れの人達のようだ(笑)。

トワイヤンの作品については、初期のキュビズムおよびピュリズムの影響下にある作品群から始まって、「人工主義」をシュティルスキーとともに掲げて抽象主義に近接する。当時の作品は、ちょっとカンディンスキーを想起させる色彩感覚と形態性を示しているが(ルドンっぽいところも)、あくまで具象の部分――それもかなり「わかりやすい」具象と象徴性を常に秘めたモチーフ選択になっている点が興味深い。
アンドレ・ブルトンに出逢ってからは、彼のシュルレアリスム理論に傾倒し、その後もっとも献身的な理念の守護者となったという。
作風としては、地平線以外なにもない空間や、闇、木目などを背景に、奇怪で印象的なモチーフを置いてきわだたせることが多い。モチーフとしては、鳥、魚、貝、豹といった動物や、芽・根・キノコといった植物を発想源としたものが印象的だ。作品によっては、タンギーやマグリット、エルンストに接近するが、どことなく明朗で芯の強い強固さ(不気味ではあっても、あまり神経症的な印象を与えない)や、あっけらかんとしていて露骨なくらいの「性」のイメージ、鳥や魚を前に感じる「得体の知れない」畏怖の感覚の再現などに、強烈な個性を感じさせる。
個人的には、顔のない「がわ」だけのフクロウが女性の顔を鷲づかみにしているもの(少しサロメやホロフェルネスの画題を逆転させたような感じ)や、青い巨大なフェレットが白い小さなフェレットをくわえているものに強く興味を惹かれた。
これは画集をちゃんと買っとかないと……。

ドキュメンタリーとしては拙劣な出来だが、これまであまり関心を持っていなかったひとりの女流画家に「気づかせてくれた」という意味では、十分意義のある鑑賞だったと思う。
あとは、遠い日本から成果物としての絵画作品だけ見ていてもピンとこないけど、ヨーロッパの芸術活動というのは、つまるところ親密で濃密な「人と人の交流」と「サロン的な結びつき」で形成され、発展してきたのだな、ということが実感できた部分もある。結局は、シュルレアリスム運動だって「アンドレ・ブルトン」という人間の魅力に「たらしこまれた」連中の「仲間意識」が生みだした芸術なわけだしね。

なお、作中ではスメタナやドヴォルザーク、ヤナーチェクといったチェコのお国ものや、ベートーヴェン、プロコフィエフなどさまざまなクラシックが流れていたのだが、ラストのドヴォルザークのチェロ協奏曲のあと、唐突な感じで無音状態が続いて、かなり場内が緊迫した(笑)。本当はなんかもう一曲あったはずなんじゃないのかな?(クレジットではロストロポーヴィチのドヴォコンとロココのカップリングの音源から採られているみたいに書いてあったけどw)

コメントする (0件)
共感した! 1件)
じゃい