ゆきてかへらぬのレビュー・感想・評価
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作り手たちの映画愛に満ち溢れた作品
久しぶりに古き良き映画の匂いに満たされた作品に出逢えました。でも、それでありながら決して“古く”はなく、21世紀を生きる私たちに訴えかける現代性が、むしろ新鮮な映画的感動を呼び覚ましてくれます。非常に贅沢で、作り手たちの映画愛に満ち溢れた作品です。
名匠・根岸吉太郎が監督、田中陽造による夢の脚本と、広瀬すず、木戸大聖、岡田将生という日本映画を担う若きキャストの組み合わせに唸らされつつ、本作は近年では珍しく撮影が順撮りだったということに驚かされます。
撮影、照明、美術による空間と色彩設計、衣装、ヘア&メイクによる人物造形、そして根岸監督の演出と、録音、編集、音楽によって総合的に構築された物語世界に引き込まれて陶酔してしまうことでしょう。
奇妙な三角関係の上澄みをすくった作劇と映像美。詩作や批評を深掘りしない物足りなさも
雨で墨色に濡れた京都の通りに、赤い傘、朱色の柿が鮮烈に映える映画冒頭に象徴されるように、こだわり抜いた映像美に魅了される。本編の多くの場面にはセピア調のフィルターがかかり、お金と手間ひまをかけたであろう大正時代を忠実に再現したセットや衣装の趣と相まって、当時の写真を眺めるようなノスタルジックな感興もわく。
女優・長谷川泰子の存在を私自身は知らなかったが、中原中也、小林秀雄との奇妙な三角関係は有名な話だったようだ。まだ無名だった中原が泰子に出会い同棲し、彼女からのインスピレーションが詩作を刺激する。かたや批評家の小林秀雄はアルチュール・ランボーの詩を翻訳して文芸誌に発表し、これも中原に大きな影響を与える。そんな中原と小林はやがて知己を得るが、泰子が小林のもとへ身を寄せるようになり……という流れが、比較的穏やかな恋愛劇として描かれる。キャリアの長い岡田将生と広瀬すずはさすがの安定感だが、広瀬より2歳若い木戸大聖も早熟な詩人の雰囲気をうまくまとっている。
一方で、劇映画やドラマでたびたび取り上げられてきた宮沢賢治や太宰治などに比べ、中原中也は文学好き以外の(私を含む)一般層にとって代表作を国語の教科書で読んだ程度の知識しかないと思われることからも、もっと中原の人となりや、さらには詩を創る行為、精神状態の深い部分に迫る脚本であればなおよかった。小林秀雄についても同様で、彼の文学批評眼や文章へのこだわりなども描いてほしかった。日本文学史に確かな足跡を残した人物2人を取り上げたのに、三角関係の上澄みを美しく見せるだけで、創作や情愛の深層に触れられないのが物足りなく、もどかしく感じた。
配信で鑑賞
三人とも丁寧に作り上げた良い味の出た演技で戦前の良き時代と天才の乱...
ザ・大正文学映画
広瀬すず主演と世界観
Amazon Prime Video で鑑賞
最近Prime Video を見ていない。広告付きになって、どのように広告が入るのか。そこで見つけた映画で2025年作だからPrime Videoオリジナルかと思ったら、劇場公開作品。2月は映画館行けなかったから知らなかった。広瀬すず主演なのに。
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実在した長谷川泰子という女優の半生を描いた映画のようであるが、wikipediaにはこの映画の記載が無い。
その代わり長谷川泰子の記載は細かくある。しかし男性遍歴が中心で女優という割に女優の記載はほぼ無い。
長谷川泰子、中原中也、小林秀雄の男女3人の関係がずっと描かれているが、彼女彼らをよく知っている人には別の見方が出来るだろうが、全く知らない私には3人の思い入れがない。
自宅で見ているから良いが映画館ではたぶん寝ているだろう。大正の時代はうまく描かれていると思うが展開が退屈である。
しかもフィクションなら登場人物に対して色々な解釈をしても良いが、実在の人物に変な解釈をして、よく知っている人から「それは違います」と言われても困るのでどうしたら良いものなのか?
(広瀬すず*)は依存体質で2人の男性がどちらも好き。だけどどちらか一方を選べない。だから3人一緒でいたいし、そうでないと情緒不安定になってしまうのだろう。
大正浪漫
重過ぎず軽過ぎずフワフワとサラサラと
中原中也という名は、早熟の詩人ランボォの名と共に、頭のどこかに残っていましたが、どんな人物だったのかは深く知る機会がありませんでした。
ただ、教科書に載っていたソフト帽を被った童顔の写真は、いつまでも脳裏に残っていました。
小林秀雄も教科書で名前だけ知っていましたが、どんな人物なのかは全く知りませんでした。
この映画は、実話に基づいていますが、まさかこの2人が1人の女性をはさんで、こんな不思議な関係にあったとは初めて知りました。
広瀬すずの演技はますます磨きがかかり、揺るぎない安定感なのは当然ですが、中也役の木戸大聖が、本人とソックリなのにはそれ以上に驚かされました。
文学界をテーマにした作品はどうしても重苦しくなり過ぎたり、逆に無用な冒険をして似て非なるアバンギャルドになり過ぎたりと、ちょうど良いバランスの作品が少ない気がしますが、本作はその間をうまく行ったり来たりして、フワフワとした浮遊感と、サラサラした爽やかさを両立しながら、ヤジロベエの様に上手くバランスを取りながら成立している様に感じました。
時代は違っても、現代にも通じる青春群像劇として、良作だと思います。
感情の言語化の是非
何とも言えない雰囲気を漂わせる作品
文学 特に詩に魅了された時代
大正時代という設定のようだが、セリフに「シベリア抑留」というミスがあった。意図的かもしれないが、その意味は解らない。
この物語は実在した中原中也と長谷川泰子、そして泰子と関係していたのではないかと言われている小林英雄の三角関係をフィクションとして描いている。
概ねこのことを知る人に、この物語の背景を隠すために、中也という名前を最後に出したのだろう。
あれがなければ気が付かなかった。
長谷川とか中原という名前さえ、しばらく登場しなかった。
そしてこの映画は、長谷川泰子が70歳のときに発表した自伝的小説をもとにしているようだ。
さて、
この作品の時代背景 詩という言葉が持つ世界観や情景
それは読み手の主観で変わるはずだが、そこにこそ真実が隠されていると疑わない中原と小林やその世界を牽引してきた人々
表面上の意味だけで言葉を無意味に並べ立てることを良しとしない。
このような文学的というのか詩に憑りつかれた中原中也
経験よりも先に言葉があり、意味があり、風景に感じる哲学的な想いや物事の理を考えずにはいられない。
誰かとあるテーマについて論じあい、それはまさに「剣道で真剣を使うようなもの」であり、竹刀のような中途半端な想いを真剣で切って捨てまくるように、言葉を遣って相手を畳みかける。
経験していないこと
中原にとってそうだとはいいにくく、またよくわからないのが、恋だったのかもしれない。
3つ年上の泰子
坊やと呼ばれる。
詩人として天才だと言われていた中原
感じたことを言語化することと、それを読んだ人が似たような感情や情景を思い浮かべることができることは、言葉が持つ最大の力だろう。
そこに確かな感情があることで、それが読み手に伝わるのは、発信者が持つ感受性の力であり、これを言霊と呼ぶのだろう。
だから他人が同じ言葉を使用しても、そこにその感情が伴わなければ言霊はなく、読み手に思いは届かない。
坊や 子ども 17歳
彼が持つ感情を言語化する能力は、子どもゆえの純粋さがあるからだろう。
同時に感情に任せて喧嘩することもあり、決してその溢れ出す感情を抑え込もうとはしないことこそが、中原の人間性であり泰子が彼と一緒にいた理由だろう。
彼は常に本心を表現しようとする。
長谷川康子
彼女にあったトラウマ
母の精神崩壊と入水自殺
母の本気の狂気
それは幼い泰子にとって強烈な出来事だった。
その狂気の血が自分にも流れているという。
中原が親友富永の吐血を見ながら何もしなかった泰子を責める。
「君には愛がないのか?」
「私、泣きたい。人のために、自分のために」
泰子は「泣いたことがないかもしれない」と言っていたが、中原の詩を聞き涙を流した夜があった。
泰子は気が狂った母親と無理心中というトラウマによって、感情にブレーキがかかってしまったのだろうか?
自分自身の気持ちを言葉で表現することができないし、したいとも思わない。
体裁を繕う嘘
本心とは逆の言葉を遣うこともある。
「嫉妬」
坊やと言いながら、女郎を買ってくると言った中原の頬を打つ。
この嫉妬は何度か登場する。
嫉妬とは人が最も隠そうとする感情かもしれない。
天才的詩人である中原の詩は確かに泰子の心を打った。
しかし、言葉は所詮言葉であって「それ」そのものではない。
泰子は本当の人間の心の闇を覗いた者だ。
母 彼女の狂気
そこに付ける言葉などない。
ただ、どうしようもなくなった女の狂気があった。
言葉は、共通語として利便的なだけであり、「それ」そのものに対する表現の一部でしかない。
「それ」を言葉にした途端、それそのものとは別物である「言葉」に置き換えられ、その人にだけ感じた唯一の「それ」は消えてしまう。
中原たちは「それ」を再発見するために言葉を遣って詩を書くのだろう。
しかし、実体験して感じた「それ」はもう言葉で作り上げることなどできない。
泰子は言葉にできない自身の感情を、他人が勝手に分析しようとすることが堪らなく嫌いだ。
泰子はしばらく同棲していた中原のところから小林のところへ移った。
それは、「私に対する愛情があるかどうか」が指針となった。
幸せと不幸 泰子が使った言葉 指針
中原には純粋な感情があった。
それを言語化することに夢中になっていた。
そして中原は、
自分以外のことは非常によく言語化できるのに、自分自身のことはよくわかっていないことを泰子は見抜いていた。
泰子に言い当てられた本心 ビー玉のような心
言い当てられたことに対する怒りをぶつけてくる始末
「わかったような口をきくな」
心を言葉にできない泰子だが、人間の闇の深さを体験している。
それさえも言葉にできない。
いつも詩を作ることに心を奪われている中原
しかし、
泰子にとって大切だったのは、もっと必要とされたいこと。
小林は泰子を必要としていた。
ところが何でも分析したい小林は、泰子の心まで分析しようとする。
泰子の心の奥底にあった母
何でも言語化したり分析したりすることに夢中な二人だったが、傍にいる泰子の本当の心の奥底を感じることもできなければ、それを言葉にすることさえできない二人。
泰子は、中原が当てつけに持ってきた柱時計の時打ち音に激しく反応した。
「同じ時計の音でつながっちゃう」
感情の言語化
何かを感じる心
中原の意図を感じた泰子
同じ時計の音 繋がり
別れても心に残る中原
それを「モノ」によって置き換えられたことに対する激しい嫌悪感
確かに中原は泰子の本心の一部だったのだろう。
決してそれを否定できない泰子
否定しても否定しても現れて来てしまう「本心」の存在
それは消したいと思っても永遠に残り続けている幼い時の出来事 母の狂気
小林は「二本のつっかえ棒」という言葉で3人の関係を表現した。
そして泰子に対し離別を宣言した。
この時の泰子は、あの時の母と同じになったのだろう。
泰子は、奇しくもあの時の母を自分自身で表現したかったということに、やがて気づくことになったように思う。
あの苦しいトラウマをもう一度再現したことで、「終わったのよ。私たちの不幸が」という言葉に繋がるのだろう。
毒を以て毒を制す つまり、痛みを以て痛みを消したのだ。
言葉にできない泰子の長い葛藤とそれからの解放
これを作品として表現した映画の持つ力
そして彼女自身が見つけた自己「表現」の方法
何でも言葉に置き換えて表現したい中原と小林
このコントラストを監督は表現したかったのかもしれない。
それ故この物語には明確な「別れ」が必要だったと解釈した。
だから中原の死と小林との別れ「さようなら」をはっきり描いた。
小林は泰子に、いつか中原が言った「散る花びら」のことを語る。
そこにあった「散るのか、それとも散らすのか?」という問いかけ。
この言葉は奥が深い。
起きる出来事に対する運命的解釈と意識的解釈
そしてこの言葉は、泰子のトラウマである母と同じ道を辿ってそれを終わらせたことが、運命だったのか意識していたのかということにもつながるように感じた。
潜在意識と顕在意識 または運命
棺に納めた赤い手袋
彼の母の手編み
中原は裕福だったがもしかしたら父は早くに亡くなったのかもしれない。
赤という女の子の色は、母が望んだのは女の子だったのかもしれない。
しかし、中原にとってその時期ほど幸せだったことはなかったのだろう。
学問 知識 言葉 そんなものを知ったと同時に、純粋な当時の気持ちを言語化しようとした瞬間に、中原は本当に大切なものを見失っていったのかもしれない。
母の手編みの手袋
オレの心臓
その大切なものを別れの記念に持たせることは、中原にとって泰子との別れがどんなものだったのかが伺える。
泰子とは真逆の幼少期
世の中にあるすべてのものは、自分自身の中にある。
対局さえも同居している。
感情や本心ほど自分の中心にあって見えない。
出来事や他者の振る舞いに感じる、反応するものこそ、自分の心
それそのものを言葉や何かに置き換えることはできない。
表現とは、それそのものではなくそれを受取った感想
この感想が連鎖するので多義的となるのだろうか?
中原や小林のように、どんなに言葉をつなぎ合わせるように考えても、自分自身というものが見えない。
泰子の「同じ時計の音でつながっちゃう」というセリフに込められた、記憶と感情の連鎖。
求めているものには決して追いつくことができず、逃げたいものからはすぐに追いつかれてしまう。
タイトル 「ゆきてかへらぬ」
今この瞬間に沸き上がった感情は、言葉にしてもそれに追いつくことなどできない。
過去も変えることなどできない。
過去のトラウマは、似たモノによってたちまち当時の感情が襲ってくる。
追いかけても捕まえることはできず、逃げようと思っても襲われてしまう。
これこそがこの世の理だとこの作品は言っているのかもしれない。
時代を纏った作品
広瀬すずさんの時代を纏った演技に始終圧倒されっぱなしの128分でした。
正直、彼女から大正時代の空気感などまるで感じていなかったので殆ど期待していなかったのですが、良い意味で見事に裏切られました。
長谷川泰子という大正時代の女優をしっかりとモノにしていらっしゃいました。
導入時、2階の窓辺から一階の玄関に至るワンカットでの所作や、雨の中で木戸さん演じる中原中也との会話からも普段の広瀬さんとは違う魅力が爆発していました。
彼女を通して男2人の関係が浮き彫りになっていく点も素晴らしかった。
まるで大正時代を舞台にした「突然炎のごとく」を観ているような気分にも浸れました。
一重に広瀬さんの時代を纏った演技のおかげだった気がします。
勿論、広瀬さんの演技だけでなく、セットや小道具、ロケ地に至るまで大正時代の空気感を損なわない演出が随所に散りばめられてました。
特に目を奪われたのが卓抜した撮影の巧さ。
雨の中、瓦屋根に挟まれた石畳の路地をゆっくり移動する赤い傘を捉えた真上からの映像や、咲きほこる桜の中で会話する中也と小林を捉えた映像など息を呑む美しい映像の数々に心を鷲掴みされてしまいました。
敢えて被写体だけにピントを合わせて手前と奥をぼかした映像も多く、ワンカットに対する熱量が半端なかったです。
中途半端な小道具やセットで時代感を損なう映画になっていないだけでなく、撮影で見せる絵作りを心がけたスタッフの尽力に並々ならぬ努力に感謝したいくらいです。
三人の演技が素晴らしい!
中也の生まれた山口市で上演しないなんて、間違っている!と思ってましたが、ちゃんと山口でやってくれました。ありがとう関係者の人達。
すごく楽しみにしてましたが、期待どおりでした。広瀬すずにとっては間違いなく代表作になるだろうし、木戸大聖はもう、中也そのもの!に見えました。素晴らしかった。
岡田将生の小林秀雄も、ピッタリでしたね。
榎本佑をあんなちょい役で使うなんて贅沢すぎる。監督の人脈でしょうか。
細部までこだわった美しい映像も、時代の空気感が見事に体現されてます。
あの三人の言ってるセリフがインテリジェンスすぎてよくわかんないんですけど、それがまた当時の文学っぽくてよかったです。
三人の複雑な関係をあんなに見事に表現することが出来たのは脚本のお陰だと思います。
ただ、泰子はなんで小林だけになると、あんなに神経症みたいになっちゃったんでしょう?
中也がいなかったから?小林が優しいけど完璧主義で、それに合わせて無理してたから?
数字にこだわってたのは何で?
ちょっとその辺がわからなかったですね。
長谷川泰子の本でも読んで研究しようかなと思います。
追記‥そのあと長谷川泰子の「中原中也との愛 ゆきてかえりぬ」を読みました。
彼女の潔癖症という病気に関してはよくわかりました。彼女は、映画ではやんわり描かれてますが、けっこう幼少期の両親の記憶をひきずっていて、幸せになると不安になって、相手を追い詰めて自分を不幸にする、というタイプだったようです。だから、大切にされすぎるとダメになっちゃう可哀想な人でした。
数を当てさせる、というのも実際にあったらしいですね。
でも、映画では精神的にも経済的にも自立してかっこよく終わってましたけど、実際はだいぶ違ったみたい。もっと病的っていうか。。
まあ、まったく一緒である必要はないから、これはこれでいいと思うけれど、よく史実を知ってる人はモヤモヤしたかもしれません。
実際はもっと、ドロドロしてて、理解不能で、深くて、面白かったかもしれない。
でもあの時代の文豪って、描ききれないから魅力的なんだと思います。
歪な愛情
大正時代に出逢う女性と2人の男性。
それぞれの想いが交錯し歪な愛情の中で、愛することを模索する。
出逢いなく始まり、それぞれが本心を隠したまま進む恋愛模様が淡々と進む。
盛り上がりも薄く感じられ、それぞれが愛してたことは解るのだが今ひとつ心に届くものを感じられなかった。
好みもあるのだろうけど。
すずちゃんの艶技に刮目
長谷川泰子と小林秀雄・中原中也の若き日の奇妙な三角関係の話は、私が高校時代に知った。当時長谷川も小林も存命であり、このあたりの話は結局「棺を覆った」のと共に失われると思っていた。
本作の存在を知った時驚き、また「是非見たい。」とも思いました。
意図は不明だが全体的に室内や夜間のシーンが多く、画像は暗いが、それでも彼らの青春譚を虚実織り交ぜながら上手に描いている。それにしてもすずちゃんの濡れ場には刮目しました。もういつまでも高校生役ばかりじゃないからね。立派な大人の俳優になり、オジサンとしては嬉しい限りです。このあたりやはりロマンポルノ出身の監督の常で、根岸監督のねっとりとした描写にも満足です。なお、歯ブラシなど小道具の考証はしっかりしています。ロケバスは戦後型ですが、当時のバスはもうなかったのでしょう。この辺はハリウッドには負けますな。ラスト近く中原の葬儀でようやく画像が明るくなります。彼らの青春との訣別を表すメタファーだったのでしょうか。
大正時代って
「人生全てかけて書いている」
大正浪漫ごっこ
受験生時代に散々苦しめられた思い出しかない小林秀雄、彼と親交があり「汚れちまった悲しみに」で知られる中原中也、そして二人の男と深い関りを持った女優・長谷川泰子の複雑な三角関係を描いた大正時代の実話に基づくお話です。監督は久々に登場の根岸吉太郎さん。
さて、僕は勿論この時代に生きていた訳ではないのですが、セットや衣装をそれっぽくしても本作で描かれるのは「大正浪漫ごっこ」にしか見えず、一気に冷めてしまいました。更に、この頃既に先鋭的な表現者であった3人の間にはもっとネットリ・グズグズしたものがあった筈なのに、本作ではそれもすっかり漂白されてしまっていました。根岸吉太郎監督なぜこれを撮りたかったのでしょう。
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