「血みどろも、ゴミ屋敷もいらない」悪い夏 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
血みどろも、ゴミ屋敷もいらない
チャンス大城が演じるキャラクター、
彼の所作に込められたリアリティが、
本作における、
不可欠な思考の補助線の要素となっている。
どういうことか。
その所作の細部、
単に上半身を曲げるのではなく、
身のすくめ方、
自転車を押す際の緩急のつけ方、
その身体的動作に、
彼のキャラクターの身体性、生々しさとその背景がにじみ出ている。
これらの所作は、単なる演技の一環としてではなく、
その人物が生きた環境、過ごしてきた時間、
そして経験してきた試練を物語っているのかもしれない。
多くの人々を見て、数々の現実を体感してこそ、
ここまで自然に表現できるものだ。
このリアリティを演じるためには、ただの技術ではなく、
感覚と体験が必要であり、
大城はその絶妙なバランスを完璧に捉えている。
ところが、
監督はこのリアリティラインに完全には乗らない。
リアリティラインというのは、
物語の中で登場人物が示す「現実的な限界」のようなもので、
映画のトーンを、世界観を決定づける要素だ。
この映画では、現実に寄り過ぎることなく、
時に意図的に誇張され、または抑制された演出がなされている。
そのラインを意図的に引き、
物語が進行するにつれて少しずつそのトーンが変化していくのだ。
中盤から転調が始まるが、
この転調が映画のリアリティと虚構との距離感を見事に保ちながらも、
観客を引き込む効果を生み出している。
エロ、グロ、ややエロ、身体性、社会性、
それらの要素を自在に操ることができる監督である。
エロやグロといった要素が物語の中に登場する際、
それらがただの刺激的な素材として使われるのではなく、
しっかりとキャラクターの内面的な闇や欲望を表現するための手段として組み込まれている。
映画全体を通して、
そのバランス感覚が変化し、
特に中盤から後半にかけて、
グロテスクな表現が(主に痛々しい生活表現)、
過剰になることを避け、
エロや暴力も控えめに描かれる瞬間が増えていく。
キャラクターがそのリアルなグロテスクさを描かずとも、
その内面にある闇や暴力の兆しを完全に表現できると判断したのだろう。
苦悩や不安、絶望をリアルに伝えるためには、
決して血みどろな映像や、
痛々しいゴミ屋敷の描写が必要というわけではない。
物語における感情的な重みをキャストの演技に委ねている、
この潔さこそが、この映画のリアルさに繋がっていると言える。
そして、その潔さに応えるキャスト陣も素晴らしい。
キャラクターたちは、グロテスクな場面を描写しなくても、
その内面にある激しい葛藤や深い傷、滑稽さを見事に表現している。
リアリティラインを背負うことができるように、
誠実に準備されたであろう芝居が、
映画全体のクオリティを引き上げている、
と言っても言い過ぎではないだろう。
総じて、「悪い夏」は監督の独特な手法、
調律が冴え渡る作品であり、
リアリティと虚構を巧妙に操りながら、
視覚的、感情的、音楽でも強烈な印象を与える映画だ。
その中で最も重要なのは、キャラクターの所作のリアルさと、
それを描くために意図的に動かされるアリティラインである。
映画が進むにつれ、このラインがどのように変化していくのか、
このピンポンは誰、
更にピンポンは何、
と思う時、
その時はもうこの世界観にはまっている証拠だろう。