「『国宝』と『宝島』の深層構造 カタルシスと反カタルシス(『宝島』バージョン)」宝島 マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
『国宝』と『宝島』の深層構造 カタルシスと反カタルシス(『宝島』バージョン)
李相日監督『国宝』は、ヤクザの子・喜久雄と、歌舞伎役者の子・俊介のふたりで演じる「二人藤娘」「二人道成寺」が目を引くが、なにゆえ二人演目なのか。
物語中、喜久雄と俊介が歌舞伎舞台から上方を見て、「あそこから何やらずっと見てるな」と頷き合うシーンがある。
文化人類学者の山口昌男は、渡辺保『女形の運命』を参照し、こう書いている。
「歌舞伎の舞台においては、二人の役者が舞台のほぼ中央の一点との関係において作る三角形があり、この三角形の頂点は、舞台の空間あるいは観客の視線の力学上の中心点である。そしてこの『中心』には深層に通じる意味が匿されている。この『中心』の意味は、歌舞伎の最も『神話的な部分である』『三番叟』を見るとよくわかる。『三番叟』で翁になった一座の統率者(座頭)は、この『中心』である舞台正面へ来て平伏する。この礼は、観客は自分達に向けられたものであると誤解するが、実は、観客席の屋根の上にある櫓に対して行われたものである。櫓はいうまでもなく神降臨の場であり、この礼はいわば降臨する神への礼である」(「天皇制の象徴的空間」、『天皇制の文化人類学』所収)。
ふたりを見守っていたのは「神的な何か」であろうが、「天皇制の象徴的宇宙を形成するモデルは演劇の構造の中に再現される」(同書)。とすると、それは天皇制の中心にいる「天皇」にほかならない。
こう言ってよければ、喜久雄はヤクザ=周縁の出身だ。「賤(しず)の者」である。高貴な出身の者が、何らかの事情で身をやつして漂流し、しかし本来の身分が知れて復辟する「貴種流離譚」という物語類型があるが、喜久雄の場合、この逆である。だが、天皇制は、対立する極性を包括する構造を持っている。賤の者を貴い者へと転生させる。
喜久雄は、ある景色をずっと探していた。「鷺娘」の終幕で、光に包まれる喜久雄=花井東一郎は、「天皇」の威光の中で、その景色を見たかのようだ。だから「国宝」になれる。
日本のZ世代が、皇族を単なるタックスイーターだとしか思っていないのであれば、こうした「天皇ロマン主義」は雲散霧消し、天皇制は消滅するのかもしれない。だが、空白になった「統合の象徴」に、何がやって来るのか。
大友啓史監督『宝島』は、米軍統治下の沖縄で、米軍の物資を奪って民衆に分け与える「戦果アギヤー」と呼ばれる者たちを描く。
宜野湾市の売春街「真栄原新町」の誕生と消滅を追ったルポルタージュ『沖縄アンダーグラウンド』で、藤井誠二は沖縄ヤクザのルーツをこう語っている。
「沖縄ヤクザのルーツの一つは、戦後の米国統治下で『戦果アギヤー』と呼ばれた、衣類や薬品などの米軍物資を基地から盗み出し、沖縄や台湾や近隣アジア一帯に売りさばいていたアウトロー集団である。『戦果アギヤー』が扱う盗品は、拳銃や火薬など戦争で使用する武器弾薬類も含まれていた。
米軍の取り締まりが厳しくなると、彼らは特飲街の米兵相手のバーからみかじめ料を取ったり、酒場を経営したりしてシノギを得るようになる。彼らは不良米兵対策の用心棒としても重宝されていた。(中略)一九六〇年代に入ると県内各地でアウトローたちが新たに頭角をあらわすようになり、それがグループ化して愚連隊になっていく。那覇市を拠点とした『那覇派』と、コザ市(現沖縄市)を拠点とした『コザ派』が生まれ、縄張りなどをめぐって血みどろの抗争を繰り返すようになった。
コザ派は主に戦果アギヤーをルーツとし、那覇派は空手道場の使い手たちが用心棒稼業をはじめたことが母体となっている」。
戦果アギヤーのカリスマ的リーダー、オンの弟・レイは地元のヤクザになり、行方不明になったオンの情報を収集している。親友のグスクも警官になり、オンの行方を追う。オンの恋人・ヤマコも、彼を思い続けている。だが、オンは失踪後、亡くなっていた。沖縄の女性が米兵との間に身籠った子どもを養育していた時に、だ。その「アメラジアン」の子・ウタも死亡する。
『ウンタマギルー』で知られる高嶺剛監督の『パラダイスビュー』で、沖縄語(ウチナーグチ)の「ヌチ(命)」と「マブイ(魂)」について話すシーンがあるのだが、ヌチは動詞的に使用されることがあり、その意味は「殺す」であるという。してみると、「命どぅ宝(命こそ宝)」は、別の意味を帯びてくる。
『国宝』には、天皇ロマン主義的カタルシスがある。マージナル(周縁的)な存在が、「歌舞伎さえ上手うなれば、あとは何にもいりません」と悪魔と契約し、どん底から這い上がって芸道のてっぺんに上りつめる。そこに天皇制の機能を感じとることができる。
対して、『宝島』にカミはいない。カタルシスも生じない。重い問いを投げかけられるのみだ。前者は「ハレ」の映画、後者は「ケ」の映画。どちらも豊かな作品ではあるが、豊かさの質がちがう。
『宝島』は、沖縄の戦後史を「蹂躙の歴史」として見せる。それが現在に続く、ヤマトとオキナワ、島国の日常だ。
(参考文献)
藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』講談社、2018年。
山口昌男『天皇制の文化人類学』岩波現代文庫、2000年。
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